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小野二郎 『装飾芸術 ― ウィリアム・モリスとその周辺』

「モリスが、何を好み、何を嫌ったかということには、いや、何を好み、何を嫌うという態度を、どのようにして決めていったかという筋道には、非常に興味がある。その筋道がモリスの思想というべきものの中身であろうから。」
(小野二郎 『装飾芸術』「あとがき」 より)


小野二郎 
『装飾芸術
― ウィリアム・モリス
とその周辺』

青土社
1979年4月20日 印刷
1979年4月30日 発行
330p 
カラー口絵1葉 モノクロ口絵8p
A5判 丸背紙装上製本
本体カバー 機械函
定価3,800円
装丁: 平野甲賀



カラー口絵1点、モノクロ口絵17点、本文中図版(モノクロ)98点。
本書はもっていたのですがどこかにいってしまったので日本の古本屋で最安値(1,000円+送料450円)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


小野二郎 装飾芸術 01


帯文:

「パタン・デザインの地平と展開
質実な手仕事の意味を徹底して追求し、壁紙、チンツ、ステンド・グラス等の製作やブック・デザインに独自の境位を開拓し、日常の生活空間に夢を紡いで現代デザインの道をひらいた世紀末の思想化・デザイナー、ウィリアム・モリスの全体像。」



小野二郎 装飾芸術 02


帯背:

「現代デザイン
の根底を探る」



小野二郎 装飾芸術 03


目次 (初出):

1
自然への冠――ウィリアム・モリスにとっての「装飾芸術」 (「展望」 '75. 12)
ウィリアム・モリスと世紀末――社会主義者オスカア・ワイルド (「自由時間」 '75. 11~12)

2
モリスの装飾芸術入門 (「週刊朝日百科/世界の美術」第16巻 '78. 7)
「レッド・ハウス」異聞――フィリップ・ウェッブとモリス (「牧神」 '77. 12)
ミドルトン・チェイニイのモリス・ウィンドウ (「現代思想」 '78. 3, 5)
英国更紗の発展とモリス (「現代思想」 '77. 3~5)
ウィリアム・モリスのパタン・デザイン――その展開と表現 (「カラー・デザイン」 '74. 10~'75. 2)

3
ヴィクトリア朝及びエドワド朝装飾芸術展一九五二年――ピーター・フラッドとV. & A. M. (「現代思想」 76. 6)
コウル・サークルの功罪 (「現代思想」 '76. 7)
自然と装飾――オーウェン・ジョーンズとジョン・ラスキン (「現代思想」 '77. 8~9)
ウィーンのチャールズ・レニイ・マッキントッシュ (「現代思想」 '76. 10)
グラスゴウ美術学校 (「現代思想」 '76. 11)
オスカア・ワイルドの建築家――E・W・ゴドウィン (「現代思想」 '77. 1)
C・F・A・ヴォイジの壁紙 (「現代思想」 '77. 10)
アール・ヌーヴォーのイギリス起源という問題 (「現代思想」 '76. 12)
モリス運動の周辺と波動 (「カラー・デザイン」 '77. 9~'78. 2)
 1 オーウェン・ジョーンズとクリストファ・ドレッサー
 2 アーサー・H・マックマードウ
 3 C・F・A・ヴォイジ
 4 ウォルター・クレイン

4
長城と書物――書物の装飾について (「現代詩手帖」 '75. 7)
最も必要なものだけの書物 (「グリーン・ライフ」 '74. 12)
書物の「読み易さ」について (「現代詩手帖」 '77. 7)
『ケルズの書』――書物芸術におけるケルト的伝統 (「現代思想」 '76. 4~5)
モリス・ライブラリ瞥見 (「現代思想」 '77. 6)
モリスの書字法と印字法 (「現代思想」 '77. 4)

あとがき



小野二郎 装飾芸術 04



◆本書より◆


「ウィリアム・モリスと世紀末――社会主義者オスカア・ワイルド」より:

