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『バルトルシャイティス著作集 2 アナモルフォーズ』 高山宏 訳

「理性を通じて狂気に到るほど危ういことはない……」
(コルネリウス・アグリッパ)


『バルトルシャイティス著作集 2 
アナモルフォーズ
― 光学魔術』 
高山宏 訳


国書刊行会
1992年1月20日 初版第1刷発行
372p 索引xi 口絵(カラー)12p
菊判 丸背紙装上製本 カバー
定価5,500円(本体5,340円)
装幀: 高麗隆彦

「逸脱の遠近法 2」 (8p):
アナモルフォーシス考(坂根厳夫)/バルトルシャイティス、自著を語る



初版は1955年刊。本書は改訂増補版(1984年)を底本にしています。
本文中図版(モノクロ)166点、口絵カラー図版15点。
銀紙付きなので、丸めて円筒アナモルフォーズ図版を見ることができます。


バルトルシャイティス アナモルフォーズ 01


帯文:

「光学の魔術、
奇妙な遠近法

近代の神話、
遠近法を歪め、
笑殺する驚異の術
アナモルフォーズ
その豊かな展開を
古代ギリシアから中国まで
追跡する逸脱の美術史」



帯背:

「光学の魔術、奇妙な遠近法
逸脱の美術史」



カバー裏文:

「近代合理主義そのものの象徴とされる遠近法という視覚構造そのものが一個の壮大な夢、奇怪千万なアベラシオンにほかならなかった。理性によって世界を一貫したヴィジョンに整合しさろうとする精神はそもそもの出発点から、その方法を〈遊び〉へと逸脱させることで疑い、笑おうとする強烈な敵につきまとわれることになった。遠近法が諸学の中心的関心事となったルネッサンス期にあってそれを蝕む歪曲遠近法の研究や図像が反ルネッサンス運動としてのマニエリスムにとっての中核的テーマとなる。その十七世紀を中心として、古くは古代ギリシア、遠くは中国にまで怖るべき資料の博捜が始まる。固定化した視線の神話を破壊するアナモルフォーズ、歪んだ遠近法の系譜を追跡する逸脱の美術史。」


目次:

諸言
序文

第1章 加速された遠近法、緩慢な遠近法
第2章 初期のアナモルフォーズとその伝播――十六、十七世紀
第3章 フランスの遠近法家――サロモン・ド・コー、ニスロン、メニャン
第4章 デカルト――自動機械と懐疑精神
第5章 諍(いさか)う芸術家たち――アカデミー対デザルグ、ボッス
第6章 ドイツ幻想派――アタナシウス・キルヒャーとガスパール・ショット
第7章 ホルバインの『大使たち』
第8章 十八、十九世紀の光学―娯楽
第9章 鏡アナモルフォーズ
第10章 反射光学、幾何学、幻覚術
第11章 中国の幻覚術
第12章 復活と更新
第13章 テクスト・アナモルフォーズ

原注
解説 (高山宏)
索引



バルトルシャイティス アナモルフォーズ 02



◆本書より◆


「序文」より:

「美術史の中で遠近法(perspective)は一般には、三次元をつくりだすリアリズムの一要素だというふうに考えられている。何よりもそれは、あらゆる目的に沿う虚構である。本書は、その幻想的で逸脱した(「逸脱した」にルビ「アベランな」)側面、即ち自らを支えるさまざまな法則を論理的に明るみに出し、あばきたてることで「ズレて」しまった遠近法(perspective dépravée)をとりあげようとする。
 「アナモルフォーズ(anamorphose)」は、言葉こそ十七世紀に初めて現われたものだが、実際にはそれ以前に既に知られていたあれこれの作図法(コンポジシオン)と繋がりを持ち、そうしたあれこれの要素や機能を転倒させることでうみだされた。形態を目に見えるその限界へと漸次的に還元していこうとはせず、それは拡張させ、形態をその外部へと投影させ、ある決められた一点から見る場合にのみ正しい像に戻るという約束事のもとに歪曲を加える。再構築するために破壊し、帰還ぶくみで逸脱していくのだ。その手続きは一個の技術的な珍品(キュリオシテ)として確立したが、そこには抽象の詩学、錯覚をうみだす強力なメカニズム、いつわりの現実をめぐる哲学が孕まれずには措(お)かない。アナモルフォーズは一個の判じもの、一個の怪物、一個の驚異である。人間知識の宇宙の中にいつもひとつの「陳列室(キャビネ)」と避難所を持つ偏倚(へんい)なるものたちの世界に属す一方で、アナモルフォーズはその領域の閉じた埒(らち)の外へと溢(あふ)れ出ていくことが少なくない。そもそも「学識の遊戯(ジュ・サヴァン)」とは本来、この横溢の部分の謂(いい)に他なるまい。
 そもそも本書が主題とするところは、そこで現実と仮象の間が学者や芸術家たちによって引き裂かれているような表象が織りなす歴史である。アナモルフォーズは、(中略)仮象(l'apparent)が現実(le réel)を蝕むところの光学的詐術なのである。(中略)加速された遠近法、緩慢な遠近法は自然な秩序を、破壊はしないで動揺させる。一方、歪曲的(アナモルフォティーク)な遠近法は、同じ手段を帰謬法的に追いつめ、過激に適用することによって、自然な秩序を一挙に無化しさる。人間視線を公然化することによって脱構築され再構築される図像が十六世紀、芸術の驚異として大いに流布し、その秘法は一定期間かたくななまでに守られて二十世紀前夜まで持続してきている。そうした技術的秘伝は少しずつあばかれていったわけだが、その委曲を尽くした理論的また実践的な集成のたぐいが現われ、精神をめぐる他の思弁と密に関係するようになったのはやっと十七世紀になってのことである。幻想の機巧たるアナモルフォーズ。」



