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ミシェル・レリス  『ゲームの規則 Ⅲ 縫糸』  千葉文夫 訳

「詩法と生きる作法を同時に完成させる仕事に取り組むよりも、むしろ最大限自分の力を使って、賢者と狂人、あるいは占い師と大道芸人が同居するあの詩人と呼ばれる存在になることこそが重要なのではあるまいか。」
(ミシェル・レリス 『縫糸』 「Ⅳ」 より)


ミシェル・レリス 
『ゲームの規則 Ⅲ 
縫糸』 
千葉文夫 訳


平凡社
2018年2月24日 初版第1刷発行
386p 著者・訳者略歴1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,600円(税別)
装幀: 細野綾子



Michel Leiris "La Règle du jeu III: Fibrilles" (1966)
第三巻と第四巻はネットオフにあったので注文しておいたのが届いたのでよんでみました。各2,398円(+代引手数料324円-クーポン割引100円)でした。


レリス ゲームの規則 3


帯文:

「フィブリーユ
還暦を間近にひかえた1967年5月末、
自殺未遂事件をひき起こしたレリスは
夢と幻覚のなかで記憶の縫合手術を試みる」



目次:






訳者あとがき




◆本書より◆


「Ⅰ」より:

「だいぶ前から、私はどんな分野でも、少なくとも滑稽な味わいをもたずになしえるものは大したものでありはしないと考えるようになっている。モーツァルトが『ドン・ジョヴァンニ』を「ドランマ・ジオコーゾ」(要するに、陽気な喜劇)と名づけ、ロマン派が独自の「アイロニー」(場合によっては皮肉たっぷりの)を身にまとったのは瑣末なことではない。」

「私という人間は、ごく平凡な日常的ふるまいにおいても、しかるべきやり方で自分を説明する能力に欠けるという思いにほとんど偏執狂的といえるほどしつこく苛まれるのだが(たとえばつまらない表現でも、どんな言い方をすればよいのか、あらかじめ頭のなかで反芻しなければ、買い物のために店に入れないほどであり、結果としてパリ市内を歩いて買い物をするときに、市街の光景を楽しむのではなく、ひとつのフレーズを繰り返し思い浮かべることで散歩の楽しみの大半が失われてしまい、しかも店に入れば入ったであらかじめ考えておいたのとは違った口の利き方をしたりする)、人と話す際には――幸運が左右する場合、それにまた話し相手に信頼感が抱ける稀な場合を除いて――何を言ったらよいのか、私が口にしうる事柄をどんなふうに言うべきか、ということが気がかりで、ぎこちない話し方しかできないし、(以下略)」

「帰宅の翌日から、寝床から起き上がれない状態が続いた。四十度以上の熱が出て、往診に来た医者は、マラリアに罹ったという診断を下した。この医者による丁寧な治療の甲斐もあり、数日間で熱は下がった。ふだんの自分は読むのが遅いし、注意の集中にたいへんな努力が必要となるが、隔離されていたこの時期は一日に一冊の割合で本を読んで過ごした。読んだのは、さまざまな姿に変身する悪漢の冒険が語られるパリを舞台とする冒険小説『ファントマ』の一部である。(中略)熱が引いたあとも、汗が盛んに出て、シーツは完全に濡れ、病気が治っても、私自身は、まずはじっとりと濡れた寝具類という吸取り紙に、その後はまた別の吸取り紙に吸い上げられ、最後は、横になって寝ていた長椅子に接する壁紙の上に大きくひろがる濡れた染みと一体化したのだった。」

「「生きるべきか死ぬべきか」という問いは、自分にとって、歯をへし折る思いでぶつかってゆくものだったわけではない。いるのか、それともそこにいないのか、ここにいるのか、それともよそにいるのか、私にとってみれば、むしろこうしたものこそが白熱した問いであるはずだ。よそにいたいと思うとき、ここをあとにするのが怖い。そしてよそは、そこに到着したとき、少しも休息をもたらさない。相変らずよそであり続け、そこにいる私が行き場を失うか、私があとにしたものを惜しむ気持ちになおもつきまとわれるか、よそがこことなるにはあまりにも頼りなくて大した評価ができないかのどれかである。きわめて軽微なものも、きわめて深刻なものも、ただ単に舞台装置にかかわるものでも、事態の展開にかかわるものでも(中略)、どれをとってみても時計の振り子のこの無益な遊戯、つまりどこに私がいても、私が何をしていても、その正確無比な進行が心に重くのしかかり、そこから逃れるのは難しい。」

「どんなことになるのか先をよく考えずに突進し、コインを投げてその裏表で決めるようなやり方で自分の命をあずけるに似た向こう見ずなふるまいを成し遂げること。睡眠薬を嚥むことで私がなおも求めていたのは(あらゆる批判をかわすためには、一連の愚行の最後の仕上げとして、輪をかけてそれ以上の愚行を付け加えざるをえなかったというかのように)、無に帰すというよりも、ある種の貪欲さの極限に深く落ちてゆくことだった。」

「「一切は文学だ……」として、文学が心の奥底まで私を腐らせ、私という人間がもはやそれ以外のものではなくなっているというだけでなく、通常の三次元のうちの少なくとも一次元を欠いた世界にあって、もはやインクと紙によって作り出されるものを上回る重みのある事柄は私には訪れることがないということもまたその意味に含めながら、私はそう自分に言い聞かせるのだった。」



