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阿部謹也・網野善彦・石井進・樺山紘一 『中世の風景』 (中公新書) 全二冊

網野 それはね、魚を抱えちゃう。抱くわけですよ。抱くと魚は動かなくなる。そういう技能があるわけです。」
(『中世の風景 (上)』 より)


阿部謹也 
網野善彦 
石井進 
樺山紘一 
『中世の風景 
(上)』
 
中公新書 608 

中央公論社
昭和56年4月25日 初版
昭和62年5月10日 9版
x 246p
新書判 並装 
ビニールカバー
定価580円 
装幀: 白井晟一



阿部謹也
網野善彦
石井進
樺山紘一 
『中世の風景 
(下)』 

中公新書 613 

中央公論社
昭和56年5月15日 印刷
昭和56年5月25日 発行
iv 272p
新書判 並装 
ビニールカバー
定価480円
装幀: 白井晟一


「本書は、四人の中世史研究者が、それぞれあらかじめ用意した二~三のテーマを順次話題として提供する形で進められた討議の記録を編集したものである。最初の顔合わせは昭和五十四年四月で、実際の討議は同年七月と九月、および五十五年五月の三回にわたって行なわれ、延べ五日間二十時間をこえるものとなった。本書の各章は、下巻での若干の入替えを除き、おおむね討議の進行にそっている。」



図版(モノクロ)計20点。


阿部謹也ほか 中世の風景


上巻 帯文:

「斬新な視点と豊富な話題で鮮やかに浮び上る東西二つの中世」


上巻 帯裏:

「長く私たちは、中世の具体像を結びえなかった。だが近年のめざましい歴史研究の動向は、驚くほど新しい中世の諸相を垣間見させてくれる。本書は、四人の中世史家が、東西の中世について交わした活発な討論であり、その熱気のなかから瞭然と浮び上ってくる一つの時代の風景である。上巻は、「海・山・川」などの縁辺に暮らす民の文化、社会に独自の地位をしめはじめる「職人」、中世の主要な脇役「馬」、そして「都市」がテーマとなる。」


下巻 帯文:

「歴史研究の成果を最大限にもりこんで彫上げた新しい中世像」


下巻 帯裏:

「長い緩慢な時の流れを想わせる中世。しかしここで論じられ露わになってゆく中世は、およそそうしたものではない。日本とヨーロッパにとって、それはうねりのような大転換期にあたっていた。あるいは人の心をも含む社会の全領域にわたっての、新旧の壮大な葛藤といってよい。下巻は、歴史学に聴覚の世界を導入した「音と時」、徳政を待望する庶民の意識を掘起す「売買・所有と法・裁判」ほか、「農業」「家」「自由」「異端」がテーマとなる。」


上巻 目次:

紋章と中世――まえがきにかえて (樺山紘一)

1 海・山・川
 ある越後の伝説
 川は誰のものか
 川の民の血筋
 ヨーロッパの川と日本の川
 海民と根拠地
 活発だった日本海交通
 原始一向宗の担い手
 鎌倉七口の構造
 ヴァイキングから見た歴史は可能か
 アニミズム日本
 遊手浮食の輩と境の民
 山野河海の性格

2 職人
 東西の職人絵
 職人絵はなぜ作られた
 自分を区別する標識
 道々の輩
 ヨーロッパの職能意識
 「西洋職人づくし」と女性
 女性の地位の変動期
 石工の特権
 太子信仰と守護聖人
 天皇と職人
 動く唐人集団
 驚くべき人的交流
 宗教者と技術

3 馬
 中世にケンタウロスはいない
 馬文明の衝撃力
 馬と戦さ
 豆・麦・馬と農業革命
 牛の文化と馬の文化
 家畜と人間の距離
 馬に乗る人乗らぬ人

4 都市
 中世ヨーロッパ自由都市論への疑問
 都市たるの要件
 にもかかわらず都市と感ずる
 人の動き・物の動き
 文書主義の再検討
 都市以前の集落
 センターとしての修道院
 都市が成立する場
 無主・無縁の地とは何か
 領主支配と公界意識
 ヨーロッパの王権と天皇の権力



