『安西冬衛全集  別巻  雑纂、補遺 他』

『安西冬衞全集 
別卷 
雑纂、補遺 他』


宝文館出版
昭和61年8月30日 第1刷発行
397p 口絵(モノクロ)1葉
A5判 丸背紙装上製本 貼函
定価4,500円
装釘: 濱田濱雄

月報 11 (10p):
安西冬衛・竹中郁「対談(抄)」(「大阪文学」2巻12号 1942年12月)/桝井寿郎「橋わたし」/編集室から/図版2点

正誤表 (3p)



本書「後記」より:

「本巻には、放送台本・講演・談話・雑纂・書簡・補遺・校異・略年譜を収めた。」


新字・新かな/旧かな。


安西冬衛全集


目次:

放送台本
講演・談話
雑纂
書簡
補遺

略年譜
後記 (山田野理夫)




◆本書より◆


「講演・談話」より:

「現代詩について」より:

「初期に私たちと一緒におって落伍したのが三好達治です。彼の「測量船」は非常に評判がよかったが、これで自分を出しきってしまった。そういう後で短歌的抒情なんかへ逃げてしまいました。「測量船」はいゝ仕事ですが、今では専門家は三好を鼻にもひっかけません。けれども今日の教科書では三好の詩が一ぱい出ている。おかしな事です。しかし「測量船」はいゝ詩です。
 さて教科書で私の詩のことについて書かれているところを話しましょう。
 『詩の鑑賞』吉田精一著より「……ことに近代の詩においては、この視覚的性格があらわである。声に出して歌われる詩から、目で読む詩にと、最近数十年の詩壇が動きつゝあるが、だいたいの大勢であるといえよう。
 いちばん簡単な例をとってみよう。昭和の始めごろ、一行詩というものがはやったことがある。一種の短詩運動である。その一つに安西冬衛の作品だが、『春』ちょうちょうが一匹韃靼(だったん)海峡を渡って行ったというのがあって、評判であった。」
 この一行詩がはやったという所、まあたしかにはやった。短詩運動なんていってましたね。ところで私はこんな短い詩だけを書いていたのではない、当時にやっぱり韃靼を材料にした長い長い物語詩があるのですよ。
 この「ちょうちょうが…」という短い詩が評判であったというのもまあその通りです。当時、阿部知二、田村泰次郎の二人が私に長い長い手紙をよこしましてね。雑誌に詩を載せるからといってよこした。こんな風に新しい文学の世界の人達では、いろいろ論議の的になりました。けれどもこの次に「この詩は散文の形であるが、やはり詩になっている」と書いてある。これは冒涜ですよ、まちがいです。いゝですか。こゝは次のようになおして貰いたい。「この詩は詩であるが、散文の形になっている」、何しろ重大なまちがいです。私の今日の講演の中で、この事は一番大事です。これを言うのが私の本望です。
 次に「春」「ちょうちょう」「韃靼海峡」の三つのバランスがこの詩のモチーフであると書いていますがこれはその通りです。この韃靼海峡の代りに瀬戸内海でも太平洋でもいけないと書いていますが、これもよろしい。しかし「この詩は散文の形であるが、やはり詩になっている」というのはいけません。
 一茶の句に「鉄砲と知らずにとまる蝶々かな」があります。私のこの韃靼の詩と一連のに、鉄砲がある人を射とうとしたら、ちょうちょうがとんで来て、鉄砲の口をふさいだ――そういう詩がある。これも当時評判になりました。けれどもこれは一茶にもあるので、お前のはつまらんと言われた。そうじゃない。一茶の句はモラル、これが大事な支えとなっています。けれど私のにモラルはない。まるで違う訳です。これは鉄砲とちょうちょうとで恋愛を描いているのです。モラルという言葉わかりますか、こゝでモラルについて、一寸お話しましょう。
 こゝにこうもり傘がありますね。これについてどう思うかという事を話してみましょう。もちろんこれは何でもないこうもり傘です。
 まず今から百五十年前に、ロンドンの街をヨナス・ハンウェイという人が初めてこうもり傘をもって歩いた。それをロンドンっ子ははっと驚いて眺めましたね。これがこうもり傘の始まりです。
 十九世紀になると、モーパッサンの短篇小説に三つ、こうもり傘に関するものがある。私のしらべた所では三つある。しかもいつもこうもり傘が私の目をつきさす危険をもっているように書いている。然もその傘をもっているのが必ず女の人である。女の人は不用意に傘をもっていて、それが馬車なんかで坐っている私の目につきさしそうになる。そういう危険をモーパッサンは何時も感じていたのですね。これは女子教育で一つたたき直さねばならん。女子教育の振興を、モーパッサンはこうもり傘に託して言ってるんですね。
 一九一〇年代になりますとダダの後に超現実派の運動が起った。その中で「こうもり傘とミシンが会議をひらいている」という有名な言葉があります。そんな表現も生れたのです。
 次に第一次大戦の始まる一年前のこと、ミュンヘンで、チェンバレンとヒットラーが秘密の会合をもちました。大戦を避けるための相談をやった訳です。その時イギリス首相のチェンバレンは、飛行機でロンドンからとんだ。ところでこのチェンバレンはいつもこうもり傘を持っていた訳です。まあ彼のアクセサリイですね。一つのスタイルです。(中略)さてイギリスのフォックスという会社のこうもり傘は大変上等なのです。値段で言えば一万五千円、私のは三千円ですから五倍、五本買える値段です。しかしフォックスのは一生使える。堅牢です。それは骨が上等だからですが、その骨は実はドイツのルール地方(鉄鋼地帯)で出来るのに限るので、この骨は永久に使える、ところがいざ戦争となると、このドイツの鉄鋼地帯は敵にまわってしまう。そういう訳でチェンバレンは自分のこうもり傘のために、戦争をやめさせた。一年間だけですが開戦を延ばしたといわれた。こういう事を思い出す。
 こういう風に一本のこうもり傘からいろいろみるのが私どものゆき方です。これが私のモラルです。
 では最後に一つ私の詩を御紹介して、話を終ります。

