稲葉京子 『鑑賞・現代短歌 二 葛原妙子』

「たれかいま眸を洗へる 夜の更に をとめごの黒き眸流れたり」
(葛原妙子)


稲葉京子 
『鑑賞・現代短歌 二 
葛原妙子』


本阿弥書店 
1992年4月20日 初版
1993年3月20日 再版
248p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,800円(本体1,748円)
装幀: 山岸義明



葛原妙子百首鑑賞。
著者は1933年生、歌人。


稲葉京子 葛原妙子


帯文:

「特異な感受で
現世より翻然と羽搏く
幻視の歌人・葛原妙子。
その透徹の眼差の
奥行に触れる。
(第四回配本)」



帯裏:

「鑑賞・現代短歌――全十二巻
一 前川佐美雄 (伊藤一彦)
二 葛原妙子 (稲葉京子)
三 斎藤史 (河野裕子)
四 佐藤佐太郎 (秋葉四郎)
五 宮柊二 (高野公彦)
六 近藤芳美 (小高賢)
七 塚本邦雄 (坂井修一)
八 上田三四二 (玉井清弘)
九 前登志夫 (藤井常世)
十 岡井隆 (小池光)
十一 馬場あき子 (今野寿美)
十二 寺山修司 (春日井建)」



目次:
 
I 秀歌百首鑑賞
  『橙黄』
 アンデルセンその薄ら氷に似し童話抱きつつひと夜ねむりに落ちむとす
 南瓜の種煎りて与ふる夜長なりさびしきいくさのことは銘せよ
 竹煮ぐさしらしら白き日を翻す異変といふはかくしづけきか
 十月の地軸しづかに枝撓む露の柘榴の実を牽きてあり
 灰色のけぶれる猫よまなこ青みしづかにきたる春の燈のもと
 サラブレッド種嘶きたかくふるはする大気の冷えのむらさきを感ず
 奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり
 わがうたにわれの紋章のいまだあらずたそがれのごとくかなしみきたる
 橙黄色の花筒仄明かる君子蘭昏れながき微光を背後に持てり
 青銅の小さき時計が時刻む怖れよ胡桃は濃き闇に垂れ
  『縄文』
 医家の庭掘りゐるときのシャベル音異形のものにつきあたりたり
 床に散るキング、スペイド山屋にしのび入りトランプを切りし一人あり
 狂熱のごとき孤独は兆さむか山の孤屋にこがらし聞けば
 徴兵とふ一語ひびくに敏き者敏からぬ者ラジオを聞けり
 卓上に置かれしいづれも白くして秋の手紙の嵩うすきなり
 ヴィヴィアン・リーと鈴ふるごとき名をもてる手弱女の髪のなびくかたをしらず
 縄の文父にはなきやまはだかに立ちてあゆめるこどもになきや
  『飛行』
 長き髪ひきずるごとく貨車ゆきぬ渡橋をくぐりなほもゆくべし
 夫がかたへにものを食しをるしばしなりつめたき指に箸をあやつり
 しづかなる奔足は起るあかつきに一病棟の森閑の中
 糸杉がめらめらと宙に攀づる絵をさびしくこころあへぐ日に見き
 マリヤの胸にくれなゐの乳頭を点じたるかなしみふかき絵を去りかねつ
 落としきし手套の片手うす暗き画廊の床に踏まれあるべし
 おほき薔薇の花弁の縁捲きそめぬかさなれる瞼とリルケは言はむ
 謝罪すべきいくばくの生活とめつむれりしかあり、やがて更に瞠き
 ふしあはせなるいくつの貌を蔽さんに夜空にかざしし黒きかうもり
 恋の工吹きしならむよボヘミヤの玻璃は滴のごとく脆かり
 椿の花の赤き管よりのぞくとき釘深し磔刑のふたつたなひら
 うはしろみさくら咲きをり曇る日のさくらに銀の在処おもほゆ
  『薔薇窓』
 薄暑ある幻燈の中かすかなるゑまひたもちしわれのあらはる
 寺院シャルトルの薔薇窓をみて死にたきはこころ虔しきためにはあらず
 愛されず 人を愛さず 夕凍みの硝子に未踏の遠雪野みゆ
  『原牛』
 あくがれてきつるにあらね ゆきずりの小さき御堂に人充ちてをり
 あやまちて切りしロザリオ転がりし玉のひとつひとつ皆薔薇
 死神はてのひらに赤き球置きて人間と人間のあひを走れり
 胡桃ほどの脳髄をともしまひるまわが白猫に瞑想ありき
 青き木の実の憂愁匂ふうつくしき壮年にしてめとらざりにき
 わが服の水玉のなべて飛び去り暗き木の間にいなづま立てり
 薄命ならざるわれ遠くきて荒海の微光をうつすコムパクト
 原牛の如き海あり束の間 卵白となる太陽の下
 黒峠とふ峠ありにし あるひは日本の地図にはあらぬ
 築城はあなさびし もえ上る焔のかたちをえらびぬ
 拡大鏡ふとあてしかば蝗の顎ありし 蝗の顎は深淵
 星と星かち合ふこがらし ああ日本はするどき深夜
 かの黒き翼掩ひしひろしまに触れ得ずひろしまを犠として生きしなれば
 墓石はなにの中心 雪はだらなるひるにおもへる
  『葡萄木立』
 水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合はさりき
 美しき雲散らばりしゆふつかた帝王のごと機関車ゆけり
 たれかいま眸を洗へる 夜の更に をとめごの黒き眸流れたり
 青虫の目鼻かすけき切創に似つつうすらに繭吐くあはれ
 うすらなる空気の中に実りゐる葡萄の重さはかりがたしも
 口中に一粒の葡萄を潰したりすなはちわが目ふと暗きかも
 いまわれはうつくしきところをよぎるべし星の斑のある鰈を下げて
 おほいなる雪山いま全盲 かがやくそらのもとにめしひたり
 美しき把手ひとつつけよ扉にしづか夜死者のため生者のため
 晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて
 鴨は胸をかきむしる鳥 あかるき銃声にますぐに落つる鳥
 明るき昼のしじまにたれもゐず ふとしも玻璃の壺流涕す
 みどりふかし母体ねむれるそのひまに胎児はひとりめさめをらむか
 美しき信濃の秋なりし いくさ敗れ黒きかうもり差して行きしは
 胎児は勾玉なせる形して風吹く秋の日発眼せり
  『朱霊』
 西湖畔西冷印社の朱泥を購うときまさに西のそら冷えゐたり
 わがめがねひだりの玉の脱け落ちてしづくのごときは垂りしとおもふ
 肉親の汝が目間近かに瞬くをあな美しき旅情をかんず
 あな遠く市街の中空にくるま流れ玉虫ほどのひかりとなりゐき
 楽想に似たらずやかのマンモスが黄色の和毛もちてゐしこと
 書を移すひと日ありけり書のあひにをとめなりにしわが声ひそむ
 疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ
 ゆふぐれにおもへる鶴のくちばしはあなかすかなる芹のにほひす
 かくおもたき母の睡りをいづかたに運ばむとわが子の姉妹ささやく
 ひえびえとかひこの毒を感ぜしむ絹の衣ながく纏へる汝は
 子供はつくづくとみる 己が手のふかしぎにみ入るときながきかも
 他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水
 ちゃんねるX点ずる夜更わが部屋に仄けく白き穴あきにけり
 雁を食せばかりかりと雁のこゑ毀れる雁はきこえるものを
 水の音つねにきこゆる小卓に恍惚として乾酪黴びたり
 わが右手はたらきながらひだり手の停りて知る除夜の静寂
 剥製となりし磯鴫いつはりのちひさなる火をひとみに点ず
  『鷹の井戸』
 みゆるごとしみえざるごとし床を這ふあさがほの手の千の収奪
 薄ぐらき谷の星空金銀交換所とぞおもひねむりし
 いかなる意味あるならねども肘つきしわがもろ手もてかほを掩ひぬ
 みゆるごとあらはれながらとこしへにみえざるものを音といふべき
 げに麦はおんがくを聴くことありて麦生戦ぐといふにあらずや
 めぐすりを差したるのちの瞑目に破船のしづくしたたりにけり
 しみじみと聞きてしあればあなさびし暗しもよあな万歳の声
 犬憂へ曳かれたりけりアルプスの斑おほいぬ市街を曳かる
 不可思議のちからとせよ祖母がなんぢのかうべに置きたる片手
 大き鷹井戸出でしときイエーツよ鷹の羽は古き井戸を蔽ひしや
 雲の氾濫はげしき昼に眸うごくモナ・リザ・ダ・ジョコンダの像
 嵐、とわれは呟く濃緑の大甕にながれゐる釉薬
 わがおもてことざまなりや童女いふ「死ぐときも口紅つけてる?」
 枇杷は人の病呻吟に育つとふおそろしき説なしとせなくに
  『をがたま』
 わがこゑのカセットより流れいでわが生前の声となりゐつ
 月光は受話器をつたひはじめたり越前岬の水仙匂ふ
 わがねむる木の間の臥床にとほからず老いたる星の大集団
 菫低し汝がかたはらにわが靴はたがひちがひにあゆみぞいづる
 しづかなる大和の寺を覗きみぬ聖娼婦百済観音の足
 老妹は死者に侍らふ いふべくは死者を付さん者と侍らふ
 ハム薄く切りつつぞをりちひさなる豚の瞼のごときも切りたり
 なみだ流れ ながれやまずも ここにして 目光れる少年を見ず

