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Isabel Fonseca 『Bury Me Standing: The Gypsies and Their Journey』

「On the road, Vesh offered me my first Albanian cigarette. It was a Victory. On the brown packet, under a "V" and in the place where it usually says "Smoking causes fatal diseases," was written: "Keep Spirit High."」
(Isabel Fonseca 『Bury Me Standing』 より)


Isabel Fonseca 
『Bury Me Standing:
The Gypsies
and Their Journey』


Vintage Books, London, 2006
viii, 337pp, 19.7x12.8cm, paperback
First published in Great Britain by Chatto & Windus Ltd 1995



本書はイザベル・フォンセーカ『立ったまま埋めてくれ――ジプシーの旅と暮らし』として翻訳が出ていますが、アマゾンマケプレで原書が最安値だったので注文しておいたのが届いたのでよんでみました。ジプシー(ロマ)の生活と歴史(と未来)について、ジプシーの家族と共に暮らした体験なども交えつつ書かれています。
本文中図版(モノクロ)多数。


fonseca - bury me standing


Contents:

Out of the Mouth of Papusza: A Cautionary Tale

ONE:
The Dukas of Albania
Kinostudio
Everybody Sees Only His Own Dish
Women's Work
Learning to Speak
Into Town
The Zoo
To Mrostar

TWO:
Hindupen

THREE:

Antoinette, Emilia, and Elena

FOUR:
The Least Obedient People in the World
Emilian of Bolintin Deal
A Social Problem
Slavery
No Place to Go

FIVE:
The Other Side

SIX:
Zigeuner Chips

SEVEN:
The Devouring

EIGHT:
The Temptation to Exist

Afterword
Selected and Annotated Bibliography
Index




◆本書より◆


「The Dukas of Albania」より:

「Also like black Americans, they suffered a common and slanderous stereotyping. They were supposed to be shiftless and work-shy. In fact, Gypsies everywhere are more energetic, if not always more industrious, than their neighbors; ( . . . ) Sure enough, they have mainly shunned regimented wage labor in favor of more independent and flexible kinds of work.」

(アメリカ黒人同様、ジプシーもまた、仕事嫌いの怠け者だという悪意あるレッテルを貼られてきた。実際には、ジプシーはたいてい、同僚たちより一生懸命に働く、より勤勉であるとはいえないとしても。ほんとうのところ、管理の厳しい賃労働はやりたがらないが、それは一人でやれる融通のきく仕事の方が性に合っているからだ。)

「Disinforming inquisitive *gadje* has a long tradition. It is a serious self-preserving code among Gypsies that their customs, and even particular words, should not be made known to outsiders.」

(詮索好きな非ジプシーに対してウソをいって攪乱するというジプシーの態度には長い伝統がある。じぶんたちの習慣やある種のことばなどを部外者に知らせないというのは自衛のための慣例なのだ。)

「There were no newspapers, no radio, and of course no books; the television was usually on, but was hardly ever watched; images flickered by like scenery out of a car window. ( . . . ) Unlike most of the Albanians among whom they lived, the Gypsies knew nothing about what was going on in the world, and ( . . . ) showed no curiosity.」

(新聞もなければラジオもないし、もちろん本もない。テレビはたいていつけっぱなしだが、だれも見ない。車窓の景色のように映像が明滅するだけだ。ジプシーたちは世界でおこっていることを何も知らないし、知ろうともしない。)


「The Devouring」より:

「Visits to the famous scenes of the Nazi crimes do little to evoke the experience of those who lived and died there. ( . . . ) Writers have begun to say what most visitors to death camps have kept as a guilty secret: that they felt very little here, in Auschwitz, for example; that their strongest feeling may be ambivalence about their own visit to such a terrible and sacred site now somehow a museum and a tourist destination, littered with children and Coke cans. In Kraków, bright posters and brochures offer day trips to holidaymakers: to the Tatra mountains, to a salt mine, to Auschwitz. On my last trip to the camp, the postmodern "Auschwitz experience" was complete when the taxi driver ( . . . ) boasted that he had been Steven Spielberg's driver during the filming of *Schindler's List*, and pressed the photographic evidence into my hand.」
「Compared with the vivid photo library of Nazi imagery that we helplessly house in our heads, the live tour mainly obfuscates (inside the camp there is a tourist hostel and a cafeteria, racked with ham-and-cheese sandwiches). In the case of the Gypsies, this sense of distance has a further dimension: one could easily imagine that these particular people had not been here at all. The Polish guide ( . . . ) never once mentioned the Gypsies ( . . . ). When, following the tour, the Swedes had repaired to the cafeteria, I asked her about the Gypsies, "Even here in Oswiecim the Gypsies didn't work." That was all she had to say about the twenty-one thousand Gypsies murdered at Auschwitz-Birkenau.」


