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岡本太郎 『美の呪力』 (新潮文庫)

「国家体制とか、国境とか、そんな枠はもうたくさんだ。それを通り抜けて、生命を無限に向って放出したい。」
(岡本太郎 『美の呪力』 より)


岡本太郎 
『美の呪力』
 
新潮文庫 7375/お-51-2 

新潮社
平成16年3月1日 発行
279p 図版24p
付記1p 「表記について」1p
文庫判 並装 カバー
定価590円(税別)
カバー題字: 岡本太郎


「この作品は昭和四十六年七月新潮社より刊行された。」



別丁図版30点(カラー21点/モノクロ9点)、本文中図版(モノクロ)21点。


岡本太郎 美の呪力 01


カバー裏文:

「私は幼い時から、「赤」が好きだった。血を思わせる激しい赤が――。取り繕われた芸術品や輸入文化に背を向け、神聖な巨石、鮮血と太陽、マンダラ宇宙、聖なる火、夜と闇、戦慄の仮面、無限の組紐文など、もの言わぬ文化や神秘的な事象に注目する。原始からの鼓動に耳を傾け、中世の色彩に心動かされ、現代世界について深く思考する、恐るべきパワーに溢れた美の聖典が、いま甦った!」


目次:

Ⅰ イヌクシュクの神秘
Ⅱ 石がもし口をきいたら
Ⅲ 血・暗い神聖
Ⅳ 古代の血・現代の血
Ⅴ 透明な爆発・怒り
Ⅵ 挑戦
Ⅶ 仮面の戦慄(せんりつ)
Ⅷ 聖火
Ⅸ 火の祭り
Ⅹ 夜――透明な渾沌(こんとん)
Ⅺ 宇宙を彩(いろど)る

あとがき

解説 (鶴岡真弓)



岡本太郎 美の呪力 02



◆本書より◆


「イヌクシュクの神秘」より:

「十九世紀的実証精神によってうちたてられた科学は、見えない世界を一応断ち切ってしまった。学者は新しく発見されたものを含めて、とにかく、あるもの、存在するものを土台として問題を展開するというルールを己れに課している。科学主義は無いものについて語ることはできないのだ。」
「考古学にしても美術史でも、たまたま発掘があったとか、遺跡が多く知られている場所や時代については大変細やかだ。ところがそういうものが疎(そ)なところは、まるで文化が無かったようにとばしてしまう。遺物の出てこない地表の広大なひろがりは圧倒的である。そこに無言の人間文化を探らないのは、なんとしても納得できない。
 粘土や石や亀(かめ)の甲に書かれた歴史はのこるが、竹や紙に、より軽やかに留められた記録はのこらない。まして記録も遺物も残さなかった文化は。」
「それを回復するために、どうすればよいのか。何よりも、全人間的なヴィジョンが必要だろう。それには専門家でない、ズブの素人(しろうと)が平気な眼で参加しなければならないと思う。」

「消失したもののイメージは限りない。」
「彼らは本来の用途、その喜びに従ってそれを使い、やがてそれらが壊れたり腐ったりすることをなんとも思わなかった。(中略)これは芸術に対する態度として、まことに正しいと思う。とにかく木、草、動物質の毛、皮、繊維などで作られたマスクや神像、その他は、いつの間にか、なんのこだわりもなく地上から消えてしまった。」
「惜しみなく消えて行った文化が、どのくらい巨大で高貴であったか。
 だが私はもう一歩進みたい。ものを作ってそれが失われたのではなく、もの(引用者注: 「もの」に傍点)が無い「空」に生き方を賭(か)けている精神風土、そのひろがりがあるということ。」
「私はここで言いたいのだ。無い――あることを拒否するポイントからある(引用者注: 「ある」に傍点)を捉え、また逆にある側から無を強烈に照らし出すべきではないか。」



「石がもし口をきいたら」より:

「しかし、神聖な存在はよけて通れない。よけて通れないからこそ神聖であり、またその重みによって人間は己れ自身を確かめるのだ。」

「石積みがなぜこのように世界のひろい地域に聖なる伝統をもち、また今日の私自身にこんなに神秘に感じられるのか。積むという行為の呪術性。たしかに、いのちを積んでいるのだ。石ころ一つ一つがいのちなのだ。」
「石を積むなんて馬鹿馬鹿(ばかばか)しい俗習であり迷信だと軽蔑(けいべつ)するインテリども。しかし無意識にこの古い伝統をくりかえす人たちの方がはるかに時間の流れ、歴史の深みを体現しているのだ。」

「石は
無口だ。
石がもし
口をきいたら……。」



「血・暗い神聖」より:

「神の子キリストを「人間」としてとらえる。だから生臭い血を流さしたのだ。」
「ひたすら暗い。恥とケガレの臭気を放っている。屍はまさに人間として、罪人として、いや業病を患(わずら)った救い難い肉塊として、重く垂れている。そのように醜怪な姿につきつけること、それがグリューネヴァルトの冷たく燃えた情熱だ。あえて堕(おと)し込むことによって、逆に「人間」を超えた神聖が浮びあがってくる。」
「ただ超越的な優美さで現出しても、それによって人間は救われない。時代はそこまできていたのだ。せっぱつまった情熱。それは一般ピープルの悲願でもあった。」
「……自分の問題としてつきつめてゆくと、神は次第に人間になり、自分自身になってくる。自分の誠実、苦悩、絶望感と合体して、キリストは自己の骨肉になる。
 イーゼンハイムのあのいやらしく硬直した死体は、グリューネヴァルトの肉体そのものであり、また救われぬ民衆、業病患者の血をも代表している。人間的苦悩、悲しみの告発なのだ。」

「かすかにひらくこの深い血痕(けっこん)。光芒(こうぼう)の背後を占めるくろぐろとした闇(やみ)。
 ……この神が人間にとっての神である限り、それらの影は決して消え去ることはないであろう。

    ひき裂かれた傷口。――鮮血。
    人間自体が傷口なのだ。

 私なら、にっこり笑った傷口でありたい。」



「透明な爆発・怒り」より:

「今日の常識から見れば、死とか孤独の高貴さなど無意味だ、ナンセンスだと思われるかもしれない。しかし、私は人間のノーブレスというのはいつでも、瞬間に死に正対しているところに輝くとしか考えられない。安全で間違いない、危険から保証されたような姿に人間的高貴を感じとることは私には絶対にできないのだ。」
「しかし、(中略)死の予感の前に立つ高貴な表情が、なにも悲劇的パターンである必要はまったくないのだ。逆にユーモラスに、哄笑(こうしょう)していいのだ。
 終戦直後のことだが、私は四国に旅行し、松山市で偶然、戦国の変り鉢の兜の数々を見た。」
「まったく限りないヴァリエーションがある。(中略)にょっきりと葱(ねぎ)の前立てを押し上げたのがあるかと思えば、大きな茄子(なす)のヘタをそのままかぶったり、鉢全体をサザエの形にしたのもある。」
「まことに憤りというものは、このように、ひらいていなければならない。人間的誇り、精神力を誇示しながら、動物的気配をもり込み、優雅でありながら野蛮。その大胆な遊びは逆に凄(すご)みにさえなっている。優美だったり、ユーモラスであることが、逆に憤りを浮び上らせる。」
「それは華やかにのびきって、いささかも保身のために身構えていない。射るならば、射てみよ、という強烈な示威である。憤りの形をしているが、考えようによってはスキだらけ。平気でひろがっている。毅然と、受けて立つ姿だ。
 受けて立つのでなければノーブレスはひらかない。それは聖なるものの大前提である。闘争において、果敢に攻めると同時に、また運命的受身、倒される側の様相がなければ、それ自体決して生きないのだ。攻めるなら攻めてみよ。そこに何か悲劇的なドラマ、美がある。」



「聖火」より:

「私が実感としていつも感じるのは、人間生命の根源に、何かが燃えつづけている。誰でもが、いのちの暗闇(くらやみ)に火を抱えているということだ。そのような運命の火自体が暗いものである。」
「しかし、(中略)火は死であると同時に生なのだ。遠く、はるかな涯(はて)に、永遠の生命の国、燃えさかる火の世界がある。すべての存在の根源の天地だ。人間はたまたまこの世に、こういう形で、火の変身として生れて来ている。」
「しかし、聖火を抱く者は少ない。不断にそれを身の内に強烈につかんでいる者。そうでない者。それを運命として、「神聖なる火」として、抱いている人、そうでない人間がいるのだ。
 純粋な人間は子供のときから身の内側に燃えつづける火の辛(つら)さに耐えなければならない。その火の故(ゆえ)に孤独である。暗い。それが聖だからこそ、冒される予感におびえる。純粋に燃えているにかかわらず、火を抱いているということは不安であり、一種の無力感なのだ。
 青春期、はじめて人生に踏み込んで、ひたすら運命に身をぶつけようとする。だが、その情熱に対して、社会は必ず拒絶的なのだ。
 「お前なんか駄目だ」……「ああ、その通りです」と頭を下げてしまえば、それで済んでしまう。だが、「違う!」。叫ぶ。炎は一段と燃えさかる。
 燃えあがるのは辛い。絶望的なのだ。
 暗い炎。この世に生れるとき、あるいはもっと遠い過去の暗闇のなかで、それに誓いをたてたのだ。――いつ、――何を、誓ったのか、知らない。ただその誓いによってこそ炎が燃えあがるということしか知らないのだ。
 だが、この聖なる火。もてあましながら、しかし守りつづけ、抱えて行かなければならない。」



「夜――透明な渾沌」より:

「色・形、その造形的効果などはどうでもよい。運命そのものとして、言葉をかえれば、この世界への透明な呪術(じゅじゅつ)として、芸術は自ら選び、自ら儀礼を行わなければならない。」


「宇宙を彩る」より:

「キリスト教は極めて求心的な思想だ。あらゆるものが唯一(ゆいいつ)絶対の中心に向って集中する。宗教にしても国家権力にしても、強力な秩序の支配する世界ではすべてが一つの中心、権威を意識し、それとの距離で位置が定まる。
 ところが組紐文はまさに正反対の世界観だ。中心というものがない。無限にのび、くぐり抜けてひろがる。世界を流動の相で捉(とら)える人々の造形だ。たった一人、一つのものが中心だとか力をもつなどという、こだわった権力意志ではない。自分たちを超えた運命がいつでもすれ違いながら流れて行く。それがどこに行くか、はじまりもなければ終りもない。とすれば、あらゆるポイントがはじまりであり終りである。だからどんな部分も、絶対感をもって宇宙に対する。価値でもなければ無価値でもない。無限の時空のなかに、みちてゆくエネルギーであり、意志だ。」
「絶望的な永劫(えいごう)回帰。旋転し、もどってくるように見えて、しかし再び帰って来ない。すべては流れて、結局は無になってしまう。しかし少しもたじろがない。平気で回転し流れてゆく。絶望的といってもだから暗くはない。爽(さわ)やかな風として吹き抜け、清らかな運命として消え去って行く。
 大変なロマンティスムだ。」
「動物・植物などという素朴な自然科学的区別はここでは意味がないのだ。学者はとかく動物文・植物文などと断絶的に区別したがるが。蛇だろうが草だろうが、また水であろうが、流れ、からむ、いのちのムーヴメント。動物が植物になり、人間が動・植物に変貌(へんぼう)してこそ世界であり、宇宙だ。永劫の回帰だ。
 回帰なしに流れはない。運命はない。そういう絶対感を組紐文は見事にうち出している。
 広大なユーラシア大陸にかつて北風のように流れ渦巻いていたあの文化、私は「組紐文文化」とでもよびたい。その実体がいつかは露(あらわ)にされるのではないかと思う。」

































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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