   「桃の木の下での解脱」

 どうも意味はよくおわかりでないでしょう。意味はわからんでも詩の精神を汲んで下さればよろしいです。
 結局、私の話は、現代詩は新しい文化・風土の中に生れたという事、又詩というものは意味をあまり深く考えない方がいゝ。しかしモラルの中に新しい精神を含んでいる。この新しい精神は騎兵の終焉から始まった。大体そういうことです。」



「補遺」より:

「(自作自解)春」より:

「「春」は、昭和二年大連で発行していた雑誌「亜」に、ついで昭和四年上梓した処女詩集「軍艦茉莉」に重ねて発表された詩で、私が提起した辺要精神の最初の記号である。
 蓋し、辺要とは Out-of-the-Way、今日的にいえばニュー・フロンティヤを指す地理で、こういう乾いた風土で涵養された精神によって形成された詩は、従来行われていたオーソドックスの作品とは全く質を異にしていたために、当時の既成詩人からは、異端としてはげしく指弾を受けたもので、現に雑誌「炬火」の座談会で川路柳虹から「こんなものは詩でない」とまで極論されているが、そんな誹謗のあいだにも「春」の精神は死なず、爾後「韃靼海峡と蝶」「再び韃靼海峡と蝶」「堕ちた蝶」と継起発展し、更に「軍艦肋骨号遺聞」「測量艦不知奈」という展開で、私の北方感覚を証す系列の作品群にコアグレエトされている。」
「又、「春」の縁起については詩集「韃靼海峡と蝶」(昭和二十二年、文化人書房刊行)の冒頭に「韃靼海峡と蝶の位置」と題して「韃靼海峡と蝶」は当時大連にあつた著者の昭和四年四月(注、詩集「軍艦茉莉」所載の日時)の所産で、その前年雑誌「亜」に発表した制作「春」〈てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた〉といふ詩のモチーフの展開であり、詩人としての自分の位置を決定した記念の古典である。この作品は爾後発展して蝶を主題とした一系列の詩と蝶のメタモルホーゼであるタンポポを作因とした「軍艦肋骨号遺聞」「測量艦不知奈」(注、不知奈はタンポポの古語)その他のバリエエションを構成し、著者の角度に一つの指標を与へるものであると解明し、更に詩集の「輯後」に、〈電気遊園の樹墻に沿ふて伏見台へ登つてゆく道は、雑誌「亜」時代の私が初期の作品に好んで用ひたモノグラフヰで、坂を登りつめると景観が忽ち一変し、眼下を塞ぐ街衢を穿つて深く屈曲した大連湾がリボンの如く展開する。これは英吉利人の所謂 Victoria Bay、中国人の俗に云う紅崕套澳で、「韃靼海峡と蝶」のアイディアはこの地理から採集したものである〉とその由来をつまびらかにしてある。
 因に、この伏見台は大連の市街を新旧の二つに分界する高台で、その鞍部から新市街への勾配を少し下った紅葉町の一角には「亜」同人滝口武士が自炊生活をしていた伏陵閣という植民地官吏の独身宿舎があったので、彼との往来には私はこの坂道をしばしば上下したもので、坂の中程には北川冬彦の妹の田畔清子の女学校友達の阿南という少女の住んでいる黒レンガの低い塀の中に紅いホリホックの咲いている官舎のあったことが、今もなお眼底にあざやかだ。といっても、その少女には格別の因縁があったわけではなく、単なる路傍のひとに過ぎない存在であったが、北川兄妹の会話の中にたびたび出てくるその少女の「アナンサン」という呼び名、何かフランス語風のやわらかな音韻に、マリー・ロオランサン夫人を連想させるものがあり、私の空想を快よく刺激して甘美な世界へ私を誘うのだった。
 実は、この阿南さんの家の反対側が、満鉄の経営する娯楽施設電気遊園で、坂に沿うた樹墻の中にアメリカから輸入したメリイゴオラウンドがあり、可成急な傾斜の道を登ってゆくと、ライラックの茂みのあいだに「青天の旅行者」とよぶ菌類に似たパヴィリオン風の天蓋の下で、オルゴール入の回転木馬が永遠回帰の運動をつづけていたもので、この辺の消息は「あの道、早春」(詩集「軍艦茉莉」所載)で垣間見されるし、「韃靼海峡と蝶」の中の〈私を乗せた俥は公園に沿ふて坂を登つていつた。曇天の下でメリイゴオラウンドは将に出発しようとして、馬は革製の耳を揃へてゐた。しかし私を乗せた俥は、この時もう曇天を堕して坂を登り尽くしてゐた。私は遊離された道行に同意する〉とある部分でもくわしくされるだろう。
