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石原吉郎 『望郷と海』 (ちくま文庫)

「ここでは、疎外ということはむしろ救いであり、峻別されることは祝福である。」
「生においても、死においても、ついに単独であること。それが一切の発想の基点である。」

(石原吉郎 「確認されない死のなかで」 より)


石原吉郎 
『望郷と海』
 
ちくま文庫 い-18-1 

筑摩書房
1990年12月4日 第1刷発行
329p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価690円(本体670円)
装幀: 安野光雅
カバー装画: 服部圭子


「この作品は一九七二年一二月二五日、筑摩書房より刊行された。」



石原吉郎 望郷と海


帯文:

「人間が人間であるために……
苛酷なラーゲリ。極限で現われる人間の美と醜。その中で、自己の精神と魂のありようを厳しく問い直す稀有な記録。」



目次:


確認されない死のなかで
ある〈共生〉の経験から
ペシミストの勇気について
オギーダ
沈黙と失語
強制された日常から
終りの未知
望郷と海
弱者の正義


沈黙するための言葉
不思議な場面で立ちどまること
『邂逅』について
棒をのんだ話
肉親へあてた手紙


一九五六年から一九五八年までのノートから
一九五九年から一九六二年までのノートから
一九六三年以後のノートから

初稿掲載紙誌一覧

解説 寡黙なペシミスト (八木義徳)




◆本書より◆


「ペシミストの勇気について」より:

「昭和二十七年五月、例年のようにメーデーの祝祭を終ったハバロフスク市の第六収容所で、二十五年囚鹿野武一は、とつぜん失語状態に陥ったように沈黙し、その数日後に絶食を始めた。絶食は誰にも知られないまま行なわれたので、周囲の者がそれに気づいたときには、すでに二日ほど経過していた。」
「入ソ直後の混乱と、受刑直後のバム地帯でのもっとも困難な状況という、ほぼ二回の淘汰の時期を経て、まがりなりにも生きのびた私たちは、年齢と性格によって多少の差はあれ、人間としては完全に「均らされた」状態にあった。私たちはほとんどおなじようなかたちで周囲に反応し、ほとんどおなじ発想で行動した。」
「このような環境のなかで、鹿野武一だけは、その受けとめかたにおいても、行動においても、他の受刑者とははっきりちがっていた。抑留のすべての期間を通じ、すさまじい平均化の過程のなかで、最初からまったく孤絶したかたちで発想し、行動して来た彼は、他の日本人にとって、しばしば理解しがたい、異様な存在であったにちがいない。」
「バム地帯のような環境では、人は、ペシミストになる機会を最終的に奪われる。(人間が人間でありつづけるためには、周期的にペシミストになる機会が与えられていなければならない)。なぜなら誰かがペシミストになれば、その分だけ他の者が生きのびる機会が増すことになるからである。ここでは「生きる」という意志は、「他人よりもながく生きのこる」という発想しかとらない。バム地帯の強制労働のような条件のもとで、はっきりしたペシミストの立場をとるということは、おどろくほど勇気の要ることである。(中略)ここでは誰でも、一日だけの希望に頼り、目をつぶってオプティミストになるほかない。(収容所に特有の陰惨なユーモアは、このようなオプティミズムから生れる)。そのなかで鹿野は、終始明確なペシミストとして行動した、ほとんど例外的な存在だといっていい。
 後になって知ることのできた一つの例をあげてみる。たとえば、作業現場への行き帰り、囚人はかならず五列に隊伍を組まされ、その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進する。行進中、もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなしてその場で射殺していい規則になっている。警備兵の目の前で逃亡をこころみるということは、ほとんど考えられないことであるが、実際には、しばしば行進中に囚人が射殺された。しかし、そのほとんどは、行進中つまずくか足をすべらせて、列外へよろめいたために起っている。厳寒で氷のように固く凍てついた雪の上を行進するときは、とくにこの危険が大きい。なかでも、実戦の経験がすくないことにつよい劣等感をもっている十七、八歳の少年兵にうしろにまわられるくらい、囚人にとっていやなものはない。彼らはきっかけさえあれば、ほとんど犬を射つ程度の衝動で発砲する。
 犠牲者は当然のことながら、左と右の一列から出た。したがって整列のさい、囚人は争って中間の三列へ割りこみ、身近にいる者を外側の列へ押し出そうとする。私たちはそうすることによって、すこしでも弱い者を死に近い位置へ押しやるのである。ここでは加害者と被害者の位置が、みじかい時間のあいだにすさまじく入り乱れる。
 実際に見た者の話によると、鹿野は、どんなばあいにも進んで外側の列にならんだということである。明確なペシミストであることには勇気がいるというのは、このような態度を指している。それは、ほとんど不毛の行為であるが、彼のペシミズムの奥底には、おそらく加害と被害にたいする根源的な問い直しがあったのであろう。そしてそれは、状況のただなかにあっては、ほとんど人に伝ええない問いである。彼の行為が、周囲の囚人に奇異の感を与えたとしても、けっしてふしぎではない。彼は加害と被害という集団的発想からはっきりと自己を隔絶することによって、ペシミストとしての明晰さと精神的自立を獲得したのだと私は考える。
 翌年夏、私たちのあずかり知らぬ事情によって沿線の日本人受刑者はふたたびタイシェットに送還された。」
「この時期になると、鹿野の「奇異な」行動はますますはっきりして来た。毎朝作業現場に着くと彼は指名も待たずに、一番条件の悪い苦痛な持場にそのままついてしまうのである。たまたまおなじ現場で彼が働いている姿を私は見かけたが、まるで地面にからだをたたきつけているようなその姿は、ただ悽愴というほかなかった。自分で自分を苛酷に処罰しているようなその姿を、私は暗然と見まもるだけであった。」
「鹿野の絶食は、その頃になってようやく彼の行動を理解しはじめた一部の受刑者に衝撃を与えた。彼らはかわるがわる鹿野をたずねて説得をこころみたが、すでに他界へ足を踏み入れているような彼の沈黙にたいしては、すべて無力であった。その無力を、さいごに私も味わった。すべてを先取りしている人間に、それを追いかけるだけの論理が無力なのは、むしろ当然である。
 絶食四日目の朝、私はいやいやながら一つの決心をした。私は起床直後彼のバラックへ行き、今日からおれも絶食するとだけいってそのまま作業に出た。事情を知った作業班長が、軽作業に私をまわしてくれたが、夕方収容所に帰ったときにはさすがにがっかりして、そのまま寝台にひっくり返ってしまった。夕食時限に近い頃、もしやと思っていた鹿野が来た。めずらしくあたたかな声で一緒に食事をしてくれというのである。私たちは、がらんとした食堂の隅で、ほとんど無言のまま夕食を終えた。その二日後、私ははじめて鹿野自身の口から、絶食の理由を聞くことができた。
 メーデー前日の四月三十日、鹿野は、他の日本人受刑者とともに、「文化と休息の公園」の清掃と補修作業にかり出された。たまたま通りあわせたハバロフスク市長の令嬢がこれを見てひどく心を打たれ、すぐさま自宅から食物を取り寄せて、一人一人に自分で手渡したというのである。鹿野もその一人であった。そのとき鹿野にとって、このような環境で、人間のすこやかなあたたかさに出会うくらいおそろしいことはなかったにちがいない。鹿野にとっては、ほとんど致命的な衝撃であったといえる。そのときから鹿野は、ほとんど生きる意志を喪失した。
 これが、鹿野の絶食の理由である。人間のやさしさが、これほど容易に人を死へ追いつめることもできるという事実は、私にとっても衝撃であった。そしてその頃から鹿野は、さらに階段を一つおりた人間のように、いっそう無口になった。
 鹿野の絶食さわぎは、これで一応はおちついたが、収容所側は当然これを一種のレジスタンスとみて、執拗な追及を始めた。鹿野は毎晩のように取調室へ呼び出され、おそくなってバラックに帰って来た。取調べに当ったのは施(シェ)という中国人の上級保安中尉で、自分の功績しか念頭にない男であったため、鹿野の答弁は、はじめから訊問と行きちがった。根まけした施は、さいごに態度を変えて「人間的に話そう」と切り出した。このような場面でさいごに切り出される「人間的に」というロシア語は、囚人しか知らない特殊なニュアンスをもっている。それは「これ以上追及しないから、そのかわりわれわれに協力してくれ」という意味である。〈協力〉とはいうまでもなく、受刑者の動静にかんする情報の提供である。
 鹿野はこれにたいして「もしあながた人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」と答えている。」
「その時の鹿野にとって、おそらくこの言葉は挑発でも、抗議でもなく、ただありのままの事実の承認であっただろう。(中略)そのときの彼の表情に、おそらく敵意や怒りの色はなかったのであろう。むしろこのような撞着した立場に立つことへの深い悲しみだけがあったはずである。」
「施は当然激怒したが、それ以上どうするわけにも行かず、取調べは打切られた。爾後、鹿野は要注意人物として、執拗な監視のもとにおかれたが、彼自身は、ほとんど意に介する様子はなかった。
 私が知るかぎりのすべての過程を通じ、彼はついに〈告発〉の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。」
「バム地帯での追いつめられた状況のなかで、鹿野をもっとも苦しめたのは、自動小銃にかこまれた行進に端的に象徴される、加害と被害の同在という現実であったと私は考える。そして、誰もがただ自分が生きのこることしか考えられない状況のなかで、このようないたましい同在をはっきり見すえるためにも、ペシミストとしての明晰さを彼は必要としたのである。」
「私が無限に関心をもつのは、加害と被害の流動のなかで、確固たる加害者を自己に発見して衝撃を受け、ただ一人集団を立去って行くその〈うしろ姿〉である。問題はつねに、一人の人間の単独な姿にかかっている。ここでは、疎外ということは、もはや悲惨ではありえない。ただひとつの、たどりついた勇気の証しである。」
「いまにして思えば、鹿野武一という男の存在は私にとってかけがえのないものであった。彼の追憶によって、私のシベリヤの記憶はかろうじて救われているのである。このような人間が戦後の荒涼たるシベリヤの風景と、日本人の心のなかを通って行ったということだけで、それらの一切の悲惨が救われていると感ずるのは、おそらく私一人なのかもしれない。」



