塚本邦雄 『定型幻視論』

「幻想の世界には一人の証人もいません。(中略)孤立無援で、みずからの幻想を信じ、言葉を唯一の武器としてこれを証言すること、それが幻視者の使命なのです。」
(塚本邦雄 『定型幻視論』 より)


塚本邦雄 
『定型幻視論』


人文書院 
昭和47年10月20日 印刷
昭和47年10月30日 発行
283p 跋・著作発表誌3p 
A5判 
丸背布装上製本 貼函 
本体ビニールカバー
函プラカバー 
定価2,200円
装幀: 政田岑生



『夕暮の諧調』に続く第二評論集。新字・新かな。
調子の高い、宣言あるいは論争的なものが多いです。「イメージ」「リアリティ」「ロゴス」「フォルム」「レゾン・デートル」「モニュマン」「メカニズム」「ドクトリン」「サゼッション」「デディケイション」「レヴェレイション」「オッシレーション」など英仏混淆カタカナ語が頻出し、「素朴でリゴラスなエコール意識」とか「ニル・アドミラリな、懐疑的なインヒューマンのうた」、「アレゴリー、メタファーの最もラディカルな実験」というようなフレーズも散見されます。


塚本邦雄 定型幻視論 01


帯文:

「塚本邦雄評論集
短歌に幻を視る以外に何の使命があろう――
短歌は滅びるか? 荊棘の道をゆく定型詩の責苦を負い、ひたすら歌の復権と可能性を追究する定型歌人の画期的な短詩型論」



塚本邦雄 定型幻視論 02


目次 (初出):


短歌における「現代」 (筑摩書房版現代文学大系68月報 昭和43年5月)
歌の回復 (毎日新聞 昭和43年3月10日・17日)
反・反歌 (短歌 昭和42年9月号)
荊冠詩型 (短歌研究 昭和33年11月号)
石胎の馬 (短歌研究 昭和32年11月号)
零の遺産 (短歌研究 昭和32年3月号)
牡蠣は棘を (短歌研究 昭和30年1月号)
 

イコンの橘 (国語通信 昭和44年10月号)
見えないもの (短歌 昭和43年4月号)
流れ矢 (短歌 昭和39年1月新年臨時増刊号)
山蚕の裔 (短歌 昭和38年6月号)
無言歌について (俳句 昭和35年9月号)
生誕と死 (馬酔木 昭和35年3月号)
太初に譬喩あり (短歌研究 昭和33年6月号)
 

ガリヴァーへの献詞 (短歌研究 昭和31年3月号)
遺言について (短歌研究 昭和31年5月号)
ただこれだけの唄 (短歌研究 昭和31年8月号)
 

ミノタウロスの微笑 (短歌 昭和38年12月号)
転ぶ麒麟に関する断簡 (未発表)
一人のコロス (末来 昭和27年4月3号)
予見 (未来 昭和27年12月12号)
還埃及記序 (末来 昭和36年6月6号)
窪田空穂小論 (解釈と鑑賞 昭和39年2月号)
不死の鳩 (短歌 昭和37年10月号)
若き死者への手紙 (短歌研究 昭和30年8月号)
詩の死 (喜望峰 昭和43年10月14号)
幻想の結社『日本歌人』 (短歌 昭和41年11月号)
 
V
椿花変 (雲母 昭和41年8月号)
雑色雑光 (琴座 昭和39年5月号)
悪筆の栄え (琴座 昭和38年8月号)
膠と雪 (俳句研究 昭和41年1月号)
啓蒙の専制 (俳句 昭和38年4月号)
 
初めに蒙し――跋にかえて
著作発表誌




◆本書より◆


「初めに蒙し――跋にかえて」より:

「「定型幻視論」とは、私自身の短歌入門書である。この韻文定型詩を文学上の最初の出会とし、かつ最後の砦とする決意を新たにするまでに重ねたさまざまの試行錯誤の履歴書であり、私自身の蒙を啓くために不特定の読者に向って発した設問の記録でもある。
 そのかみ大岡信氏との往復書簡形式による詩論と試論の交換をした時、私は自らの蒙(くら)さと現代短歌を支えている基盤の蒙さに慄然とした記憶がある。短歌なる詩型の本質論を意図しながら、私はともすれば歌壇の特殊事情を前提とした現象論に触れざるを得ず、結果的に論点は齟齬することとなった。氏の歯痒さも当然のことながら、私自身の焦慮はほとんど肉体的な苦痛をさえ伴うことがあった。その時の氏の言葉の中に「塚本氏は『魂のレアリスムを』と言っている。一方ぼくは、いわば『魂を』と言ったのだ」という一行があった。私には百行の説諭にも弾劾にもまさる衝撃的な一言であった。かえりみて暗然としかつ忸怩たるものがある。レアリスムとことさらに附加しことわらねばならぬほど、現代短歌における「真実」の意味は歪曲されていた。定型詩の真を語る前にそれにまつわる誤解をまず解いてから、あらためて出発点に戻らねばならぬわずらわしさに私は歯軋りした。
 「短歌という定型短詩に、幻を視る以外に何の使命があろう」、この断言をあえてするまでに、私は私の蒙さに幾度切歯扼腕を繰返したことか。「魂」の一語ですべては理会される詩歌、ひいては言語芸術のコンミューンを信ずるまでに幾度リアリスムと写生主義の相異、両者の間の落差について喋々せねばならなかったか。
 今日定型詩を志す人があるなら、私の重ねたような徒労は一切省略するがよい。特殊事情だけで成立していると言っても決して過言ではない人間関係と、その関係を支えている不思議な倫理などことごとく無視して、韻文のかくあるべきすがた、定型詩の魂の在処に思いを凝らすことを奨めよう。
 ただ戦後の荒地に落ちた幾粒かの麦は、その性蒙なるゆえに、あるいはまたその時代の蒙さのために、いかに無益な血を流し泥にまみれねばならなかったかを、一度はかえりみて参考に資してもよかろう。
 新しい現代短歌がもし今後開花するならば、私の惨憺たる萌芽の経験などには無縁であれと冀う、これは私自身の短歌出門書となるかも知れない。
 Ⅲに収めたのは冒頭の大岡氏との往復書簡の復であり、往は氏の諒承を得てそのシノプシスを引用掲載させていただいた。(中略)Ⅳ、Ⅴ各項に編入した作家論等は、『夕暮の諧調』中に当然排列すべきであった数篇を含み、特に「ミノタウロスの微笑」は当初本書の標題にも使用したいと考えていたものである。」




◆概要(「」内は本書からの引用です)◆

 
・短歌における「現代」
「秋篠寺の本堂の床下の、かびくさい暗がりには、蟻地獄が点々と巣をいとなんでいる。私は秋になる毎に訪れて、途々ひきちぎってきた曼珠沙華の花梗で、この哀れな砂の城を存分にさいなむ。遁げまどう醜い幼虫を半殺しにして、永い時間をたのしみ、伎芸天はかえりぎわに、(中略)ちらとかいまみるにとどめる。他の風物には一切興味はない。かえりなんいざ、と小一時間後に床下をのぞくと、褪朱の花弁にまみれながら、惨劇のあとは、ふたたび徐ろに復元されつつある。」
「この夕暮、私には「現代歌人」としての苦い自覚と、鈍い痛みが蘇る。伝統詩歌の蟻地獄。」

「現代人にとって伝統詩とは(中略)遠い世界のささやかな詞華、郷愁の文学以上ではあるまい。」「短歌は、今日無用の文学である、否、無用という否定や拒絶すら感じさせぬ、無関心の文学であろう。」
短歌は「現実のたたかい」に参加しないことによって、定型詩たり得る。
「作家はすべて母国語からのがれることができぬ。日本語を用いるすべての作家は、その意味で、つねに万葉から新古今、晶子、茂吉の仕事に無縁ではあり得ず、現代短歌は、その韻文と、韻文が必然的に求める定型とに殉じ、その、現代における可能性に賭けようとしているのだ。」
そして寺山修司・春日井健・佐佐木幸綱の短歌を引用し、「ここには日本の古典と今日が、少からぬ違和感をまじえつつ、みごとに融合している」とし、そこに「助詞一つにも賭けられた定型への愛」を見る。
「定型の枠からあふれ出ようとしながら、その中で沸騰する情念、三十一音で終ったかに見えながら、一首ののちの空白に、ゆたかにひろがってゆく思惟、緊張と休息が短い律調の中でいりまじる。そのことによって生れる調和、彼らの、一首の中で生きる一瞬は、予感であり、同時に終末感である。この相犯しつつ支えあうあやうい均衡こそ、そのまま、短歌における今日であり、末来と言えるだろう。」
 
