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S・ヘディン 『チベット遠征』 金子民雄 訳 (中公文庫)

「このだれとも知れぬ世捨人は、いま聖人になったのだ。輪廻の束縛から解放され、永遠の至福の光明へと旅立ったのである。」
(S・ヘディン 『チベット遠征』 より)


S・ヘディン 
『チベット遠征』 
金子民雄 訳
 
中公文庫 へ-5-1 


中央公論社
1992年8月25日 印刷
1992年9月10日 発行
478p 口絵(モノクロ)1葉 
巻末折込地図1葉
文庫判 並装 カバー
定価840円(本体816円)
カバー画: チベットの寺院の正面入口。一九〇八年。(新しく発見されたヘディンの水彩画)



本書「訳者あとがき」より:

「『チベット遠征』は、一九三四年にスウェーデンで出版され、続いて同じ年アメリカで翻訳出版された。
 著者のスヴェン・ヘディンは、わが国でも中央アジアの探検家として著名な人であり、改めて紹介するまでもないであろう。」
「本書の原本は Erövringståg i Tibet, Stockholm, 1934 で、この英訳が A Conquest of Tibet, New York, 1934 である。英訳のタイトルは『チベット征服』で、いささか誤解を招きかねないものであるが、原題は『チベット征服の旅』といった意味で、あくまで冒険行ぐらいのことである。そこで本書では『チベット遠征』と改めることにした。」



本文中図版(モノクロ)多数。


ヘディン チベット遠征 01


カバー裏文:

「神秘的な僧院、嵐をついて高原を進むキャラバン、精霊がささやきかわす峠、洞穴の中でひっそりと死を待つ隠者……中央アジアに魅せられた探検家ヘディンが、三度の遠征で目撃・体験したチベットの自然・地理・風俗を、従者や現地の友人との交流を交えて克明に描き出す。自筆の挿絵282枚つき。文庫オリジナル」


目次:

1 チベットへの最初の潜行
2 未知の国
3 モンゴル人と盗賊
4 チベットの中心部へ
5 変装してラサへ
6 カムバ・ボンボの捕虜
7 禁じられた国への再征
8 無人地帯の三ヵ月
9 遊牧民の故郷
10 トランスヒマラヤを越えてシガツェへ
11 タシ・ルンポの新年祭
12 タシ・ラマと彼の寺院都市
13 神秘的な僧院
14 ブラーマプトラ川の水源と聖湖
15 インダス川水源の発見
16 殺人的な冬の旅

訳注
訳者あとがき
ヘディン・チベット探検図



ヘディン チベット遠征 02



◆本書より◆


「1 チベットへの最初の潜行」より:

「アジアの心臓部には、地上最高の山岳地帯の雪をいただく山々が、太陽と星に向ってそびえ立っている。それは「チベット」、すなわち「雪の国」として知られるところである。「冬の住居」たるヒマラヤは、チベットの南の国境地帯で一つの城壁を形成し、また常夏の国インドの北限をも画している。中央アジアにおけるシナ・トルキスタンの息づまるような砂沙漠に覆われた場所から、チベットは崑崙(コンロン)の巨大な山系によって隔離されている。(中略)チベットの住民たちは、草原(ステップ)地帯の野蛮人から自らを守るため、万里長城を建造した中国諸皇帝のやりに従う必要などさらになかった。禁じられた山々は堅固な防御壁となって、この土地の備えとなってくれたからである。こうした理由から、チベットは現在に至るまで、この地球上で最も知られざる、最も近づき難い場所の一つとして残されているのである。」


「2 未知の国」より:

「アジアの猟獣のうち、野生ロバほど私に深い印象を与えたものはなかった。私の尊敬と称賛においてこれに唯一比肩できるものといえば、野生ラクダであった。私がしばしば出会った野生ラクダは、不可解な幻影か、さもなくば幽霊船のように、静寂な荒野の中をひゅうひゅうと通り過ぎていくのであった。ところが野生ロバは、高貴で古い血統を持っている。(中略)予言者と諸王は、この動物について言及し、力と勇気の生ける象徴(シンボル)として見ている。然り、神自らこれについて簡明的確な言葉で記している。(中略)「だれが野ろばを放って、自由にしたか。だれが野ろばのつなぎを解(と)いたか。わたしは荒野をその家として与え、荒れ地をそのすみかとして与えた。これは町の騒ぎをいやしめ、御者の呼ぶ声を聞きいれず、山を牧場(まきば)としてはせまわり、もろもろの青物(あおもの)を尋ね求める」(ヨブ記、第三九章)」
「アジアでは強大な帝国が勃興し、繁栄したが、やがて滅亡していった。騎馬軍団の一軍勢の首長であり、草原にあったチンギス汗(ハン)の幕営が、やがて厖大な領国へと発展していったのであるが、やがて数世紀して没落し去った。人民が人民を力ずくで追い出し、互いに滅ぼし合い、広大な大陸全体にわたって移住が広がっていった。アジアの只中に建てられた仏教国は流沙の中に呑み込まれ、埋没し去った。これまで起った全てのこと、これから起るであろう一切のことは、その始まったときから崩壊の刻印が刻まれているのだ。「この世の一切のものは空にして、苦しみの種子なり」と。
 ただ野生ロバの王国のみがいまだ手つかずで残り、幾世紀前の、中国諸皇帝の像が色彩と光雲で包まれた伝説の時代と同じように、今日も若々しく、強力なのである。なぜなら神自ら与えたもうた自由を、ロバからだれが奪うことができようか。幾世紀もの間、その棲処となってきた果しない広野から、この動物を追い払おうとするものがあったろうか。ロバは全アジア内陸部に広がる草原に、いまでも草を食み、チベットの渓谷を飾る、紫色のニガヨモギの芳香ある汁液を好むのである。」