下巻 目次:

5 音と時
 中世はいかなる音に充ちていたか
 人びとと鐘の音
 音の支配
 音声と口上
 触役とその身分
 拍子木・銅鑼・鈴
 夜の世界・昼の世界
 黄昏時の不安
 時の計測
 暦を管掌すること

6 農業
 南北ヨーロッパの二つの農業
 南欧の農閑期
 米を作らないとき何をするか
 東国の年貢
 水田中心史観再考
 条里制と度量衡
 文化複合という視点
 労働・生産・自然

7 売買・所有と法・裁判
 日本歴史のなかの徳政
 土地と人間の生きた関係
 聞耳と保証人
 「一段と発展し」の中身
 売買行為の集団性
 訴訟と裁判の場
 ローマ法圏とゲルマン法圏
 商人と外国語
 帳簿と利子について
 「古き良き法」と復活
 動産の所有をめぐって

8 家
 二つの家
 屋敷と在家
 アジール概念の範囲
 「平和団体」という捉え方
 家支配と開発領主
 フロイスの見た日本の家長
 家の自立性・代父制・相続
 ヨーロッパ社会史の鍵

9 自由
 津田左右吉の考察
 自由と保護の系譜
 身分の高いものほど自由である
 「恥ある者」という身分
 遍歴民の自由と定住者の自由
 「無縁」概念をめぐって

10 異端
 乞食、托鉢者の中から
 日本における正統の弱さ
 異端運動の下層にあるもの
 千年王国の思想
 聖界と俗界
 日本社会の複合性

あとがきにかえて
 「贈与」をめぐって (阿部謹也)
 歴史学と感性 (網野善彦)
 徳政の鐘 (石井進)




◆本書より◆


上巻より:


「1 海・山・川」より:

石井 越後の岩船郡といえば、新潟県の最も北の地方で、(中略)この地方の三面川(みおもて)川の流域一帯には、古くから雲上(くものうえ)公という貴人についての伝説が語り伝えられてきました。」
「――昔、この地方は治安が乱れ、強盗などがはびこって人びとは大変苦しんだ。そこで朝廷に願い出て、時の後白河天皇の第三皇子である雲上公を支配者に迎えることになった。雲上公は十二人の親類縁者、多勢の部下をひきつれて船で下向し、岩船郡内の御所で政治をとったので、国もよく治まるようになった。
 ところが雲上公や親類縁者たちは、川狩りが大好きで、そのうち毎日のように三面川に船を泛かべては魚とりに精を出し、酒盛りを楽しんでばかりいるようになった。酒盛りの最中に、沖合はるかを航行する日本海航路の船があれば、やおら扇をとり出し、扇で下からあおげば船がひっくり返る、扇をまわせば船はくるくると回転する、あおぎかえせばもと来た方向へ吹きもどされる。これを見て雲上公は大喜び、天気さえよければいつも三面川の河口まで出て、このいたずらをするのが常だった。一部の家臣のいさめを受けて一度はやめたものの、まもなくまた始めるようになる。思いあまった親類や家臣たちは、ある日、川狩りに余念のない雲上公の油断を見すましてヤスで突き殺してしまう。川下へと流れていく雲上公の死骸を付近の村人たちが拾い上げ、これを火葬にしようとする。ところが首だけがどうしても焼けない。火中からとび上がっては笑い、眼をいからしてにらみつけるので、見る人はみな身の毛もよだつほどだった。なんとか焼いてしまおうというので、漆の木とか、村じゅうの雪隠(せっちん)の踏み板を集めて焼いてみてもだめ、とうとう山中に住む真言の僧、つまり修験者、山伏ですね、この僧をたのむと、臭水(くそうず)(石油の原油)を竹筒につめてきて、まるでポンプのように四方からふりかけ、呪文を唱え、般若心経をよんで、やっとのことで生首を焼くことができた。
 さて、このことが都に聞こえまして、討手が下ることになる。雲上公の二人の子をはじめ親類縁者、家臣たちは、負けてちりぢりに逃げる途中、ごくわずかを残して、みな三面川流域の各地で討ちとられてしまった。ただ少数の残党が山奥や川のほとりに隠れ住んでこの伝説を伝えた。その後この地方の人びとは、雲上公はじめ討ちとられた子息・親類縁者たちを川内(かわのうち)大明神として祀ることになった。」

