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花田清輝 『復興期の精神』 (講談社学術文庫)

「すべてが理詰めだ。論理の追及だ。何よりも首尾一貫だ。アインシュタインにしろ、ポーにしろ、コペルニクスにしろ、皆、そうだ。すでに非人間的な、これらの人間のひそかにいとなむ内面的作業のはげしさは、私に、かれらの覗(のぞ)き込む深淵(しんえん)のふかさを測らせる。」
(花田清輝 「球面三角」 より)


花田清輝 
『復興期の精神』
 
講談社学術文庫 750


講談社 
昭和61年8月10日 第1刷発行
286p
文庫判 並装 カバー
定価680円
装幀・カバーデザイン: 蟹江征治



連作エッセイ集。初版は1946年、新版は1966年。


花田清輝 復興期の精神


カバー裏文:

「大胆なレトリックと弁証法を駆使して、ヨーロッパの文芸復興期を生きたダンテ、レオナルドら二十二人の巨人の軌跡を追求した特異なルネッサンス論。衰亡した文化の復活の秘密を探る論理の展開は、執拗かつ独創的で、読む者の意表をつき、現実の変革のためには必死の抵抗以外に道はないと説く著者の批判精神は、鋭くそして重い。ルネッサンスを語りながら、戦時下の日本の現実の姿を浮彫りにし、「転形期にいかに生きるか」を示唆した名著。」


目次:

女の論理――ダンテ
鏡のなかの言葉――レオナルド
政談――マキャヴェリ
アンギアリの戦――レオナルドとマキャヴェリ
天体図――コペルニクス
歌――ジョット・ゴッホ・ゴーガン
架空の世界――コロンブス
終末観――ポー
球面三角――ポー
群論――ガロア
極大・極小――スウィフト
肖像画――ルター
汝の欲するところをなせ――アンデルセン
ユートピアの誕生――モーア
素朴と純粋――カルヴィン
ブリダンの驢馬――スピノザ
『ドン・キホーテ』註釈――セルバンテス
晩年の思想――ソフォクレス
動物記――ルイ十一世
楕円幻想――ヴィヨン
変形譚――ゲーテ
笑う男――アリストファネス

初版跋
一九五九年版跋
新版あとがき

花田清輝論 (鶴見俊輔)
年譜 (島田昭男 編)




◆本書より◆


「鏡のなかの言葉」より:

「しかし、世のつねの大人と同様に、レオナルドもまた、玩具をとるに足らぬものと考えていたかどうか。もしもかれが、獅子(しし)の玩具をよろこびをもってつくり、それにたいして、玩具以外のいかなる意味をもみいださず、「無邪気な」子供のようにふるまったにすぎないとすれば如何(いかが)なものであろうか。」

「ここから、我々は、玩具が遊戯(ゆうぎ)のための道具であり、単により楽しく遊ぶためにつくり出されるものだという、ひろく世に行われている常識的な見解にそむき、それが我々の心の危機からうまれるものだという、ひとつの新しい見解をひき出すことができよう。」

「かれらの玩具好きは、いささかもかれらの無償のたわむれを意味するものではなく、情熱のおもむくがままに振舞うことができた、うしなわれた過去のよき日にたいする、いたましいかれらの追憶にもとづくものであった。」



「アンギアリの戦」より:

「要するに、合理化とは、レオナルドのばあいであれ、マキャヴェリのばあいであれ、自然からの解放以外のなにものでもないのだ。」


「天体図」より:

「率直にいえば、私はコペルニクスの抑制を、かれの満々たる闘志のあらわれだと思うのだ。かれのおとなしさは、いわば筋金(すじがね)いりのおとなしさであり、そのおだやかな外貌(がいぼう)は、氷のようにつめたい激情を、うちに潜めていたと思うのだ。そうして、闘争の仕方にはいろいろあり、四面楚歌(そか)のなかに立つばあい、敵の陣営内における対立と矛盾の激化をしずかに待ち、さまざまな敵をお互いに闘争させ、その間を利用し、悠々とみずからの力をたくわえることのほうが――つまり、闘争しないことのほうが、時あって、最も効果的な闘争にまさるものであることを、はっきりとかれは知っていたと思うのだ。」

