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『G・K・チェスタトン著作集 3 自叙伝』 吉田健一 訳

「この自分をある場所の中に閉じ込めるという遊びは人生における秘密の楽しみの一つである。」
(G・K・チェスタトン 『自叙伝』 より)


『G・K・チェスタトン
著作集 3 
自叙伝』 
吉田健一 訳


春秋社
昭和48年6月25日 初版第1刷発行
昭和63年5月25日 第4刷発行
439p 目次3p
口絵(モノクロ)1葉
四六判 並装(フランス表紙) 貼函
定価2,500円



本書「訳者あとがき」より:

「この訳に用いた原書は、G.K. Chesterton: Autobiography, London, Burns Oates & Washbourne, 1936. である。」
「ここに、或る特異な時代を生き抜いた一箇の特異な人間がいる。後はその人間自身の言葉に耳を傾け、或いは反撥し、或いは随喜するばかりである。」



チェスタトン 自叙伝


目次:

第一章 風聞
第二章 黄金の鍵を持った男
第三章 如何にして落第生になるか
第四章 如何にして気ちがいになるか
第五章 国家主義とノッティング・ヒル
第六章 幻想的な郊外
第七章 正統である罪
第八章 フリート街の人びと
第九章 腐敗に対する抗告
第十章 友情と愚行
第十一章 剣の影
第十二章 政界の名士
第十三章 文学界の名士
第十四章 ある友人の肖像
第十五章 未完の旅行者
第十六章 黄金の鍵を持った神

解題 (ピーター・ミルワード)
訳者あとがき




◆本書より◆


第二章より:

「父方の血統、チェスタトン家の人びとについて一般的なことを指摘するとすれば(中略)、それは(中略)総じて彼らが極めて英国的な人びとだったということである。彼らにはっきり見て取れる大きな特色はお人好しで適度に夢も持った常識家であることで、また個人的な付き合いにおいてはある静かな誠実さが認められる。(中略)私はこの種の眠たげな正気を非常に英国的なものと考える。」

「私が書くはずでまだ書いていない本のたいへんな目録(中略)の第九九九号は自分の生活に何か暗い秘密を持っているらしい大実業家の話である。そして最後に探偵たちはその男が今でも人形とか錫の兵隊とか、何か威厳を損なう子供じみたことをして遊んでいるということを発見するのである。私は極めて控え目な気持でその実業家の確固たる名声と輝かしい実績を除いたあらゆる点で私がその男なのだと言うことができる。(中略)私自身遊ぶことを止めたことは一度もないし、遊ぶ時間がもっとあったらといつも思っている。たとえば講演とか文学とかいうような下らないことのためにボール紙を切り抜いて色紙を貼るというような真面目で確実で建設的な仕事にあてるべき時間を無駄にしないですめばどんなにいいだろうと思うのだ。」



第五章より:

「私は(中略)自由を内部に向かって行くものと考えている。」
「子供は明らかに限界というものに魅せられている。子供はその想像力で想像上の限界を作り出すのである。その乳母や家庭教師は歩道の敷石を一つ置きに踏んで行くのが道徳的な義務であるなどと言いはしない。しかし子供は自分自身に挑戦する楽しみから、わざと敷石の半分をないものと考えるのである。私は家中の敷物や床板や絨毯を使って自分を相手にこの種の遊びをしたもので、今でも巡査に摑まる危険を冒してそうした遊びに耽ることがよくあることを白状する。その意味で私は常に自分が使える空間を狭くし、私が自由に駈け廻ることができる家の中を幾つもの楽しい牢獄に区切るように努力してきた。(中略)たとえばロビンソン・クルーソーの話の魅力はどこか遠くの島まで行けたということでなくてそこを離れる道がまったくなかったことにあり、それが彼がその島で持っていたもの、斧や鸚鵡や鉄砲やそれから少しばかりの穀類に何とも言えない興味と興奮を付与している。(中略)また、ノアの箱舟がそういう玩具になっている場合の尽きない面白さは、そこに中身の充実と外部からの孤立ということがはっきりと示されていて、滑稽なほど互いにかけ離れた空想的な動物が皆一緒に一つの箱に詰め込まれていることにあり、(中略)長椅子に積みたいだけのものを積み上げて廻りの絨毯を海に見たてて海の只中にいるつもりになって遊んでいた私と少しも変わることはない。
 この自分をある場所の中に閉じ込めるという遊びは人生における秘密の楽しみの一つである。」

「ウィンストン・チャーチル氏は彼が面白いと思うのは日本が美しくて礼儀正しい国だった時は人びとが日本を野蛮国として扱い、醜い低俗な国になってしまった今は日本が尊敬されていることだとか、何かそういう意味のことを言った。」



第十章より:

「誰かが何もしないと言って文句を言う人が時折りいるが、もっと不思議でびっくりさせられるのは何もすることがないといって文句を言う人である。するべきことのない何時間、あるいは何日かという素晴しい贈物をされでもしたら、彼らはきっとその何もするべきことがないということに不平を言うのだろう。孤独、つまり自由を与えられたら彼らはそれを捨ててしまうのだろう。(中略)私の一人っきりになりたいという願いには特に人間嫌い風なところは何もないのは言うまでもなく、(中略)前に言ったように病気がちだった少年時代には非常にいやな意味で私は時々多勢の中にいながら一人ぼっちだった。しかし成人してからは一人きりでいる時ほど多勢のものと一緒にいる感じがすることはない。」


第十六章より:

「私は初めは悲観論者の言うところの楽観論者だった。そして最後には楽観論者が悲観論者と呼ぶに違いないものになったのである。しかし実際のところ私は決してそのどちらにもなったことはなくて、初めから少しも変わってはいないのだ。(中略)実際のところこの一つの真理の両面が同時に述べてあるのを見つけたのは偶〃一ペニーの公教要理を開いてみた時が初めてで、そこには「希望に対する二つの罪は傲慢と絶望である」と書いてあったのである。」
「私の最初に読んだ子供のための詩集から適当なものを引いてみると、一本のたんぽぽを見ることができるという褒美をもらうために自分はどんな化身を、あるいは生前の煉獄をくぐってこなければならなかったのかという問いがある。(中略)以前には信じていたとしても今は私は肉体の甦りということを信じていない。またその後、私は庭を持つ身になったので(中略)、私は雑草とは困ったものなのだということを前よりもよく理解している。しかし私がたんぽぽについて言ったことは、私がひまわりや、太陽や、(中略)太陽よりも明るい栄光について言うであろうことと本質的にはまったく同じなのである。一本の雑草から喜びを得る唯一の方法は自分がその雑草にさえ相応しくないと思うことである。さて雑草や花に不平を言うのには二種類あって、一つは私の青年時代に流行したもので、もう一つは晩年に流行したものである。(中略)私の少年時代の悲観論者はたんぽぽを見ればスウィンバーンに倣ってこう言うのだった。
  私は飽き飽きした。
  日々にも時間にも、
  役にも立たない花の蕾が開くのにも、
  望みにも夢にも権力にも
  あらゆるものに倦み疲れ、眠りだけが私の願いである。
こういう調子を私は憎み、それに反抗してこれを蹴飛ばし、人前で醜く振舞い、獅子の歯の騎士になってたんぽぽの花を私の紋章にした。しかしたんぽぽを軽蔑するやり方には、悲観論者のそれとは違う楽観論者のやり方があって、これはいっそう不愉快なけしからぬものだった。それにはいろいろなやり方があるのだが、「セルフリッジの店ではもっとずっといいたんぽぽが買えるよ」とか「ウールワースの店ならもっとずっと安いたんぽぽがあるよ」と言うのが一つである。もう一つは、「もちろんたんぽぽが本当にわかるのはウィーンのガンボーリだけさ」とさり気なく気取った様子で意見を述べたり、フランクフルトの椰子の公園で超特大のたんぽぽが栽培されたから旧式のたんぽぽではもう誰も気に入らないだろうと言ったり、そうでなければ一流の家では客に蘭の花を洩れなくくれて、ついでに珍奇な香水をお土産に持って行かせるのにたんぽぽをくれるなどということをする吝臭さを嘲笑したりするのである。こういうのは皆他のものと比較することによってあるものを見下げるやり口である。軽蔑が生まれるのはそのものに馴れ親しむからではなくてそれを他のものと比べるからなのである。そしてこのように比較してはあら探しばかりする態度の根底にあるものは人間はたんぽぽを持つ権利があるという驚くべき異端の説であって、どういう訳でかわれわれは天国に咲くたんぽぽの中の一番よいものを要求する権利があって、そのことに少しも感謝の念を持つことはないし、たんぽぽに感嘆する必要もなくて、何れにせよ、われわれがたんぽぽをもらう値打があると考えられていることに少しも驚く必要はないという考え方である。(中略)これらの態度を取っていれば一切れの肉とか一杯のたんぽぽの煎じ汁とかに対して興味を失ってしまうことになると思う。それがつまり傲慢というもので絶望はその双子の兄弟なのだ。」

「自分の好きなものを引き続き好きでいられる能力の維持、哲学者が解決しなければならないのはこの実際的な問題なのである。」

「ある非常に優秀なヒンズー教徒の科学者が私に言ったことがある。「統一と普遍性のみが存在するんです。個々の事物における相異はどうでもいいのです。大切なのはそれらが一致することです。」そこで私は答えた。「われわれに本当に必要なのは一致と不一致の一致です。つまりすべての事物が究極的には一体であるにしても、現実に個々の相異というものが存在するという意味です。」それからずっと後に私は自分が言おうとしたことが一人のカトリック作家、コヴェントリー・パットモアによって遙かによく述べられているのを見出した。「神は無限ではない。神は無限と有限との綜合である。」」


































































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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