(ナチによる犯罪の現場を訪れても、そこで生きそこで死んだ人々の体験を喚起することはほとんどない。死の収容所への訪問者たちが後ろめたい思いで秘密にしてきたこと――そこでは心を動かされることがほとんどなく、たとえばアウシュヴィッツで最も強く感じるのは、そのような恐ろしくも神聖な場所が今や博物館や、コーラの空き缶が転がっていて子どもたちが走り回る観光地のようになってしまっていることに対する両義的感情であること――を作家たちは表明しはじめている。クラクフでは色鮮やかなポスターやパンフレットが、行楽客にタトラ山脈やヴィエリチカ岩塩坑やアウシュヴィッツへの日帰り旅行を呼びかけている。こうしたポストモダンな「アウシュヴィッツ体験」は、このまえ収容所へ行った時に、タクシー運転手が「シンドラーのリスト」撮影中のスピルバーグを載せたといって証拠の写真を押しつけてきたことで極まった。
頭に否応なく詰め込まれてしまうなまなましいナチの写真資料にくらべると、現場めぐりはあいまいな印象を与える(収容所内には宿泊所やカフェテリアがある)。ジプシーに関しては、こうしたよそよそしさがさらに増大する。まるでそんな人たちなどいなかったかのようだ。ポーランド人のガイドはジプシーについて一言も言及しなかった。後でジプシーについて訊ねると、「ここオシフィエンチムでさえジプシーについては誰も関心を示さないのです」、それがアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で虐殺された二万一千人のジプシーについてガイドが言うべきことの全てだった。)



◆感想◆


本書によると、ジプシーはネコがきらいです。なぜきらいなのかというと、ネコはじぶんの体をなめてじぶんの体についた外部の汚いものをじぶんの体の中に取り入れてしまうからで、この、外部の汚いものが内部に入り込むのを極度にきらうというのがジプシーの特徴で、レストランで他人が使ったナイフやフォークを使うのをきらって、いつもマイナイフを持ち歩くジプシーの話が出てきます。ジプシーは馬がすきですが、それは馬はじぶんの体をなめないからです。このような内と外、「Us against the world」、ジプシー対非ジプシー(gadje)という考え方はたいへん根強いので、本書の冒頭のエピソードに出てくる、ポーランドの詩人フィツォフスキ(Jerzy Ficowski)に見出されたジプシーの女性詩人パプーシャ(Papusza)は、非ジプシーとコラボしたという理由で、汚いものとしてジプシー社会から追放されてしまいます。著者はジプシーの家庭に入り込んで取材していますが、かれらは非ジプシーである著者をもてなすけれども、じぶんたちの仲間だとはみなさないので、著者が家事を手伝おうとすると拒絶されてしまいます。このような外部に対する拒絶は、ジプシーが受けてきた迫害の歴史ゆえであり、行く先々で排斥され、奴隷として売り買いされ、強制収容所で虐殺され、共産主義体制下では同化を強いられ、民主主義になったらなったで暴徒に襲撃され家を焼き払われ、といった迫害の実態についても、本書に詳しく書かれています。

そういうわけで、「立ったままで埋めてくれ」というタイトルに興味をもったので、「弁慶の立往生」ではないけれど、生きているあいだはずっと闘い続けてきたし、死んでからも闘うぞ、という決意表明かと思ったら、「Bury me standing, I've been on my knees all my life.」(ずっと跪いて生きてきたんだからせめて死んだら立った姿で埋めてくれ)ということだったので、予想外でした。これはマヌシュ・ロマノフ(Manush Romanov)というジプシー活動家のことばだということですが、ジプシーは社会による同化政策に抵抗し続けた「The Least obedient people in the world」(世界一不服従な人々)だという本書の章題にもなっているイメージ(これは本文によると反ジプシーのルーマニア人の言葉ですが)とは相容れないです。しかしジプシーは行く先々での迫害やそれによって強いられた放浪や奴隷としての売買等々を運命として受け入れ、それを広く世に訴えるということをしないできたわけで、そうした現状から抜け出すためには、ロマノフやハンコック(Ian Hancock)のようなインテリの「career Gypsies」こそがロマ(ジプシー)にとっての唯一の希望(only hope)でありリーダーなのだと著者は主張し、「anti-intellectual」(インテリ嫌い)のジプシーたちが活動家のハンコックよりもネズミ捕りで生計を立てていたマルコおじいさん(grandfather Marko)やワゴンで生まれたベンチおばあちゃん(Granny Bench)に共感する(=役割モデルにする)ことを嘆いて、「教育」(education)の必要性を訴えています。本書の「Hindupen」の章で著者はジプシーのインド起源説(ハンコックらによって定説とされている)を支持していますが、その章の掉尾でジプシーのヒーローとしてふさわしいのは「新しいスタートの守護神」(patron saint of beginnings)であるインドのゾウの神様ガネーシャだろうと書いています。ガネーシャは現世利益の神様であり、学問の神様です。

それはそれとして、本書の「Bibliography」で、著者はコンラッド・ベルコヴィシ(Konrad Bercovici、ルーマニア生まれのユダヤ系アメリカ人作家、シナリオライター)の『The Story of the Gypsies』(1929年)を、「興味深い伝説を含む」と評価しながらも、その、「ジプシーたちはどこから来るのか? ツバメはどこから来るのか?」といった「バカげたロマン主義的語り口」(A ludicrously romantic account)を非難していますが、わたしなどはそういう「バカげたロマン主義」が大好物なので困ったものです。ベルコヴィシの本は開巻草々「ジプシーの辞書に「義務」と「所有」の文字はない」などと書かれていてわくわくします。「余の辞書に「不可能」の文字はない」とかいわれると、それこそ「バカバカしい」と思ってしまうのですが。

ちなみに本書最終章のタイトル「The Temptation to Exist」はシオランの『実存の誘惑』から取られています。






















































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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