・歌の回復
「現代の詩歌は、その本来の使命である「うたうことから」かなり遠くへだたってしまった。「書くこと」すなわち「読まれること」が前提とされた、現代詩歌人の作品は、印刷技術とともに高度の水準に達し、そのまま窒息状態にあるとも言えよう。」
「うたごえを回復しよう、まず調べを―というリアクションは、底流として常にあった。」
「だがこの調べの切実感、あるいは「朗々誦すべき」などの形容詞に、再びだまされてはならないだろう。」
「詩歌は万人に愛唱されることを望みながら一方では少数のすぐれた理解者にささえられる孤独な文芸であることをねがっている。そしてまた愛唱、愛誦の質も、当然愛読というかたちに変ってきているのだ。声をもつことよりも、目からたましいへ、いかに深くくいいるかが問題ではあるまいか。」
「文字をもたなかった古代と現代、戦争前と後の精神のありかた、交共の広場での絶叫になれた人種と、言挙げせぬ美徳、余情の美学をもつ民族、警世の詩と悲歌、それぞれのジャンルと次元において、創作方法も発表形式も、享受態勢も、千差万別であり、それでよいのだ。詩歌の困難な時代に「うたうこと」は、そしてその時一番大切なのは、詩が文学か言葉かの議論もさることながら、詩は志であるということの再認識であり、太初にあった言葉はロゴスだという、これだけは決して変ることのない理念の高揚であろう。志やロゴスに無縁なものには、いかなる真の詩歌も、愛誦されることはない。否、愛誦されることをこばむのが、まことの現代の詩歌なのである。」


・反・反歌
「定型はかりそめに生れたものではない。文学はある日突然生れかわるものではない。この最も初歩的な驚きは、一つの試行のたびに、つねに私におとずれる。桎梏であるフォルムは恩寵であり、文語は救済であるという素朴な実感を、今他者の誤解をも考慮に入れて、ためらうことなく語ることができる。この後私自身が、その恩寵と救済を拒むことすらおそれはしない。百年後、定型詩がさらに孤立し、さらにそのレゾン・デートルを危くするならば、あるいは全く消滅するならば、反歌はその究極の使命である「反・反歌」即ち全く声なき歌として昇華したことになるのだ。」
人麻呂によって、「反歌」が長歌から独立し、「唯一の定型詩になる可能性を予測させるにいたった」。人麻呂がエホバであるとするなら、定家はイエスである。「美の十字架にわが身をはりつけ「紅旗征戎は我事に非ず」と叫んで孤立した、この貴公子の、栄光に包まれた悲劇は、そのまま中世以後の芸術派と他称される詩歌人の運命であろう。」
「短歌が言語芸術の一ジャンルとして、その幸福な家族あわせの一員であった時代はすぎ去って久しい。今日この廃嫡の長子は、まさにその生誕の時点から、即ち原初からもっていた反歌の性格を、さらに深く、さらに暗く自らに問わねばならない」
。小説・評論・戯曲・散文詩・音楽・絵画・彫刻…それらの「長歌的諸芸術の表現が終了した時、溶暗の中から、しずかにわく反歌として、短歌はよみがえるものであろう。現実と虚無のあわいの薄明の世界、ふたたび言うならばその煉獄の時間と空間に、耐えうるか耐ええぬかが、歌人一人一人の資格の有無となるだろう。」
「短歌は生ける現実の反歌である。そしてさらにそれは幽、明の境に立って幽たる死のかなたの過去に、明たる現(うつ)つの彼方の末来に、はげしく引かれながら、反歌に反(かえ)すべき、もう一つの反歌をもとめつづける、非有の詩歌であろう。」