石井 河原者というのは主に京都。都市の中の問題でしょうね。
網野 われわれのイメージのなかで一番強いのはそれですね。町の中の賀茂川の特異なああいうケースですね。賀茂川にけがれを流すという意味も含めてね。」
「私は、京都だけではなくて、淀だとかそのほか各地にそうした河原があって、京都と同じ問題があったとは思うんですが、奈良や鎌倉の場合には、河原というより、(中略)坂の問題ですね。奈良の奈良坂、鎌倉の極楽寺坂……。」
「だから普遍的な問題として捉えれば、川なり坂なりというのは、農業民から見れば境だけれども、実際に河原を含めてそこに生きた人びとがいる、そちらのほうから見たらどうなるかということでしょう。
 境で非常にはっきり問題が出てくるのは、やはり国の境ですね。摂津国と播磨国の境を荘園の境としている山田荘と淡河荘という荘園がありましてね。もう十世紀から境のことが問題になっている。最初に問題になるのは、その間を「不善の輩」が往来して困る、何とか治安を維持してほしいということが、荘園の側から出るんですね。」
「農業民のほうから見ればたしかに境になるんだけれども、「不善の輩」の側から見れば、境それ自体が一つの世界である。(中略)そういう場のもっている特異性を十分に考える必要がある。」
「それとともにこれを「特異」「非日常」ということでかたづけてしまうのではなくて、むしろそちらのほうを日常の、あたりまえの生活の舞台にしている人から見たら、世界や歴史のあり方がぜんぜんちがって見えてくるんではないでしょうかね。」



下巻より:


「音と時」より:

阿部 なぜ鐘を鳴らすかというと、森の中にはいろいろな音がある。この音は野獣の声であったり、あるいは梢を渡る風の音であったりするんですが、非常に怖いんですね。それに対抗して人間が自ら鋳造した鐘を鳴らすのだという解釈をどこかで読んだことがある。」
「大都会の夜に聞こえるウワーンという音に当たるような音が森の中にもあって、それは理解できない恐ろしいもの。それに対して鐘をガンガン鳴らすことで打ち消す。鐘は、本来、浄化する作用をもつとされておりましたからね。鐘をめぐる民俗みたいなことを言い出せば、これはきりがないんです。」

網野 夜と昼ということでは、確実に音に関係する何かがあると思いますね。
阿部 夜に対する恐怖ということですね。中世のヨーロッパでは、とにかく八時、九時になると夜の世界が玄関まで来てしまう、そういうふうな感じがあったんじゃないかと思うんです。ですから、夜、外で騒ぐということは禁じられてしまう。夜の霊の支配する空間になってしまうということがあるんだろうと思うんです。
網野 犯罪で、夜に特有というのがありますね。たとえば泥棒とか。
石井 夜盗?
阿部 夜討ちというのはいつごろからですか。
石井 それはもう中世の初期からしばしば出てまいりますね。討入りは夜が多いんじゃないでしょうか。あるいは暗殺も。
阿部 そういう点はすごく先進的な気がするんですけどね。(笑)
樺山 ヨーロッパじゃ夜討ちというのはないですね、本当に。
阿部 夜は戦争なんかしないんです。
石井 平和なる時間だな。
樺山 市の門を閉めちゃいますからね。」