II 秀歌三百首選

葛原妙子略年譜 (林市江 編)
あとがき



◆本書より◆


「たれかいま眸を洗へる 夜の更に をとめごの黒き眸流れたり

 この夜更けに、誰かが眸を洗っている。その水音が作者の耳にしきりに聞えて来る。
 眸を洗っているのは乙女子であるという。
 「をとめごの黒き眸流れたり」の下句を読んで読者ははっとする。いって見れば度肝を抜かれる。意表をつかれる表現といえよう。
 けれども、静かな夜更の出来事をうたうこの妖しい歌は、不思議に澄んでおり、あるべくもないことが、この澄んだ気配の中で起こり得るような気がしてしまう。どこかで納得させられてしまうような気がする。
 作者には崩壊感覚、流出感覚などが原不安として心底にあるとされており、いつしか洗っている眼球は静かに闇の中に流れ出てしまうのであろうか。
 しかし逆に言えば、眸さえ流れ出すように思われる感覚は、常識の、或る境界や掟を破っており、その分だけ自由なのだと言うことが出来る。作者の作品に妖しく美しいイメージが展開され、しきりにその魅力が読者をいざなうのも、その境界を越えたところにある。
 聞くところによると、実際に流れたものはコンタクトレンズであったのだという。
 コンタクトレンズが流れた一瞬を「をとめごの黒き眸流れたり」とイメージする作者の発想の自在さはここにある。そして現実の説明など一切不要な美しさをもって、歌は見事に屹立しているのである。」




































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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