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ヘンリー・デイヴィッド・ソロー 『コッド岬』 飯田実 訳

「海は地球を取り巻く原野である。それはベンガルのジャングルよりも広く、棲んでいる怪物の数も多くて、都市の埠頭や海辺の人家の庭を洗っている。」
(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー 『コッド岬』 より)


ヘンリー・デイヴィッド・ソロー 
『コッド岬
― 海辺の生活』 
飯田実 訳


工作舎
1993年11月20日 第1刷発行
2017年3月10日 第3刷発行
401p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,500円+税
エディトリアル・デザイン: 西山孝司+柳川貴代



本書「凡例」より:

「本書は Henry David Thoreau, Cape Cod, 1865. の全訳である。」


巻頭に地図「コッド岬全図」、「訳者解説」中に写真図版(モノクロ)3点。
本書はまだよんでいなかったのでヤフオクで808円(+送料400円)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。


ソロー コッド岬 01


カバーそで文:

「一八四九年、ソローは、友人の詩人チャニングと共にマサチューセッツ州コッド岬を訪れた。そのときの体験、見聞、思索、古典の引用などをまとめた旅行記。「詩人博物学者」の視点で、厳しいコッド岬の自然と、そこで暮らす人間のたくましい生活ぶりを活写する。人為よりも自然のままを良しとするソローの価値観が、いたるところに溢れ出た傑作。本邦初訳。」


目次:

凡例

第一章 難破船
第二章 駅馬車からの眺め
第三章 ノーセットの平原
第四章 浜辺
第五章 ウェルフリートのカキ養殖業者
第六章 ふたたび浜辺へ
第七章 岬横断
第八章 ハイランド灯台
第九章 海と砂漠
第一〇章 プロヴィンスタウン

訳者解説 (飯田実)
索引
著者/訳者略歴



ソロー コッド岬 02



◆本書より◆


「第一章 難破船」より:

「移民を乗せてアイルランドのゴールウェイを出航したブリッグ型帆船、セント・ジョン号は、日曜日の朝、難破した。私たちが行ったのは火曜日の朝であったが、海はまだ激しく岩に砕けていた。(中略)溺死した一人の少女――おそらくアメリカ人の家庭に奉公するつもりでやって来たのだろう――の土気色に脹(ふく)れ上がった傷だらけの遺体には、なお衣服の切れ端がまつわりついており、腫(は)れ上がった頸の肉にはネックレスが半ば食い込んでいた。人間という難破船のねじれた船体は、岩や魚によって著しい損傷を受けたたけに、骨や筋肉が露出していたが、血は一滴も流れておらず、ただ赤と白だけが目立っていた。」

「以上の光景は、概して、予想していたほど強い印象を与えるものではなかった。(中略)戦場でもそうだが、死体の数が増えるにつれて、彼らこそ人類共通の運命をまぬがれた者たちのように思われ、ついに人間は、死体を見てもまったく心を動かされなくなってしまうらしい。墓地を全部数え上げてみれば、いつだって死者の方が生者の数を上回るではないか。」
「そもそも、なぜこうした死体のことを気遣うのか? (中略)生前にこれらの肉体の持ち主だった人々は、コロンブスや巡礼始祖たち(ピルグリム・ファーザーズ)と同じように新世界を目指して船出し、岸から一マイル足らずの所まで接近していたのだ。ところが岸辺に辿り着く前に、コロンブスさえ夢想だにしなかった別の新世界へと移住してしまったのだ。しかもその世界の実在性については――科学によってはまだ発見されていないものの――コロンブスが発見した新世界よりもずっと普遍的で説得力のある証拠が存在すると、私たちは信じている。(中略)私は遭難者たちの虚(うつ)ろな遺骸が陸に打ち上げられているのを見た。ところが彼らの本体である霊魂は、私たち全員が、いつの日か同じように嵐と暗闇をついて航海したあと、必ず漂着することになる、はるか西方の岸辺に打ち上げられていたのだ。(中略)天国の港に無事到着した水夫も、地上の友人たちからみれば難破したことになるだろう。彼らはボストン港の方がよい場所だと思っているからだ。しかし、水夫の遺体が老朽船のようにこの世の波に翻弄されている間、友人たちの目には見えないかもしれないが、練達の水先案内人が彼を温かく迎えてくれる。水夫を乗せた立派な船は、世にも晴れやかな馨(かぐわ)しい微風が沖合いを吹き渡る中、穏やかな日差しを浴びて陸地に到着し、彼はあの世の岸辺にうっとりと口づけするのだ。肉体に別れを告げるのは辛いことだが、一旦なくなってしまえば、肉体なしに生きるのはいとも容易であろう。」



「第四章 浜辺」より:

「春、東の方から嵐が吹いたあとには、この浜辺一帯に東部海岸の樹木が流れ着く。それは拾った人間のものになり、岬には木がほとんど生えていないので、住民たちにとっては天の賜物である。私たちは間もなくこうした漂着物拾いの男に出会い、おしゃべりをした。」
「男は、海水が染み込みフジツボなどが一面に付着した船の残骸や、古ぼけた丸太のほか、船板や梁、さては木っ端のようなものまで探し回り、波をかぶらないあたりまで引きずってきては、積み上げて乾かしていた。丸太が大きくて遠くまで運べない場合は、今し方波が残していったその場所で切断するか、二、三フィートころがしてから、二本の棒を地面に突き差し、丸太の上で交差させることによって所有権を明らかにしていた。」
「クランツ(中略)は、グリーンランド人の生活習慣について、ダラガー(中略)の記述を引用して次のように書いている。「岸辺に漂着した流木や難破船の残骸などを見つけた者は、たとえ土地っ子でなくてもそれを所有することができる。ただし、その物件を岸辺に引き上げ、所有者が存在する印(しるし)として、その上に石ころをひとつ置かねばならない。」」

「浜辺にはまた、美しいウミクラゲが散らばっていた。(中略)色は白かワインカラーで、直径およそ一フィートあった。私は最初、嵐などの天敵によってずたずたにされた海の怪物かなにかの柔らかいからだの一部分ではないかと思ったものだ。海は頑丈この上ない船体でも、ぶつかれば粉砕してしまう荒々しい海岸を所有しながら、懐にはウミクラゲや蘚類のような柔らかい物を抱く権利をどうして与えられているのであろうか? 海がこうし繊細(デリケート)な子供たちを、優しく腕の中であやす役目を引き受けているとは不思議である。私は最初、これらのクラゲが、かつてボストン港に行ったとき、無数の群れをなして、あたかも太陽を慕うかのようにうねりながら水面に浮上し、見渡す限り海水を退色させていた、あのクラゲと同種類のものとは気づかなかった。あの時は、まるでサンフィッシュのスープをかき分けて航海しているような気がしたものだ。このクラゲを手で掬い上げようとすると、水銀のように指の間から擦り抜けてしまうという。陸地が海から隆起して乾燥(引用者注: 「乾燥」に傍点)地となる前は、渾沌(カオス)が支配していた。陸の女神が部分的に衣の着脱を繰り返す高水位線と低水位線の間では、今でも一種の渾沌(カオス)が支配しており、そこは変則的な動物しか棲み着かない場所になっている。」



「第六章 ふたたび浜辺へ」より:

「人間であれ、無生物であれ、浜辺に打ち上げられた物体は極度にグロテスクなだけでなく、実物よりもずっと大きく、驚嘆すべきものに見える。つい最近のことだが、この地点から緯度にして数度ばかり南下したあたりの海岸に出かけて行ったとき、約半マイル前方の浜辺に、太陽と波に漂白された、高さ一五フィートほどの、険しくごつごつした断崖のようなものが見えてきた。ところがさらに何歩か接近してみると、それは難破船の積み荷の一部だった端切(はぎ)れの塊で、高さ一フィートにも満たないことがわかった。また、かつて私は、ある灯台から知らせを受けて、遭難から一週間後に岸に打ち上げられたばかりの、フカに食いちぎられたある人の遺体を捜し出す仕事を引き受けたことがあった。(中畧)驚いたことに私は、一、二マイル前方にある、水際から一二ロッドほど離れた砂浜に、目印として立てられた棒のそばで布にくるまっているその遺体を発見できたのだ。そんな小さな物体を見つけるには、よほど注意深く目を凝らさなければならないと思い込んでいたのだが、幅が半マイルもあって果てしなく続く砂浜は、完璧なまでに滑(なめ)らかで草木一本生えていない上、海辺の蜃気楼が拡大鏡の働きをしていたために、半マイルの地点まで近づいたときには、遺体の在り処を示す小さな木片が、まるで白く変色した帆柱か何かのように見え、遺体は、その砂原に正装安置されている王侯の遺骸か、一世代もかけて積み上げられた石塚のように異彩を放っていた。だが近寄ってみると、それはわずかばかり肉が付着した何本かの骨片にすぎず、実際、見渡す限りの海辺では、ほんの小さな突起物にすぎなかった。それはまったく見栄えのしない代物であり、五感や想像力に強く訴えるところなどまるでなかった。ところがそばに立って見ているうちに、遺骨は次第に存在感を増していった。浜辺と海のほかに見えるものといえばただこの遺骨だけであり、空(うつろ)な海鳴りの音はまるでそれに語りかけているかのようであったし、骨と海とは以心伝心の仲であって、女々しい同情心を抱いている私などは必然的にそこから閉め出されているような気がした。この死体こそ海辺の所有者であり、海辺がもつ特定の主権の名において、生者にはない支配権をそこに振るっていたのである。」

「海は広大にして野性的であるが、こうして人間の技術が生んだ廃物や残骸を、はるか遠くの岸辺まで運んでいく。海が吐き出さないものなど、果たしてあるのだろうか。海は何ひとつそこにじっとしていることを許さない。海底にしがみついている巨大ハマグリでさえ例外ではない。(中略)一〇〇年以上昔に難破した古い海賊船の破片だって、今日この日、岸辺に打ち上げられるかもしれない。」

