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フローベール 『聖アントワヌの誘惑』 渡辺一夫 訳 (岩波文庫)

「己は、(中略)体をくねくねと捻りたい。あらゆるところへ体を分けてしまい、あらゆる物象(もの)のなかへ入りこんでしまいたい。香気とともに発散し、植物のように成長し、水のように流れ、音のように震動し、光のように輝き、あらゆる形体の上に蹲り、各原子の中に滲透し、物質の奥の奥にまで下りたい。――物質になりたいのだ!」
(フローベール 『聖アントワヌの誘惑』 より)


フローベール 
『聖アントワヌの誘惑』 
渡辺一夫 訳
 
岩波文庫 赤/32-538-6 

岩波書店
1940年7月2日 第1刷発行
1957年9月25日 第2刷改版発行
1997年10月6日 第5刷発行
280p+31p
文庫判 並装 カバー
定価560円+税
カバーカット: ジャック・カロの『聖者アントワヌの誘惑』



聖アントニウスの誘惑とか稲生物怪録とかはいろんな妖怪がでてくるのでたのしいです。わたしもひきこもり生活をしているのですがあまりものを考えないほうなので妖怪とかはでてこないです(たまに幻聴はあります)。聖アントニウスは動物の守護聖人なのでありがたいです。


フローベール 聖アントワヌの誘惑


カバー文:

「作者が30年の歳月をかけて完成した、一種の夢幻劇的小説。紀元4世紀頃、テバイス山上で隠者アントワヌは、一夜の間に精神的生理的抑圧によって見たさまざまな幻影に誘惑されながら、ついに十字架の下を離れず、生命の原理を見いだして歓喜する。幻覚の発生様式、当時の風俗習慣など、完璧な美しさと厳密な様式を持つ傑作。」


目次:

原著者献詞
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章

訳者註
解説 (渡辺一夫・平井照敏)
固有名詞略解及び索引




◆本書より◆


「第一章」より:

  「聖アントワヌ
    (長い鬚、長い髪、山羊皮の下衣(テュニカ)を纏い、踞坐(あぐら)を組んで茣蓙を編んでいる。陽が沈むと、深い溜息をつき、地平線を眺めながら言う。)
 また一日! また、一日が過ぎ去った!
 それにしても、以前は己もかほどに惨めではなかったのだが! 夜の明けぬうちに、祈祷を始め、それがすむと、水を汲みに河へ下り、革嚢を肩に担ぎ聖歌を吟じながら、また嶮しい山経(やまみち)を登って来たものだ。それから、色々な物を小屋のなかに並べては興がって居った。細工道具をいじくり廻し、茣蓙にはむらが出来ないように籠は軽やかになるようにと、懸命になったものだ。それというのも、あの頃は、いかに些細な行為でも、少しもつらいところがない義務のように思われていたからだ。
 定められた時刻になると仕事をよした。そして両腕をさし伸べて祈祷を捧げると、慈悲の泉のようなものが、天上からこの胸に注ぎ込まれると覚えた。今はこの泉も涸(か)れてしまった。何故なのだろう?……
    (彼は巌に囲まれたなかを、ゆるゆると歩く。)」



「第四章」より:

  裸形仙人(ギムノゾフィステ)はまた言う。
 わしは犀のように孤独のなかに入りこんだ。わしは、この後の樹に棲んでいたのだ。
    (事実、無花果樹の大木の窪みは、人の入れるぐらいの自然の洞穴になっている。)
 そして、わしは、花や果実で我が身を養い来ったが、一匹の犬ですら、わしが物を喰うのを見たことがないほどに、固く掟を守り通してまいったのじゃ。
 存在は腐敗から生じ、腐敗は慾望より、慾望は官能より、官能は接触より生ずるものじゃによって、わしはすべての行為、すべての接触を避けた。そしてじゃ、――墓石ほどにも動かずに、二つの鼻孔より息を吐き、鼻の頭を凝然と見つめたまま、己が心中の精気、己が肢体のうちの世界、己が胸中の月を打ち眺めて、――生命の原義がたゆる間もなく火花のごとくに迸り出づる大霊の本質に思いをはせて居ったのじゃ。
 ついに、わしはすべての生物中に至高の霊を捉え、至高の霊のなかにすべての生物を捉え得た。――かくて、わしは、予(あらかじ)め五官をわが霊魂のなかに復帰せしめておいたから、この霊魂をして至高の霊に参入せしむることを得たのだ。
 わしは、あたかも降る雨脚の中に非ずんば渇を医さぬというチャタカ鳥の如くに、天より直接に智慧を獲るのじゃ。
 わしが森羅万象を識り尽せるが故に、万象はもはや存在せぬ。
 わしにとっては、今や、希望もなく、苦悶もなく、至福もなく、功徳もなく、昼もなく、夜もなく、汝もなく、我もなく、絶対に何一つとして存在せぬ。
 恐ろしき難行苦行のはてに、わしは諸神の力を凌駕するにいたった。わしの思想が僅かに痙縮するだけで、優に王者の子弟百人を殺し、神々の座を奪い、天地を覆すことも出来るのじゃ。
    (彼はかようなことを単調な声で語った。)
    (周囲の木の葉は、収縮してしまう。鼠が何匹も地面を走って逃げて行く。)
    (彼は、燃え上る炎に悠々と眼を落して、かく付け加える。)
 わしは、形体を嫌悪し、知覚を嫌悪し、認識それ自体までも嫌悪する。――何故とならば、思想は、その発生の因となる過渡の現象が滅びた後まで生き残りうるものにあらず、また精神も他の一切と同じくして、一つの幻にすぎぬものだからじゃ。
 産み出されたる一切は滅びるであろうし、死せる一切は蘇らねばならぬ。目下消え失せている生物は、未だ形作られざる子宮の中に宿るであろうし、苦悶しつつも他の生物に仕うるがため地上に再来するであろう。
 しかし、わしは、神々、人間、獣(けもの)の外観のもと、無限に多様なる存在の間を経巡って来たるが故に、もはや生命(いのち)の旅は放棄いたすぞ。もうこういう疲労は御免蒙りたい! 肉を壁土とし、血で赤く塗られ、醜悪な皮膚に包まれ、汚物に充たされた、わが肉体の穢らわしい宿屋は遺棄いたすぞ。――そして、わが身の労を犒(ねぎら)わんがために、絶対の最も深きところ、「虚無寂滅」の中に漸く眠らんとして居るのじゃ。
    (炎が彼の胸までたち上る。――次に、彼を包みこむ。彼の顔が、壁の穴からのぞくように、焰越しにちらと見える。彼のぎょろりと見開いた眼は相変らず一点を凝視している。)
  アントワヌは立ち上る。
    (地面の松明から木の切り屑に火が燃え移り、焰が彼の鬚を軽く焦した。)」

