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高橋康也 『ノンセンス大全』

「《もの》にはもともと名前などありはしない。名前は、人間が自分の都合でつけたものだ。だからその《都合》以前、つまりものに《命名》する以前のアダムは、ものとの原初的交感に生きることができたのである。」
(高橋康也 「名なしの森にて」 より)


高橋康也 
『ノンセンス大全』


晶文社
1977年1月5日 印刷
1977年1月10日 発行
375p 索引・文献xxi
A5判 仮フランス装 機械函
定価3,000円
ブックデザイン: 平野甲賀



本書「あとがき」より:

「個人的な記念の意味で原型のまま収録した「『荒地』におけるセンスとノンセンス」のほかは、どの文章も初出の姿を多少とも変えている。場合によっては、修正はかなり根本的であり、いま本書全体をふりかえった著者の気分としては、評論集(引用者注: 「評論集」に傍点)というより書きおろし(引用者注: 「書きおろし」に傍点)に近い。」


本文二段組。本文中図版(モノクロ)多数。


高橋康也 ノンセンス大全 01


帯文:

「言葉遊び、鏡の国、球形の肉体……少女アリスからレノンまで、ノンセンスの狩人高橋康也の10年にわたる論考を一挙収録
図版多数・詳細な文献目録を付す」



帯背:

「決定版
鏡の国の住人たち」



目次:

序 なぜノンセンスか
 1 ノンセンスとナンセンス――ジョン・ケージによせて
 2 ノンセンスと狂気――ジョージ・スタイナーとの対話
Ⅰ ジャバーウォック狩り
 1 ジャバーウォックの歌
 2 ハンプティ・ダンプティ式注解
 3 桃太郎の旅立ち
 4 何も意味しない音
Ⅱ ハンプティ・ダンプティのために
 1 もうひとつの楽園 もうひとつの喪失
 2 名なしの森にて
 3 ことば・からだ・こころ
  a 球形の肉体――錬金術
  b 毀たれた三角形――意味論
  c 毀たれた肉体――精神病理学
  d 復活する肉体――救済論
Ⅲ 不思議な鏡の国――ルイス・キャロルの世界
 1 ついにアリスが来た――反童話の系譜について
 2 ホモ・ルーデンスの栄光と悲惨――ルイス・キャロルとその時代
 3 不思議の国のマリス――パロディの構造
 4 表層としての世界――ルイス・キャロルの問題
 5 不思議な鏡の王国の興亡――『アリス』から『スナーク』をへて『シルヴィー』へ
 6 言葉遊びから言葉狂いへ
 7 魔術と反魔術――キャロルとレオナルド
Ⅳ 瘋癲老人の見たもの――エドワード・リアの世界
 1 《the bad mad sad》――リア小伝
 2 恍惚と受難――リメリックの宇宙
 3 瘋癲老人ふたり――リアとキャロル
Ⅴ イノセンスの構造――『マザー・グース』の世界
 1 カオスとフォルム
 2 表層の恐怖
 3 ノンセンス猫四態
 4 なぜなぞの謎――『マザー・グース』からマグリットへ
Ⅵ ノンセンスの系譜
 1 解体と建築――シェイクスピアにおけるセンスとノンセンス
 2 鏡の国のリア
 3 宴の終り
 4 Much Ado about 《Nothing》――非存在の存在
 5 予言とノンセンス――ブレイクの造語をめぐって
 6 ハンプティをもとにもどすには――マラルメと英語
 7 詩神としての少女――キャロルとジョイス
 8 アリスは彼女の独身者たちに裸にされて、さえも――スウィフトからデュシャンへ
Ⅶ ノンセンスと現代
 1 『荒地』におけるセンスとノンセンス
 2 ノンセンスとアブサード――キャロルとベケット
 3 意味と無意味――ベケットの場合
 4 誰がしゃべるのか?――アリスから「名づけえぬもの」へ
 5 言語の生と人間の死――イヨネスコ・ノート
 6 ある剽窃の物語――キャロル、アルトー、ドゥルーズ
 7 不思議の国の哲学者――ウィトゲンシュタインとキャロル
 8 キートンとチャプリン
 9 ジョン・レノンセンス論
 10 言葉の受肉――劇化された『アリス』
Ⅷ 極東の不思議の国にて
 1 井上ひさしとノンセンスの復権
 2 吉岡実がアリス狩りに出発するとき
 3 加藤郁乎とスリッピング・ビューティの行方
 4 矢川澄子とことばの国のアリス
 5 「別」と「役」と「実」の話
 6 人形としてのアリス

