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ミシェル・レリス 『ゲームの規則 Ⅰ 抹消』 岡谷公二 訳

「この苦悩は、不毛しか期待できないほどきわめつきのものであって、どんな魔法の杖のひと振りをもってしても、はなはだしい枯渇を情熱に変えることはないのではないだろうか。たぶん僕は、古代の錬金術師や神秘思想の哲学者たちが「決してあと戻りできない道」と呼んだような道に入りこんでしまっているので、もう前に進む以外に出口を見出すことはできない。」
(ミシェル・レリス 「太鼓=ラッパ」 より)


ミシェル・レリス 
『ゲームの規則 Ⅰ 
抹消』 
岡谷公二 訳


平凡社
2017年11月10日 初版第1刷発行
357p 著者・訳者略歴1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,400円(税別)
装幀: 細野綾子



本書「訳者あとがき」より:

「第Ⅰ巻の原題 Biffures とは元来「削除」を意味するが、(中略)同音の bifur (分岐)という語がその中にひそんでいて、彼は両様の意味で使っている。二十年以上前に第Ⅰ巻だけを訳出したときは、詮方なく『ビフュール』のままにした。」
「今般、全巻の三訳者間で相談した結果、原題はカタカナの音写ではなく、可能なかぎり原題の多義的なニュアンス総体を汲みとって訳すこと、しかも漢語二字で統一することを決した。こうした次第で、とてもレリスの意図すべてを反映しているとはいえないが、第Ⅰ巻は『抹消』とした。」



Michel Leiris "La Règle du jeu I: Biffures" (1948)
本書はアマゾンマケプレで「ほぼ新品」が2,477円(送料+257円)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


レリス ゲームの規則 1


帯文:

「ビフュール
未来が暗い穴でしかなかった日々の
幼少期の記憶の執拗な重ね書き
〈日常生活の中の聖なるもの〉の探求」



目次:

「……かった!」

アビエ=アン=クール
アルファベ
ペルセポネー
昔々ある時……
日曜日
太鼓=ラッパ

訳者あとがき




◆本書より◆


「ペルセポネー」より:

「ことほどさように、幼いころ教えこまれた事柄は、僕に対していまなおこのように強い支配力をもつのであり、昔、話してきかされた架空の物語のいくつかなどは神聖不可侵であって、真実は論議の余地なく、その検証などまったく思い及ばないことなのである。」

「なにしろ僕は、両端へと引っ張りあう互いに正反対の動きによって身動きがとれなくなっているのであり、自分と現実とのあいだに直接の接触を作り出したいといくら望んでいるにせよ、事実へ直行することに対するいわれのない嫌悪だけが動機となって、多くの回り道を強いられ、ぐずぐずしているのである。」

「時には羅針盤で、時にはナルシスの僕は、最初自分をもともと不確かで動きやすいものに、ついでほとんど石と化すまでおのれを観照しつづけて動かぬ人物になぞらえたあと、どのような手を使ってそのあと切り抜けたらいいのかなかなか分からなかった。そぞろ歩きを介入させ、長い二つの観照のあいだの幕間のような――あるいは遊び時間のような――湖の周辺の彷徨に助けを求めたらいいと気づいたのはそのときだ。こうして、かなり苦心したあげく、僕は最初に持ち出した相反する二つの言葉、すなわち彷徨い(羅針盤の針が「方角を見失った」とき、あらゆる方角に動くような)と不変(何について話そうと、いつも自分に立ち戻る人間が変わらないような)とを折り合わせることに成功した。(中略)こういうわけで、僕はいまや、森の中を走りまわり、幼年時代の記憶の眠っているあの湖へたえず立ち戻るナルシスだ。(中略)けれどまだそのあと、飛び込みを、解放の跳躍をしなければならない。それは、幼年時代の水の中に身を浸すことを可能にしてくれるはずであり、水はその瞬間から現実のものとなるのだ(中略)。しかしここで事は複雑になり、比較ははっきりと中途半端なものになる。なぜって、最小限いえることは、ナルシスの跳躍は「死の跳躍」であり、それが彼を解放するとしても、その解放は彼の消滅を条件としているからである……。すると僕のほうはどうなるのか。
 だから冗談はやめだ。そして僕は単刀直入にこれらの幼年時代の思い出の懐の中に飛びこみたい。」

「空気の精や小妖精よりも、水の精(中略)よりも、地の精グノムは子供たちの仲間だ。たぶん、長い髭をはやしているくせに、子供にそっくりの小人のような背丈のせいで。もっと正確にいうと、この貧弱な背丈と周囲のものとの関係のせいで。たとえば、子供たちがテーブルの下に隠れるのと同様、傘の中に入るみたいに彼らがその下で雨宿りをする樹木とか、大人たちの脚の森の中に簡単に入りこんでゆくごく幼い子供たちさながら、彼らが根のまわりをぐるぐるまわる大木とか、(中略)背丈が似ているため、グノムと同じ視角(引用者注: 「視角」に傍点)(体がモラルを作るということを認めるなら、観点といっても同じ)を共有している子供は、彼の中に子供の枠から出ないままで年寄になった場合の自分の姿を認める。グノムの挙動についてきかされたり、絵で見たりするすべて――習慣、いたずら、受難、悩み――は、共犯者たる子供の耳目をそばだたせるだろう。」