「ワイルドが社会主義の価値を認めるのは、それが一にも二にもインディヴィデュアリズム実現に繋がるからである。Individualism を何と訳すか。個人主義と一応しておく。分割されざるもの。社会あるいは集団に対する単独者としての個人に重きをおいた意味ではない。むしろ総合のイメージだろう。個々人にひそむ宇宙総合力とでもいうべきものである。
 先程引用した社会主義の定義めいたものの直ぐ次にこういっている。「それ〔社会主義〕は生(ライフ)に正しい基盤と正しい環境とを与えるだろう。しかし、生(ライフ)を最高の完成の形にまでいっぱいに発展させんがためには、これ以上の何かが必要である。その何かとはすなわち個人主義である。」私有財産制度の下でも、ある非常に限られた程度ではあるが、「個人主義」を発展させることが可能なかなりの人がいる。生活の為に働かずにすむか、自分に本当に適し、かつ快楽を与えてくれるような活動分野を選択することができる人々である。詩人、哲学者、科学者、教養人がそれである。この連中は少なくとも自己自身を実現した人間であり、全人間性がそこで部分的には自己実現している人間である。
 他方、無産者はどうか。それには美徳が多々あり、それらは容易に認めることができるが、むしろ多く嘆かれるべきものである。慈善行為に感謝することのなかで、「個人主義」を発達させることはまったくない。むしろそれに感謝せず、不満で不逞で反逆的であることの方が無産者の正しいありかただ。あんな環境に不満を感じないとするなら、まったくの野獣に過ぎまい。不服従、不逞であることは人間のオリジナル・ヴァーテュー original virtue だという。この場合の方に「個人主義」実現のチャンスありとワイルドはいいたいのであろう。
 社会主義下ではインディヴィデュアリズムはいかなる利益を受けるか。私有財産制度の下での「限定された個人主義」の限定されたゆえんは、色々あるが肝心なこととしてあると思うのは、それが「想像世界で実現された個人主義」 imaginatively-realised Individualism であることだとワイルドはしているのではなかろうか。これを詩人の仕事としている。しかし、社会主義下で、それよりはるかに自由な、はるかに美しい、はるかに強烈なものになるとされる「個人主義」とは、それと異なるものだ。「想像世界で実現され」ているのではなく、現実に、実際に実現さるべきものなのである。しかもそれは、人類に遍く可能性として潜んでいるものだ。すなわち actual Individualism latent potential in mankind generally である。
 そういういわば民衆の中の「個人主義」の発現を聖書のマグダラのマリヤの挿話にワイルドは見ているようだ。
  「姦淫の現場を押えられた一人の女があった。その恋のいきさつは知られていないが、その恋は彼女にとってまことに重いものに違いなかった。なぜならイエスはこういったからだ。女の罪は許される。女が悔い改めたがゆえではない。女の恋がかくまで痛切で、驚嘆すべきものであったがためであると。後日、イエスの死の直前、饗宴に臨んだ折、その女が現われ高価な香水をイエスの髪に注いだ。イエスの友たちはその手を押し止めて、それは浪費だ、香水にかかる金は貧に悩む人々の救済や何かそうした慈善に使わるべきだと言った。イエスはこの意見に同じなかった。イエスはこう指摘したのである。人間の物質の諸要求は大かつ恒久的である。しかし人間の魂の要求はまたさらに大である。そしてある聖なる瞬間に固有の表現方法を選ぶことによって人間は自己の完成を遂げることもあろうと。」
 これは行為における、行為においてしか表現できない「個人主義」の一例であって、しばしば犯罪(クライム)として現われる。想像世界では芸術として現われる。民衆には犯罪、特権的エリートには芸術という「限定された個人主義」の発現領域があるとワイルドは考えているようだ。そしてこの犯罪と芸術の「弁証法的」統一を「社会主義下の人間の魂」と見ているのである。(ワイルドの用語例では魂(ソウル)とは自意識と同義であり、それはさらに批評精神と同義であり、そしてまた自己表現の現場(セルフ・リアライゼイション)である。)
 しかし、あたりまえながらワイルドは単純に芸術の否定などはしない。「個人主義」のもっとも白熱せる状態としての芸術は、白熱していることによって意味がある。「犯罪」を依然「犯罪」とせしめるような社会主義、専制主義的(オーソラティヴ)社会主義の下でなら、芸術は「限定された個人主義」として留まらねばならぬ。芸術がもっとも忌避すべきは、芸術の大衆化だという。その時の大衆は権威主義者だからだ。擬似民主主義も権威主義的社会主義も、この権威主義的大衆を基盤にしているのである。
  「専制者に三種ある。肉体を圧迫するもの、精神を圧迫するもの、そして肉体と精神とを等しく圧迫するものだ。第一を王侯(プリンス)という。第二を法王(ポープ)という。第三を大衆(ピープル)という。(中略)芸術家は大衆とともに生きることは不可能である。すべての専制者は賄賂をつかう。しかし大衆は賄賂をつかい、かつ暴力をふるう。」
 ワイルドの権威主義的大衆に対する嫌悪はかくのごとしである。
 芸術家はかかる大衆のためにけして迎合してはならぬ。しかし芸術家の孤高をいたずらに尊しとしているのではない。芸術の大衆化は絶対に拒否されるが、逆に大衆の芸術化(引用者注: 「大衆の芸術化」に傍点)こそが肝心要めのこととして主張されるのである。芸術化された大衆の魂がつまり「社会主義下の人間の魂」なのである。しかし今、芸術家がこの方向に踏み出さなければ、芸術家はその芸術を失うところまで来ているという危機感がワイルドの心の底にある。「イギリスにすぐれた詩が存続しえているのは、大衆が詩を読まず、したがってそれに影響を及ぼすことがないからだ。」しかし、今は逆に詩が大衆に影響を及ぼさねば、詩そのものが存立できぬという危機意識が実はワイルドにはあったと思う。にもかかわらず、大衆を芸術化する方途、詩が大衆に影響を与える途は、ワイルドには(そしてわれわれにも)つかむことができていない。ワイルドは自分の生涯の中で、そして自分自身の中で、芸術と犯罪を結びつけただけであった。だけであったが、そこにわれわれが今日いう芸術運動の原型があったとすら私はいいたいのである。学ぶべき原型が。
 しかし、その方途の方向だけは明らかだ。人間の共感というものが奇妙に狭いとワイルドは批判する。「人間は生の全体(エンタイアティ)に対して共感すべきである。」「犯罪」への共感は、そこに現われた「生の全体性」に対してあるのであって、そうせざるを得ない悲惨に対する同情や暗い怨念に対する共感などであってはならない。」
「芸術家のみが部分的に実現している「個人主義」を、大衆すべてが、「犯罪」という形でなしに、そして部分的でなしに実現できる社会構造を社会主義と考えているのである。」

