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『荘子 外篇』 森三樹三郎 訳注 (中公文庫)

「あるとき、宋(そう)の元君(げんくん)は画をかかせようとしたことがあった。多くの画工が集まってきたが、命令を受けると一礼して立ちあがり、筆をなめ、墨を調合して、いまやおそしと待ちかまえ、半数のものが室外にあふれるというありさまであった。
 すると、ひとりの画工がおくれてやってきたが、ゆっくりと構えて、走り出すようすもない。命令を受けて一礼したものの、立ちあがって待つこともせず、そのまま宿舎に帰っていった。元君が人をやってようすを見させると、その画工は着物をぬぎ、両足を投げ出し、裸のままで平然としていた。
 これを聞いた元君は「なるほど、これでこそ真の画家というものだ」といった。」

(『荘子 外篇』 「第二十一 田子方篇」 より)


『荘子 外篇』 
森三樹三郎 訳注
 
中公文庫  D 11-2 

中央公論社
昭和49年4月10日 初版
昭和53年3月1日 再版
388p
文庫判 並装 カバー
定価420円
表紙・扉: 白井晟一
カバー画: 郎世寧「柳蔭八駿図」(部分)



読み下し、口語訳、注釈、内容解説。原文(漢文)は掲載されていません。


荘子 外篇


カバー裏文:

「外なる自然を運命と把える内篇の立場をこえて、人間の内なる自然――人間性のあり方を追求する外篇は、老子の思想との親近感を示している。」


目次:

荘子外篇
 第八 駢拇篇
 第九 馬蹄篇
 第十 胠篋篇
 第十一 在宥篇
 第十二 天地篇
 第十三 天道篇
 第十四 天運篇
 第十五 刻意篇
 第十六 繕性篇
 第十七 秋水篇
 第十八 至楽篇
 第十九 達生篇
 第二十 山木篇
 第二十一 田子方篇
 第二十二 知北遊篇

解説 (森三樹三郎)




◆本書より◆


「第八 駢拇篇」より:

「世の中には、常然――常に変わることのない自然の性質というものがある。その常然とは何か。たとえば曲がる本性をもつものは、鉤形(かぎがた)定規をあてるまでもなく自然に曲がり、まっすぐな性質のものは墨縄(すみなわ)をあてるまでもなく自然にまっすぐである。円(まる)くなる性質のものは規(ぶんまわし)の必要はなく、四角になる性質のものは矩(さしがね)の必要はない。自然に固着する性質のものは膠(にかわ)や漆(うるし)を必要としないし、自然にひきしまる性質のものは纆索(なわ)を必要としない。このように天下のものはすべて自然のいざないのままに生まれてくるものであり、なぜそのように生まれてきたのか、理由を知ることもない。すべてがひとしく自己の完成を得ながら、しかもなぜ得たかを意識することがない。」


「第九 馬蹄篇」より:

「太古の赫胥(かくしょ)氏の時代には、民は家にいても何の仕事をしてよいかを知らず、外出しても目的地を知らないという、無知そのもののありさまであり、ただ食物を口にほおばって楽しみ、腹鼓(はらつづみ)をうって遊ぶという生活を送っていた。民にできることといえば、これがすべてであったのである。
 ところが聖人が現われるようになって、礼楽(れいがく)にあわせて身を折りかがめ、これによって天下の民の身ぶりを正そうとしたり、仁義を行なうためにむりに背のびをし、これによって天下の民の歓心を買おうとするようになった。それからというものは、民は心力を尽くして知を追い求めるようになり、争って利におもむくようになって、もはやその勢いをとめることもできなくなった。これまた聖人の過失であるといえよう。」



「第十一 在宥篇」より:

「静かでなく、安らかでない状態は、人間の自然の徳(もちまえ)ではない。自然の徳(もちまえ)をそなえないで、長久の生命を保ちえたものは、天下にひとりとしてないのである。」

「だから、もし君子がやむをえず天下に君臨しなければならないようなことがあれば、無為の政治をするのが最もよい。無為であってこそ、民ははじめて自然の性命(もちまえ)のあるがままに安んずることができよう。」



「第十四 天運篇」より:

「北門成(ほくもんせい)が黄帝にたずねていった。
 「あなたは咸池(かんち)の音楽を、洞庭(どうてい)の野で演奏されました。私は始めて聞いたときには恐ろしさを感じ、二度目に聞いたときには、けだるい思いがし、最後に聞いたときには不思議な気分におそわれて、惑いの心がうまれ、まるで見当もつかず、ことばも出ないありさまで、自分のことがわからないような気もちになりました」
 すると黄帝は答えた。」
「「わしがこの音楽を奏するときは、人間の立場をもととし、それを天道に照応させ、礼義にしたがって演奏をすすめ、その根本を空虚の上に立てるようにしたのだ。
 およそ至高の音楽というものは、まず最初は人情に適応することから始め、次にはこれを天の法則に従わせるようにし、さらにこれを五徳によっておしすすめ、最後は自然の道に順応させるものだ。このようにして始めて四季を順調にし、万物に壮大な調和をもたらすことができるのである。
 だからこの音楽は、四季が次から次へと移るありさま、万物がそれに従って成生するありさまを描写する。あるときは盛んな夏のありさま、あるときは衰えた冬のありさま、あるときは春の恵みをしめす文、あるときは秋のきびしさをしめす武、というように自然のもつ秩序を表現する。あるときは清らかに高いしらべ、あるときは低く濁ったしらべというように、陰陽の調和をあらわし、その音声によどみのない流れと輝きとをあたえるのである。
 冬ごもりの虫が始めて地上にあらわれる春のところでは、わしは雷のひびきをとどろかせて人びとを驚かせる。その演奏を終えるときにも、どこか終わりということもなく、その始めるときも、どこが始めということがない。あるときは死の静けさ、あるときは生の躍動、あるときは地上にたおれ、あるときは立ちあがるありさまをあらわす。一定の法則といえば、変化してきわまりがないということだけで、まったく予想を許さないものである。だから、お前さんは恐ろしさを感じたのだよ」」
「黄帝は、ことばをつづけた。
 「わしはまた二度目の演奏のときには、陰陽の調和を主題にし、これを日月のかがやきで明るくしようとした。その調べは長と短、剛と柔を自在に駆使し、変化をきわめながら統一があり、ありきたりの常識にとらわれることがない。
 谷にあえば谷をみたし、穴にあえば穴をみたすというように、あまねく万物にゆきわたって残すところがないが、しかもみずからは感覚の門をとじ、その精神の安らかさを保ち、物の量をそのままわが欲望の量とする。その調べは雷声のとどろきとひろさがあり、その表現は高大明朗である。だから、この音楽の流れるところ、鬼神は幽界にとどまって人間にたたりをすることもなく、日月や星もその正しい運行をつづけて災いをもたらすことがない。
 わしは、この音楽を、時には有限の世界にとどめ、時には無限のかなたに流してゆく。お前さんは、いくらこの調べのゆくえを思いはかろうとしても、それを知ることはできまい。いくら目をやっても、見きわめることはできまい。いくらその跡を追っても追いつけないだろう。ただぼんやりと四方に果てのない道にたたずみ、あるいは古桐(ふるぎり)の机にもたれたまま、うめきにも似た声をあげるほかはあるまい。
 目による知識は、見きわめようとする努力の限界でゆきづまり、足の力は追いすがろうとする努力の限界でつきはてるであろう。もはや自分の力ではどうすることもできない、というほかはない。このように身体のうちに無力感が満ちるようになれば、すべてをなりゆきにゆだねる心境になる。お前さんは、そのなりゆきにまかせる心境になったのだ。だから、けだるい気分になったのだよ」」
「黄帝は最後にいった。
 「わしは三度目に、けだるい気分を一掃する調(しら)べを演奏するとともに、これを天地自然のもつ生命のリズムで和げることにした。すべてが入りまじって次から次へと群り生じ、あたかも林のざわめきにも似た音をたて、一定のかたちをもつことがない。あまねく万物をゆり動かしながら、しかもおのれに従わせようとせず、そのひびきは幽暗であるため、あたかも声なきかのようである。
 それはあらゆる方向に動きまわるかと思えば、また底しれぬ薄暗い世界に身をおく。あるものはこの音楽に死を感じ、あるものはこれに生を感じ、あるものはこれに充実をおぼえ、あるものはこれに形の美しさをおぼえるであろう。それは、あらゆる方向に流転し移動してやまないものであり、一定の音楽の法則に拘束されることがない。そのため、世の人はこの音楽の意味を理解することができず、聖人にうかがいを立てることになるのである。
 聖人とは、あらゆる存在の真の姿を知り、天地の命のままにしたがうものである。かれは自然からあたえられた心身の機能を人為的に増すことはせず、しかも耳目鼻口心の五官のはたらきは完全そのものである。このような状態こそ、天楽――自然がもたらす楽しみであり、自然のおりなす音楽であるといえよう。それは無言のままに心たのしむ境地である。だから上古の聖人である有焱(ゆうえん)氏も、この音楽をほめて次のように歌っている。
 『これを聞こうとしても、その声は聞えない。これを見ようとしても、その形は見えない。天地に満ちあふれ、六方をつつみかくす』
 お前さんはこの音楽を聞きとろうとしたのだが、その耳で感じとることができなかったのだ。そのために不思議な思いにとりつかれて、惑いの心が生まれたのだよ。
 音楽というものは恐れの感じから始まるものだ。恐れを感じるところから、何ものかの祟(たた)りを受けたような不安におそわれる。そこで、わしは次いで、けだるい気分をさそう調べを奏した。けだるい思いがするために、不安の思いから一往のがれることができる。そこで最後には、惑いを起こさせる調べでしめくくった。惑いは無知をさそうものであり、無知こそ自然の道である。道こそ、すべてをその上に載せて、目的の地につれてゆくことができるものである」」





『荘子 雑篇』 森三樹三郎 訳注 (中公文庫)















































































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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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