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白川静 『後期万葉論』 (中公文庫 BIBLIO)

「ここにあるものは、単なる抒情ではない。絶望に近い、虚脱の心境であろうと私は思う。頼むものがすべて失われたときの、あの無力感である。」
(白川静 『後期万葉論』 より)


白川静 
『後期万葉論』
 
中公文庫 BIBLIO B 20 3 

中央公論新社
2002年11月15日 初版印刷
2002年11月25日 初版発行
390p
文庫判 並装 カバー
定価1,048円+税
カバーデザイン: EOS Co., Ltd.

「『白川静著作集11 万葉集』平凡社、二〇〇〇年七月刊
(初出は『後期万葉論』中央公論社、一九九五年三月刊)」



本書は出たときに買おうとおもって忘れていたのをおもいだしたのでアマゾンマケプレで最安値(『初期』『後期』二冊セットで1,000円+送料257円)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。小口がほどよくヤケていましたが紙質のせいなのでしょうがないです。


白川静 後期万葉論


カバーそで文:

「中国の文学や思想の影響が強まった万葉後期、変容する古代国家が残した歌は、その時代の心のありようを伝える。旅人・憶良・家持の分析を中心に、七夕などこの時期からの風習や言葉についても明らかにする。」


目次:

第一章 分期について
 一 万葉の世紀
 二 四分期説
 三 三分期説
 四 初期と後期
 五 「見ゆ」の推移
第二章 七夕の歌
 一 二つの歌群
 二 七夕歌の背景
 三 「かささぎ」と「ささらえ」
 四 天の川
 五 後期の七夕歌
 六 初期七夕歌
第三章 表記法について
 一 最古の剣銘
 二 古代朝鮮の表記法
 三 国語の表記
 四 歌の表記
 五 人麻呂の表記
 六 旋頭歌の問題
 七 人麻呂の位置
第四章 仮合即離の境涯
 一 山上の歌
 二 憶良渡来人説
 三 愛河の波浪
 四 日本挽歌
 五 嘉摩三篇
 六 憶良における現実
 七 貧窮問答歌
 八 絶筆三篇と臨終歌
第五章 旅人讃酒
 一 一篇の長歌
 二 虚構の文学
 三 梅花の歌と用字法
 四 酒を讃むる歌
 五 帰京
第六章 家持の軌迹
 一 相聞歌巻
 二 政治の場
 三 山柿の門
 四 遊覧の賦
 五 文と武と
 六 春愁三首
第七章 底辺の歌
 一 東歌と防人歌
 二 歌の創成
 三 伝承と表記
 四 人麻呂前後
 五 比較文学の課題
 六 よみ人知らず

あとがき




◆本書より◆


「第一章 分期について」より:

「私はさきに『初期万葉論』をかいて、人麻呂を中心とする万葉様式の成立とその推移を論じたが、この書は『後期万葉論』と題して、旅人・憶良・家持を中心に、その展開の諸相を考えてみたいと思う。」


「第二章 七夕の歌」より:

「「天の川」という名は、七夕説話に関係をもつものが多いのであろうが、中でも枚方の「天の川」は『古今集』『伊勢物語』にもみえ、著名なものである。」
「枚方の一帯は古く百済の渡来人たちが聚落を営んだところで、天野川の流域には百済寺の址、百済王神社があり、神社は百済王敬福(くだらのこきしきょうふく)の館の址であると伝えられている。」
「敬福が賜うた枚方の地は、さきに百済系の船史の祖、王辰爾が賜うた地で、その一帯は古くから百済人が聚居していたところである。服部喜美子氏の『万葉集七夕歌小考』(『万葉集研究』第十集所収)によると、この天野川の流域には、星が丘・星田・星尾やかささぎ橋などの名がみえ、また流域に天の棚橋比売大神を祭る機物神社、星田神社の末社小松神社の御神体とされる織女石、中山観音址の牽牛石など、ゆかりの地名や遺跡が多いという。その起源についてはなお明らかでないとされるが、百済寺の創建の古いことや百済人との関係の深いことから推して、おそらく渡来人たちが古くからここに住み、その旧俗を伝えて、百済寺に近い流れを天野川と名づけ、七夕の故俗をここに移して、祭事を楽しんだのではないかと思う。星が丘からかささぎ橋までは約二キロメートル、その中間の東側に百済寺がある。七夕の夜にかけて、その間に二星にちなんだ飾りやだし物などが作られ、歌や演技の類をも加えて、人びとがさざめきながらそぞろ歩き、二星会合の夜の行事を楽しんだのであろう。そして終点のかささぎ橋のところで、「白玉を五百つ集へ」て飾った織女が姿をあらわし、「足荘厳(あしかざり)」の姿よろしき彦星と、会合を遂げたのであろう。『人麻呂歌集』や作者未詳の七夕歌群が、そのような状況のなかで生まれたとすれば、いかにもふさわしいことのように思われる。」