 
・荊冠詩型 明日の短歌の使命と宿命についてのアジテーション
「定型詩人は曖昧さと妥協を拒否することを、何よりも先ずその生き方の前提としてきた。」
「韻文は定型詩とは不即不離の関係にある。詩を日常会話語でつづらねばならぬというのは一つの迷信だ。私たちは新しい文章語、いいかえれば文語、詩語の創造にもっと神経質であり勇敢であっていい。古典語も詩語として生かさねばならぬし、日常会話語、いいかえれば口語の中からも生々とした詩語を発見するのは論をまたない。」
「短歌はその額に苛酷な荊棘の冠をいただきつつ、日本の詩の末来のために必ず死なねばならぬ受難のフォルムである。」
「私たちが短歌で試みようと思うのは、定型詩として可能な限りの深い思想を内蔵し、しかもその思想自体のリズムとでもいうべき、痛切な音楽性にみちた作品の誕生である。」

 
・石胎の馬 前衛短歌批判への一考察
斎藤正二の「短歌民芸論」――短歌は万人に共通な悲嘆や悲哀の声であり、署名を必要としない調べであり、短歌に前衛はありえない――への批判。「短歌の無署名性が独創性と個性への反撥と擁き合っているのが何とも不可解である。短歌が民芸になるにしろ、ならないにしろ、読人不知をその究極の相とするにしろ、しないにしろ、オリジナリティと作家の個性の輝きをもたぬものは、決して人々の愛を鍾め得ないだろうし、永い時間にわたってその生命をつたえることもないだろう。」「今日、僕達が署名するのは単なる自己主張や宣伝のためではない。自作に飽くまで責任をもちたいという決意であり、誓約に他ならない。」
吉本隆明と岡井隆の論争。「主題、または素材のなかに「政治と文学」問題の積極性を転化しようとする考え方は、短歌の場合ことになり立たないだろう」(吉本)、「たしかに一首の短歌作品から、内部世界の問題を析出することは、かなり面倒な手順がいるらしいからだ。しかしこのことは、短歌が文学作品である限り、必ず可能なはずである」(岡井)。
「前衛と伝統、モダニズムとリアリズム、黒と白、+と-、あらゆる存在と現象を奇態にも無理矢理二つに分けようと焦慮し(中略)断行し、それを明快な批評精神と錯覚する位滑稽で危険なことはない。特にあらゆる可能性を胎し、カオスをふくみ、変貌を準備している僕の仕事に、そういう通行止に等しいペンキ塗の札を下げられる位迷惑なことはない。」
「一つの新しい運動、異なった思潮の勃興してきたとき、それへの正しい批判、痛切なアドヴァイスは、無数のエピゴーネンの付和雷同と正反対の、必要欠くべからざる推進力となる。批判、研究を装うた、単なる反感とか嫌悪の理論化、実験の端緒を結論のように強弁して抹殺を計る陰険な正統論は一種の暴力であり、明らかに言語ファシズム化への芽を約束する悪の温床である。前衛短歌というものがあるのなら、それは今後種々の形で生れるファシズムとたたかい、それらの使徒である無能な石胎の馬達を黙殺して、あくまでも短歌の可能性に賭ける、そういう強靭な短歌の謂であろう。」


・零(ゼロ)の遺産
昭和初期の短歌アヴァンギャルド。前川佐美雄、筏井嘉一、坪野哲久ら、そしてそれに「或は追随し、或は反撥し、或は無関係に、その青春をアナーキーな活字の置き換えごっこに興じた、モダニストと冷笑をこめて呼ばれるにふさわしい作家達」日比修平、石川信雄ら。
「僕達はアヴァンギャルドに関する限り何ものも継承しなかった。彼らの挫折、敗北の後の誤謬に満ちたブランクは、永久にそのまま記念せねばならぬ。怠惰なリレーでも引きつぐように、彼らの錯覚の歴史をゆずりうける意志は毛頭ない。最初の一歩から始めて改めて開墾播種、発芽を経、全速力で開花までの過程をたどらねばならぬ。」「僕達を空白の荒野に立たせ、今数々の戒めと啓示を与えてくれる前衛短歌の敗北史、それはその意味で、僕達への無形の「大いなる遺産」であった。」
  