「いかにもかれはヒューマニストであった。しかし、なんというヒューマニストでかれはあったろう。かれはすべての人間に対立し、一歩も後へ退こうとはしなかった。かれは人間的であったが、また極端に非人間的でもあった。」
「最初のヒューマニストたちにあった、こういう頑固(がんこ)な、非人間的な一面を、決して我々は見落すべきではないのだ。」



「歌」より:

「すでに最初に述べたように、かれらは生きてもいなければ、死んでもいない人間だ。パリで自殺しようと、タヒチでのたれ死しようと、無意味なことだ。かれらの自殺や亡命を、世のつねの幸福や不幸を以って律することは間違いであり、かれらにとっては、我々の幸福が不幸で、不幸が幸福であったかも知れないことはいうまでもない。」

「かれらのひとりとして制作すること(中略)。そのためには、まず自分にたいして徹底的に苛酷(かこく)であること。人生の楽な流れにつくことを拒み、すすんでみずからに困難と障害とを課し、殆(ほと)んど制作を放棄(ほうき)するところまで自分自身を追いつめ、しかもなお制作をつづけ、ますます制作のなかへ沈みこんでゆくということ。
 底深く沈むにつれ、はじめてかれは、かれらのひとりとして感ずるであろう、すべてが暗く、そうして静かだが、いかにかれらのもつ底流のはげしいかを。馴れるにしたがって、かれらはみるであろう、シュペルヴィエルの描いた「燐光人」のように、蛍に似た光を放ちながら、いかにかれらが、このどん底で不屈(ふくつ)の意志をもって生きつづけているかを。そうして、かれは知るであろう、この寂寞(せきばく)のなかで、かすかではあるが、絶えず鳴りひびいている歌声のあることを。
 このものすごい底流も、この仄(ほの)かな光も、このあるかなきかの歌声も、すべては生の韻律(いんりつ)によってつらぬかれているのだ。かれは、色彩の韻律的な展開によって、この生の韻律を捉(とら)え、これに明瞭(めいりょう)な形をあたえなければならないのだ。(中略)表現の苦労に痩(や)せほそり、かれが、かれの肉体をすりへらしてゆけばゆくほど、反対にカンヴァスのなかでは、底流はいよいよ速く、光はめくるめくばかりになり、歌声はとどろきわたるのであった。(中略)ゴッホはいう。「我々の探求するのは、タッチの落着きよりも、むしろ、思想の強度ではないか。(中略)」と。」

「いったい、みる(引用者注: 「みる」に傍点)ということは、いかなることを指すのであろうか。それは、あらゆる先入見を排し、それのもつ意味を知ろうとせず、物を物として――いっそう正確にいうならば、運動する物として、よくもなく、わるくもなく、うつくしくもなく、みにくくもなく、虚心にすべてを受けいれることなのであろうか。それが出発点であることに疑問の余地はない。しかし、ゴッホにとっては、それらの物のなかから、殊更(ことさら)に平凡なもの、みすぼらしいもの、孤独なもの、悲しげなもの、虐(しいた)げられ、息も絶えだえに喘(あえ)いでいるもの――要するに、森閑(しんかん)とした、物音ひとつしない死の雰囲気(ふんいき)につつまれ、身じろぎもしそうもない、さまざまな物を選びだし、これを生によって韻律(いんりつ)づけ、突然、呪縛(じゅばく)がやぶれでもしたかのように、その仮死状態にあったものの内部にねむっていた生命の焰(ほのお)を、炎々と燃えあがらせることが問題であった。そうしてこれは、自己にたいして苛酷(かこく)であること――ともすると眼をそらしたくなるものから断じて視線を転じないことと、たしかに密接不離な関係があるのであった。
 また、かれは、この生の韻律を、多少ともいきいきさせるのに役だつと思うばあいには、たとえ最も不協和な音符であろうとも、これを敢然とむすびつけ、その結果、秩序正しい韻律の展開を期待している人々を悩ますことになるにしても、それは仕方がないと考えていた。」

「嘲笑(ちょうしょう)することはやさしい。いかにもこの壮大な夢は、ゴッホが、剃刀をもってゴーガンを追い、相手のつめたい一瞥(いちべつ)にあって、たじたじとなり、自分の片耳をそぎ落すことによっておわった。しかし、それがなんだというのだ。(中略)高らかに生の歌をうたい、勝ち誇っている死にたいして挑戦するためなら、失敗し、転落し、奈落(ならく)の底にあって呻吟(しんぎん)することもまた本望ではないか。生涯を賭(か)けて、ただひとつの歌を――それは、はたして愚劣(ぐれつ)なことであろうか。」