「第三章 表記法について」より:

「四、五世紀の応神期のころ、西史(かふちのふひと)の王仁(わに)・秦氏の弓月(ゆづき)の君、東漢(やまとのあや)の阿知使主(あちのおみ)などが渡来、五世紀後半には南朝の文化を伝える百済・任那の人びと、また六世紀中葉には高句麗の文化を伝える諸族が来帰、七世紀中ごろ、天智期に百済が滅亡し、このとき数千人の亡命者があった。古い渡来者である漢人と、のちの渡来者である今来の人とによって、わが国に大陸・朝鮮の新しい文化と技術とがもたらされたが、特に集団的な移住者は、その生活態のままで移動してきたので、かれらの旧慣によって聚落を作り、その信仰によって寺を建て、神社を建て、祭事や民俗もすべて旧来のものを守り伝えた。枚方の七夕遺址なども、その故俗によって作られたものであろうと思われる。」

「『人麻呂歌集』歌・作者未詳歌のあの七夕歌の群作は、中国の典籍の中から生まれてきたものではなく、民俗的な大衆の行事の中から、その共有する意識や感情のもとに、生まれてきたものと思う。その民俗を伝え、地域社会の中でそれを演出してみせたのは、渡来者の集団であったとみてよい。中国風の説話の知識で七夕歌が作られるのは憶良・家持に至ってからであるが、それはおおむね宴飲歌であり、独詠歌である。比較文学的立場から、このように半島文化を基盤とする文化活動のなされている時期を、私は『万葉』の初期とし、万葉的なものの成立期・完成期とするのである。そしてその時期を代表するものが、人麻呂であった。」



「第六章 家持の軌迹」より:

「この「山柿」をめぐって、人麻呂、人麻呂と赤人、人麻呂と憶良、人麻呂と憶良と赤人とする説などがあり、今日に至るも結着をみない。」
「思うに、哥の今古ということからいえば、赤人の歌は明らかに人麻呂の自然讃頌より叙景への発展であり、その叙景は、神秘的な自然に対する深い共感を伴うという点において、なお呪的自然観から完全に脱却するものではない。そのような自然感情は、憶良や旅人の歌の世界と、明らかに今古を分つほどの、懸絶した相違を示している。殊に家持においては、自然はむしろ人生的な感慨を託する叙情の世界であった。家持が、あの神秘的な自然感情の世界を、自己と隔絶した世界と感じ、それに憧憬し、それゆえに「未だ山柿の門に逕(いた)らず」というとき、それは憶良の世界でないことは明らかであろう。
 憶良の世界は、人麻呂の世界と並びうるものではない。また人麻呂と異質のものとして、古の世界に並び立つものではない。憶良の人生詩、社会詩への傾斜は、家持がその歌の指標とするものではなかった。家持にとって、「春の野に霞たなびき」(中略)以下のいわゆる三絶の歌は、おそらく赤人的なものを志向した作品なのであろうが、しかしその抒情は、赤人のそれとはすでに遠いものであった。家持にとって、「山柿」はすでに遠い世界、回復すべからざる世界であった。それゆえに「山柿の門に逕らず」とする詠嘆があった。」
「家持の歌の本質からいえば、その歌には、人麻呂の格調よりも、むしろ赤人的抒情が、親縁の関係が深い。憶良との間には、作歌の基礎体験において、通じるところが乏しいように思われる。」