・牡蠣は棘を
短歌の「事実」信仰批判。
「悦びの如し冬藻に巻かれつつ牡蠣は棘を養ひをらむ」(中城ふみ子)
「僕は誰も褒めなかったこの一首をこよなく愛する。」
 
・イコンの橘 現代短歌における「新」の意味
「新しさというのが価値判定の第一の基準であるとすれば、短歌はそこで最初に失格する。然しうつくしさが第一の基準であるならば、傑れた短歌は決して失格することはなく、それであればこそ、短歌は生きてきたし、今後も生きるだろう。短歌をふくむ韻文定型詩に、変化はあっても進歩はない。むしろあってよいはずがない。これは広義の芸術全般に言えることだろうが、特に短歌はまちがった新しさを目的とした進歩への憧れが、曰く非定型、曰く口語短歌という名称で、空しい背のび競争をくりかえしてきた感がある。」
「現代短歌の新しさとは、日一日と連繋を失い、断絶を余儀なくする、韻文精神、即古典との懸命の相聞にこそあろう。言と文とはどのように技術を駆使しようと、所詮不一致のものである。それを短絡するところに、日本特有のゆがんだ散文精神が発生したのではあるまいか。」
「その自由は必ず、「イコン」からの自由であらねばならない。フォルムからの限りない自由とは、そのまま言葉の放棄につながらざるを得ないのだ。」

 
・見えないもの
「A 花鳥風月 日本の詩歌、伝統における抽象性・定家の花、世阿弥の花
B 形式と韻律 定型の恩寵と陥穽・陶酔と拮抗の系譜
C 構成とは 一首の成立と一篇の構築・創作精神と専門歌人
D 歌謡について 歌の機能と発見・催馬楽からシャンソンまで
E 散文詩について 蕪村の和詩から自由律まで・最短の限界について
G 短歌と諸芸術 学問と教養について・他の諸芸術は他山の石か
H 見えるもの 可視的現実と真実の間・何をいかに見るか」
「幻想の世界には一人の証人もいません。(中略)孤立無援で、みずからの幻想を信じ、言葉を唯一の武器としてこれを証言すること、それが幻視者の使命なのです。(中略)マスコミのあらゆるメディアは、それが強力であればあるほど、逆にぼくたち個々の心の真実からとおざかってゆくのです。」

 
・流れ矢 ある綜合制作論
「極論すれば、連歌百韻を知らずに「於母影」は読めるものではなく、「隆達小唄」を調べることなく現代の流行歌謡を語るべきではない。さらに「新体詩抄」を究明せずに、新定型詩の試作も偶数音律のフォルムの創造もナンセンスなのだ。定型詩人は定型詩のすべてにわたってその血をわかち、その様式と栄辱を共にし、しかしてのちもし短歌が自らの最終のフォルムと確認したならば、それと死をわかつべきなのだ。」
 
・山蚕の裔 現代短歌にとって美とは何か
「美は、それ自体時間と空間を超えて、犯すべからざる存在である。この明晰で至純なマキシムを、率直に虚心に語り得なくなったことこそ、近代人、現代人の不幸であった。」
 
・無言歌について 定型抒情詩の問題
「権力のためにうたい、自らを欺いた作家は、二度と真の抒情詩をうたうこと、即ち霊歌をうたう資格はない。詩人の勁さは、うたわぬことによって、無言歌の質量の大いさによって決定される。抒情詩人、定型短詩型作家は、無言歌を胚胎しつづける苦痛にいかに耐えるかに、その全存在を賭けるものであろう。」
 