 そして「春」は、これらの地理的条件と心理的条件のデザルタントからはげしく反射したものなのだ。
 ここで、韃靼海峡の固有名詞について注解を加えねばならないが、この海峡はシベリヤ大陸とサガレン島(樺太)のあいだを流れる狭い水道で、一八〇八年間宮林蔵が実地踏査して、従来仏のラペルーズ伯、露の探検家達が大陸と地つづきの半島だとしていた臆断を修正したもので、樺太が日本領有時代には発見者の名をとって間宮海峡と呼称されていたもの。通例、南極を底辺として作製されている地図によると、海峡は北極を頂角とする天際から流下の姿勢になっておるので〈彼女は目を眠(つむ)つてゐた。壁に垂れた地図に横顔をあてて。彼女の肩を辷つて青褪めた韃靼海峡が肩掛のやうに流れてゐた。〉(「韃靼海峡と蝶」の部分)という描写になるわけである。
 すなわち、「春」はこのようなスタイルのイメエジから形成されたもので、提起されたものはあくまでもイマアジュで、モラルはさして重要とはしないのだ。
 だから、この詩は提起と受容のあいだに置かれてあるスポンテニアスな難題であり、訓詁の末を逐う解説はいわば無用の沙汰といっていいわけだが、念のためにこの詩の深部に用意されてある作者の構造計算で、不可欠の要件かと思われる点を明かにしておけば、「てふてふ」という平仮名と韃靼という漢字のもつフィジカルな形象のはげしい対照。その照応から抽出されるメタフィジカルな精神の対比の美ということになるだろう。
 「てふてふ」は旧仮名づかいの蝶で、韃靼は中国語で達達、或は塔々。タタールである。
 この重音語のもたらす恍惚たるコレスポンデンスの世界は私を魅了して止まず、そこに、旺然たる春の到来が固く信憑される所以なのだ。
 私は詩を、予前想像(プレ・イマジナーレ)だと考える。
 歴史家は既に起ったことを記し、詩人は将来起り得ることを予知して書くとは、ギリシャの哲人のことばだが、この証言が吾人をあざむかないならば、「春」は今から三十年前に、無名の一詩人によって書かれた予見精神の現われとしていいのではあるまいか。
 たまたま私は、M・ワシリエフ/S・グウシチェフ 金光不二夫訳の讖書「二十一世紀からの報告」によって、タタール海峡(韃靼海峡)にダムを構築して、海峡を南下するベーリング海からの寒流を塞ぎ、日本列島から永遠に寒波を駆逐してしまう壮大な計画が実現されんとしている報告を受けとった。
 「タタール(間宮)海峡に立つ」というその一章には日本に雪がなくなったとあり、「日本列島には、もう十~十五年雪がふらないのですよ。気候はよくなり、安定したものになりましたね。日本人のうちで悲しんだのは、スキーマニヤぐらいなものですよ」と書かれている。
 私は、この二十一世紀を語るソ連の科学の予言書から予後想像(ポスト・イマジナーレ)で、「春」が私をあざむかない事実を識るのだ。
 なお、「春」のサイド・ライトとして、わが家の紋章が元来ちょうちょうであり、私の少年時代金色の揚羽蝶の象眼された父祖伝来の鉄砲があった由緒。
 私が明治三十一年三月九日に生れた奈良水門の家が、東大寺塔頭の所領であり、折柄、二月堂の内陣では、こもりの僧がきびしいダッタンの修法を執り行っていた真最中だったことをつけ加えておこう。」




























































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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