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中村元/三枝充悳 『バウッダ 佛教』

中村元 
三枝充悳 
『バウッダ 
佛教』


小学館
昭和62年3月20日 初版第1刷発行
354p 執筆者紹介1p
22.3×16.3cm
丸背紙装上製本 カバー
定価2,800円
装丁: 玉井ヒロテル



本書「序文」(中村元)より:

「本書の題名『バウッダ』は、サンスクリット語の Bauddha (ブッダを信奉する人)にちなんでいる。」
「インドの古典では、学派や宗派を意味する特別の語を用いることが少なくて、その教えを奉ずる個人の複数形が、その学派または宗派を意味する。インドでは、宗教や哲学は、それぞれ各個人のものなのである。社会的権威によって束縛されるものではない。だから、西洋でいう「クリスチャニティ」や「イスラーム」に相当する造語法が、古代インドにはないのである。」
「本書は、仏教について、その起原から現代に至るまでを総覧するものであるが、書名を従来のように『仏教』とせずに、あえてサンスクリット語にその言葉を求めて『バウッダ』としたのは、著者と編集者の合議の結果による。」
「「仏教」なる用語の使用例は存外に新しく、明治期の日本が欧米「近代」の移入を図った時と軌を一にする。そして、やはり同時期、同様にして「哲学」が新しく造語され、「仏教」、「宗教」の語も本来的意味を改変されて、すでに日常語化して現在に至っているが、それらは必ずしも本源的な概念を包括するものではなく、また表現しきっているものでもない。昔は「仏法」という語で称していたが、「仏教」としたところに、すでに西洋的思惟による変容がなされているのである。
 むしろ、これらの基本的かつ抽象的語彙(ごい)が日常語化したことによって誤解が増幅され、伝達されていく危険すらはらむ。その典型が「宗教」であり、「仏教」の語であるように思われる。」
「本書は、以上の事柄によって、これら明治期の造語や新用語による観念を大きく超えて企画されたものであり、したがって従来のような、いわゆる「宗教書」でもなければ「仏教書」でもないということになる。」
「すでに数年前から三枝教授と編集部とがしばしば会談され、仏典に関する大きな講座を計画されていたが、諸種の事情の変化が起こったので、その計画を変更し、三枝氏の論稿を中心とし、わたくしが同講座への原稿として依頼されていた論稿を添えて、一冊の書として刊行することになったのである。」



中村元 バウッダ 01


帯文:

「釈教2500年…その驚くべき誤解と変容の軌跡!
三宝とは? アーガマとは? 大乗とは?
「仏教」の常識を破砕する待望の書
付属資料/読誦のすすめ/『梵文般若心経』他」



中村元 バウッダ 02


帯裏:

「仏教全容を知る五部構成
1 バウッダの基本「三宝(トリラトナ)」とは何か…中村元
2 釈尊の思想を包含する「阿含(アーガマ)」とは何か…三枝充悳
3 変質変容を遂げた「大乗(マハーヤーナ)」とは何か…三枝充悳
4 誤用される概念「宗教」「哲学」について…中村元
5 諸言語で読誦する重要経文実例…中村・三枝
*索引付載」



目次:

序文 (中村元/三枝充悳)

凡例

第一部 三宝――全仏教の基本 (中村元)
 仏教徒の標識「三宝」
 仏
 法
 僧

第二部 阿含経典――釈尊の教え (三枝充悳)
 はじめに
 第一章 阿含経とは何か
  序節 釈尊とその時代
   ① 釈尊の時代
   ② 釈尊の登場と仏教の創始
  第一節 阿含経について
   ① 阿含経とは何か(1)
   ② 仏の名称
   ③ 阿含経とは何か(2)
   ④ 阿含経の扱いをめぐる仏教小史
   ⑤ 教判とは何か
   ⑥ 「大乗非仏説」論
  第二節 阿含経のテクスト成立について
   ① テクストと文献学(1)
   ② テクストと文献学(2)
   ③ アーガマ文献の成立史(1)
   ④ アーガマ文献の成立史(2)
 第二章 阿含経のテクスト
  第一節 阿含経のテクストの概要
   ① パーリ五部と漢訳四阿含(1)
   ② パーリ五部と漢訳四阿含(2)
   ③ 漢訳経典の伝承
   ④ その他の諸テクスト
  第二節 阿含経テクストの検討
   ① 阿含経テクストの検討
   ② 阿含経に基づく思想研究の方法
   ③ 『ダンマパダ』とその第一八三詩
 第三章 阿含経の思想
  第一節 阿含経の基本的思想
   ① 基本的立場
   ② こころ
  第二節 阿含経の諸思想
   ① 苦
    (1) 欲望に基づく苦
    (2) 無知に基づく苦
    (3) 人間存在そのものに根ざす苦
    (4) 無常に基づく苦
   ② 無常
   ③ 無我
   ④ 四諦・八正道・中道
   ⑤ 法
   ⑥ 縁起
   ⑦ ニルヴァーナ(涅槃)
   ⑧ 戒・平等・慈悲