・生誕と死 現代短歌の抒情
「抒情とは、窮極は恐らく他につたえ得べくもない人間一人一人の深部のこえを、ただ一たびコミュニケートするための、詩人の悲痛な、然もむなしい営為の謂ではあるまいか。」

・太初に譬喩あり
「深層の傷ついた魂が、表面に浮び上って外部と厳しく接触する瞬間、かけがえのない言葉を得る手段としてのみ、メタファーは存在する。形而下の世界の、事実の伝達、生活経験の報告に、これが無用の長物視される所以である。内的欲求、精神の疼きのない場合、メタファーは作家と共にとめどもなく堕落し、アレゴリーは執拗な麻薬となり、今日見るような、ダルな死隠喩、不潔な直喩の形骸が、短歌に襤褸のようにぶら下がる。」
  
・ガリヴァーへの献詞 魂のレアリスムを
・遺言について 新しい調べとは
・ただこれだけの唄 方法論争展開のために
詩人・大岡信との往復書簡による論争。
「暗渠はげしく汚水ながせり神父の子なれば劇しきものひたに恋ふ」(塚本邦雄)
「ぼくの理解している限り、カトリックの神父に結婚は考えられないはずで、ここに言う神父は、信者の父としての神父なのであろうか。塚本氏の歌集にはキリスト教に関係ある歌がかなり多数みられるので、「神父の子」というような言葉を軽々に塚本氏が使うとは考えられない。(中略)それともこれはフィクションなのだろうか。(中略)「神父の子」が塚本氏以外の人物であるにしても、キリスト教にくらいぼくには、はたしてそのような場合がありうるかどうか不明である」(大岡)
「「神父の結婚」に関する氏の疑問は意外であった。その作品の「暗渠がはげしく流す汚水」で「神父の子」の神父の背に破戒の烙印を感じとれというのは無理な註文なのだろうか。或は(中略)破戒を説明する別の言葉を、殊更念入りに附加しないとこの作品は成立しないのだろうか。この短詩型から、「暗示」の機能を否定し去ったら何がのころうか。
 又この一首も(中略)勿論フィクションである。一人称的三人称であり、同時に自己の内部に棲む「アルター・エゴ」に他ならない。作者と作中人物の関係に氏がこのようなこだわり方をされるのが、僕は不思議な位だ。」

 
・ミノタウロスの微笑 佐佐木幸綱小論
「紛れもなく彼の唯一にして最大の弱点は、美学の貧困、もしくは不在あるいは拒否である。」
 
・転ぶ麒麟に関する断簡 歌集『群黎』に寄す
佐佐木幸綱論。
「キリンが転ぶ絵は描かざりしダリ思いだれ思うわが友を選ばば」(佐佐木幸綱)
 
・一人のコロス 最愛の敵、岡井隆に
岡井隆論。
 
・予見
デュヴィヴィエの映画『地の果を行く』の台詞「俺は、末来にむかって進んで行ったことなど一度もない。未来に背をむけて一歩一歩後退りして行くだけだ。」
「これはペシミスト、デュヴィヴィエのさわりの文句でもあったろうが、(中略)昭和十七、八年、ヒステリカルな軍国主義の騒音の中で、蒼ざめて立ちすくんでいた僕の未来観の代弁でもあった。」
(引用者注: 「我々は後ろ向きで末来に突入する」ポール・ヴァレリー)

・還埃及記序 『土地よ、痛みを負え』によせる反雅歌
岡井隆論。

・窪田空穂小論
「空穂は生ける記念碑である。そのうたは犯すべからざるしらべをもてちる。ついにうたとはかかるものであろう。けれども、それゆえに、現代短歌はそれに帰依してはならないのだ。大作家への尊敬と現代短歌の末来への嶮しい賭の精神は自ら別のものだ。空穂は思想にも文学にも、ただの一度も致命的な錯誤は犯さなかった。その代り、それによって真に自らの芸術性を誇ることもなかった。」 
 
