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ミシェル・フーコー 『これはパイプではない』 豊崎光一+清水正 訳

「クレーは新たな一空間を織り上げ、そこに彼なりの造形的記号を配置しようとした。マグリットは古い表象空間が君臨するにまかせるが、それも表面だけのこと、というのもこの空間はもはや図像と言葉がついた滑らかな石にすぎず、その下には何もありはしないのだから。」
(ミシェル・フーコー 「これはパイプではない」 より)


ミシェル・フーコー 
『これはパイプではない』 
豊崎光一+清水正 訳


哲学書房
1986年4月25日 発行
135p 訳者紹介1p
19.4×12.4cm 
角背紙装上製本 カバー
定価1,400円



Michel Foucault: Ceci n'est pas une pipe, Editions Fata Morgana, 1973
本文中図版8点。


フーコー これはパイプではない 01


目次:

Ⅰ ここに二つのパイプがある
Ⅱ こわされたカリグラム
Ⅲ クレー、カンディンスキー、マグリット
Ⅳ 言葉の陰にこもった働き
Ⅴ 肯定=断言の七つの封印
Ⅵ 描くことは肯定=断言することではない
ルネ・マグリットの二通の手紙
著者による註

校異
訳註
『これはパイプではない』について (豊崎光一)
本書の翻訳についての覚え書き (豊崎光一)



フーコー これはパイプではない 02



◆本書より◆


「Ⅱ こわされたカリグラム」より:

「マグリットはカリグラムが自らの語るものの上に閉した罠を再び開いた。だが、まさにそのせいで物そのものは飛び去ってしまった。図解入りの本のページの上で、言葉の上方、画の下方を走っているあのささやかな白い空間に注意を払う慣わしが人にはないが、その空間は両者のあいだを絶えず行き来するための共通の境界線として役立っているものである。というのも、そこ、幅数ミリのこの空白、ページの静かな砂の上にこそ、言葉と形態とのあいだで指示、命名、記述、分類といったあらゆる関係が結ばれるのだから。カリグラムはこの間隙を同化吸収したわけだが、しかし再び開かれたときにも、それを元通りに返してくれはしない。罠はこじ開けられたが、中は空(から)だった。画像と文とはそれらに固有の重力にしたがってそれぞれの側に落ちるのだ。それらはもはや共通の空間、双方が干渉できるような場、言葉が図像を受け取ることができ、そして画像が語彙の領野に入り込むことができるような場というものを持たない。マグリットの画において文と図像を分け隔てているか細く、無色で、中立的な、ささやかな帯、そこに見てとるべきは一個の凹み、今やその画像の空高く浮遊するパイプと、継起する線の上を行進する語たちの側の地上の歩みとを隔てている不確かでとりとめのない地帯なのである。もっとも、そこに空虚ないし欠落があると言うのは言いすぎであるが。それはむしろ空間の不在、書字という記号と画像を象る線とのあいだの「共通の場」の消滅なのだ。それを名づける言表とそれを象るべき画とのあいだで共有されていた「パイプ」、形態の線と言葉の繊維とを交叉させていたあの影のパイプは、決定的に逃れ去ってしまった。この失踪を、この深からざる小川(【訳註3】)の向う側で、文は面白そうに確認する――これはパイプではない、と。今や孤独に取り残されたパイプの画が、通常パイプ(引用者注: 「パイプ」に傍点)という言葉が指示するあの形態にあらんかぎり自分を似せてみたところで空しく、文が画の下方で、学術書の中の説明文の念入りな忠実さをもって拡がってみせたところで空しい。それらのあいだを通り得るものといっては、もはや離反の表明のみ、画の名と文の指示対象とに同時に疑議を表明する言表のみなのである。