樺山 日本に黄昏時(たそがれどき)という言葉がありますね。夜でも昼でもない夕方。朝でもそうですけれども、なにか曖昧な時間というのがごくわずかあって、これに対する恐怖というのあがるんだということを、民俗学の方がたはおっしゃる。神隠しもその時間ですね。夜でもなければ昼でもない、(中略)黄昏という曖昧な仕切りの時間ということになりますね。それはたしかに怖い時間で、夜よりはむしろそちらのほうが怖いんだというわけですね。ヨーロッパには、どうもその黄昏時間というのがないようなんですよ。」
阿部 これはトワイライトの時間ですね。
樺山 太陽と月との二つの光という意味ですね。ヨーロッパにも、そういう、あるものからあるほかのものに行く仕切りの時間、あるいは場所に対する恐怖というのがあるといいます。窓とか敷居とか、あるいは新年とかに対する恐れですね。けれどもいまの一日の中での時間に関すること、とくに昼と夜に関するところを考えますと、どうも彼らの間にトワイライトに対する恐怖というのがあるようには思えないんですがね。単純に夜が怖い。」

樺山 ヨーロッパでは、あんな広いところで、度量衡制度がいいかげんで普遍的な換算率もないのに、いっぽう時間については、教会によって均質的に管掌されてるわけですね。一日の中の時間もそうですし、暦という意味での時間もそうです。それから、一年中サイクルがあって、どの日は何の祭日であってどういう日である、というのが、全部教会暦の中に組み込まれています。完全に、ほぼ確実に時間をおさえてしまったわけですね。
 たんに一日の時間だけじゃなくて、一年のサイクル、あるいはその年が紀元何年であるか、これも基本的には教会の時間に関係してます。イエスの生誕から何年経過したかと計算する。何々世紀という言い方も、そんなに早いことではないですけれども、言うならば教会の時間支配の思想から生まれてきたことになりますね。」
「ユリウス暦とグレゴリー暦という暦法がありますが、グレゴリー暦の場合は(中略)教皇グレゴリウス十三世が一五八二年ですか、十日間の補正をしたわけですね。ああいうことが現実に教皇の権威下に可能だった。しかしこれは後日談がありまして、カトリック圏外にあった北の世界はこれに倣わなかったために、十何日かズレが出来てしまったんですね。(中略)セルバンテスとシェイクスピアは死んだ日が同じだと言われてますね。あれはちがうんですよ。一六一六年四月二三日の同じ日付に死んだんですけど、シェイクスピアのイギリスではグレゴリー暦をとってませんので、じつはちがう日だった。(笑)
阿部 採用に二百年ぐらい前後の差があるんです。」
「ドイツでも、新教のところとカトリックのところでは採用の年月日がちがうんです。」



「自由」より:

樺山 ヨーロッパに「アナーキズム」という言葉がありますね。アナーキーというのは、アルケーがないということで、アルケーというギリシア語はもともと力とか根源という意味です。後になって政治的支配というものも含むようになります。ところがアナーキズムというのを、日本で「無政府主義」と大正の人たちが訳しましたので、印象がずいぶん変わってしまった。(中略)たとえば先ほど出ましたリベルタン、リベルティナージュというフランス語がありますが、これは「自由放縦」という意味です。自由を放縦に享受して、かつルールにのっとっているんだという主張なんです。これもある意味でアナーキズムなんですね。アナーキズムというのは、そういう考え方をも引きながら、十九世紀から今世紀にかけて、一種の主体的な思想の系譜をもっている。それは爆弾を投げてテロリズムを行なうというアナーキズムとはかなりちがう思想形態なわけですね。(中略)であるからこそアナーキズムの思想家たちというのは、リバティー、あるいはリベルテという言葉に固執するんですね。この自由は必ずしも政府がないということではなくて、ある特定の自前のルールなり原理なりに従おうとするときに、自分の思想を表明する言葉として長くつかわれてきているところがあるんですね。これは無縁とはもちろん言いませんけれども……。」
網野 「無縁」と並行的に比較はできないと思うけれども、ちょっと似たところはあるかもしれませんですね。
樺山 もしヨーロッパと比較の観点から議論ができるとすると、そのへんから考えたほうが適当かもしれないという気がするんですよ。
網野 網野はアナーキストだと言った人もいるそうですよ。(笑)
樺山 そうでしょうね(笑)。ぼくも聞いたことがある。
網野 自分では日本語流のアナーキストとは思っていないんですけれどもね。」






この本をよんだ人はこんな本もよんでいます:

武田雅哉 『桃源郷の機械学』





























































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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