「Ⅱ」より:

「私の行動は、自分の身を蝕む病の深さを示すばかりではなく、そもそも私のごとき不出来な人間が他人にどのような思いを強いるのか、そのことにあまりにも無頓着でいることを明らかにする結果しかもたらさなかったのである。」

「ヨンキントの作品は、記憶によれば、描き出される平野のひろがりを受けて、水平方向に長く引き伸ばされたような雰囲気をもち、たしか風車があり、小川や運河には船が浮かび、黄色い大地の上にひろがる空には雲が散在し、痩せこけた樹木が見える風景画の数々であったが――正確な中身がいかなるものであれ、美術館の厳粛な壁に人を吃驚させる風穴があいているように思えたのだった。このように優しさと悲しみが混じり合ったどっちつかずの状態は、それよりずっとあとに、意を決してフェノバルビタールによる昏睡状態に身を投じる行為が、言葉の完全な意味において、完結とも破滅とも言いうるかたちで対応しているといえるかもしれないのだが、私はこれらの風景画を前にして、そんな曖昧な状態の予告を遥か昔に感じていたようにも思われるのであり、いまもなお、風景画に関しては、静かに心に染み入る力が何に起因するのかを明らかにしえぬままだ。北国の寒冷な風土に密生する黄水仙もしくはいぐさを思わせるヨンキントなる名をもつこの画家が、淡色の筆触をもって呼び出す場所は、疑いなく現実のどこかにありながら、境界を区切るというよりも消去するように思われる筆触を眺めながら、私は胸が潰れそうになり、自分が外に引きずり出され、さらにまた無限の彼方に退いてゆく地平線に向かって投げ出されたように感じた。悲嘆と高揚感が混じり合った奇妙な感覚は、それ以後、現代の優れた才能が生み出した作品の数々にひそかに流れていると私が思った要素に通じるものであるが――純粋絵画とはまったく別な水準にあって――要は私の琴線に触れるものがそこにあったということなのだ。これに関して選集を編むというほどではないが、幾つか例をあげてみれば、ピカソの道化師およびバレエ『パラード』のための緞帳画、ベージュ色と灰色の積み重ねがイギリス人少女の一団のためのラグタイムのようにシンコペーションを響かせるキュビスム絵画、詩そのものが詩の主題となるマックス・ジャコブおよび何人かの詩人の手になる作品の一節、友人ランブール(ル・アーヴル生まれ)の物語『極地の子供』、サティ(周知のごとくオンフルール生まれ)の奇妙なまでに裸の音楽といったぐあいだ。さらに言葉を選んでいうと、それは知的判断あるいは美的判断の枠の外にあり、たしかに憂鬱であっても、私にはそれ以上に好ましい何かがありえるとは思われない瞬間に、甘美な旋律の単純さをもって、――少なくともこの魅惑が持続するあいだは――わが真実と思われ、翻訳すれば理解不可能となるものを表現するのだ。」



「Ⅲ」より:

「本書には、さまざまな種類の記述、記憶のなかにある人物の肖像、夢および現実の出来事の叙述、精神状態についてのメモ、雑多な話題についての所見を整理されぬままに投げ入れる結果になったが、すべてはこれといった成果をあげぬままに折り重なってバロック的な繁茂の状態を生み出している。」
「いまやこの状態から脱出しなければならない……。」

「あまりにも長々と続くので時間の目印をつけようにもできないでいるこのとりとめのない記述に、歳月の経過とともに生じる変遷と出来事の彼方に、一撃のもとに、私が言い当てようと望む本質を、把握可能な塊として凝縮させるための最終的な努力に先立って、あえて現在時を導入すべきと思われたとき――本はどこまでも勝手にひろがり出し、すでに執筆が終わった部分も溶けて私の背後で輪郭の定まらぬ塊に変わり、目標が見えなくなる――私の足元は覚束ないものになったのだ。結局のところ、私の思考が強固なものとなるどころか稀薄になるように思われるのはあまりにも緩慢だからであり、時間の観念が固定観念と化すまでに私に取り憑くのであり、その一方では時を挫折させるための文章行為に対する狂おしい執着が強まるのだった。それでもなお、いわゆるバロック趣味なるものに誘われて、まっすぐ目標に向かって進むのではなく、装飾模様と脱線話の寄せ集めとなる(あたかもそれらがわが探求の直接の帰結だというかのように)道筋ははっきり見えていて、そこにあるのはすみやかに目的地に達したいという思いを邪魔するやり方なのである。だがそれと同じくらいによく見えているのは、諦めてそうした道に突き進めば、自分独自のものである本来の主題から逸れてしまうことになり、こうしたバロック趣味はすでに美的感性の問題に関する自分の性癖の一要素となっており、(望んでいるかそうでないかは別として)真理といってもあまりにも微妙で感覚的なものであって、美と深いつながりをもつので、現実の生活のなかで私の心を動かしたり、私の心を惹いたりするもの、そしてまた文学面にあっては、抗しがたい魅惑があって否応なく私をゲームのなかに引きずり込むものを通じて追求をおこなうほか手立てはない。」





こちらもご参照ください:

千葉文夫 『ファントマ幻想 ― 30年代パリのメディアと芸術家たち』

ミシェル・レリス  『ゲームの規則 Ⅳ 囁音』  谷昌親 訳









































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分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

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将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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