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塚本邦雄 『定家百首 良夜爛漫』 (河出文庫)

「事實などかけらもない。虚で始まり虚で終るいはば聖なるいつはりの世界である。そして眞とは、その虚妄の中にひらく華の謂であることを、定家は證したにすぎない。」
(塚本邦雄 『定家百首 良夜爛漫』 より)


塚本邦雄 
『定家百首 
良夜爛漫』
 
河出文庫 142A

河出書房新社 
昭和59年3月25日 初版印刷
昭和59年4月4日 初版発行
261p 「年代順制作歌數一覽」1p
文庫判 並装 カバー
定価400円
デザイン/フォーマット: 粟津潔
カバー装幀: 政田岑生



正字・正かな。


塚本邦雄 定家百首


帯文:

「定家和歌の妖艶な美を解明
現代短歌の鬼才が、超絶技巧をこらした妖艶な定家の歌に挑みその美を味到する」



帯裏:

「欠落を埋める
塚本邦雄
現代には現代にふさはしい定家鑑賞が無ければならなかつた。鑑賞文は既に尠くない。温雅中正一見非の打ちやうもない専門家の著書も一、二に止らぬ。私はそれらに脱帽しながらもなほ何ものかの欠落を感じ、何かに渇きつづけてゐた。欠落を埋め渇きを満たすためには私自身が定家になり変り、みづからの作品解明を試みる以外には途がないと考へるに到つた。
(跋より)」



カバー裏文:

「王朝末期の詩歌の輝きを一身に集めて聳え立つ天才歌人・藤原定家の作品の魅力を語りつくす見事な評釈――
定家自身が編んだ家集『拾遺愚草』の三千六百余首の和歌の中から、現代短歌の鬼才塚本邦雄が、秀歌中の秀歌百首を選び、一首一首に詩形式の訳を試み、鬼気さえ帯びた妖艶な美の世界を流麗明快に評釈・鑑賞した、定家和歌味到の書。「藤原定家論」併録。」



目次:

藤原定家論
定家百首

文庫本跋




◆本書より◆


「文庫本「定家百首 良夜爛漫」跋」より:

「「定家百首」は昭和四十八年六月三十日に刊行を見た。爾來約十一年を閲する。そして私の定家及び新古今集に寄せる關心は、これと前後して堰を切つたやうに高まり溢れた。「夕暮の階調」「藤原定家=火宅玲瓏」「王朝百首」「藤原俊成・藤原良經」「菊帝悲歌」「清唱千首」等々、すべて、實は「定家百首」を跳躍臺とし、間接の刊機として書かれ、生れた著であつた。なかんづく藤原良經と後鳥羽院への愛著は年來更に深まるばかりで、この二者を加へての新古今三傑こそ、王朝和歌學の精粹と考へてゐる。
 しかしなほ、今日、改めて私の心を去來するのは、「近代秀歌」中の一言、すなはち、「むかし貫之、哥の心たくみに、たけおよびがたく、ことばつよくすがたおもしろき樣をこのみて、餘情妖艶の躰をよまず」である。定家の百首撰は、思へば一首一首の背後に、この一行の訴への殷々と谺する作をのみ、よりすぐつたと言つてもよい。餘情妖艶の躰であるか否か、これこそ定家の、延いては私自身の選歌の基準に他ならぬ。
 「定家百首」はその後、五十二年に河出文藝選書の一冊として再刊された。定家といふ魅力を秘めつつ近づきがたい天才へのアプローチの書として、この書が更に廣く讀まれることを慮り、文庫本の體裁で三度目の發刊を見ることとなつた。」



「16 年も經ぬいのるちぎりははつせ山尾上のかねのよその夕ぐれ」より:

  「祈り續けたただ一つの愛は
  つひに終りを告げ
  夕空に鐘は鳴りわたる
  私の心の外に
  無縁の人の上に
  初瀨山!
  何を今祈ることがあらう
  觀世音!
  祈りより呪ひを

 定家の數多い戀の秀歌の中でも第一番に數へるべき絶品である。「年も經ぬ」といふ萬斛の恨みを含んだ初句切が「よその夕ぐれ」の重く沈んだ體言止結句にうねりつつ達し、ふたたび初句に戻る呪文的構成が出色であり、一讀慄然とするばかりの妖氣が漂ふ。
 「祈戀」から發してつひに「呪戀」となり、つひに祈りを呪ふまでにすさまじい執念となりおほせてゐる。初瀨山の一語は、戀愛成就を參籠祈願する意をこめ、しかも裡には「果つ」の心をひびかせてゐるのだが、それを前提としなくても十分に緊迫感があり、條件とすればさらに異樣な效果があらう。その上、夕ぐれを戀人の相逢ふ時刻と考へるなら、恨みはさらに内攻しよう。ただ定家の得意とする「よそ」の用法、その内包する意味が少からず限定される。一種虚無の色合さへ感じさせるこの言葉は、憎しみと諦めにくらむ心と、その心をあたかも第三者として見すゑるかの冷やかな眼の、兩者交叉の「よそ」とでも、あへて解釋した方がより適切ではなからうか。つづまりは、鐘は無縁の虚空にひびき、作者は黄昏の中にとりのこされて沈んでゆく、救ひのない「よそ」に他ならない。
 まことに「よそ」は點晴の措辭であつた。」
「同時代の敕撰集代表歌人の戀歌に、たとへば業平、小町、和泉式部等等、自由奔放、直情吐露の能動的な秀歌が聳立し、式子内親王の哀切玲瓏な悲歌が至妙の韻を奏でる中に、定家の戀歌は比肩し群を抜きながらも、つねに受動的で陰にこもり、冷たいエゴティスムのまつはるのは興味深い。しかしそれが定家の場合は、完全に作者の「私」から離脱した、繪空事の言葉の戀のゆゑであるなら、その創作力のしたたかさに敬意讃辭を吝まず、文學の眞髓はそこにあるのだと改めて説きたい思ひあらたである。」


