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J・ゴンダ 『インド思想史』 鎧淳 訳 (中公文庫)

J・ゴンダ 
『インド思想史』 
鎧淳 訳
 
中公文庫 コ-3-1 

中央公論社
1990年9月25日 印刷
1990年10月10日 発行
270p
文庫判 並装 カバー
定価520円(本体505円)


「『J・ゴンダ インド思想史』 一九八一年五月 冨山房刊」



本書「訳者あとがき」より:

「本書は J. Gonda: *Inleiding tot het indische denken* (Philosophische Bibliotheek), N. V. Standaard-Boekhandel, Antwerpen (voor Nederland: N. V. Dekker &. Van den Vogt, Nijmegen) 1948, 319pp. の前半部、Hoofdstuk I. Vedisch Geloof etc. - Hoofdstuk XIII. Kritiek en Materialisme (p. 9 - p. 163) の日本語訳である。」
「なお本書は、さきに(昭和五十六年)東京・冨山房から刊行されたものであるが、この度、中公文庫への収録に当たって若干の修正を施した。」



地図(「古代インド略図」)1点。
本書は2002年に岩波文庫の一冊として再刊されています。


ゴンダ インド思想史


カバー裏文:

「インド思想とは、多様な現象世界の背後にひそむ唯一なるものを求め、それへの復帰を実現しようとする営み――ヨーガ――である。その展開を『リグ・ヴェーダ』からウパニシャッド・仏教・ギーター・古典ヨーガの形式まで辿った、インド学の世界的泰斗による好著の邦訳。インド思想、さらに仏教理解への明解な一視点を提供する。」


目次:

第一章 ヴェーダ――潜在力への信仰と祭式、神々との交流
第二章 ブラーフマナの思弁
第三章 最古のウパニシャッド――梵と我
第四章 古期ウパニシャッド――輪廻、業、ヨーガ
第五章 ジャイナ教
第六章 仏陀
第七章 小乗部派の仏教
第八章 大乗――空観
第九章 第二期のウパニシャッドとマハーバーラタ
第十章 バガヴァッド・ギーター
第十一章 古典サーンキヤ
第十二章 古典ヨーガ
第十三章 革新的思想と唯物論

参考文献
訳者あとがき
年表
索引




◆本書より◆


第四章より:

「さて、「輪廻(saṃsāra)」とは、この世の存在の、絶えることない転回または流転に「随伴する」(saṃ-sr ̣-)こと、個我(アートマン)が業の奴婢となり、現象界に繋縛されている人が、繰り返し(この世に)出生し、存在して止まることがないことをいう。我々は不安・動揺・悲惨の中を漂う寄る辺ない舟のように、この地上で、虚ろで見通しのない輪廻、いわば、あの猛り狂い、退路も知らぬ苦悩と絶望の大海、止まることない苦境の中を彷徨い続ける。そして、あたかも業がぜんまい仕掛けとして働き、ほどけるや再び自動的に捲き上げられたかのように、輪廻を繰り返すのである。この世の生存は悲惨である。このことは、ブリハド・アーランヤカ・ウパニシャッド以来、一段と数繁く、しかも声高に説かれるようになった。「この人、生まるるや、肉身を受けて諸悪と結合せらる。」「骨・皮膚・筋・髄・肉・精液・血・粘液・涙・唾液・糞・尿・風・胆汁・痰の聚合なるこの悪臭を放ち、虚ろなる肉体において、欲望の愉悦もていかんせん。欲望・瞋恚……老・死・病にて攻めらるるこの肉体において、欲望の愉悦もていかんせん。また、我ら、この一切は可滅なりと見る。他の、優れたる大勇者、あるいは転輪の王たりしもの、……(も、これに同じ。)大海に涸渇あり、山岳に崩壊あり、……。かかるごとき輪廻にありて、欲望の愉悦もていかんせん。かかる輪廻にありては、我、あたかも枯井に住む蛙のごとし。」この世の生について、上のような見方が、ガンジスの国の重立った思想の中に、ほとんどくまなく拡がっていった。(中略)この輪廻の説には、世界生起の問題をめぐって、もともと古代的な体系の意識的考察――そこでインド人は天文学的な計数を披瀝するに至った――に端を発したと思われる、容易ならぬ影響力を考えることができる。古典的見解では、日々や季節、歳年が、折々の祭祀や行事と共に巡ってくるように、四大世期もまた循環する。その最後で最悪の世期が我々の“世期”である。それは梵の一日(kalpa)――人間で言えば、四十三億二千万年――という小周期の、さらに千分の一に当たる。カルパに同じ長さの夜を加え、三万六千回繰り返すと、梵の一生涯が終了する。さて梵の一日が終わって、「宇宙卵」は内部で現象的なものが摩滅し、疲弊し切ったままで留まる。そして夜に入ると共に、宇宙卵に含まれたあらゆる要素共々、彼の唯一に吸収され、夜が過ぎると、一切は新しく、無限に始まるのである。この体系は、マハーバーラタや、それとほぼ同時代の作品に至って、完全な形で登場する。それはまた、世界生起について再生を認め、一切は繰り返すと説くものと同じ周期説から起こったものである。仏教徒もこの周期観を基に、世期ごとに仏陀が出現するという劫(カルパ)の体系を発展させ、同時に劫(カルパ)を輪廻の同義語として用いるようになった。これといった目的も新しい展開もなく、絶えず同一の点に回帰する世界過程の中で、個々は必ずや母胎・出生・病・死の苦悩を繰り返し経なければならない。それは人間にとっても、永遠の不安であり、無常であり、不快である。これに対して、一度絶対的存在の観念が現われるや、鮮明で、澄み切った「静寂」(prasāda)、「世界過程の完全な終熄」(śānti)、混じり気なく、ただ自己自身であり、彼の唯一との一致を実現した我(アートマン)の永遠不滅の姿がある。すでに最古のウパニシャッドにおいて、梵以外は「すべて苦悩を齎す(ārta)のみ」という確信が表明されている。理想への願いが強ければ強いほど、梵との合一のみが安祥である。梵を離れ、個として生きるのは苦悩を齎すとの確信が強ければ強いほど、「これ実に偉大にして不生の我なり。そは一切の支配者として、一切の主宰者として、一切の君主として、心臓内にある空所に安らう。……バラモンはヴェーダの学習により、祭祀により、布施により、苦行により、断食により、これを知らんと欲す。……これのみをそ(=目的)の世界として望みつつ、遊行者は遊行す。古人はまさにこのことを知りたれば、子孫を願わざりき、すなわちこの我、この世界(=梵)のわれらに属するに、子孫をもって何かせんと。彼らは実に児子に対する欲求、財宝に対する欲求を離れ、世間より離脱して行乞」し、「欲望なく、欲望を離れ、欲望を成満し、我(アートマン)のみを希求するもの点々彼は梵となり、梵に帰入す」るのである。」
















































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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

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尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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