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C・G・ユング/M-L・フォン・フランツ 『アイオーン』 野田倬 訳 (ユング・コレクション 4)

「「この小魚は非常に小さく、ひとりぽっちで、体形が独特である。ところが大洋のほうは大きく広い。したがって世界のどこにそれが生息しているかを知らぬ人々には、この魚をつかまえるのは無理である。」」
(C・G・ユング 『アイオーン』 より)


C・G・ユング
M-L・フォン・フランツ 
『アイオーン』 
野田倬 訳
 
ユング・コレクション 4

人文書院
1990年10月25日 初版第1刷印刷
1990年11月15日 初版第1刷発行
550p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価4,944円(本体4,800円)



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、Carl Gustav Jung: Aion - Antersuchungen zur Symbolgeschichte (Rascher Verlag, Zürich, 1951)の全訳である。(中略)原著は二部構成になっている。第一部はユングが書いた論文で、「自己の象徴性についての考察(Beiträge zur Symbolik des Selbst)」と副題がつけられている。第二部はユングの高弟M=L・フォン・フランツの論考で、「ペルペトゥアの殉教――心理学的解釈の試み(Die Passio Perpetua - Versuch einer psychologischen Deutuing)」と題されている。本書は両論文を訳出し、収録した。」


本文中図20点、挿画8点。


ユング アイオーン 01


目次:

序言 (C・G・ユング)

第一部 自己の象徴性についての考察 (C・G・ユング)
 第I章 自我
 第II章 影
 第III章 シジギー――アニマ・アニムス
 第IV章 自己
 第V章 キリスト、自己の象徴
 第VI章 双魚宮
 第VII章 ノストラダムスの預言
 第VIII章 魚の歴史的意味について
 第IX章 魚シンボルの反対傾向並存
 第X章 錬金術における魚
  一 クラゲ(水母)
  二 魚
  三 カタリ派の魚象徴
 第XI章 魚の錬金術的解釈
 第XII章 キリスト教的錬金術の象徴表現の心理学に関する一般的背景
 第XIII章 グノーシス主義における自己の象徴
 第XIV章 自己の構造と力動性
 第XV章 結語

第二部 ペルペトゥアの殉教――心理学的解釈の試み (マリー=ルイーズ・フォン・フランツ)
 I 序論
 II 文献
 III 殉教者たちの正統信仰の問題
 IV 聖女ペルペトゥアの生涯
 V 幻視
 VI 第一の幻視の解釈
 VII 第二および第三の幻視の解釈
 VIII 第四の幻視の解釈

原注

訳者あとがき

人名索引
事項索引



ユング アイオーン 02



◆本書より◆


第Ⅰ部第IV章より:

「心的存在全体の半分にあたる昼間の部分を、そのまま自分と同定している人がいるとする。その人はそう思っているため、夜間の夢をとるにたりないくだらぬものというであろう。だが実際には、夜は昼と同じ長さがあるわけであり、すべての意識は明らかに無意識というものにもとづいていて、それに根ざしており、夜ごとに無意識のなかへと姿を消すのである。それどころか精神病理学は、無意識が意識に対してどんなことをすることができるかを十二分に承知している。だから無意識に対して、素人の目には不可解に映るほどの注意を向けているのである。すなわち、昼間は小さなものが夜間には大きなものであるということ、またその逆もあるということをわれわれは知っている。それゆえ、また昼間の小物のかたわらには常に、たとい目には見えない時でも、夜間の大物が突っ立っているということもわれわれにはわかっているのである。」
「ある一つの内容が統合されうるのは、その内容の持つ二重の側面が意識された場合に限られるのであり、つまり、その内容はたんに知性的にとらえられるばかりではなく、感情価値にも照応して理解されなければならない。しかしながら知性と感情は、お互いに仲が悪い。両者は互いに反発しあう(中略)。自分のことを知性的立場に立つ人間だと自認している人に対し、アニマの形姿をした感情が場合によっては敵対的に立ち向かってくることがある。逆に、知性的なアニムスが、感情的立場を力ずくでおそうこともある。したがって、物事を知性的にばかりではなく感情価値にも見合うように認識してゆこうという芸当を成しとげたいという人は、よくも悪くもアニマやアニムスと正面きって対決しなければならないのであって、そうすることによりはじめて、より高次の結合、対立物の統一(コンユンクツィオ・オポジトリウム)を軌道にのせることができるのである。この結合こそは、全体性にとって不可欠な前提条件にほかならない。」



第I部第V章より:

「どんな樹も、その根が地獄に達していないと天国にとどかない、と言われる。このような運動の持つ二重の意味は、振り子の本性である。キリストは完全無欠である。だがその閲歴の冒頭に、サタンとの出会いがあった。この敵対者こそは、キリストの出現が意味するところの世界の魂におけるあの強大な緊張を下から支える橋台にほかならない。そして影が光に添うごとく、サタンは正義の太陽(ソル・イウスティティアエ)たるキリストに不義の神秘(ミュステリウム・イニクウィタティス)としてより添い離れることがなく、エビオン派やユーカイト派の人たちがまさしく言ってのけたように、兄と弟さながらなのである。」

「今日でもいつの時代でも、人間は自分の中にいて折あらばと機会をうかがっている悪の危険性を見過ごさないことが肝要である。」
「私が固執せざるをえないのは、心理学というわれわれの経験領域においては白と黒、光と闇、善と悪は等価的対立物であり、一方はつねに相手を前提とするという点である。この単純なる事実は、いわゆる『クレメンス説教集』と呼ばれる西暦一五〇年(?)ごろにしたためられたグノーシス=キリスト教文書の選集においてすでに正しく評価されていて、名前のわからないこの著者は善と悪を神の左右の手と解し、天地創造そのものもさまざまのシジギー、つまり対立的一対から成り立っているとしているのである。」



第I部第X章より:

「「この小魚は非常に小さく、ひとりぽっちで、体形が独特である。ところが大洋のほうは大きく広い。したがって世界のどこにそれが生息しているかを知らぬ人々には、この魚をつかまえるのは無理である。」」

「錬金術の mare nostrum (われわれの海)が、ちょうど日常の経験的な夢解釈においてもそうであるように、無意識一般の象徴であるということをわれわれは知っている。この魚は微小ではあるが、意味ありげに広大な海の中心に棲み、体が小さいにもかかわらず大きな船でさえ止めてしまう力を持っている。このエヘネイスについての記述を読むと難なくわれわれには、この著者は『〔哲学者の〕謎』の「骨と皮の欠けたまるい魚 piscis rotundus ossibus et corticibus carens」を熟知していたことがわかる。それゆえわれわれは、まるい魚を自己(ゼルプスト)とみなす解釈を造作なくエヘネイスにあてはめて考えることができるのである。自己(ゼルプスト)の象徴はここでは、無意識というとてつもない大洋の中のごく微小なるもの(valde exiguus)として現われている。ちょうど世界の大洋(pelgaus mundi)の中における人間のように。魚として象徴化したことは、この状態の自己(ゼルプスト)が無意識的内容(引用者注: 「無意識的内容」に傍点)であることを特徴づけている。もし意識的な主体の側に「知慧の磁石 magnes sapientum」が存在しなければ、この不可視の生物体をつかまえる見込みはまずおそらくないであろう。その磁石なるものが、師匠が弟子に伝授できるもの、すなわち「学理 theoria」であることは明白である。この学理(テオリア)こそは、錬金術師の出発点となりうる唯一の現実的な財産である。というのも、第一資料(プリマ・マテリア)はあくまでもまず見出されなければならぬものであって、錬金術にとってそのために役立つのが「智慧の巧妙なる秘密 artificiosum secretum sapientum」、まさしく伝授可能の理論(テオリー)だからである。」
「それは(中略)すなわちこのような教説によって一にして全なるもの、姿かたちは最小ながら最大なるもの、久遠の焰の中の神自身が深海の魚のように釣り上げられるであろう。そしてその神は「深淵から解き放たれ de profundo levatus」、聖体の参入行為(アズテク人のいわゆる teoqualo =神を食すること)によって人間へと肉体化される、というか、人間の領域へと持ちこまれることになるであろう、といったことであったのである。
 この教説は秘密の巧妙きわまりない磁石(引用者注: 「磁石」に傍点)であり、この磁石のおかげで小魚レモラ、「姿は小さいが力は大きい」この小魚は海上の誇り高き快速船団を止めるのである。実はこれについてはプリニウスの語る楽しく興味ぶかい話があり、それは「われらが時代の」皇帝カリグラの五橈列船(クウィンクウェレミス)にふりかかった冒険譚である。この小魚は体長はせいぜい半フィートしかなかったが、皇帝がストゥラからエンティウムへともどるとき、舵に吸いついてしまい、船を停止させてしまった。この航海からローマへ帰り着くと、皇帝カリグラは部下の兵士たちに殺された。つまり小魚エヘネイスは凶兆であった、というのがプリニウスの主張である。(中略)プリニウスはこのエヘネイスの摩訶不思議な力に対し、感嘆おくあたわずというところである。明らかに彼の驚嘆は錬金術師たちの感じた驚嘆と軌を一にしており、彼ら錬金術師たちは「われわれの海のまるい魚」の正体をレモラとみなした。その結果、レモラは無意識という広大な空間の中のごく小さなものの象徴となった。しかしこの微小なるものは運命的な意味を持っている。それは自己(ゼルプスト)、アートマン Atman、「小なるものより一層小さく、大なるものよりも一層大きい」といわれるものにほかならない。」



