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池上俊一 『動物裁判』 (講談社現代新書)

「図式的にいえば、古代社会・異教世界では、神秘的な「自然世界」の秩序をまもり回復するために、人間が犠牲にされた(中略)のにたいし、一二・一三世紀以降のヨーロッパ社会においては、「人間世界」をまもり、その条理を自然世界にまで貫徹するために、動植物まで人間同様の裁判にかけられ、処刑ないし破門されたのである。」
(池上俊一 『動物裁判』 より)


池上俊一 
『動物裁判
― 西欧中世・
正義のコスモス』
 
講談社現代新書 1019 

講談社 
1990年9月20日 第1刷発行
2003年3月20日 第12刷発行
233p 参考文献1p
新書判 並装 カバー
定価700円(税別)
装幀: 杉浦康平+赤崎正一
カバー: 擬人化された動物(一九世紀、スロヴェニア地方)



本文中図版(モノクロ)26点。章扉図版(モノクロ)4点。
本書はこのまえネットオフで購入しておいたのをよんでみました。


池上俊一 動物裁判 01


カバー文:

「法廷に立つブタ、破門されるミミズ、モグラの安全通行権、ネズミに退去命令……
一三世紀から一八世紀にかけてヨーロッパに広くみられた動物裁判とは何だったのか?
自然への感受性の変化、法の正義の誕生などに言及しつつ
革命的転換点となった中世に迫る「新しい歴史学」の旅。」



カバーそで文:

「世俗裁判所の審理――犯罪を犯した動物たちは、その行為が土地の有力者によって
確認されると、ただちに逮捕され、領主裁判所ないし国王裁判所付属の監獄にほうりこまれる。
監禁は、地方の領主の代訴人=検察官が証拠調べ(予審)をするあいだじゅうつづく。
そしてそれがすむと、検察官は被告の起訴を請求し、受理されれば、
被告の弁護士が任命されて、被告は裁判官の前に出頭を命ぜられるのである。
裁判がはじまる。証人の証言をきき、被告に帰された事実にかんする
かれらの肯定的供述をえたあとに、検察官は論告求刑をなす。
それにもとづいて、裁判官は無罪または有罪の判決をいいわたす。
裁判では、審理のどの過程においても、人間にたいするのとまったく同様なすすめ方をするよう
手はずがととのえられた。極端な例では、動物が判決を獄中でまっており、
判決がくだると裁判所の書記によってそれが動物にむかってよみあげられる、といった慣習や、
動物を拷問して絞りとった苦痛の叫び声を自白とみなす、といった習わしがあった。
――本書より」



目次:

プロローグ
  サヴィニー村の悲劇
  母ブタは有罪、仔ブタは無罪
  めずらしくなかった動物裁判
  狼男の百鬼夜行
  動物裁判とのであい
第一部 動物裁判とはなにか
 1 被告席の動物たち
  獰猛だった黒ブタ
  ヨーロッパ各国にのこる史料
  世俗裁判所の審理
  火刑、絞首刑、生き埋め
  教会にはかならず牢があった
  バッタ、ミミズも裁かれた
  被告=昆虫を召喚する
  弁護士の抗弁
  破門の儀式
 2 処刑される家畜たち
  もっとも多いブタの殺人
  服を着せられたブタ
  裁判費用は領主負担
  のこる領収証
  所有者まで裁かれた事件
  ブタの「現行犯」
  ウシも法廷に
  イヌ、ネコ、ロバも
  獣姦両成敗
  ブタの子か、ヒトの子か
  忌むべき犯罪は火刑に
  けがれた灰は風でとばす
  ヴィクトル・ユゴーのヤギ裁判
  植物や鐘までも
 3 破門される昆虫と小動物
  飢饉をまねく昆虫
  毛虫の破門
  弁護士に救われた甲虫
  モグラに安全通行権を
  シャサネの大弁護
  毛虫に聖水散布
  ゾウムシの土地所有権
  未成年とみなされた毛虫
  ネズミに退去命令
  スイスの氷河を破門
  昆虫も保有権・生存権をもっていた
 4 なぜ動物を裁くのか
  エリートはどう受けとめたか
  ボーヴェジ慣習法
  所有者に責任なし
  中世は慣習法の時代
  トマス・アクィナスの動物裁判観
  裁判を黙認したエリート
  迷信・愚行説
  擬人化説
  動物裁判はパロディーか
  モーセの掟とアニミズム
  威嚇刑説
  動物裁判の合理性
  「虫の視点」と「鳥の視点」
第二部 動物裁判の風景――ヨーロッパ中世の自然と文化
 1 自然の征服
  近代より革命的な中世
  「切りひらき耕せ」
  重量有輪犂・水車・風車の発明
  三圃制と都市の登場
  農民の狩り、貴族の狩り
  征服と領有の精神
 2 異教とキリスト教の葛藤
  うわべだけの改宗
  破壊・代替・変性
  異教をとりこむキリスト教
  まざりあうキリスト教とアニミズム
  アニミズム「退治」と「追放」の差
  ゲルマン人の動物御供
  自然の秩序から人間の秩序へ
 3 自然にたいする感受性の変容
  自然への恐怖心
  キリスト教的自然表現
  ゴシック期の変化
  風景が絵画のメイン・テーマに
  リアリズムの誕生
  人間中心的感受性の時代に
 4 自然の観念とイメージ
  一二世紀の革新性
  プラトンとアリストテレス
  機械になる自然
  神々と精霊の「森」
  魔性を失った森
  動物の悪魔化
  飼いならされた自然、「庭園」
  「宇宙の自然」と「人間の自然」
  身体から機械へ
  自然法とローマ法・教会法
  動物裁判の理論的支柱
 5 合理主義の中世
  中世合理化運動の落とし子
  民衆文化とエリート文化の接点
  動物裁判とはなんだったのか
  合理性・刑罰・正義の濫用
 6 日本に動物裁判はありえたか
  日本人の動物観
  人間と自然の共生
  神のおりきたる樹
  日本ではおこりえなかった
エピローグ
  ヨーロッパ的文化=自然関係のみなおし
  保護と駆除は表裏一体
  原告と被告の逆転



池上俊一 動物裁判 02



◆本書より◆


第一部より:

「たしかに中世の農村では、そして多かれ少なかれ都市においても、人間は動物と雑居し、たがいに肩のふれあうような生活をおくっていた。それだけに、両者のあいだに事故が誘発される確率は、かなり高かった。ウシやウマに引かせた荷車が転倒したり、騎馬から振りおとされたあげくに愛馬にふみつけられたり、またとくに、狂暴なブタに襲いかかられることは、頻繁(ひんぱん)であっただろう。
 当時のブタは、まだイノシシにちかい、牙のはえた黒ブタで、相当獰猛(どうもう)であったし、(中略)女子供に襲いかかって殺傷することは、十分ありえた。」

「処刑方法は、絞首刑がもっとも普通にみられるものであったが、もちろん他の処刑方法も存在した。たとえば、瀆聖(とくせい)(中略)・性的逸脱行為や魔術・異端は、初期中世以来、伝統的に火刑に処せられることとなっており、したがって獣姦罪に問われた人間のみか、相手の動物も火刑台の露と消えたのである。火とそこからのぼりたつ煙には、ものを浄め、もろもろの害悪を防止する効能がある、と信じられていたのである。
 だが、微妙なちがいでべつの処刑方法が採用されることもあった。すなわち、人間を食い殺すというおなじ犯罪でも、それが、土曜になされたのなら絞首(絞足)刑なのに、金曜ならば、断食の掟(おきて)の侵害として生きたまま焼かれる、というふうに変更されることがあったのである。
 ほかに、斬首(ざんしゅ)刑・石打ち・溺殺(できさつ)・生き埋め・磔刑(たっけい)・四つ裂き・切り刻みなどの刑に処せられることもあった。」

「教会裁判所は、罪人による悔悛の秘蹟のための告解、およびそれにたいして課されるつぐないの業(わざ)にかかわる「内法廷」と、キリスト教社会の秩序維持の見地から懲罰を要する犯罪者に報復し、回心させるための「外法廷」をふくんでいた。(中略)そしてそれは、堕落し矯正(きょうせい)不可能なカトリック教会の成員を教会社会からとりのぞき、悪魔の領域においやる、という“破門制裁”を最後的手段として行使した。」