「そのヴィロフレで、ずっと昔の夏のある日、日蝕に立ち会う機会に恵まれた。(中略)正確にいって何を見ることが問題になっていたのかあまりよくおぼえていない。重要なのは、別に空で起こっていることではなく(中略)、いぶしガラスのほうだった。(中略)日蝕にあって関心をひいたのは、感光板のように僕の眼と太陽(中略)のあいだに挿入されたいぶしガラスの扱い方だった。見なければならないものなどどうでもよかった。眺めるための方法のことしかほとんど眼中になかった。(中略)真の日蝕とは僕にとって、眼のごく近くにあり、(中略)透明な長方形の板の上にひろがっている闇の層だった。この眼鏡の中にひそかに、怪奇現象――実際に太陽の運行に影響を与える――が不思議な形で入りこんでいるように思われたのだった。」



「昔々ある時……」より:

「なにしろ僕は偏執的なほど秩序好きで、半端なものが大嫌いだから)」


「日曜日」より:

「とことんまでの社会的零落とはしばしば一種の使命感の結果ではないだろうか。それに世にいう「成功者」とは、どんな目的をめざそうと、その野心がどうであろうと、どう転んでも凡庸の域を出ない人たちにすぎぬのではないだろうか。」


「太鼓=ラッパ」より:

「「bifur」という用語――かつて敷砂利のへりの立札に大文字で記されているのを見たとき、強烈な印象を受けた――を引合いに出したとき、僕はむしろ、転轍機の命ずるままに方向を変える汽車がするような、また、時折言葉のレールによって、なにやら知れぬ、めくるめく場所にみちびかれたり、一方で、ビフュール(biffure〔抹消、削除〕)と名づけることのできる動きの中にひきこまれたりする思考が行うような、分岐し(bifurquer)、逸れる(dévier)行為そのものにアクセントを置いたつもりだった。biffure と言ったのは、この言葉にはどっちつかずのものが、道の分岐点や交叉点で僕の舌が道を間違えた瞬間の、つまり「私は言い間違いをした(C'est ma langue qui a fourché〔fourcher は分岐するの意〕)」と思った瞬間の言い間違い(言うはしから取り消すような)の場合に生ずるがごとき、人々のすぐ撤回する仕損じの意味が認められたからである。」

「こうしたテーマは、筋道をつけるためのいわば関節の役割を果たすようになった、連鎖関係を重んじる僕の書き方のおかげで、ありとあらゆる照明の下で検討され、他のテーマと突き合わされて正確なものとなり、こうして全体が、分岐や曲折やさまざまな逸脱からなる線の迷路の中から浮かび出るこれまで知られていなかった形さながらに、次第に姿をあらわしてきたのである。(この種の形の断片としては以下のものがある。すなわち、言葉に僕の与える優越、決まって伝説的な色合を帯びていて、原形質みたいなものを形作っている過去への沈潜、震えおののく感覚の世界にも鉱物界にも抱く執着、砂漠が映し出す僕の拡大されたイメージ、甲冑としての衣服、金銭におぼえる罪悪感、社会階級から離脱するための、時間の支配から逃れるための手段としての文学、いくつかのものを一つに集めたいと思う欲求、多かれ少なかれ僕が疎外感をおぼえている世界の共犯者になりたいという渇望。)だから、まだ bifurs ないし biffures があるとしても、それらは僕にとって、精神をそのわだちから飛び出させ、「踏み固められた道の外に」幸運を探しにゆかせるか、精神を「脱線」させる(中略)、異常な、本来の意味における déroutant〔「道からはずれた」が原意。そこから「面くらわせる」という意になる〕な現象としてしか、もはやあまり意味はない。」



「訳者あとがき」より:

「本書の「日曜日」の章でレリスが、自分が文学者になったのは、文学に対する関心よりも、言葉に対する関心からだといっているのは興味深い。」
「その点で、冒頭の「……かった!」の章は、(中略)『ゲームの規則』全体のテーマを典型的な形で示している。
 これは幼いころ、おもちゃの兵隊をテーブルの上から落とし、それが壊れていないのを見て思わず「……かった!(...reusement!)と叫んだところ、「よかった(heureusement)」と言わなければいけないと大人から注意された、というだけの話である。自分ひとりだけで使っていた、間投詞にひとしい「……かった!」が、「よかった」と訂正されることによって、彼の外にあって、「四方八方にひそかな触手をのばす」、言語というコミュニケーションの手段の一要素に昇格したとき、レリスの感じた、なんともいいがたい不思議な感情、一種のめまいが一篇の眼目となっている。
 こうして人は言葉と出合う。そして大概の人間が「……かった!」を忘れ、「よかった」を受け入れて大人になってゆく。しかしレリスは、「……かった!」を決して手放すことができない。」
「「よかった」をそのまま受け入れることのできなかった彼は、当然、言葉に関して辞書の指定する意味だけに甘んじることができない。辞書の中の言葉はよそよそしく、(中略)他人のものにすぎない。他人の言葉(引用者注: 「他人の言葉」に傍点)に対して彼の言葉(引用者注: 「彼の言葉」に傍点)、記憶がつめこまれていて、濃密な樹液のごときものが通い、互いにひそかに連絡しあう彼ひとりだけの言葉(引用者注: 「彼ひとりだけの言葉」に傍点)がある。」
「「よかった」をそのまま受け入れないとは、この世界を受け入れないことである。「よかった」と「……かった!」のあいだには、思いがけないほどの深淵が口を開いている。それを埋めるか、そのあいだに架橋するのでなければ、彼はあらゆる意味でコミュニケーションを失い、孤立化し、狂気か死へと追いこまれるだろう。彼か、世界か、どちらかが変わらねばならない。しかし「……かった!」を手放せなかった彼が、どうしてこの世界に順応することができようか。変わらなければならないのは世界のほうだ。」





憑依者の自画像
――描写と断片の人、ミシェル・レリス
対談:谷昌親×千葉文夫
(図書新聞)


ミシェル・レリス  『ゲームの規則 Ⅱ 軍装』  岡谷公二 訳


































































































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Author:ひとでなしの猫
 
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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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