「1956年から1958年までのノートから」より:

「私の内部で何かが変らなければならぬ。私はしょっちゅうその声におびやかされて、じりじりしている。「変る」ということはどういうことなのか。それさえ私にはよくわからない。おそらくそれは本当に私が変った時、はじめてはっきりわかることなのだろう。キエルケゴールは「自己であること」以外に、人間には何の希望ものこされていないといっている。おそらくそれが「変る」ということの真の内容なのだ。」

「私が理想とする世界とは、すべての人が苦行者のように、重い憂愁と忍苦の表情を浮べている世界である。それ以外の世界は、私にはゆるすことのできないものである。」

「〈立ちどまる〉ということは重要なことだ。とある街角の敷石の上であれ、書店の店さきであれ、その時私は立ちどまらねばならない。私が立ちどまる時、私は階段を一つ降りる。生きることがそれだけ深くなるのだ。なぜなら、立ちどまる時だけ私は生きているのだから。」



「1959年から1962年までのノートから」より:

「希望によって、人間がささえられるのではない(おそらく希望というものはこの地上には存在しないだろう)。希望を求めるその姿勢だけが、おそらく人間をささえているのだ。」


「1963年以後のノートから」より:

「荒廃はただ己れの責任である。荒廃の中心に己れ自身を据えよ。」

「もし私が何ごとかに賭けなければならないのであれば、私は人間の〈やさしさ〉にこそ賭ける。」

「ひとと共同でささえあう思想、ひとりの肩でついにささえ切れぬ思想、そして一人がついに脱落しても、なにごともなくささえつづけられて行く思想。おおよそそのような思想が私に、なんのかかわりがあるか。」






































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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