「球面三角」より:

「ルネッサンスは、私に、海鞘(ほや)の一種であるクラヴェリナという小さな動物を聯想(れんそう)させる。この動物を水盤のなかにいれ、数日の間、水をかえないで、そのままほっておくと、不思議なことに、それは次第次第にちぢかみはじめる。そうして、やがてそれのもつすべての複雑な器官は段々簡単なものになり、ついに完全な胚子(はいし)的状態に達してしまう。残っているのは、小さな、白い、不透明な球状のものだけであり、そのなかでは、あらゆる生の徴候(ちょうこう)が消え去り、心臓の鼓動(こどう)すらとまっている。クラヴェリナは死んだのだ。すくなくとも死んでしまったようにみえる。ところが、ここで水をかえると、奇妙なことに、この白い球体をした残骸(ざんがい)が、徐々に展開しはじめ、漸次透明になり、構造が複雑化し、最後には、ふたたび以前の健康なクラヴェリナの状態に戻ってしまう。再生は、死とともにはじまり、結末から発端(ほったん)にむかって帰ることによっておわる。注目すべき点は、死が――小さな、白い、不透明な球状をした死が、自らのうちに、生を展開するに足る組織的な力を、黙々とひそめていたということだ。」

「すべてが理詰めだ。論理の追及だ。何よりも首尾一貫だ。アインシュタインにしろ、ポーにしろ、コペルニクスにしろ、皆、そうだ。すでに非人間的な、これらの人間のひそかにいとなむ内面的作業のはげしさは、私に、かれらの覗(のぞ)き込む深淵(しんえん)のふかさを測らせる。精緻(せいち)な論理の展開は、かれらの経験したであろう絶望の味気なさを思わせる。そうして、反撃のすさまじさは、かれらのうちに根をはっている、調和への意志の抜きがたさを信じさせる。」



「汝の欲するところをなせ」より:

「あなたはアンデルセンのお伽噺が好きですか。――と、トルストイは思いに沈みながら、ゴーリキーに訊(たず)ねた。――私は(中略)、突然、非常な明瞭(めいりょう)さをもって、アンデルセンが非常に孤独(こどく)であったことを感じました。非常に。」

「生来、アンデルセンは不敵なのだ。その不敵さの点において――たとえば、かれの隣国の芸術家、ストリンドベリにまさるとも劣りはしないのだ。一方は謙虚(けんきょ)であり、他方は傲岸(ごうがん)である。一方は誰からでも愛されているつもりになっており、他方は誰からでも憎まれている気でいるが――しかし、底をわってみれば、両者の間に、それほどの逕庭(けいてい)はないのではなかろうか。いずれも孤独(こどく)なのだ。」

「アンデルセンはエゴイストであった。(中略)屡〃(しばしば)、エゴイストは無邪気な印象をあたえる。(中略)アンデルセンは、単に無邪気なエゴイストであったばかりではなく、また、非情冷酷(れいこく)なエゴイストでもあったのだ。」

「苛烈(かれつ)なユーモアと透明な抒情(じょじょう)と――この二つのものは、切っても切れぬ関係によってむすばれており、それは前にあげたストリンドベリにしろ、トルストイにしろ、あらゆる体あたりの生き方をした近代の芸術家の作品に、すべて共通の傾向である。アンデルセンの作品を、ことごとく否定するためには、かれらの作品をことごとく否定し去るだけの覚悟がいろう。かれらの芸術家としての信条を、粉微塵(こなみじん)に打ちくだいてしまうだけの決意がいろう。その信条とは何か。それは、テレームの僧院を支配していた次の一句に尽きる。汝(なんじ)の欲するところをなせ。」
「そこにはトーテムを信ずる気持もなければ、タブーを守ろうとする意志もないのだ。ただ自己の運命の星をたよりに、猛烈に生き、ものすごい孤独のなかにおちいって、はじめて魂にみちみちている世界を感ずる以外に手はないのだ。(中略)しかし、このように自己の欲するところを大胆に行い、苦難の道を独往邁進(まいしん)する勇気があればこそ、『みにくいあひるの子』は、ついに白鳥になるのである。」