 「何故だろう?……この小屋も、あの岩も、あの砂も、恐らくもう現実のものではないのかも知れぬ。気が狂いそうだ。落着け! 己はどこにいたのだっけな? 何が起ったのだったっけ?
 ああ! 裸形仙人(ギムノゾフィステ)の奴め!……ああいう死方は、印度の賢人たちの間ではごくありふれたことだぞ。カラノスはアレクサンデルの面前で己(おの)が体を焼いて殪(たお)れたし、別の男もアウグストゥス帝の時代に同じことをいたして居る。余程生きていることが厭わしいものとみえる!」
 「その前にはどうしたっけな? ああ、そうだ! 異端の教祖たちの群れに会ったのだっけ……」



「第五章」より:

    「(次に、魚の体に人間の頭をつけた珍妙な生物が現れる。尾で砂を叩いて、宙に浮き上りながら、真直ぐに進んで来る。――そして、腕がちっぽけな癖に長老のような顔をしているのでアントワヌは噴き出してしまう。)
  オアンネス
    (哀れっぽい声で)
 己を敬え! 己は原始生物と同じ時代の生き物だ。
 己は、未だ形の定まらぬ世界に住んでいたが、そこには、淀んだ大気の重量(おもみ)の下、暗澹たる海水の深みのなかに、両性を具有する動物が眠りを貪っていた。――その時分には、指も鰭も翼も混沌として混り合い、未だ眼窩に収められぬ眼球が、人の顔をした雄牛や犬の脚を持った蛇の間を、軟体動物のように漂うて居った。
 これら生物全体の上に、オモローカは、あたかも輪のように身を捩じ彎げて、その女体を横たえ居った。ところが、ベルースは、その体を截然と二分して、一ぽうをもって地を作り、他ほうをもって天を造った。さればこそ、この等しい二つの世界は互いに眺め合うているのだ。
 渾沌神(カオス)の最初の意識である己は、物質を固くし、形体を定めんがために、深淵から浮び上って来た。而して、人間どもに、魚を漁り、種を蒔き、文字を記すことを、また神々の物語を教えて遣わした。
 その後己は、世界大洪水の名残りたる池水の中で暮して居る。しかるに、池の周囲には沙漠がますます広がってきた。風は砂を吹き入れるし、太陽は水を貪り飲む。――されば、己は、水中より空の星辰を眺めながら、河底の水泥の床で死んで行くのだ。己は戻ることにいたす。
    (彼は跳び撥ねて、ナイル河中に没してしまう。)
  イラリヨン
 これはカルデヤ人たちの古い神ですよ。
  アントワヌ
    (皮肉に、)
 この分だと、バビロンの神々はどんなだったろうな?
  イラリヨン
 お目にかけましょう!」

  「アントワヌ
 何という女神だ?
  イラリヨン
 あれです!
    (そう言って、彼は、並木路の遙か奥の、燈明の点った洞穴の入口にある石の塊を示すが、それは女の生殖器を象ったものである。)
  アントワヌ
 穢らわしい! 神に性別をつけるとはもっての他の冒瀆だ!
  イラリヨン
 でも、あなたは、神を生きている人間のようにお考えになっている筈ですが!
    (アントワヌは再び闇黒に閉されてしまう。)」



「第七章」より:

    「(そして、スフィンクスは、段々と砂の中に埋まって行き、遂に消え去る。一ぽうキメラは舌を出して、匍い廻っていたが、いくつも輪を描きながら遠ざかってしまう。)
    (その口から洩れる吐息から霧が生ずる。)
    (この霧の中にアントワヌは、くねくね巻かれた雲のような、朧気(おぼろげ)な曲線状のものを認める。)
    (最後に、彼は人間の体のような形をしたものを認める。)
    (するとまず、)
  アストミの群れが進み出る。
    (皆、日光に貫かれた空気の球のようである。)
 あんまり強く吹いてくれるな! 己たちは雨の滴でも怪我をする。調子はずれの音をきいても擦傷(かすりきず)を負うし、暗闇では盲目(めくら)になるぞ。微風と香気とで出来ている己たちは、ころころ転がって行く。漂うて行く。――夢よりはいささかましだが、生まるものとは言い切れぬ己たち……
  ニスナス
    (片目、片頬、片手、片脚、半分の身体、半分の心臓しか持っていない。)
    (そして、非常に大きな声で呼ばわる。)
 己たちは、この半分の棲家の中で、半分の女房や子供と極めて気楽に暮して居るわい。
  ブレンミー
    (全然首がない。)
 お蔭様で己たちの肩は外の奴らより広いわい。――だから、牛でも犀でも象でも、己たちの担ぐものを担げる奴は他にいないのさ。
 目鼻立ちのようなものが、つまり朧気な顔みたいなものが、胸の上に刻まれているだけさ! 己たちは消化作用によって物を考え、分泌作用によって細かい思弁もするのだぞ。己たちにとっては、神は体内の乳糜の中に飄々乎として漂ってござるわい。
 己たちは、あらゆる汚穢泥濘の中を通り、あらゆる深淵に添うて真直ぐに、道を進むのじゃ。――従って、己たちは、世にも勤勉な、いとも幸福な、最も有徳な者どもなのじゃ。
  ピグメ
 人のよい小人(こびと)の我々は駱駝の瘤に集(たか)っている小虫のように、地球の上をうようよ蠢いているのです。
 火で焼かれ、水に浸けられ、踏み潰されます。しかも尚、我々は相も変らず姿を現し、更に元気よく、更に数を増すのです。――数から言ったら恐ろしいくらいですよ!
  スキヤポデス
 蔦葛のように長い髪の毛で地上へ引き止められ、日傘のように拡がった足の蔭で、我々は生長して行く。陽の光は、踵の厚みを通して射して来る。少しも動かず、少しも働かぬ!――顔を出来るだけ低くすること、こいつが幸福の秘訣だ!
    (木の幹のように空へもたげた太腿が、見る見るうちに数を増す。)
    (すると、森が現れる。大きな猿が四つん這いになって、そこを走っている。犬の首をした人間である。)」

    「(今は植物も動物ももはやその区別がつかない。無花果の樹のように見える珊瑚樹は、枝の上に手を生やしている。アントワヌが二枚の葉の間に毛虫がいると思っていると、それは蝶であって、飛び去ってしまう。彼が、磧石を踏んで歩もうとすると、一匹の灰色のばった蝗が飛び跳ねる。薔薇の花弁のような昆虫が、小さな灌木に一ぱい集(たか)っている。蜉蝣(かげろう)の脱殻(から)が地上に積って雪のような層を作る。)
    (その次には、植物と鉱物とが混淆してしまう。)
    (小石は脳に似ているし、鍾乳石は乳房に、方解石(フロス・フェルリ)は、画像を織り込んだ壁掛のように見える。)
    (アントワヌは、氷の破片の中に、草叢や貝殻の萌芽や痕跡を認めるが、――果してそれがこれらのものの痕跡なのか、それともその物自身であるのかは判らなかった。金剛石は眼のように光り輝き、鉱石はぴくぴく動いている。)
    (彼はもはや恐くない!)
    (彼は腹這いになり、両肘を突いて、息を殺して眺め入る。)
    (胃の腑のない昆虫が物を喰い続けている。干涸びた歯朶にまた花が咲き、無くなっていた身体の部分がまた生えて来る。)
    (最後に彼は針の頭ほどの大きさで、周囲に繊毛を具えた粒々(つぶつぶ)したものの小さな塊を認める。それは振動によって動いているのである。)
  アントワヌ
    (狂気のようになって、)
 ああ! 嬉しい! 嬉しい! 己は生命の誕生を見たのだ! 運動の始元(はじめ)を見たのだ! 己の血は高鳴って、血管が破れそうだ。己は、飛びたい。泳ぎたい。吠えたい。唸りたい。叫びたい。己は、翼と甲羅がほしい。殻皮(かわ)がほしい。煙を吐きたい。長い鼻がほしい。体をくねくねと捻りたい。あらゆるところへ体を分けてしまい、あらゆる物象(もの)のなかへ入りこんでしまいたい。香気とともに発散し、植物のように成長し、水のように流れ、音のように震動し、光のように輝き、あらゆる形体の上に蹲り、各原子の中に滲透し、物質の奥の奥にまで下りたい。――物質になりたいのだ!」

































































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うまれたときからひとでなし
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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