FC2ブログ

ディドロ 『ラモーの甥』 本田喜代治・平岡昇 訳 (岩波文庫)

「そりゃそうです。しかし、おきてとか作法とかいうものをわしがほとんど問題にしていないってことにあんたは気がおつきでないようだ。公式の入用な者は決して成功しません。天才はわずかしか読まないで、大いに実行し、自分で自分を作りあげます。」
(ディドロ 『ラモーの甥』 より)


ディドロ 
『ラモーの甥』 
本田喜代治・平岡昇 訳
 
岩波文庫 青/33-624-3 

岩波書店
1940年3月26日 第1刷発行
1964年7月16日 第3刷改版発行
1992年11月16日 第18刷発行
224p
文庫判 並装 カバー
定価520円(本体505円)



本書「解説」(平岡昇)より:

「この翻訳は、前訳者本田喜代治氏の御依頼で、私の改訳したものである(中略)。訳注は主としてモンヴァル、ファーブル、ベナック、デスネなどの注を参照して作ったが、とくにファーブル氏の注に負うところが多く、同氏に深い感謝をささげたい。」


ディドロ ラモーの甥


カバー文:

「百科全書派の巨匠ディドロ(1713―84)の最高傑作とされる対話体小説。大作曲家ラモーの実在の甥を、体制からはみ出しながら体制に寄食するシニックな偽悪者として登場させ、哲学者である「私」との対話を通して旧体制のフランス社会を痛烈に批判する。生前には発表されず、1805年ゲーテのドイツ語訳によって俄然反響を呼んだ。」


内容:

ラモーの甥

訳注
解説 (平岡昇)




◆本書より◆


「私――伯父さんといえば、時々その伯父さんに会うかね。
 彼――ええ、街を通って行くところを見かけますよ。
 私――伯父さんはなんにも君のためになることをしてくれないかね。
 彼――あの人が誰かにそんなことをしてくれるとすれば、そりゃなんかの間違いでやるんです。あれもあれなりに哲学者ですからな。あれは自分のことだけしか考えちゃいない。自分以外の世界のことはあの人にとっちゃ一文の値打もありませんや。娘と女房は好きな時に死ねばいいんで。彼女たちのために鳴らされる教区の鐘が十二度と十七度の音とをいつまでも響かせていさえすれば、なにもかもそれでいいんです。それがあの人にとって幸福なことなんでさあ。これがわしが天才というやつのうちでとくに高く買っている点ですよ。彼らはただ一つのことにしか役に立たないんです。それから先は、ろくでなしなんだ。市民とか、父親とか、母親とか、親類とか、友だちとかであることがどんなことだか、彼らにゃわかりゃしません。ここだけの話ですがね、ひとはあらゆる点で彼らに似るようにしなけりゃなりませんな。もっとも、天才の種がだれにもあることを望んだってだめです。普通の人間が必要なんです。天才なんかいりませんや。いやまったく、そんなものはちっとも必要じゃない。ところが、地球の表面を変化させるのは彼らなんだ。」

