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マッソン・ウルセル、ルイーズ・モラン 『インドの神話』 美田稔 訳

マッソン・ウルセル 
ルイーズ・モラン 
『インドの神話』 
美田稔 訳
 

みすず書房
1959年10月10日 初版第1刷発行
1975年1月10日 新装版第1刷発行
1979年5月10日 新装版第6刷発行
163p 索引4p 訳者略歴1p
図版(モノクロ)8p
17.8×11.8cm
丸背紙装上製本 カバー
定価900円


MYTHOLOGIE DE L'INDE
Par
P. Masson Oursel et Louise Morin
Librairie Larousse, Paris, 1935



別丁モノクロ図版24点。栞ひも付。


ウルセル モラン インドの神話 01


カバー裏文:

「フェリックス・ギラン編集の定評ある Mythologie Générale から、インドの神話をおさめた。著者のひとり P・M・ウルセルは一八八二年生れのフランスの東洋哲学研究家で、パリのソルボンヌ大学教授。西洋とインドと中国の哲学を比較し、それぞれの文化に共通する普遍的な思想を探究した名著「比較哲学」をあらわし、東西思想の比較研究についての多くのすぐれた業績がある。
 このすぐれた学究の手によって、複雑にして多彩なインドの神話の世界は、バラモン教、ジャイナ教、仏教、ヒンズー教などの宗教別に整理され、その雄大なすがたを明らかにした。東洋文化の伝統をたずねる手がかりとして、欠くことのできない書物の一つである。
 カバー写真は「踊るシヴァ」の頭部。インド南部のブロンズ。マドラス美術館の所蔵である。」



目次:



バラモン教の神話
 武士階級の神話
  インドラ神
  宇宙の至上権をもった神々、ミトラとヴァルナ
  ナーサティヤ双神もしくはアシュヴィン双神
  王権に関する神話
 司祭者階級の神話
  火神アグニ信仰
  ソーマ
  サヴィトリ
  スーリヤ
  ウシャス
  プーシャン
  プラジャーパティ
  ブリハスパティ
  アディティ
  トヴァシュトリ
 民間の神話――魔神
  アスラ(魔族)
  ラークシャサ(羅刹)
  ナーガ(竜族)
  ルドラとアmルト(暴風群神)
  ガンダルヴァ、アプサラス
 バラモンの抽象的な神話
  ブラフマー(梵天)とサラスヴァティー
  司祭と神話の神々

バラモン教以外の宗教の神話
 ジャイナ教
  祖師
  ジナあるいは「勝利者」
  別の祖師たち
 仏教
  仏陀の物語
  ジャータカ(本生話)
  大勢の仏陀

ヒンズー教の神話
 ヴィシュヌ神の信仰
  ヴィシュヌ神の化身
 シヴァ神の信仰
  シヴァに関するエピソード
  シヴァとパールヴァティーの子孫
  三神一体(トリムールティ)
 インド神話の発展

訳者あとがき (1959年9月)

索引



ウルセル モラン インドの神話 02



◆本書より◆


「バラモン教の神話」より:

「魔神に対するインド人の考え方はかなり特殊なものであって、そのうえきわめて多様な様相を呈している。
 最初には、魔神と神々とのあいだの境界線ははっきりしていなかった。一般的に「デーヴァ」(Deva)を「神々」、「アスラ」(Asura)を「魔神」と訳しているけれども、実際はいずれも本質的には、精神的な性質とともに肉体的な特性によって現われる神秘な、いちじるしい力を恵まれた存在のことである。」
「もっと後期のアタルヴァ・ヴェーダにおいては、アスラという言葉は魔神に対してしか用いられなくなっている。(中略)このときからデーヴァとアスラとがしばしば戦うのが見られる。
 シャタパタ・ブラーフマナによると、プラジャーパティが神々と魔神の共通の祖先ではあるが、神々(デーヴァ)は嘘をしりぞけて真理をとるのに反して、魔神(アスラ)は真理をしりぞけて嘘をとるとされている。真実しか言わない神々は無力であるように思われていたのに、結局彼らは強大になり、繁栄を獲得するのである。アスラは嘘によって最初は富を獲得しはするけれども、ついにはみずからの損失になるのである。」
「一般的にいって、アーリヤ的な要素の少ない神格、もしくは非アーリヤ的な神格はアーリヤ人によって魔神として描かれたことは明白である。そのなかのいくつかはこんにちまであいかわらず魔神のままである。他のアスラは多かれ少なかれバラモン教の万神廟に後日併合されていった。けれどもバラモン教の万神廟は、アスラの起原を明らかにするいくつかの独自性を後になっても保持しているのである。たとえば、破壊的な相のもとでシヴァ神を礼拝する恐ろしい礼拝形式、またすべての魔神がシヴァ神の一派のなかに数えられるということ、そしてシヴァ神が時として「魔族の主」(Bhûtapati)と呼ばれることなどは、この神の由来がアーリヤではないことを十分に示しているように思われる。シヴァとダクシャの娘との結婚の伝説のことを次のように伝えている、それは右の仮説をさらに確かなものとしている――
 プラジャーパティ(創造の神々)の一人、ダクシャは自尊心からシヴァに対してはげしい敵意をいだいていた。ところでダクシャの娘サティーは、女性の忠実さと敬愛心の模範であり、除け者にされた神(シヴァ)への崇拝に自分の心をひそかにささげていた。婚約の日が訪れたとき、彼女の父はスヴァヤンヴァラ(Svayamvara)の儀式――王の娘が、集まった求婚者たちのなかから自分の夫を選ぶ儀式――を主催し、シヴァの招待を故意に除いてしまった。サティーは、選んだ男のくびにかけることになっていた花環を手にもって前に進み出たとき、彼女が尊崇している神に向かって最後の祈願をとなえた――「私の名が本当にサティーでありますなら」と叫んで、彼女は花環を空中に投げた。「おお、シヴァ神よ、私の花飾りをうけてください!」するとたちまちシヴァの姿があらわれて、その花飾りを肩にかけた。
 しかしその後でも、この結合は身分の低い者との結婚と見なされている。ダクシャが婿と争ったとき、ダクシャはシヴァのことをこう呼んでいる、「羚羊(かもしか)のように優美な眼のわたしの娘をめとった、猿のような眼の神」と。ダクシャはさらに言う。「あの悪魔、祭式を棄て、柵を破壊する奴、シヴァに娘をやったのは、私の気持に反していたのだ……彼はばけものや幽霊の群れを引きつれて、恐ろしい墓場のなかをさまよっている。まるで気ちがいのような彼は、裸で、髪をふり乱し、ひとつなぎの頭蓋骨や人骨の飾りをつけている。気ちがいだ、気ちがいどもの愛人なのだ。もともと素性の知れない魔神の主なのだ。あの狂暴な主、あのろくでなしに、ああ、私の貞潔な娘をやってしまった、梵天にそそのかされてしまったのだ!」
 魔神の生涯はしばしば束の間である。特殊な事情が魔神を必要とするとき、――たとえば魔族そのものを亡ぼすために――時として神々によってつくり出されるこの不吉な存在は、さも意味ありげに生まれたのであっても、ついで永久に姿を消すのである。
 また時には神々と女神は、魔神とたたかうために、彼ら自身恐ろしい魔神の姿になる。たとえばヒラニヤカシプの伝説のなかに、ヴィシュヌ神が獅子の頭の残忍な怪物の姿で、被害者をむさぼり食うのが見られる。
 いま一つの変容のもっとも典型的な例はおそらくシヴァの妃の例であろう。
 パールヴァティーという名のもとでは、彼女は神々しい夫のそばに坐った非常に美しい若妻として示され、シヴァとともに愛と高度な形而上学の問題をかわるがわる話している。
 ウマーという名のもとでは彼女は、シヴァの注目を浴び、彼を魅惑させるために、ヒマラヤ山の峯でもっとも厳しい苦行にはげむのである。
 しかし彼女はドゥルガーという名のもとでは、神々の呼び声にこたえて、すべての神々の地位を奪った魔神を亡ぼすことを引きうける。すさまじい戦闘となる。魔神はかわるがわる水牛、象、千の腕をもつ巨人の姿になる。しかしドゥルガーはびくともしない。獅子にまたがった彼女は、怪物を追払い、槍で心臓をつきさして、とどめを刺す。ドゥルガーは清朗な美しい顔で描かれ、十本の腕をもち、それぞれに武器をもっている。一本の手には、へとへとになった魔神の心臓をつきさした槍をにぎっている。彼女の右足は獅子の上にのせ、左足を魔神のうなじの上にのせている。
 シヴァの妃は魔神を亡ぼすために以上述べたほかにさらに十の恐ろしい姿をとるのである。
 もっとも怖ろしい――そしてもっとも崇拝される――姿の一つは、カーリー女神の姿である。それはしばしばカーリー・マー(黒き母)と呼ばれる。この化身によって、女神は魔族の指揮者ラークタヴィジャとたたかうのである。自分の兵たちが少しずつ倒れていくのを見たラークタヴィジャは、女神をみずから襲う。彼女がおそろしい武器で彼を打つと、彼の体からしたたる一滴ずつの血が彼と同じようにたくましい千人の巨人を生む。カーリーは彼の血をすっかり飲んでしまうことによって、敵に打ち勝つことができる。巨人を征服した彼女は、大地もゆれうごくほど歓びに狂って、踊りはじめる。彼女の夫が神々の求めによって、踊りをやめるように彼女に頼んでも、神聖な忘我の状態にいるので、彼女は彼の姿を見もしないし、死者たちのなかに彼をつき倒し、彼の体の上を歩くのである。ついに彼女は自分のあやまちに気づいて、そのことを深く恥じ入る。カーリーは黒い顔色、長い髪毛をふり乱した、四本の腕の女として描かれる。彼女の一本の手は剣をもち、二本目は切りおとされた巨人の首、他の二本の手で崇拝者たちをはげますのである。彼女の耳飾りは二つの死骸であり、人間の頭蓋骨を首飾りにしている。彼女のただ一枚の着物といえば、切断した手を二列に並べてつくった幅の広い帯である。舌はたれさがり、眼は酩酊しているように充血し、顔と胸は血に汚れている。この女神は一般的に、片足でシヴァの脚の上を、他方の足でその胸の上を踏んで立つ姿で描かれる。」