・不死の鳩 斎藤史覚書
『魚歌』へのオマージュと『密閉部落』以降の歌への懐疑。
「彼女の歌が痩せ、読者に目に見えるものをすら見させなくなったのは、その見えすぎる目で箴言を書き、アフォリズムを綴ることに熱心でありすぎるゆえではあるまいか。彼女の作品の美しさは、一首の歌の終った時、再びぼくたちの心の中に生れる、荒涼たるアルカディアの風景、きらめかしい地獄の眺めをほしいままにするところにあった。機智と才気にはたと膝をうたせる、そういう小ざかしい技術を超えたところに、彼女の資質は輝いていたはずだった。」
 
・若き死者への手紙 亡き友杉原一司に
「「怒ることこそ僕の生甲斐だ」と君はいった。君はいつも何かについて怒っていたのだ。死によって君の怒りは中絶した。僕は君の怒りのこした事を怒り継いで来たのだ。」
 
・詩の死 故浜田到頌
「ぼくにとって到こそ、頌めるよりほかにない、ただ一人の詩人(うたびと)であった。」
(引用者注: 現代歌人文庫『浜田到歌集』(1980年)解説「晩熟未遂」(『詩歌宇宙論』所収)では、著者の浜田到に対する態度に変化が見られて興味深いです。
「彼の弱点や失策や詩的病歴を指摘することに、何か禁忌を犯すやうな憚りを覚えて、腫物に触り、重傷の患者を見舞ふやうな言辞を弄してゐたのは、卻つて死者の矜持を汚すことになりはしなかつたか。」)

・幻想の結社『日本歌人』
前川佐美雄論。
 
・椿花変 蛇笏句集『椿花集』論。
飯田蛇笏論。
 
・雑色雑光 耕衣句集『悪霊』覚書
永田耕衣論。
 
・悪筆の栄え 耕衣墨蹟に触れて
永田耕衣論。
「天賦のもの、それは容貌と筆蹟と芸術的才能、修練や加工のいかにはかないことか。美の判定基準のいかに曖昧なことか。ぼくは鬚だらけの熊男ジョルジュ・ブラッサンスを世界一の美男と信じているし、酋長の娘みたいな唇をもつ岸田今日子を日本一の美女と心ひそかに決めている。そして漆黒の兜虫と灰色の天蛾が疾駆、飛散しているような耕衣氏の墨蹟を、何にもまして愛するものだ。」
「ぼくの嫌悪するのは原型をとどめぬまでにデフォルマションを敢えてしつつ、然も抽象絵画の美ももたず、文字の象形性に甘えて、「書」を謳歌する作品と、古典の臨書、もしくはこれを一歩も出ることの無い専門家の作品だ。百人の詩人、画家が百の生き方を生き、自ら百の方法を持つように、或は百の容貌をのがれられぬように、百の筆跡を駆使すべきなのだ。」

 
・膠と雪 赤尾兜子句集『虚像』論 または変革期の兇器としての闘志
「相手かまわずぼくが推奨してやまぬ大好きな落語のひとつに「だくだく」がある。貧乏なひとりものの家へ忍びこんだ、近眼の泥棒が、近づいてよくよく見れば、家財道具はひとつのこらず壁に描いた絵、両者掛合よろしくあって、とどのつまり、それならいっそ何もかも「そのつもり」で事をはこぼうと、泥棒は一切合財盗んで逃げるつもり、そこをひっとらえ、長押の槍をとってぐさっと突いたつもり、突かれたつもりで血が「だくだく」というお笑いなのだが、(中略)この名作落語に、ぼくがことさら感銘を久しくするゆえんは、その虚・実のあざやかな認識態度にあり、とくに虚は虚として、まことに生き生きとうけとり、実を獲得し、もしくは与えた以上の豊饒感を、(中略)双方にもたらすロジックが、(中略)真理をうがっているところにある。これは単なるお笑いでも、観念遊戯でもない。血のだくだくとしたたりおちる、いわば逞しいニヒリズムの所産なのだ。」
「兜子が虚数の加減乗除をもって、不安で不明で空虚な価値しかなくなった現代の言葉の秩序と美の実数を再創造しようと決意したのは、いつ、何ゆえであったろう。」


・啓蒙の専制 堀葦男小論

































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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