「海面のあちこちには、雲の影が黒点となって現われていた。ところが空は隈なく晴れ渡っていたので、黒点がなければだれも雲の存在には気づかなかっただろう。(中略)こうして船乗りは、自分のいる場所に雨を降らせるとは限らないはるかな雲や驟雨を、一日中、あらゆる方角に発見できるわけだ。七月に行ったとき、私たちは、大型ニシンの大群が水面に立てるさざ波のために、雲の影とほとんど区別がつかない、これと同じ濃紺色に染まった水域を目撃した。(中略)すぐ近くの水面に、ニシンのとても長くて鋭い黒い背鰭(びれ)が二、三インチ現われるのを見ることがある。また、時折私たちは、岸辺で泳いでいるバスの白い腹を目にした。」

「ギリシア人たちも、近代科学の光を当てて海を見たならば、たとえ海がコムギを産出しなくても、それを「不毛なもの」(ἀτρύγετος)とは呼ばなかっただろう。博物学者たちは、今では「陸地ではなくて海が生命の中心領域」――植物の場合は別としても――だと主張しているのだ。ダーウィンは、「陸上の最も密生した森林も、それとよく似た海の密林地帯と較べると、ほとんど砂漠のようにしか見えない」と断言している。アガシ(中略)とグールドは、「海はあらゆる種類の動物に満ちており、陸地の顕花植物の種類などはその足もとにも及ばない」と言い、「試みに非常に深い海の底を浚(さら)ってみると、海底は砂漠に似ていることもわかった」ともつけ加えている。デゾール(中略)の言葉を引用すれば、「従って、最近の科学調査は、海から万物が生まれたという、古代の詩人、哲学者たちによって漠然と予感されていた偉大な思想が正しかったことを、はっきりと実証している」。(中略)こんなわけで、その日の私たちは海を「不毛な」ものとしてではなく、ずっと正しい名称といえる「諸大陸の実験室」として、もう一度つくづくと眺め渡したのであった。
 さて、筆者はこれまでのんびりと物思いに耽ってきたが、どうか読者の皆さんは、その間も波が片時も休むことなく岸辺を洗い、潮騒の音を轟かせていたことをお忘れにならぬよう願いたい。」



「第七章 岬横断」より:

「このように、潮を待つということが海辺の暮らしの特徴である。「さあね! まだ二時間は出発できないだろうよ」という返事をよく耳にする。陸地の人間は待つことに慣れていないので、初めはうんざりしてしまう。」


「第九章 海と砂漠」より:

「海岸は一種の中立地帯であり、この世界について思いを巡らすにはとりわけ好都合な地点である。また、ごくありふれた場所でもある。永遠に陸地を洗う波は、あまりに遠くまで漂い、飼い馴らすすべもないので、親しく付き合うことはでいない。日照り雨と海の泡を浴びながら果てしない浜辺を這うようにして歩いていると、われわれ人間もまた、海の泥から生まれたことが実感できる。
 海岸は荒涼とした、いやな臭いの漂う場所であって、ひとに阿(おもね)るようなところはまったくない。カニ、蹄鉄、マテガイ、その他、海が打ち上げるありとあらゆるものが散乱する、ひとつの〈死体保管所(モルグ)〉であり、飢えたイヌが群れをなしてうろつき回るかと思えば、潮流が施してくれるわずかばかりの食べ物を、毎日カラスが啄みにやって来る。人間と獣の死骸が浅瀬に仲良く堂々と横たわり、太陽と波の中で腐り、漂白されている。潮が満ちるたびに死骸は寝床の上で反転し、からだの下に新しい砂のシーツを敷いてもらうのだ。そこに赤裸々な自然(引用者注: 「自然」に傍点)がある――非人間的なまでに誠実で、人間への配慮などには微塵も患わされず、カモメが水しぶきを浴びて旋回する切り立った海岸を、少しずつ齧り取っている自然が。
 この日の午前中、私たちは遠くの方に、枝がひとつついたまま風雨に晒されている丸太のようなものを認めた。やがて、それはクジラの主要な骨格のひとつだとわかった。海上で脂肪層を剝ぎ取られてから遺棄されたその死骸は、何ケ月も前から流れ着いていたのである。」

「われわれは古代という観念を海と結びつけて考えたりはしないし、陸地の場合とは違って、一〇〇〇年前の海の様子など考えてもみない。海は今と同じように、いつも荒々しく計り難かったに決まっているからだ。(中略)海は地球を取り巻く原野である。それはベンガルのジャングルよりも広く、棲んでいる怪物の数も多くて、都市の埠頭や海辺の人家の庭を洗っている。ヘビ、クマ、ハイエナ、トラなどは、文明が進むにつれて急速に消滅しつつあるが、最大の人口と最高の文明を誇る都市でも、サメを脅してその埠頭から遠くへ追い払うことはできない。この点からいえば、その都市は、トラが出没するシンガポール以上に進歩しているわけではない。」





こちらもご参照ください:

谷川健一 『渚の思想』
根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー)




























































































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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

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趣味: 図書館ごっこ。

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