「いわゆる審美主義運動の隣りには、アーツ・アンド・クラフツ運動があった。様々な社会主義運動があった。そのすべてが交錯するところにウィリアム・モリスという大きな存在がいた。人が思う以上に、ワイルドはモリスの徒である。モリスの一部をラジカルに押しつめ、個人プレイにしてしまったところがあるが、しかし異端の芸術家の奇矯で幼稚な思想などではない。(中略)クロポトキンの影響? クロポトキンにワイルドが会ったのは、モリスの紹介によってであった。」

「建築評論家長谷川堯氏の著書『都市廻廊』(中略)の中での一つの興味深い説を紹介したい。
 それは大正期の今和次郎氏の仕事の評価の中で、アール・ヌーヴォーとアナキズムとの対応関係を主張しているところである。」
「「アール・ウンーヴォーは、このもったいぶった全体優先〔近代主義的建築の(中略)〕に対する細部の蜂起であり、そのような装飾的細部は、あらゆる部分を執拗に齧り、全体の誇る量塊性を蚕食しつつ解放し、部分の連合による〈コミューン〉を実現しようとしていた、といえるかもしれない。」と長谷川氏は書く。最近のエッセイ「部分の叛乱――建築の輪郭(シルエット)と細部(ディテイル)」(中略)で、よりまとまった記述をしているので、それを引用しよう。
  「……アール・ヌーヴォーとは、アナキズムの思想のデザイン的表現であった、と私は考える。たとえば、歴史時間的な経過においても、アナキズムとアール・ウンーヴォーは、まったく符合している。……では、アナキズムの思想とアール・ウンーヴォーの意匠は、内容的な面でどこに一致点をもつのであろうか。簡単にいえば、……部分から全体へ、と向けた指向性はあった。アナキズムにとっての部分とは、個人的な市民の〈人生〉であり、この〈生〉が全体(たとえば国家とそれを管理する政府)への徹底した叛逆を企てた。アナキズムの活動母体としての個的〈生〉は、ルソーがいうように、社会契約によって保証されるのではなく、ゴッドウィン以来の、社会の根源は〈自然〉にあるという発想によって位置づけられる。〈生〉は〈自然〉を母体としながら、一切の外からの規制(つまり社会的輪郭)を脱して根源的な自由を希求する。ところでアール・ヌーヴォーの装飾的主題が、植物や動物をモティーフにすることによって、きわめて密接に自然にむすびついていたことはよく知られている。またアール・ヌーヴォーの曲線や曲面や曲塊の異様な舞踊について、しばしば自由(リベルテ)という形容が使われてもいた。それは、デザイン的な直接行動として、心理的な爆弾を私たちの内部に破裂させる。このように、意匠上の細部は自由かってに踊り出、時には細部がたがいに組み合わさってコミューンを形成する。アール・ヌーヴォーにもサンディカリズムがあったのだ。しかも、そうしたデザインの組合(サンディカ)は、管理を呼び出す生硬な全体を構成するのではなく、アナーキーな連合によって有機的総合体をむすぼうとするのである。」」
「部分の叛乱ととらえる以上、当然「装飾は建築の主要部分である」という「警句」をいったジョン・ラスキンが呼び出される。
  「ラスキンは十九世紀のヨーロッパの建築的理念を支配していた古典主義的な美学に対して、この言葉を楯に挑戦した。つまり古典主義につきまとっている『全体の輪郭→部分の処理』へのまさに古典的な手法のなかで(近代合理主義は、それをそのまま継承した)、いわば虐げられ、奴隷の位置に引きおろされた装飾的細部を、文字通り主客転倒して、装飾的部分を逆に中心に据えなおしたのだ。」」