「3 モンゴル人と盗賊」より:

「この地点から北のそう遠くないところに、巨大な湖クルリク・ノールの湖面が広がっている。これがホルイン・ゴル川の水源であるが、この川沿いで、われわれは夕方になると火のまたたくのを認めた。昼間には、人の姿形すら見かけなかった。この近在には、なにかある奇妙な、呪縛にかかった妖気が漂っていた。気品のある白鳥までもが、魔法にかけられた王子や王女たちの幻影のように、思えるのだった。
 夜になると、満月に照らされた光が、湖水にかかった銀の橋のように、ちらちらと揺らめいていた。湖岸のわずかに高くなった所に、オボが一つ立っていた。そのぼろぼろに裂けた祈祷の長旗が、夜の微風の中で、薄気味悪くはためいていた。長旗がぱたぱたと激しい音をたてて鳴ると、それはあたかも精霊たちがお互いになにか話し合っているように思えるのだった。
 人が死んで、その遺骸が狼やハゲタカの貪り食うにまかせておかれると、霊魂はその宿るべき住処として新しい肉体を求め、見知らぬ場所やほの暗い土地をさまようのである。この死者が生前に善人だったり、尊敬すべき人物であったなら、その霊魂は長い時間をかけて肉体を求める必要はなく、前世よりもはるかに地位も高く、よい生命体に宿れるのである。しかし、罪障が深く、悪人であったなら、下層界に落ちて、犬やフクロウ、あるいは蛇などになるのである。このようにして霊魂は、休むことなく新しい宿主を求めてさまよい歩くのである。」

「アジアのこの地域での最大の湖水、ココ・ノール、すなわち「青海」を遠く望むまで、そう長い時間がかからなかった。高度三〇三〇メートル、まわりを堂々たる雪をかぶった山々に囲まれている。この美しい、青緑色した湖岸に沿って進んでいったが、そこはタングート族とモンゴルの遊牧民の冬のキャンプ地であった。夏季、彼らは山々へ新鮮な放牧場を求めて移動するのである。
 湖水の中央に、低い岩島が一つ水面から現われている。この島の小さな粗末な石造りの小屋に、二、三人の聖なる僧侶が住んでいるのだと、遊牧民が語った。彼らは完全に外界から切り離されており、ただ敬虔な巡礼者がこれら世捨人に食糧を運ぶため、あえて危険を冒して氷上を渡るときだけ、彼らは他の人間とつかの間の交流が持てるのだった。」
「歳月はどんどん過ぎていく。世捨人もいつか年をとり、やがて死ななくてはならない。彼らのうちの一人が世を去ると、残された二人の仲間は、死体をごくわずか高くなった岩の上にまで曳きずっていき、ハゲタカや大ガラスの歓迎すべき食糧にする。衣類は死体からはぎとられる。二人目の世捨人が死ぬと、とうとうただ一人だけ残されてしまう。島には、もうたった一人の世捨人しか残っていないか、あるいはもうだれもいないことが本土に知られると、己れを島と島に住む精霊に、いつでも喜んで犠牲に供することのできる、別の夢想家が捜されるのだ。」



「7 禁じられた国への再征」より:

「水はインクを流したように黒かった。あたりは大変に暗い。月の軌道に当るところだけ、銀色の光が死んだような波間に踊っていた。漆黒の幽霊が、チャルグート・ツソ湖から出現した。昏睡状態をかき乱された、恐ろしい怪物だ。この怪物はどんどん大きくなり、われわれに飛びかかり、あっという間に、呑み込もうとした。だがそれは、われわれがちょうど寄ろうとしていた断崖の突端であった。われわれはボートをしっかり縛り、それから横になった。」


「9 遊牧民の故郷」より:

「このようにして彼らは生活し、放浪し、何代も何代も、何百年にもわたって過してきた。チャン・タンは彼らにとって貧しい家郷であり、そこで彼らは、貧困と危険と闘いながら、神の自由な大気の中で、勇敢にしかものびのびと生きている。彼らは嵐の咆哮を恐れることはない。なぜなら雲が彼らの兄弟だからだ。彼らは山と谷の領域を、荒野の動物とだけ分ちあい、夜になると、永遠の星が彼らのテントの上にまたたく。氷のような寒気、霏霏(ひひ)と舞う漂雪、静まりかえったチベットの冬の夜を照らす白い月の明りを、彼らは愛すのである。」