未来観  リグ・ヴェーダによると、死者は埋葬されるか、火葬にされる。火葬はしだいにひろがり、そして彼岸で太陽か星々の最後の住いにたどりつくための正規な手段とみなされた。
 後日あらゆる種類の区別があらわれてくる。人間の精神的要素(アスもしくはマナス)だけが太陽へむかい、火神アグニによってそこに運ばれるとされる。シャタパタ・ブラーフマナによれば、善人には二つの道がある――おやたち(ピトリ)の方へむかう道と太陽の方へむかう道である。悪人には地獄(ナーラカ)へむかう道がある。ヴェーダ聖典のなかではヤマの国は善人にとって楽園であったのに、プラーナ文献では悪人にとっての贖罪の地でもある。ウパニシャドによれば、完全な認識の成果であり、再び帰ることのないすみかの獲得である梵天にむかう道程と、天界への道程(しかるべき報いをうけたのちにこの世に再びかえってきて生まれかわる)との二つの道を区別すべきだという。かくて仏教の信仰のなかでもっとも強調されている区別が見えはじめてくる。一方では終末のない輪廻(りんね)(サンサーラ)が人生の普通の条件であり、他方はこの輪廻から永久に解放される可能性、すなわちニルヴァーナの実現によって、事物の構成の秘密をさとった人々の道なのである。
 バラモン教の楽園はこの地上界と同じような持ち物を所有するところであるけれども、地上生活の支障に遭遇する危険はない。そこでは輝かしいからだが用意される。地獄という考え方は、古い文献であるアタルヴァ・ヴェーダのなかに見出されはするけれども、後期になって一般化したものである。一般のインド=ヨーロッパ民族の特色は、天界の光につつまれた至福者のすみかという考え方であって、地獄という考え方ではないのである。」










































































































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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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