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ジェラール・ド・ネルヴァル 『阿呆の王』 篠田知和基 訳

「シャルル六世は歴史のいうところを信じれば、狂っていないときはフランス一の賢者であったという。」
(ネルヴァル 『阿呆の王』 より)


ジェラール・ド・ネルヴァル 
『阿呆の王』 
篠田知和基 訳
Serie Fantastique

思潮社
1980年7月1日 新装改訂版
410p
19×12.6cm 並装 カバー
定価2,400円
装画: 村上芳正



Gerard de Nerval: Le Prince des Sote
本書はまだ読んでいなかったので日本の古本屋サイトで最安値のを注文しておいたのが届いたので読んでみました。阿呆の王というのは、劇団の座長(親方)であります。唐十郎さんが演じるとよいです。


ネルヴァル 阿呆の王 01


帯文:

「花には毒を 毒には
悪魔の物語を!
美しい謎に包まれた幻想と狂気の詩人ネルヴァルの幻の悪魔小説。暗黒時代の中世を舞台に〈宿命〉のドラマが展開する。」



帯背:

「幻想 狂気 地獄
幻の悪魔小説」



カバー裏文:

「『阿呆の王』は長く幻の名作だった。ネルヴァル自身の全集の予定目録にものっているし、オデオン劇場の記録にも残っている。だが事情あって上演が取消になり、その後小説に書き直された。死後出版されたものは、校訂者が勝手に換骨奪胎した偽書で、長らく原稿の行くえが謎となっていた。
この悪魔小説は、ネルヴァルの発狂後の作品でその体験に根ざした狂気の幻覚や症状は、オーベールの夢や王の病状に生々しく仮託されて描かれている。狂気という地獄でくりひろげられる〈宿命〉と〈悪〉の幻想小説の本邦初訳版。

ネルヴァル Gerard de Nerval
フランスの詩人、小説家〈1808~55〉。幼年期に育ったヴァロワ地方の風土と叔父から受けた神秘主義に感化された。革命と戦争の時代に少年期をすごしたが、進歩と反動の現実認識から、次第に精神の内面を見据える姿勢に変った。41年最初の発狂、以後放浪と発作を繰返しながら、夢と狂気の幻想と、神秘学的な知識をまじえた旅行記、劇作、小説、詩などを書きすすめた。時と場所を超えた独特な世界のなかで、錯乱した意識の奥の真の自我を見出そうとした。55年1月、パリの裏街の一隅で、幻想詩人は縊死体となって発見されたという。」



目次:

第一部
 一 愛の法廷
 二 国事評定
 三 イザボー・ド・バヴィエール
 四 マリエット・ダンジャン
 五 フランス宮廷
 六 シャリヴァリ
 七 狂えるシャルル六世
 八 古い城館
 九 領主の初床権
 一〇 ゴナン親方
 一一 マルグリット・ド・エノー
 一二 ボーテの城
 一三 受難劇組合
 一四 地獄の大口
 一五 罪人の大鍋
 一六 ルイ・ドルレアン
 一七 黒衣の修道士
 一八 オーベール・ル・フラマン
第二部
 一九 中央市場広場
 二〇 晒し台
 二一 アウグスチノ会修道士
 二二 劇場
 二三 パリの民衆とブルゴーニュ公
 二四 パリの民衆とオルレアン公
 二五 リシャールとジャコブ
 二六 小姓
 二七 晩餐
 二八 バラード
 二九 愛の谷間
 三〇 私生児
 三一 カード賭博
 三二 王座
 三三 アンダルシア娘と殺人者

訳註
あとがき



ネルヴァル 阿呆の王 02



◆本書より◆


「八 古い城館」より:

「さて、われらの牧人は町方の暮らしぶりも忘れ、犬や羊と荒地にさまよっているうち、二人の神秘な友をつくっていった。一人は瞑想であり、もう一人は孤独であった。彼は天気の悪いときは帽子つきの外套を着て、岩やエニシダの茂みの陰に隠れ、同じところで何時間も、何日も、何週間も、あるいは何ヶ月もひとつのことを考えつづけていた。孤空をのぞきこむような彼の目は、空に群雲の形を追いつづけることもあった。雲は、たがいに競争するように、刻々と姿を変えてゆく。オーベールはまた、星が昇っては死んでゆくのも見るのだった。彼は、海に漂う難船者のように、無限の世界を前にして酔いしれていた。彼の本当の生まれ故郷は、人里はなれた林間空地であり、人の訪れぬヒースの野であった。彼は大地を幻でうめつくした。その幻と交わるうちに、可能なことと不可能なこと、真実と嘘のちがいさえ見わけられなくなっていた。夜は、歩哨の移動詰所のような小屋にとじこもり、彼にしかわからない孤独の無数の話し声に耳を傾けるのだった。彼は風の激しい晩には、巨人たちが呼び合い、戦い合う音を聞いた。泉のつぶやきには魔法使いの女のささやきを聞いた。空をつんざく猛禽の叫びは、魂を地獄にさらってゆく悪魔の声とも思えた。飢えた狼が牧草地の囲りや森のへりで吠えれば、ときに人間のうなり声のように聞こえて身震いすることもあった。このような奇妙な世界観は絶えまない幻となり、それらの意味そのものが微妙になっていったあげく、超自然のお告げのようなものになってゆく。オーベールに働きかけていたこの不思議な力は、のちにジャンヌ・ダルクにも臨んで、彼女に霊感を授けるものなのだ。」


「二二 劇場」より:

「ゴナン親方の芝居小屋を、ちょっとでも現代の芝居小屋と同じようなものだろうと思ったらとんでもないまちがいだ。それどころか、煙草の煙がもうもうと立ちこめた大土間、観客も俳優もほとんどごちゃまぜで、ぶつかりあい、すばらしい場面も観客の勝手なおしゃべりで邪魔されてしまう、そういったところを想像していただきたい。皆は酒を飲み、口論し、席を取り合い、挑発的な言葉や、不穏当な罵り声をめぐって取っくみ合いの喧嘩もする……それも今日のように、芝居のできのいい悪いをめぐってなどではない。この時代の劇作品についてはうるさいことをいう必要もあるまい。劇作品などといういい方がひどく的はずれなものばかりだからだ。たしかにゴナン親方は、彼の阿呆劇によって芝居を進歩させたものだが、進歩といっても四つの舞台の上のことで、それぞれの舞台は口上によって区別されるだけだった。たとえばいっぽうの端にはアジアがあり、他方はヨーロッパで奥のほうにはさまざまな王国がかたまっているといった具合! そこで舞台に登場した俳優は、いまいる所が何という国かいわなければ、観衆は芝居の筋がわからなかったのだ。ときには、この四つの舞台は庭と岩山と洞穴と戦場とか、その他いろいろなものを示しているとされるときもあった。劇場はすっかり変わってしまった……そうだ、しかし変わらないものもある。それは俳優たちの性格と放浪癖だ。彼らはいまでも地方の劇場を巡回して回っている。〈底抜け呑気劇団〉の人々に見られた無頓着さは、俳優たちに与えられた〈どさ回り芸人〉という肩書に、いつでもふさわしい。だいたいその名前は〈沿岸を航行する〉という航海用語から出ているのだ。
 はめをはずした陽気さ、情熱的で秩序もなにもない生活、信じやすいかと思うと懐疑的でもある、(中略)俗世間の侮蔑は笑いとばしていたし、むしろ彼らの優越を示すものとして誇りにしていた。彼らが俗世間に求めるものはひとつしかない、金だ! ……阿呆の王の時代でも、それよりずっと下った時代でも役者たちは、いとも散文的な荷車をひきずって世の中を回って歩いたものだ。しかもその散文的な荷車の中には詩的な衣裳がつまっている。そこにはまた、でたらめな教育に由来する悪徳と、生まれつきの善良な美徳がまざりあい、彼らは互いに友情というよりは献身的な愛で結びついていた。」



「二九 愛の谷間」より:

「十五歳の少年ならだれでも、いくらかピュグマリオーンのようなところがある。絵姿に息を吹きこんで魂を与えてやりたいと願う……学校時代は門番の女房や娘がどんなにきれいでも、一枚の粗末な版画のほうに夢を抱く。中世の少年だって、いまの少年と変わりはない……」


「三三 アンダルシア娘と殺人者」より:

「たとえば、宗教心のあついある時代を考えてみよう。そこでは人々が聖母マドンナの絵姿の前でひざまずいている。ところがその聖母の実際のモデルは、広場でカスタネットやバスク地方のタンバリンなどを鳴らしたり、〈地獄の娘〉などと呼ばれるジプシー女なのだ! ……やがてこの女たちはグレーブ広場で首吊りになる。その刑の執行を、同じ人々が眺めに行って、そのあとで教会の聖女セシルやマグダラのマリアの絵姿や大理石像の前でひざまずき、祈ってゆく。そういう因果を考えてみることはつまらない哲学よりよほど実りの多いことである!」







































































































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Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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