第三部 大乗経典――諸・仏菩薩の教え (三枝充悳)
 第一章 大乗仏教の成立
  第一節 大乗仏教とは何か
   ① 大乗・大乗仏教という語
   ② 大乗仏教への道(1)
   ③ 大乗仏教への道(2)
   ④ 大乗仏教への道(3)
    (1) 仏塔崇拝
    (2) 讃仏文学と仏伝文学
    (3) 諸仏の出現
  第二節 大乗仏教の成立
   ① 大乗仏教成立への諸要因
   ② 大乗仏教運動について
 第二章 菩薩
  第一節 「菩薩」という術語
   ① 「菩薩」の語義
   ② 「菩薩」の語の起原
   ③ 「菩薩」の語の展開
  第二節 大乗の菩薩
   ① 大乗の諸仏
   ② 大乗の菩薩(1)
    (1) 法蔵菩薩
    (2) 観音菩薩
    (3) 文殊菩薩
    (4) 普賢菩薩
    (5) 勢至菩薩
    (6) 虚空蔵菩薩
    (7) 地蔵菩薩
    (8) 日光菩薩・月光菩薩
   ③ 大乗の菩薩(2)
   ④ 大乗の菩薩(3)
 第三章 大乗経論とその思想
  序節 「経」と「論」
  第一節 初期大乗仏教
   ① 般若経典
   ② 維摩経典
   ③ 三昧経典
   ④ 華厳経典
   ⑤ 浄土経典
   ⑥ 法華経典
   ⑦ その他の初期大乗経典
   ⑧ ナーガールジュナ(龍樹)
  第二節 大乗仏教中期・後期
   ① 中期・後期の大乗仏教の概要
   ② 如来蔵
   ③ 唯識説
   ④ 密教
  第三節 大乗文化

第四部 「宗教」と「哲学」の意義 (中村元)

第五部 経典読誦のすすめ (中村元/三枝充悳)
 三帰依文
 般若心経

主要参照文献
索引




◆本書より◆


「第二部 阿含経典」より:

「釈尊は定住することなく、つねに遊行(ゆぎょう)の旅にあり、多数の苦しみ悩む人びとに接した。それを釈尊の慈悲と解するのも、また布教とみなすのも、実は必ずしも正しくない、と私は思う。それらの受けとめ方は、すべて信徒や仏弟子から眺めた釈尊像なのであり、釈尊はただひとり、あるいは晩年の二五年間あまりは、いとこに当たる阿難(アーナンダ)を伴なって、路上にまた樹下に、ときに仮りの精舎(しょうじゃ)に、夜を過ごす旅にあり、信徒から朝のみ一日一回の食を受け、一片の貯えももたず、あらゆる欲望から遠ざかって、みずからの途をみずから思うとおりに、争うことなく、競うことなく、衒(てら)うことなく、激することなく、いわば無(む)に徹しきったまま、安らかに、浄(きよ)らかに歩み続けた、と見るのが妥当であろう。
 そのころ、はたして仏教教団(サンガ、僧伽(そうぎゃ))が、少なくともその原型が成立したとしても、それは今日の様相とはまったく異なる。釈尊に帰依して、衷心(ちゅうしん)から尊敬し、思慕する人びとのうち、釈尊にならって出家し、その意志を確かめる一種の儀式を経たあと、釈尊や先輩の仏弟子たちの教えを敬虔(けいけん)に聴き、実践に精進した、いわば有志たちの、きわめて穏やかなサークルという程度に、推察してよいであろう。そして「律蔵(りつぞう)」(ヴィナヤ・ピタカ)の各条項は、日々の生活の指針として、厳粛ではあっても、おそらくごく日常的な規律を指示し、当初はその数も少なくて足り、それがのちにつぎつぎと随犯随制(ずいはんずいせい)があって各条項が付加され、またインド人の特徴である羅列偏重(られつへんちょう)その他も加わって、細目が増加した、と推定される。
 繰り返していえば、バラモン教に対抗し、さらにはウパニシャッドの原理に拮抗(きっこう)して、もしくは同時代のあまたの自由思想家の中からひときわ傑出して、新しい宗教を樹立しよう、そしてそれを喧伝(けんでん)して、信徒を掌握し、弟子を糾合(きゅうごう)し、増強させようなどの意図は、釈尊にはまったくない。自由で清新な思想界の坩堝(るつぼ)において、釈尊は、史実としては仏教を創始したとはいえ、後代のサンスクリット文献にしばしば現われて現在の「仏教」にほぼ相当する「バウッダ Bauddha」(「ブッダ信奉者」が原意)という名称(正確には、サンスクリット語では「バウッダ・ダルマ」または「バウッダ・ダルシャナ」)そのものは、単に「仏の教え」などの語義に相当するにとどまり、現在の宗教概念を適用することは、とんでもない見当違いといわなければならない。
 もとより、釈尊には、当時の多くのものに学びつつ、みずからの思索をどこまでも深めた末に、みずからさとり、みずから真理を獲得し、完成したとの自覚は、強く、固く、その内部にあった。しかし、それを格別の教義にまとめあげて、ドグマを築こうとはけっしてしなかった。」