 どこにも、パイプはありはしないのだ。

 そこからして、マグリットが提示した「これはパイプではない」のシリーズ最後の作品が理解される。パイプの画とその説明文の役をつとめる言表とを絵=黒板(引用者注: 「絵=黒板」にルビ「タブロー」)の明確に枠を定められた表面に据え(それが絵であるかぎりにおいて文字は文字の画像であり、黒板であるかぎりにおいて図像は言説の教育的延長にすぎない)、その絵=黒板を太くて頑丈な三脚の上に据えることによって、マグリットは画像と言語とに共通の場を再構成する(藝術作品の永続性を通じてであれ、物の名を教える授業の真実性を通じてであれ)のに必要なことすべてをしているのである。

 すべては学校的な空間の内部にしっかりと繋ぎとめられている。黒板(タブロー)がパイプの形を「示す」画を「示す」。そして熱心な小学校教師の書いた文は、それがパイプであることを「示す」。先生の人さし指は見えはしないけれども、いたるところに君臨しており、「これはパイプではない」と明瞭に発音するその声も同様である。黒板から画像へ、画像から文へ、文から声へと、全般的な人さし指(インデックス)のようなものが指し、示し、定め、標定し、移送の一システムを課しており、唯一無二の空間を安定させようと努めているのだ。だが私はなぜまた先生の声を持ち出したりしたのだろう、というのも、その声は「これはパイプです」と言うが早いか、たちまちしどろもどろになってこんな風に言い直さねばならなくなるからだ、「これはパイプではなく、パイプの画です」、「これはパイプではなく、それはパイプではないと述べる文です」。「《これはパイプではない》という文はパイプではない」、「《これはパイプではない》という文の中のこれ(引用者注: 「これ」に傍点)というのはパイプではない、この黒板、この書かれた文、このパイプの画、こうしたものはみなパイプではないのです」。

 否定はますます増えてゆき、声はもつれ、つまる。混乱した先生はのばした人さし指を下ろして黒板から向き直り、身をよじって笑い転げる生徒たちを眺めやるのだが、生徒たちがこんなにも大笑いしているのは、黒板の上、ぶつぶつと打ち消しの言葉を呟く先生の頭上に、湯気が立ち昇って徐々に形をなし、今や何ら疑問の余地のないほど実に正確に一つのパイプを描き出しているからだということに気づいていない。「それはパイプです、それはパイプです」、生徒たちは足を踏み鳴らしながら喚きたて、一方先生の方はますます小声になりながらも、やはり相変らず頑として「それでもこれはパイプではない」と呟くが、もう誰も耳を藉す者はいない。彼は間違ってはいない。というのも、この情景の上方にあんなにもはっきり目に見える形で浮遊しているパイプ、黒板のデッサンがそれに照合され、その名においてこそ文が正当な資格で、画は本当にはパイプではないと言い得る、そんな物としてのパイプ、このパイプとても所詮は画にすぎず、パイプでは毛頭ないのだから。黒板の上であれその上方であれ、パイプの画とパイプを名ざすべき文とは、カリグラムを作った人が不遜にもそうすることを試みたように、たがいに相会して、ピンで止めたようにくっつきあう場所を見出しはしないのである。

 してみれば、足が斜めに切られていて見るからに不安定な画架は、もはや平衡を失って倒れるほかはなく、額縁はばらばらになり、タブローは床に転がり、文字は散り散りになるほかないのだし、「パイプ」も「こわれる」(【訳註4】)かもしれない。共通の場(リュー・コマン)〔紋切り型〕というもの――陳腐な作品ないし毎日の変りばえのしない授業――は消滅したのだ。」



「訳註」より:

「3 「深からざる小川」 peu profond ruisseau というのは、マラルメのソネ、(ヴェルレーヌの)『墓』の最終行の一部分である。そしてマラルメにおいて、この「深からざる小川」は「死」の同格であり敷衍(ペリフラーズ)である。

4 「パイプ」が「こわれる」 se casser という表現は、casser la pipe (パイプをこわす=死ぬ)という成句を下敷きにしている。」






























































































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