「さて、動物裁判にかんしてこの教会裁判所で裁かれたのは、数のおびただしさゆえに、まとめてとらえることの不可能なハエ・ハチ・チョウ・ネズミ・アリ・ミミズ・モグラ・ナメクジ・ヒル・カタツムリ・ヘビ・バッタ・ゾウムシその他の甲虫・青虫・毛虫などの昆虫、および小動物であった。これら大発生した害虫・害獣が、畑や果樹園、河川や湖沼を荒らし、汚染するのをふせぐために、呪いの言葉を発し、くわえて、祓魔(ふつま)(悪魔祓(ばら)い)と破門制裁の儀式にすがることを根拠づけるために、裁判がおこなわれた。
 この教会裁判所での動物裁判は、おおよそ以下のように展開した。
 まず訴訟は、昆虫や小動物の被害になす術(すべ)なく業を煮やした住民が、検察官(代訴人)を任命して、管轄の裁判所の裁判官に自分たちの主張を明記した訴状を提出することではじまる。訴状には、被災地の指定(小麦畑かライ麦畑か、はたまたブドウ園か)や被害の状況とその価値、加害者の形色・特徴などの正確で詳細な記載をして、人違い(動物違い?)を理由にうったえの無効が主張されたり、当該動物が、自分が召喚(しょうかん)の対象となっていたとは知らなかったなどと、いいのがれせぬようにした。
 だが通常は、司教代理判事(または司教)は、昆虫や小動物をはじめから被告席に呼びだすことには同意せず、住民に、神の怒りを慰撫(いぶ)するための儀式によって災害を終息させるようはたらきかけた。つまり、教会はまず、昆虫の大発生などによる災害を、人間の罪深さにたいする神の怒り、懲罰とみなし、神の慈悲にすがり、災厄をまぬがれさせてもらうよう、公の祈禱(きとう)や行列、十分の一税支払い、ミサ執行、禁欲行、善行などをすすめたのである。
 ついで、あるいはそれらといっしょに、今度は昆虫や動物を悪魔や悪霊などの悪の世界の手先ないし化身とみなし、祓魔の儀式をおこない、呪いの言葉を発する、という段どりがある。
 このような神の慈悲にすがる儀式と悪魔祓いの儀式は、裁判の開始に先だっておこなわれるのが普通だったと思われるが、裁判の途中でそれらの実施が決定され、それがうまくゆかないときに、破門宣告をくだす、という手はずになることも多かった。」

「さて、ヨーロッパ中世・近世の人たちが、法の掟に従属させたのは、じつは動物だけではない。なんと、植物や静物をも、人間が裁いた例が散見されるのである……。
 中世のアルザス地方のホーフェンとビューレンちかくのヘッツェルホルツの森で、殺人が犯されたが、その犯人をみつけだすことはできなかった。ストラスブールのプファルツ(市庁舎)裁判所は、やむなく森の死刑を宣告し、その森の大樹林は伐り倒され、薮(やぶ)と灌木(かんぼく)しかのこらなかった、という。」
「さらに、一五世紀末のある日の夜半、フィレンツェ共和国で神政政治をおこなったサン=マルコ修道院長、聖サヴォナローラの勢力が失墜しつつあったとき、市当局や反対派に抵抗するべく、その一党を呼びあつめる合図につかわれた鐘楼の鐘は、コムーネ(都市共和国)の最高政務官たちによって、共犯とみなされ、死刑囚と荷馬車に同乗させられて市内引きまわしの刑に処せられた。つづいて、その鐘は、城壁外の郭外地への流謫の刑を宣せられ、その地の地下室に一一年のあいだ幽閉されていたという。」