あとがき
初出一覧

参考文献
索引
 主題索引
 人名索引



高橋康也 ノンセンス大全 02



◆本書より◆


「何も意味しない音」より:

「「ミコーバー氏はまた単語をいろいろに組み合せては自分の耳を楽しませた。もちろん、無意味で不必要なやりかたで並べるのである。だが実は、この奇癖はべつに氏にかぎったものではない。私はこれまでの人生で、こうした無用なる単語への偏愛を多くの人たちのなかに認めたことがある……。」
 デイヴィッド・コパーフィールドは、たえず借金をしょいこんで債務者収監所の影のもとに暮しているこの愛すべき市民社会落伍者ミコーバー氏について、こう語っている。ディケンズが「自作中いちばん好きだ」と認める自伝的小説『デイヴィッド・コパーフィールド』のなかで最も魅力的なこの人物には、作者の父親の思い出が描きこまれているといわれる。落伍者や人外者(にんがいもの)のひしめく社会下層部の生活を知りつくしたディケンズの観察は、おそらくここでも狂いはないのであって、ミコーバー氏におけるヴィクトリア朝市民社会からのはみ出しと「無用なる単語への偏愛」の結びつきは、決して偶然ではなさそうである。
 似たような作中人物はほかにもいくらも思い起すことができよう。芝居だけでも、たとえばゴーリキーの『どん底』にうごめく「余計者」の一人サーチンは、昔機関手だったころにいろんな単語が好きだったことを思い出し、人間の言葉にすっかり飽き果ててしまったいま「シカンブル」という無意味な言葉をくりかえし呟く。ベケットの瘋癲老人クラップは「スプール」とか「ヴィデュイティ」といった単語にわけもなく魅せられ、フェティシズムにも似た奇妙な愛着を示す。」
「疎外された者が補償的・退行的な楽しみとして《何も意味しない音》を愛撫する姿を陰画(ネガ)とすれば、その陽画(ポジ)ともいうべきものもあるはずである。疎外とか抑圧などというものを全く知らぬがゆえに、社会内のコミュニケーション(《意味(センス)》の受け渡し)の具たる日常言語を蹴っとばし、《センス》を無視した《音(サウンド)》の大盤振舞いをやってのける人物。現実原則から特権的に解放されて、言語行為においても抑えがたい快楽原則を晴れやかに享受している巨人。その最良の例はおそらくラブレー描くところのガルガンチュワ、パンタグリュエル、パニュルジュであろう。(中略)このような言葉そのものへの《偏愛》は、まさしく《無用》であるがゆえに、原初の健康さに輝いている。」

「ラブレー的巨人に劣らず《音としての言葉》に親密に反応する人種が、われわれのまわりにはごまんといる。むろん子供たちである。ウィリアム・ゴールディングといえば、子供の中にひそむ恐るべき獣性を描いた傑作『蠅の王』の著者として知られるが、彼は自伝的エッセイのなかで幼年時代を回顧してこう書いている――「私は単語そのものに魅せられていて、まるで切手か鳥の卵を集めるように単語を集めたものだ……(中略)」このとき、ゴールディングは、『蠅の王』とはまた別の側面で童心の普遍的特性を捉えていると言える。右の文章は、たとえばゴーリキーの『幼年時代』における「魔法にかけられたように意味を失った詩」に魅せられるくだりと、正確に響きあうのである。
 『マザー・グースの唄』にあの説明不可能な魅力を与えているのも、無数の《何も意味しない音》たちである。」

「《意味を失った言葉》が最も純粋な形で現れるもう一つの場合は、秘教的な念誦言語、あるいはいわゆる《グロッソラリー》(異言伝授・霊媒や意識不明者が発する言語)であろう。聖霊によって異言(外国語)を語る力を授かった十二使徒から、わが《いたこ》の口寄せにいたるまで、宗教的熱狂家は説明を拒否する言語現象を見せる。(中略)しかしこれらは現存するいかなる言語とも同一視できぬ音韻系列をなしていて、通常の言語学的立場からは、《何も意味しない音》でしかない。
 もちろん、狂信的見霊者自身にとっては、それらの文句はむしろ過剰なほどに意味を充電された、《すべてを意味する音》である。二十世紀初頭アメリカ西部に発してヨーロッパに広まった聖霊降臨教会という新興宗教があったが、その指導的な牧師の一人でパウルというドイツ人が作ったという〈Schua ea, Shua ea/O taschi biro tira pea……〉云々の詩句にしても、単に無意味な音ではない。レオ・ナフラティル(『精神分裂病と言語』)が指摘しているように、ドイツ語の有名な讃美歌の音韻的構造を踏まえた上での、日常的言語の空無化と非日常的意味の充実という両義的(引用者注: 「両義的」に傍点)な言語行為なのである。もともとれっきとした「意味」をもっている「キリエ・エレイゾン」や「ナムアミダブツ」のような祈りが、ほとんどその意味論的有効性を失ったときにかえって聖なるものを喚起する念誦言語としての効果を現わすということも思い合わせるべきであろう。」