   「二十三日、興に依りて作る歌、二首
  春(はる)の野(の)に霞(かすみ)たなびきうら悲(がな)しこの夕影(ゆふかげ)に鶯(うぐひす)鳴くも 十九・四二九〇
  我(わ)がやどのいささ群竹(むらたけ)吹(ふ)く風の音(おと)のかそけきこの夕(ゆふべ)かも 十九・四二九一
   二十五日に作る歌、一首
  うらうらに照(て)れる春日(はるひ)にひばりあがり情(こころ)悲(かな)しも独(ひと)りし思(おも)へば 十九・四二九二
の歌がある。「春愁三首」として喧伝されるもので、家持が歌人として評価を受けたのは、主としてこの三首によるといってよい。」
「ここにあるものは、単なる抒情ではない。絶望に近い、虚脱の心境であろうと私は思う。頼むものがすべて失われたときの、あの無力感である。「春の野に」について、茂吉の『秀歌』下に、「この悲哀の情を抒(の)べたのは既に、人麿以前の作歌には無かつたもので、この深く沁(し)む、細みのある歌調は家持あたりが開拓したもの」と指摘し、「わが宿の」については「竹の葉ずれの幽かな寂しいものとして観入したのは、やはりこの作者独特のもの」という。
「「うらうらに」について、『秀歌』下に、「独居沈思の態度は既に支那の詩のおもかげでもあり、仏教的静観の趣でもある」とあるが、雲の中に姿を没して、身を顫(ふる)わせて啼くものは、彼自身の姿ではないか。それは狂おしいほどの、自己投棄の歌ではないか。これほど没入的に、自己表象をなしとげた歌は、中国にも容易に見当らないように思う。」



「あとがき」より:

「初期と後期という分期のしかたは、一般に行なわれている四期の分期と異なり、かつ初期を第一期にあてる一般の用法とも異なるが、それは『万葉』の編纂者が意識したであろう「古と今」という分期の観念を、尊重したのである。」
「第一章「分期について」は、その問題を論じた。」
「第二章「七夕の歌」は、七夕の俗が百済人などによってもたらされ、その俗によって七夕歌が作られているので、研究者は多く中国の七夕説話との相違を不審とするが、七夕歌と中国の詩文とは直接の関係がないことを述べた。」
「総じて初期万葉の歌について、中国の典籍からの出典を求めるのは、かならずしも重要なことではない。」
「第三章「表記法について」、稲岡耕二氏の『万葉表記論』によって提示された問題は、万葉学に新しい領域をひらくほどの重要性をもつもので、私としてもそれを理解するための対応の方法を考えてきたが、結局、古代朝鮮の文献が、漢語を並べてそれを吏読訓みするように、わが国では訓読字を並べて、形式語など補足部分を添えよみする方法がとられ、それがいわゆる略体表記であろうと考えるようになった。その原型に近いものが、『顕宗前紀』の「室寿きの詞」や「名告り」にみえ、その表記法はいわゆる「旧辞」の名残りであろうかと思われる。ともかく表記するということが、徒誦による短歌の内的韻律を自覚させ、その定型を成立させることに寄与したと思われる。
 第四章「仮合即離の境涯」は、憶良を主題とする。
 憶良の文学については、その背後にある仏教・儒教の性格から考えても、百済的な教養とみるべきところがあり、憶良渡来人説は、首肯すべきものであろうと考える。その表現の異質性ということも、そのことと関係があろう。
 第五章「旅人讃酒」、旅人はほとんど長歌を作ることがなかったが、そこにも一つの文学的態度があるのであろう。もし憶良との間に、いわゆる文学論的関係があるとすれば、旅人の短歌に対する憶良の長歌という問題があると思う。」
「第六章「家持の軌迹」、家持の歌には巧拙の差がはげしく、それはおそらく彼が、その感性のままに歌いあげたものが多いからであろう。(中略)感性は時に「春愁三首」のような傑作を生むが、その前に、春の歌の一連のような模索の苦吟をつづける時期があった。万葉様式の枯渇を思わせる作家である。
 第七章「底辺の歌」、『万葉』の歌は古い遊部・楽家的な伝統をもつ下層の集団から生まれた。『人麻呂歌集』歌・『古歌集』・作者未詳歌などがそれで、古い東歌もその類に入る。口承的なものから表記へ移ることによって、様式的な完成がもたらされる。その様式の完成者は人麻呂、それを儀礼的なものから、心理的な内省を含めて展開したものに、黒人・赤人がある。創作詩の成立は、文学史的には大きな事実で、中国における五言詩の成立と併せて、比較文学的な課題をもつ。ただ中国では、その文学の担持者として士人階級が存在したが、わが国ではそのような社会階級的な知識層は形成されず、歌は「よみ人知らず」という形で、底辺の流れをなした。『古今』の「よみ人知らず」のなかに、『万葉』の古層に属する初期の歌が多くとられているのは、そのような底辺の歌の存在を証明する。
 文学は、そのような底辺に発して、やがて上層の貴族社会・知識社会で完成され、その生命を枯渇して滅びる。『万葉』もまたそのような文学のありかたのパターンを示す一の類型として、とらえることができる。」








































































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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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