「一二二一年ないし二九年、スイスのレマン湖を汚染したウナギたちは、破門宣告のおどしのもとに、その場を去るよう催告された。しかしそれは無条件追放ではなく、ローザンヌ司教は、その際、レマン湖の一隅をかれらにあてがい、そこに引きこもるよううながしたのである。そしてウナギたちは、以後、そこからでることができなかった、という。
 一四世紀にマインツ選挙侯国クル市(スイス東部)ちかくで大発生した幼虫と甲虫(中略)にたいし、被害をうけた農民たちの要請により、訴訟がおこされた。」
「三度連続して召喚し、三度目の期日までに出頭しなかったにもかかわらず、裁判官は被告にたいし、体の小ささと、まだ幼いことを考慮して欠席を大目にみた。そればかりか、くだんの甲虫たちには補佐人兼弁護士がつけられ、その堂々たる弁護のおかげで、かれらは現地から追放されるかわりに、べつの土地をわりあてられ、そこで快適に暮らすことができたという。」

「図式的にいえば、古代社会・異教世界では、神秘的な「自然世界」の秩序をまもり回復するために、人間が犠牲にされた(中略)のにたいし、一二・一三世紀以降のヨーロッパ社会においては、「人間世界」をまもり、その条理を自然世界にまで貫徹するために、動植物まで人間同様の裁判にかけられ、処刑ないし破門されたのである。」



第二部より:

「人間は、自分の内部の野性や自然を抑制し文明化する前に、まず自分の外の自然や野生を征服し、飼いならさなくてはならなかった。その点では、よきにつけあしきにつけ、中世は今日の文明の発展に最大の貢献をしたのである。つまり、量的のみならず質的にも、自然の征服・馴致(じゅんち)・搾取(さくしゅ)の歴史において、もっとも革命的な転換点を中世がしるしたことを想いおこすべきである。」

「それまで人間は、自然のはかり知れない威力の前に平伏し、それを呪術的な方法で慰撫しつつ自然と共生し、自然の一部と化して生活をおくってきた。
 しかしその時点にたっして、自然世界とはべつの原理と構成をもつ文化世界があらわれ、さらにその原理を意識化し、それを根城として自然を自らのシステムに奉仕させようという運動と思考が、緒についたのである。だからこの「征服」は、同時に、自らとことなる外なるものを自らの内にとりこみ、その原理に服させる「領有」であったといえる。
 この領有の運動をささえた精神の構造と、本書の主題である動物裁判を生みだした文化のあり方とには、意識的・無意識的につうじるところがあることは、だれの目にもあきらかだと思われる。なぜなら、自然世界の領有が技術や機械による自然の人間世界へのとりこみであったように、動物裁判は、人間の世界を律する法・訴訟手続を自然に適用して、自然を人間の理性や文化の条理に無理矢理おしこむ装置であったのだから。」

「前近代の非合理主義の残りかすなどではなく、むしろ正反対に、動物裁判は、当時あらゆる領域を席巻した「合理化運動」の落とし子なのではないか、そんな予感がわきおこる。」

「動物裁判とは、まさに自然界にたいする独善的な人間中心主義の風靡(ふうび)した時代(一三世紀から一七世紀)の産物であった。それをイデオロギー的に裏うちしたのは、権力とむすびついた人文主義と合理主義である。またその具体的展開をゆるした社会的現実としては、自然を支配・搾取するための不断の戦いがあった、といえるだろう。」



「エピローグ」より:

「最近では、地球上すべての生き物は平等である、とする生物圏平等主義をとなえるディープ・エコロジーや、動物や樹木が法的権利を有するかどうかを論じた法律学者も登場してきた。(中略)さらに、きくところによると、アメリカやカナダのエコロジスト=グループのなかには、(中略)人間が人間のために、人間を相手どって提起する訴訟の「自然保護」への実効性のなさにたまりかねて、森や湖や河を原告として、裁判を起こす試みを開始したものがあるという。中世の動物裁判と、原告と被告の位置がちょうど逆転したわけである。」
「この「現代版」動物裁判も、本書であつかってきた動物裁判同様、文化と自然の関係の転換を象徴するものかもしれない。」





こちらもご参照ください:

池上俊一 『中世幻想世界への招待』 (河出文庫)



ネットオフ 2018年8月




































































































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