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大室幹雄 『宮沢賢治「風の又三郎」精読』 (岩波現代文庫)

「宮沢ののらくらものだった生の特異性、同じことだが彼の詩と童話の独自性と卓越性は彼に固有な遊戯性からのみ生れた。」
(大室幹雄 『宮沢賢治「風の又三郎」精読』 より)


大室幹雄 
『宮沢賢治
「風の又三郎」
精読』
 
岩波現代文庫 文芸 99 

岩波書店
2006年1月17日 第1刷発行
iii 302p
文庫判 並装 カバー
定価1,100円+税


「本書は岩波現代文庫のために書き下ろされた。巻末の宮沢賢治「風の又三郎」は、一九四六年に羽田書店より刊行された『宮沢賢治名作選』収録のものを底本とし、『宮沢賢治全集7』(ちくま文庫、一九八五年)にしたがって日付を( )に入れて付した。」



大室幹雄 風の又三郎精読


カバーそで文:

「分教場に転校してきたちょっと変わった男の子高田三郎をめぐる初秋の東北の物語「風の又三郎」。裕福な家に生まれて法華経に傾倒した宮沢賢治を「のらくらもの」と位置づけ、その仏教的世界観や宮沢父子の葛藤を描き出して賢治童話の代表作を読み解く。勤勉な印象で語られてきた作家像を転換する近代日本の一裏面。書き下ろし。」


目次:

Ⅰ 生活の風景と魂の風景
Ⅱ 遊びをせんとや――のらくらものの社会史
Ⅲ 朝(あした)の紅顔 夕(ゆうべ)の白骨
Ⅳ みんな自分の中の現象
Ⅴ マグノリア こころに刻む峯々に咲く
Ⅵ 日本岩手県イーハトーブの地理学
Ⅶ 子どもたちのテオファニア

参考文献

風の又三郎 (宮沢賢治)




◆本書より◆


「Ⅱ 遊びをせんとや」より:

「さて、一般に、宮沢賢治のような型の大金持の息子はときに遊び人と呼ばれる。辞書『広辞苑』には、「遊び人」の項に①一定の職業を持たずぶらぶらと暮している人、②転じて、ばくち打ち、やくざ、とあって、むろん②の語釈は宮沢には合わないから、それが①に返って、この語は宮沢にふさわないかもわからない。ほかに、のらくらもの、なまけもの、道楽者、やくざもん、といった類語もある。しかしあとの二語には色恋の臭いがからみ、なまけものは物理的または唯物的で、仕事や労働の回避もしくは欠如にかかわるだけで精神的な語感に欠ける。その点、のらくらものは直接的には仕事回避の語感を欠き、性的な臭いもなく、しかも遊びの感覚を写して些少の精神的な香りにも無縁ではない。相対的にこれを可として、宮沢-のらくらものと仮定義しよう。」



◆感想◆


本書は「風の又三郎」精読、とタイトルにあるので、著者が「風の又三郎」原文を逐一辿りつつ精読してくれる本かと思ったものの、じつのところ、本書巻末に全文掲載されている「風の又三郎」原文を読者が各自「精読」するためのバックグラウンドを提供し、読解の方向性を示唆する本なのではなかろうか。「風の又三郎」に直接言及しているのは第六章と第七章だけで、第一章は一種の序文、第三章から第五章までは宮沢賢治と法華経について詳しく論じられていて、これはたいへん参考になりました。第二章で著者は、宮沢賢治は「のらくらもの」である、というテーゼを出していて(「遊び人」=「のらくら息子」=「幼童のままイノセントであること」)、それが、「風の又三郎」は「小さ子」「童子神」「始原児」である、という本書の主張の布石になっています。

しかしながら、「高田三郎」=「風の又三郎」であるという著者の読解を肯うわけにはいかないです。

わたしの「風の又三郎」読解は以下の通りです。
――異質な存在である転校生の高田三郎が、すでにできあがっている「小さな学校」の子どもたちの社会にいかに適応するか、子どもたちの側からいえば、「をかしな」転校生である高田三郎をいかにして自分たちの社会の一員として受け入れるか、その契機となるのが子どもたちの社会に言い伝えられている「風の又三郎」の伝説であって、子どもたちは高田三郎を「風の又三郎」であると仮定して、高田三郎と共にいわば「風の又三郎ごっこ」をすることによって遊びを通して高田三郎を受け入れようとし、高田三郎の方でも「風の又三郎」を演じることによって子どもたちの社会に溶け込もうとする。
ところで、ごっこ遊びとは何なのか、鬼ごっこの鬼となった者は鬼に憑依され、鬼を演じることによって、ほんものの鬼をこの世に呼び出してしまうのではなかろうか。
それはそれとして、高田三郎と子どもたちが「風の又三郎」ごっこを通して仲間になったと思われた瞬間、ほんものの、地霊(自然の精霊)としての「風の又三郎」が現われて、というか風なので姿は見せぬまま、「どつどどどどうど」という自らのテーマ曲を叫んで
顕現することによって、高田三郎=「風の又三郎」という「ごっこ遊び」を崩壊させてしまいます。
その後、高田三郎は「小さな学校」を去ることになり(「風の又三郎」があえて自らの存在を示すに至った理由は、高田三郎の父親が「モリブデンの鉱脈」を掘ること――自然破壊――を阻止するためであったとおもわれます※1)、子どもたちはほんものの「風の又三郎」への恐怖心から(なにしろ「風の又三郎」は「あまいりんご」も「すつぱいりんご」も見境なしに吹きとばしてしまう凶暴でアナーキーな自然力の体現者です)、高田三郎=「風の又三郎」という「ごっこ遊び」に固執しようとする、すなわち、嘉助は自分自身に言い聞かせるように「やつぱりあいづ(高田三郎)は風の又三郎だつたな。」と「高く叫」んではみるものの※2、「相手がほんたうにどう思つてゐるか探るやうに」一郎と「顔を見合せたまま」立ち尽してしまう、というわけです。

※1 風は人間による自然破壊に敏感で、短篇「サガレンと八月」では「西の山地から吹いて来たまだ少しつめたい風」が、「内地」から標本を集めに来た農林学校の助手に「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」と詰問します。
※2 この場面は、高田三郎が伝説の「風の又三郎」と同化しつつあった時点で、「あいづやつぱり風の神だぞ。」という嘉助の言葉に対して一郎が「そだないよ。」と「高く言」う場面に呼応しています。






































































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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

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