「フランスの遠近法家」より:

「ガリレオは記している。

  決められた一定点からはすかいに眺めますと、遠近法の諸規則に従って描かれた人間の姿に見えますのに、(中略)これを正面から見ますと、そこには線と色彩の混沌たる戯れがあるばかりで、その気になって見るなら何やら川、曲りくねった道、ひとけの絶えた浜、雲、朧ろげな形めいたものが認められなくもありません。

 これではそっくり、イメージと意味作用がお互いから生じ、思考の遠近法の正視(まさめ)かはすかい(引用者注: 「はすかい」に傍点)かによって無碍(むげ)無障、自在の変貌を遂げる幻燈魔景(ファンタスマゴリア)三昧の寓意(アレゴリー)詩そのものではないか。然り、同じ書簡の中でガリレオはこの比較を竿頭一歩進めて、こう書いているのだ。

  主に短縮法で眺めるために制作されたこの種の絵画にも同じことが言えるのでして、鶴の脚だのこうのとりの嘴(くちばし)だのといった錯乱した形象をしか表わしていない正面からそれらを眺めるのは愚かなことです。同じことが詩という虚構についても言えるのであって、一見して理解される体(てい)の凡庸な物語と、他方過剰な幻夢、溢れるばかりの幻想的想像力に満ち満ちて、はすかいに見て初めて理解されるアレゴリーとは自ずから別乾坤(けんこん)のものであって然るべきです。

 逸脱の光学にも通暁したこのイタリア人物理学者、天文学者は、詩人による詩の制作過程にも、こうして見事な定義を与えている。」



バルトルシャイティス アナモルフォーズ 03


本著作集第2巻栞「バルトルシャイティス、自著を語る」より:

「――アナモルフォーズ(歪像)とはどのようにして生まれるものなのでしょうか?
B――ひとつの定義(デフィニッシヨン)を現実の外にまで用いるということですね、ある物を一旦デフォルメして、それを別のある決められたアングルから再生させる投影画(プロジェクシヨン)とでも言えるでしょう。創造するため、現実を越えるため、のデフォルマシヨンですね。
――それはすでに古代ギリシャにも存在したものですね。たとえば高いところに置かれるものを造る場合、デフォルマシヨンは必要だったわけですから。
B――フェイディアスの話ですね。それはミネルヴァ女神の像をめぐるコンクールが開かれたときのことです。ある一人の彫刻家は完璧な素晴らしいミネルヴァ像を彫りました。一方、フェイディアスが彫ったミネルヴァ像は巨大な口や鼻をした全く畸形な作品でした。もう一人の競争者はそれをみて大笑いしたわけです。ところが、二つの像を神殿のなかの高い台の上に置いてみると、完璧であった像は下から見上げると畸形にみえ、最初からデフォルメされていたフェイディアスの像は、視覚によって矯正され、完璧なものにみえたというわけです。ここには確かにアナモルフォーズの発想はありますが、その定義というものは、まだ構想されていませんでした。アナモルフォーズの定義が実際に現われたのは十六世紀初頭で、それは十七世紀まで〈秘伝〉として伝えられました。そして十七世紀に入ると、イエズス会の修道士がそれを数学と幾何学に基づいた一つの教養として確立させたのです。
――最も有名なアナモルフォーズ絵画として、ホルバインの「大使」という絵がありますが。
B――ええ。世上権を象徴する人物と教権を象徴する人物が並んで立っていて、二人の間にはさまざまな科学器具が置かれているのですが、絵の下の方に何だか解らない不思議な形の物が描かれているんですね。よく見ると実はそれが頭蓋骨の歪像であると気づくわけです。これは二人の人物と科学器具によって象徴された人間の“虚栄”を訴え、科学の無意味と死の凱旋を表わすもので、このような宗教的思想は、同じ十六世紀に書かれたエラスムスの『痴愚神礼讃』のなかにも見られます。当時のキリスト教は科学を無駄なものとして非難し、それに死の凱旋を相対立させ、唯一の正しい“科学”として、いわば〈キリスト学〉を主張していたのです。(中略)」
――そうした幻想的な傾向が最も強かったのはゲルマン系の諸国だったようですが。
B――そうです。とくにアタナシウス・キルヒャーというイエズス会修道士は、ヴィジオネール的な歴史において重要な役割を果たした人物です。非常に正確な科学的思考によって不条理の構想を試みたキルヒャーは、それまで絵画にのみ用いられていたアナモルフォーズを自然の中に実現させることを考えたのです。たとえば一定の距離から眺めると、人間、あるいは動物の形をしているようにみえる町や風景などです。」































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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