「ブリダンの驢馬」より:

「砂漠の中のオアシスのように、乾燥したスピノザの著作のそこここにばら撒(ま)かれている比喩(ひゆ)のなかで、(中略)「ブリダンの驢馬(ろば)」というのがある。――ブリダンはいった、驢馬には自発的な選択能力がないから、水槽と秣桶(まぐさおけ)との間におかれると、どちらを先に手をつけていいものかと迷ってしまい、やがて立往生して、餓死(がし)するにいたる、と。」
「実際、驢馬をそういう生の可能性の状態においてみるがいい。一瞬の躊躇(ちゅうちょ)もなく、かれは猛然と水をのみ、秣(まぐさ)を食うであろう。或いは秣を食い、水をのむであろう。私は確信する、断じてかれは立往生することはないであろう、餓死することはないであろう、と。」



「楕円幻想」より:

「いうまでもなく楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、直線に近づくこともできようが、その形がいかに変化しようとも、依然として、楕円が楕円であるかぎり、それは、醒(さ)めながら眠り、眠りながら醒(さ)め、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信ずることを意味する。(中略)焦点こそ二つあるが、楕円は、円とおなじく、一つの中心と、明確な輪郭(りんかく)をもつ堂々たる図形であり、円は、むしろ、楕円のなかのきわめて特殊なばあい、――すなわち、その短径と長径とがひとしいばあいにすぎず、楕円のほうが、円よりも、はるかに一般的な存在であるともいえる。ギリシア人は単純な調和を愛したから、円をうつくしいと感じたでもあろうが、矛盾しているにも拘(かかわ)らず調和している、楕円の複雑な調和のほうが、我々にとっては、いっそう、うつくしい筈(はず)ではなかろうか。」

「驢馬なら、断じて立往生することはあるまいが、屡〃(しばしば)、人間は立往生する。これらの二つの焦点の一つを無視しまい。我々は、なお、楕円を描くことができるのだ。それは驢馬にはできない芸当であり、人間にだけ、――誠実な人間にだけ、可能な仕事だ。」



「変形譚」より:

「いかにもゲーテは楕円である。つねに楕円であり、徹頭徹尾(てっとうてつび)、楕円であった。
 この楕円を妥協(だきょう)といるか、折衷(せっちゅう)と解するか、慎重と感ずるかは各人の勝手だが、ゲーテは、自分自身を、内心、宇宙的であると考えていたかもしれない。かれの眼には、森羅万象(しんらばんしょう)が、ことごとく楕円を描くものとして映っていた。変形もまた、むろん、楕円運動の一種である。すなわち、植物の変形は、拡張と収縮の二つの作用を交互に繰返しつつ、葉の変化してゆく過程にすぎない。種子から始まって茎葉の最高の発展にいたるまで、まず拡張がみとめられる。続いて収縮によって蕚(がく)が生じ、次に拡張によって花弁が展開し、さらに再度の収縮によって性的部分がうまれる。やがて果実において最大の拡張があらわれ、最後に、種子における最大の収縮となって終るのである。しかもこれら六つの器官は、一見、それぞれ全くちがった外観を呈しており、なんらの連絡もなさそうにみえるが、実はすべて葉から導きだされたものだというのだ。ゲーテの周到な観察には、屡〃(しばしば)心を打たれるものがあり、殊(こと)にあまり植物に頻繁(ひんぱん)に養分を与えると却(かえ)って花が咲かず、殆(ほと)んど養分をやらないのと、却ってその器官は精妙となり、純粋無雑な液汁は益〃純粋に、益〃効果あるものとなって、変形を促し、開花を早めるという叙述の如(ごと)きは、意外にも私の変形の近きを暗示し、思わず私は、最近の食糧事情に感謝したいような気落になった。無意識のうちに、私は変形の準備をしていたわけである(中略)要するに、我々は飢(う)えればいいのだ。
 しかし、急ぐまい。いまはゲーテの認識の方法が問題であった。」





こちらもご参照ください:

池内紀 『眼玉のひっこし』
『林達夫著作集 1 芸術へのチチェローネ』




































































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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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