「わたしは時々この道化者が人間や性格を観察する眼の正しさに驚かされた。そこで彼にそのことを知らせてやった。

 彼――つまり、そりゃ――と彼はわたしに答えた。――よからぬ交際やだらしのない生活からも利益をひっぱり出せるってことですな。純潔さを失う代りには偏見も失うんで、つぐないがつくわけでさ。悪人の社会じゃ、悪徳が仮面をとって大っぴらに現われるんで、悪人の見分けがつくようになるんです。それに、わしも、少しは本を読みましたからな。
 私――何を読んだかね。
 彼――テオフラストスやラ・ブリュイエールやモリエールを読みましたよ。今でも読んでますし、始終読み返してるんですよ。
 私――みなりっぱな本だ。
 彼――人が思ってる以上にいい本だね。しかし、誰がああいうものの読み方を知っていますかね。
 私――誰だって知ってるよ、それぞれの才能の寸法に合わせてね。
 彼――まず誰も知っちゃいませんね。人がああいうものに何をもとめてるか、あんたにはちゃんと言えますか。
 私――娯楽と教訓だよ。
 彼――しかし、どんな教訓です? だってそれが肝腎(かんじん)な点なんだから。
 私――自分の義務を識ること、徳を愛すること、悪を憎むことだな。
 彼――わしなら、およそ何をしなくちゃならんか、何を言ってはならんかを、あそこから学び取りますな。そこで、わしが『守銭奴』を読めば、わしは自分に言い聞かせます。「なりたければけちん坊にもなれ、だがけちん坊みたいな口の利き方をしないように用心しろよ。」とね。わしが『タルチュフ』を読めば、わしは自分に言い聞かせます。「なりたけりゃ、偽善者にもなれ。だが偽善者みたいな口の利き方をするなよ。お前の役に立つ悪徳は大事にしまっておけ。だが、そんな調子や様子は身につけるなよ、そのためにお前は笑い物になるかも知れんから。」そうした調子や様子が身につかないようにするには、そういう悪徳をよく識っていなくちゃなりません。ところが、こういう著者たちは、そういう悪徳を見事に描き出しているんです。わしは、わしだ、どこまでもあるがままのわしです。しかし、わしは自分につごうのいいようにやりもし、喋(しゃ)べりもします。わしはよくある、モラリストを軽蔑するような連中の仲間じゃありません。とりわけ、道徳を実行に移した人たちには、大へんためになるものがみつかりますな。悪徳というものは時折ひとの気に障るだけですが、悪徳の性格が表に現れると、そいつは朝から晩までひとの気に障るもんです。多分、横着な顔つきをしているよりは、実際に横着者であるほうがいいでしょう。横着な性格の奴はたまにしかひとを侮辱しないものですが、横着な顔付の奴はしょっちゅう侮辱してるんです。(中略)わしの取柄というのは、大抵ほかの連中が本能でやることを、系統だてて、正しく頭を働かせて、道理にかなった真実な見方でやったということだけでさあ。まあ、そんなわけで、奴らは、本を読んでもわしほど悧巧にはなりません。奴らはそうなるまいと思っても、やはり笑い物にされている始末です。ところが、わしなどは自分の好きな時だけしか笑い物にはされない。(中略)というのは、或る場合には笑い物にならない方法をわしに教えてくれるその同じ技術が、また別の場合には見事に人の嘲笑を引き出す方法を教えてくれるからでさあ。わしは、その時、ほかの連中の言ったことや、自分の読んだことをすっかり思い出します。なお、そいつに、わし独特の分までもすっかり附け加えるわけなんですが、その独特の分というのがこの種のものとしては、恐ろしく内容豊富なものなんです。
 私――そういう秘伝を明かしてくれたのは大変よかったね。さもないと、僕は、君を矛盾だらけの人間と思ったかも知れないよ。
 彼――わしはちっとも矛盾しちゃいませんよ。なぜって、笑われることを避けなくちゃならん場合が一度あるとすれば、幸いなことに、思いっきり笑われなくちゃならない場合が百度もあるんですからな。お偉ら方のそばでは道化役に勝る役はありませんよ。長い間、道化という肩書で王様に仕えた道化はありました。が、どんな時代にも、賢者という肩書で王様に仕えた賢者はありませんでしたからね。わしなんか、ベルタンやそのほか沢山の連中の道化でさ。現在は多分あんたの道化でしょう。ひょっとしたら、あんたがわしの道化かも知れませんな。賢明な人だったら、道化なんかもたないでしょうよ。だから、道化をもっている者は賢者じゃない。もしその男が賢者でないなら、道化です。たとえ王様だったとしても、その男は多分自分の道化の道化というわけでしょう。おまけに、いいですかな、風俗のような変りやすい事柄については、絶対的に本質的に一般的に真実だとか虚偽だとかというようなものはないんですよ、ただ利害関係の命ずるとおりのものに、つまり、善良にも邪悪にも、賢者にも道化にも、礼儀正しくも滑稽にも、正直にも不徳にもならなくちゃならないことは別として。もしなにかのはずみで美徳が財産への道を開いたとしたら、わしも徳を守っていたのか、それともほかの奴と同じように徳のあるふりをしていたのかもしれませんな。人はわしが馬鹿げたまねをするのを見たがりました。だから、わしはそうやったまでで、不徳のほうは、わたしが苦労しないでも、自然がひとりで引き受けてくれましたよ。わしはいま不徳と言ったが、それはあんたがたの言葉を使っているからで、わしらがもし自分の言葉の意味をはっきりさせるとなれば、あんた方のほうでは、わしが徳と言ってるものを不徳と言い、わしが不徳と言ってるものを徳と言わないともかぎりませんよ。」
























































































関連記事
スポンサーサイト



プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本