第I部第XI章より:

「世界についての「知識」は「わが胸のうちに住む」がゆえに、錬金術師は自分の世界認識を「自分自身」についての知識から汲みとるべきである。なぜならまず知らなければならない自分の自己(ゼルプスト)というものは、神と世界とがまだ別れていない原初的一体から生れてきた自然の一部だからである。」
「少なくとも(中略)錬金術師は、自分が全体の一部であるがゆえに、全体についてのイメージを自分の中に抱いていることを知っていたにちがいない。この全体についてのイメージは、このような考えを簡潔に言い表わしたパラケルススの表現を借りると、「蒼穹(フィルマメント)」であり「オリュンポス山」である。内的な小宇宙(ミクロコスモス)は、錬金術研究が思わず知らずのうちに無意識的に選んだ対象であった。今日のわれわれであったら、この対象を集合的無意識(引用者注: 「集合的無意識」に傍点)と呼ぶであろう。集合的無意識は客観的なものと言わなければならない。なぜならば、これはすべての個々人の中に一貫して、あくまでも自己同一性を失わないからであり、したがってただ一なるもの(引用者注: 「一なるもの」に傍点) Eines であるからである。」



第I部第XV章より:

「とどのつまり、自己(ゼルプスト)とは「対立の複合体 complexio oppositorum」のことだと認めざるをえない。そもそも対立のない現実というものは、存在しないからである。」


第II部より:

「ペルペトゥアが服を脱ぎ捨てるのには、もっと深い意味がある。『ヘルメス全書』(VII, §2, 3)には、こう記されている。「お前たちの手をとって知識(グノーシス)の門へと導くべき案内人を探すがいい。そこには、闇から清められた輝く光がある。(中略)そこでまずお前はまとっている衣を引き裂かなければならない。すなわち無知の織物(to hyphasma tēs agnōsias)を、悪の砦を、つけている手足の枷を、闇の囲いを、生身(いきみ)の死を、目の見える死骸を、倒された墓を……」。なぜならこれこそ「衣のように身につけている敵なのであり、それがお前を自分のほうへ下に向って締めつけていて、そのためお前が仰ぎ見て真理の美を認めることができないようにしているからだ……」。それゆえ秘儀受伝者は叙階において光の浄化された天上の衣裳を一方で受けるとともに、前もってまず自分の地上的な肉体性(sōma―sēma!)と》agnosia《(無知)の衣裳を脱いで引き裂かなければならないのである。グノーシスの影響を受けた外典のソロモン雅歌にも似たような個所が見出される(第一一雅歌)。「わたしは愚かさを地上に残すため、愚かさを脱ぎ捨てた。それ(霊)はその衣によってわたしをよみがえらせ、その光によってわたしをつくり上げた」。また第二一雅歌には「わたしは闇を脱いで光を身にまとった」とある。さらに第二五雅歌。「わたしはお前の霊の毛布にくるまれて、それまで着ていた毛皮の衣を脱いだ」。
 つまりこのように衣裳を脱ぐのは、(中略)動物的な本性を捨てること、(中略)それどころか場合によっては地上的な現実の生存を捨てることを意味しており、ペルペトゥアの場合にはこれによっていわば完全に一つの「霊(ガイスト)」になったのである。」
「両性の対立が彼岸で止揚され統合されることについては、(中略)アレクサンドリアのクレメンスのものとして伝わっている訓言も暗示している。「お前たちが恥の衣裳を足で踏みつけてしまったとき。そしてもし二つのものが一つのものとなり、外なるものが内なるものとして等しくなり、男性的なるものと女性的なるものが合一し、男性的でもなく女性的でもなくなる場合」。このような考えは次のような前提をもとにしている。すなわち人間はたんに生理的にのみならず心的な全体性としても、男女両性を自分の中に統合している。無意識はいつも相対立的な性質を含むからである(だからこそ両性具有者(ヘルマフロディトゥス)がヘルメス哲学において全体性のシンボルとなったのである)。」














































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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