「10 トランスヒマラヤを越えてシガツェへ」より:

「われわれは新しい雄大な山系を登っていった。(中略)この山脈はチベットを東西に横断し、ヒマラヤと平行している。私はこれにトランスヒマラヤと命名したが、この山系を数地点で横断して、だいたいの輪郭を地図の上に描くというのが、私の目的であった。」
「チベット人を除けば、これまでだれもこの地を訪れたものはいない。これこそ私の土地であり、私はここを征服したのだ。夕方遅く、私は自分の王国を調べてみるため歩いてみた。そこは月の光に照らされ夢みるように横たわっていた。私の目は、谷底の暗く蔭になったところから、峠の鞍部の側面が月明りで照らされている断崖まで、素早く一瞥した。峠の南側から、水がブラーマプトラの上流であるツァンポー川に向って、流れ落ちていた。ここからついにはインド洋へ注ぐのである。」



「13 神秘的な僧院」より:

「死んだタルティングの住職のような、化身の聖僧だけが、火葬に付されるのである。その他の者の遺体は、手足をばらばらにし、肉はシガツェの場合と同じく、聖なる寺院の犬かハゲタカに与えられる。この恐ろしい仕事に従事する人たちは「ラグバ」と呼ばれ、低く、卑しい階級(カースト)に落された人たちである。輪廻という果しない鎖の中では、彼らラグバの霊魂は、やがて動物か厭わしい人間の体に宿ることになるので、彼らの将来は暗いのである。
 僧院で、兄弟僧が死ぬと、その仲間の僧が遺体を死体解体場所へ運び、衣類をすっかり剝ぎとって、彼らの間で分配してしまう。それからラグバが身の毛もよだつような仕事に着手する。遺体の首に巻きつけた縄を、しっかり杭に縛って固定したあと、両足を摑んで引っぱるので死体は真直ぐに伸びる。肉は鋭い小刀で切られ、寺院の犬かハゲタカに投げ与えられる。骨は石臼(いしうす)の中で砕き、粉末になった骨は脳とこねて団子に作り、これもやはり犬の餌にするのである。」

「ある嵐の日、山々に深い雪が積ったので、二人の従者と私とは、リンガとペスーの上手の渓谷をつめ、絶壁の麓のサムデ・プクと呼ぶ洞穴、すなわち石小屋へと馬で出かけた。(中略)この洞穴には戸も窓もなかった。洞穴の内部に一つの泉が湧いており、一条の狭い溝が壁の下の地面に沿って通じていた。たった一人の孤独なラマ僧が、この穴の中に閉じ込められていた。彼は別に刑罰を受けて、この土牢に入っているのではなかった。自ら進んで、この孤独と暗闇の中に入ったのだった。
 「彼の名はなんというのですか」と、私は訊ねた。
 「名はありません。ただラマ・リンポチェ、つまり聖僧とだけ呼んでいます」
 「どこの出身なのかね」
 「生まれはナクツァン州のヌゴールです」
 「だれか親戚でもいるのかね」
 「分りません。一番近い親族でも、彼がここにいることは知りません」
 「閉じ込められてからどのくらいたったのですか」
 「三年です」
 「ここにいつまでいるつもりですか」
 「死ぬまでです」
 「日の光を見てはいけないのですか」
 「いけません。彼は生きてこの洞穴は出ないという神聖な誓いを立てたのです」
 「何歳になりますか」
 「分りませんが、多分、四十歳ぐらいでしょう」
 「もし病気になったら、どうするつもりですか」
 「死ぬか、ゆっくり快癒するのを待つのです」
 「彼の体の調子は、どうやって知りますか」
 「一椀のツァンバと、時々少量のバターとを、毎日、溝を通して差し入れます。もし六日間、まったく手をつけてなければ、彼は死んだものと認め、洞穴の中に押し入ります」
 「こんなことがこれまでにもありましたか」
 「はい、一人のラマ僧が三年前に死にましたが、彼はこの地下室に十二年間暮しました。十五年前のことですが、二十歳のときこの暗闇の中に入り、四十年間生き続けて死んだものがいます」
 「食事を持っていく僧侶とかが、溝越しに、話しかけるなどということはないのですか」
 「いいえ、ありません。そんなことをすれば、話しかけた僧は永久に呪われるでしょうし、三年間のお籠りのご利益がふいになってしまうでしょう」
 「彼は、洞穴の外で喋っているのが聞えるでしょうか」
 「いいえ、この壁は大変厚いのです」
 この神秘に充ちたラマ・リンポチェが、三年前にこのリンガにたどり着いたとき、彼は生涯この暗闇の中に入る誓いを立てたのだった。」

「このだれとも知れぬ世捨人は、いま聖人になったのだ。輪廻の束縛から解放され、永遠の至福の光明へと旅立ったのである。」



ヘディン チベット遠征 03




こちらもご参照ください:

河口慧海 『チベット旅行記』 (講談社学術文庫)  全五冊
金子民雄 『宮沢賢治と西域幻想』 (中公文庫)




















































































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