「仏教がゴータマ・ブッダ(釈尊)にはじまることについては、異論はまったくない。まずこの固有名詞をめぐって論じていこう。
 ゴータマはその姓であり、名はシッダッタ。そのゴータマ・シッダッタがブッダとなり、この結果ゴータマ・ブッダという名称が、通常の呼び名とされる。これらはすべて、当時のインドの俗語であるパーリ語によるものであり、これをいわゆる標準語のサンスクリット語に置き換えれば、ガウタマ・シッダールタ、そしてガウタマ・ブッダとなる。
 本来、ブッダ Buddha は、「目覚める」を意味するブドフ budh を語根として、「目覚めた人」を指す。いうまでもなく「真理に目覚めた、さとりを成就した人」が、ここでは含意されている。ただしそれは、固有名詞ではなくて、普通名詞であり、「さとったもの(覚者(かくしゃ))」がブッダなのである以上、複数のブッダが出現し、登場することは、なんら奇異を感じさせない。
 仏教の興起した当時のインドの思想界の大要については、すでに述べたが、仏教と同時代の、しかもきわめて近い新宗教のひとつに、ジャイナ教があり、その創始者(中略)であるニガンタ・ナータップッタ(本名はヴァルダマーナ)は、尊敬を受けてジナ(耆那(じな)と音写し、「勝者」の意)やマハーヴィーラ(「偉大な英雄」の意)と称されるほかに、やはりしばしばブッダと呼ばれ、名ざされる。また、このジャイナ教が伝えた古い聖典には、仏弟子の中で最もよく知られたサーリプッタ(シャーリプトラ、舎利弗(しゃりほつ)、舎利子(しゃりし))が、ブッダとして登場し、そのほかの仏弟子をもブッダと呼ぶ例が見られる。このように、ブッダという名称は、当時は著名な宗教者に冠せられた共通の尊称であった。
 付言すると、この名称は、時代が下るにつれて仏教においてのみ用いられるようになり、いわば仏教の独占物のごとく転じていって、ここに仏教をインドで「バウッダ(Bauddha)」と呼びならわすようになる。」



「第三部 大乗経典」より:

「さらに深い考察を要する術語に「業(ごう)」がある。これはいうまでもなくカルマ karma (カルマン karman、カンマ kamma)の訳語であり、インド仏教におけるカルマは、行為とその結果(ときに行為の原因などを含む)の総体を意味し、本来はその行為の主体者である個人に終始した。自業自得(じごうじとく)といわれるように、自己の行為を自己が果たし、その結果を自己が受けて、責任を含む行為全体を自己が担うという、個人に関わる一連の行為の全体系を、「カルマ=業(ごう)」は意味した。大乗仏教において、いわゆる他者の発見があり、他者と共通する業が説かれて、「共業(ぐうごう)」という術語が重要視されても、それは業の主流とはなっていない。中国仏教の業(ごう)思想は必ずしも明確ではないが、日本において、とりわけ封建制のもとで、その階級制度の維持のために、万人が必ずそれぞれに異なる区別を、特種の強権をもって、区別から差別へと定着させる必要が生じ、それにこの業が「宿業(しゅくごう)」として理論化される。こうして、その宿業に基づく差別を扇動して強化してゆく際に、それをも大乗文化は承認してしまった。本来、インド仏教は、インド社会を縛りつけているカースト制度にあくまで反対し、いっさいの平等を徹底させようと努め、最後までそれを貫いて、それがかえって仏教のインドにおける衰滅の一因でもあったという歴史的事実が、現在では広く知られているにもかかわらず、そしてその平等のもとにおける個の独立が直接的に「業」に担われているのに反して、日本における大乗文化が、その当時の政治的圧力に屈して、体制擁護に加担し、庶民のあいだに、宿業による差別を容認するという事態を生じたことは、そのはなはだしい逆行があまりにもアイロニィに満ちており、驚嘆というよりは、慨嘆(がいたん)を禁じ得ない。
 すでに繰り返し記したように、仏教は他のいわゆる世界宗教(キリスト教やイスラームなど)に固有なドグマをもたず、釈尊以来、「対機説法(たいきせっぽう)」といい、「応病与薬(おうびょうよやく)」といい、「人(にん)を見(み)て法(ほう)を説(と)く」といい、さらに「八万四千(はちまんしせん)の法門(ほうもん)」と称する(中略)。仏教はそれを基点として多様性の承認という美点を有し、寛容宥和(ゆうわ)という長所があると同時に、何もかもすべてをそのまま承認し受容するあまり、仏教本来の実態を離れて、いたずらに放恣(ほうし)に流れ、ときにはいかがわしい似而非(えせ)教説がとりわけ大乗文化の中に蔓延(まんえん)し、仏教とくに大乗仏教そのものをみずから無力化して、逆説的に人心を痛めつける惧(おそ)れをはらむ。たとえば右の「業(ごう)」の歪曲(わいきょく)に見られるように、本来は万人の解脱(げだつ)すなわち解放の旗手であるべき仏教が、逆に圧迫に向かう例もある。」





こちらもご参照ください:

三枝允悳 『インド仏教思想史』 (レグルス文庫)
渡辺照宏 『新釋尊傳』
















































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