「モリスの装飾芸術入門」より:

「ウィリアム・モリスのした仕事のうち、最も重要なもののひとつは、産業革命以後の工業社会における装飾芸術の意味と役割をいちばん深いところからとらえ直したということであろう。それも実践と批評の両面においてである。装飾芸術を、応用芸術、二流以下の芸術の位置から、絵画や彫刻のような高級芸術のそれに引き上げたというようなことではない。むしろ、そのような「近代芸術観」そのものを批判し、装飾芸術を諸芸術の母、むしろ核と考え、その視点から芸術全体を見直そうとした。そしてそれは近代文化の根底的批判に通じ、さらには社会主義運動にまで伸びていくのだが、ここではモリスの装飾芸術の実践のみに話を限ろう。」

「幼児期からの自然や事物への異常な観察力は、長じてプリニウスの『博物誌』やゲラードの『草木書』の愛読につながり、その挿絵の骨法を学んで彩飾に応用したり、その木版を自ら彫って復原しようとしたり、また石を削り、粘土をこねたりなどもしていた。つまり、装飾芸術家としての実地訓練を自然発生的に、無自覚的に丹念に行っていたのだ。」

「装飾とは、材料と用途に徹底的に正直でなければならない。そうすれば装飾は生命体の機能を強化し、賦活するものとなる。生命感の絶え間ない更新は生命の拡大にとって最も大事なものではなかろうか。装飾と機能、装飾と構造とのありうべき一致を目指しての、たゆみない実験の連続――モリス・デザインの総体はこういうものだと思う。」



「自然と装飾」より:

「肝心なのは「生長や運動の感じ」であるが、それがどうして得られるのか。(中略)モリスのデザインにはいわば、「根源的自然」の自己表出がある。
 若き日のシモーヌ・ヴェーユが、完全な人間とは自然と真の関係をとりえた人間だといったことを思い出す。この関係は「精神労働と肉体労働の汚辱にみちた分裂」によって隠蔽されている。人間と自然とを結ぶ労働における自我の満足が、他我の支配による満足をふくむ限り、その分裂は克服できぬ。自然との真の関係はその関係が人間による人間の支配の関係をふくまぬ時のみあらわれる。そういう構造の想像力上の実験が、モリスの場合、一つはそのデザインそのものなのだと私はいいたい。これは単純な人間と人間の、また人間と自然の直接的かつ有機的な結合などの賛美ではない。
 モリスはパタンづくりというのは本質的に自然の模倣でもなく、歴史的型によるのでもない作業で表面を装飾することだといっている。そしてその装飾は「われわれに大地や動物や人間のことを想起させる」という。人間と自然との真の関係の記憶、抑圧されてしまっているその記憶を呼びさますのである。それは自然の中にあって自然を超える力であろう。その力をモリスは「自然の秘蹟(ミステリ)」と呼ぶ。曖昧模糊たる心情的なものではない。これは根源的自然の法則だといっていい。」



























































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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