「47 春の夜の夢のうきはしとだえして嶺に別るるよこぐものそら」より:

  「夢は切れ
  雲は絶え
  春の夜の絶巓(ぜつてん)に
  身はかかる橋
  たましひの浮橋

 秋の夕暮の歌と共にもつとも人口に膾炙してゐる定家の名作の一つである。これもまた繪畫的(ピトレスク)な構成で逆遠近法にちかい群靑の山山の上部がわづかに淡紅、下部は黑紫、銀泥で一刷毛の横雲の一幅が目に浮ぶが、歌そのものはさらに豐麗ではるばるとおぼろな境にふくらみ、畫面外の夢幻の世界にひろがつてとらへることができない。ぴたりときまつたゆるぎのない夢幻の定着といふ點では古典、現代を通じてこれに及くものはなからう。
 嶺にかかる春夜の雲は風景であり同時に夢であり、また夢とうつつをつなぐ橋である。曉の別れ、すなはち後朝の暗示を察してもよいが、これは末の末のこと、しかも微かに感じておく方がよい。この歌は完璧は形而上學であり、上を人事、下を自然などと二分して考へるのは邪道に類しよう。夢の浮橋なる造語については、源氏物語の最終卷名を引合に出すのが定説であるが、他にも説は十指に餘るくらゐ出てをり、それもごくひかへ目に念頭におく程度で十分だらう。出典のあれこれより、一首の中でその言葉がいかに生かされたかが問題であり、橋はもとより此岸と彼岸をつなぐルートの象徴であつた。浮橋は雲のために生れた必然の修辭であり、「とだえして」とひびき合うふものだ。
 それよりもやや奇異に感ずるのは「横雲の空」の倒置法である。(中略)定家はかういふ用法を『毎月抄』で峻烈に戒めてゐる。(中略)この歌が「空の横雲」であつたら、これほどの縹渺たる幻像が描き得たか否か、作者自身身に沁みて知つてゐよう。『毎月抄』は臆測すれば亞流への愛想づかしであつたかも知れぬ。美濃も尾張も、この作品を事實と想定して言葉の端端をあげつらひ、特に前者は「嶺に」を「嶺にも」と改めよなどとすすめてゐるが、氣の遠くなるやうな改惡である。事實などかけらもない。虚で始まり虚で終るいはば聖なるいつはりの世界である。そして眞とは、その虚妄の中にひらく華の謂であることを、定家は證したにすぎない。」



「77 かきやりしその黑髪のすぢごとにうちふす程はおも影ぞ立つ」より:

  「漆黑の髪は千(ち)すぢの水脈(みを)をひいて私の膝に流れてゐた 爪さし入れてその水脈を
  搔き立てながら 愛の水底(みなぞこ)に沈み 私は恍惚と溺死した
  それはいつの記憶
  水はわすれ水
  見ず逢はず時は流れる
  この夜の闇に目をつむれば あの黑漆の髪は ささと音たてて私の心の底を流れ
  その一すぢ一すぢがにほやかに肉にまつはり 溺死のおそれとよろこびに亂れる

 定家の戀歌は非凡であるが、この黑髪の一首は屈指の作であらう。特にその冷え冷えとした官能美は比類がない。自分の手でねんごろに愛撫してやつた女の髪の一すぢ一すぢが寢てゐる間はまざまざと目に浮ぶといふ溜息のやうな歌であるが、「すぢごとに」とはよくも言ひ得たもので、その巧みさには讀む方も溜息が洩れるばかりである。(中略)現代にも十分通用する感覺であり、無數の本歌取だ生れてよいはずだが、今日にいたるまで晶子のおごりの黑髪自畫自贊以外おもかげを傳へるものもなく、よしあつてもこれほどの風韻はこもらぬだらう。なほ「すぢごとに」は勿論細かく明らかにの意でありながら、「かきやりし」の動作にまでかかはるやうな感じがするのも至妙である。本歌は『後拾遺集』の和泉式部作、
  黑髪の亂れも知らず打臥せばまづ搔きやりし人ぞ戀しき
 であるとするが、言葉の共通、發想の同趣向はうたがふべくもないものの、巧緻といふ點では比較を絶する。「戀しき」と言つてしまへば身も蓋も無い。やはり和泉式部の黑髪はこれこそ晶子に直結するものだ。」




◆感想◆


「All against us. She will drown me with her, eyes and hair. Lank coils of seaweed hair around me, my heart, my soul. Salt green death. We.」
(ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』より)




こちらもご参照ください:

塚本邦雄 『定家百首 良夜爛漫』






































































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