「宗教的グロッソラリーがいわゆる「狂人言語」と近接していることは、ナフラティルの例からも察せられよう。いずれもっと詳しく考えるとして、ここでは「狂人言語」もまた、マクベスの言うように「わやわや狂おしくわめくけれど何の意味もありはしない白痴の物語」であると同時に、正常者のいまだ知らざる秘密の意味と構造をもった音韻体系かもしれないと暗示するにとどめよう。発狂したヘルダーリンは晩年《Pallaksch Pallaksch》という意味不明の語を呟いていたといわれる。この「たわごと」を自作の詩(「チュービンゲン、一月」)の末尾に引用して、現代詩の陥っている失語症的状況を浮き彫りにしたのは、パウル・ツェランであった。逆にいえば、この「たわごと」にはそれほどの意味が隠れているということである。」

「意味から乖離した音の魅惑――これを落伍者(アウトロー)的・幼児的・未開的・呪術的・詩的とみなして抑圧するところに、市民(インサイダー)的・成人的・文明的・理性的・散文的な言語が成立する。この正常なる言語においては、意味(センス)と音(サウンド)は安定した絆によって結びついていると信じられる。《センス》がひろく共同体的な価値の《観念》や秩序の《意識》を含意するとすれば、そのような《観念・意識(引用者注: 「観念・意識」にルビ「センス」)》と持ちつ持たれつの関係において、《サウンド》としての言葉は存在するとされる。《もの》と《ことば》、理性(ロゴス)と言語(ロゴス)、(中略)は、一致する――少なくとも平和に共存する――のだという信念である。
 このような信頼は実は約束(引用者注: 「約束」に傍点)への信頼である。ソシュールが言ったように、《意味するもの(シニフィアン)》と《意味されるもの(シニフィエ)》の結びつきはおおむね《恣意的》にすぎないのだから。むろん、この約束が生きているあいだは、あるいは生きている度合いに比例して、その文化は虚偽と空虚から遠いといえる。だが十九世紀の頽落した西欧ブルジョア文化においては、センスとサウンド(中略)の一致という約束(引用者注: 「約束」に傍点)は無残に形骸化し空洞化していた。たとえば《自由貿易》というときの《自由》、《民主主義》というときの《民衆》がどんなに欺瞞的であったかは、アラゴンも言ったように、まさしく《ハンプティ・ダンプティ的》であった。
 にもかかわらず、というかそれゆえにこそ、ブルジョワたちはものとことばの《恣意性》にわざと目をつぶろうとした。いや、わざとというより、そもそも言葉の問題などというものを忘れ去ることが、彼らの世界観の要請であり帰結であった。言葉とは流通の一手段にすぎず、功利的伝達という目的を果たせば廃棄さるべきものだったのである。だから彼らにいわせれば、詩人などという手合いは、ボードレールが誇らかな自虐をこめて語っているように、「いやしい言葉並べ野郎(引用者注: 「いやしい~」に傍点)」にすぎない。そしてあのミコーバー氏と同じように、ブルジョア社会の辺境(リンボ)へとしめ出されるべきなのだ。」

「最も醇乎たる二人のノンセンス作家、キャロルとエドワード・リアがよりによって十九世紀ヴィクトリア朝のイギリスに出現したことは、必ずしも偶然ではないかもしれない。彼らもまた《言葉そのもの》への愛ゆえに、社会の辺境に身を置いた人間であった。しかし彼らこそ、偽りの《意味・もの(引用者注: 「意味・もの」にルビ「シニフィエ」)》によって汚された《音・言葉(引用者注: 「音・言葉」にルビ「シニフィアン」)》を救い出すべき詩人であった。彼らのノンセンスや地口は、巧利的な《意味》の掟によって《言語の冥界(リンボ)》に追いやられた《言葉たち》を、非巧利的な《音》の掟によって、復活させる福音であったのだ――ちょうどジョン・ケージがウッドストックにおけるあの四分三十三秒間に、通常の音楽会によって《音のリンボ》に葬り去られたかもしれないところの《音たち》を聴衆の耳によみがえらせたように。」



高橋康也 ノンセンス大全 03




こちらもご参照ください:

Jenny Uglow 『Mr Lear: A Life of Art and Nonsense』
























































































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Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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