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種村季弘 『詐欺師の勉強あるいは遊戯精神の綺想 ― 種村季弘単行本未収録論集』

「現世の生活を放棄しないと、本当の文学はできないよ。誰がどうなろうと、自分だけは自分の好きなことをやるっていうんじゃなきゃ。人に悪くいわれることも含めて、自分のエゴイズムをつらぬき通さなきゃやっていけないですよ。」
(種村季弘 「落魄の読書人生」 より)


種村季弘 
『詐欺師の勉強
あるいは
遊戯精神の綺想
― 種村季弘
単行本未収録論集』


幻戯書房 
2014年8月29日 第1刷発行
702p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価8,500円+税
装幀: 緒方修一
装画: 山本もえ美「植物教会の授業」二〇一四



本書「凡例」より:

「本書は、既刊の単行本に未収録だった種村季弘の、一九六五年から二〇〇三年までの三十八年間に、様々な媒体に発表された批評などを集成した論集です。」
「内容については、大まかにⅠ(ドイツ文学)、Ⅱ(ブックガイド)、Ⅲ(博物学)、Ⅳ(エロティシズム)、Ⅴ(恐怖)、Ⅵ(アルチザン)、Ⅶ(ユートピア)、Ⅷ(バロック、ナニエリスム、シュルレアリスム)、Ⅸ(宗教、権力)で構成し、各章を貫く世界観の象徴として、前後に Prolog とEpilog を配しています。さらに、その世界への扉として、巻頭に「夢記」を収録しました。」



スピン(栞紐)二本付(黒&水色)。
本書は高価なので買い控えていたのですが、アマゾンマケプレで3,400円(+送料257円)で売られていたので注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


種村季弘 詐欺師の勉強あるいは遊戯精神の綺想 01


帯文:

「文学、美術、吸血鬼、怪物、悪魔、
錬金術、エロティシズム、マニエリスム、
ユートピア、迷宮、夢――
聖俗混淆を徘徊する博覧強記の文章世界。

没後10年・愛蔵版

あたかも美しい
無権力状態(アナーキー)の螺旋

あらゆる色の不在であるような夜は、ついにあらゆる色の共存であるような夜に転位され……巨匠と奇人芸術家、大芸術といかがわしいポルノグラフィー……世界を普遍性においてではなく、その分裂性と多様性においてそのまま救済する……すなわち世界は、そしておそらく宇宙もまた、玩具の集合体でなければならぬ……、まぁ、本を読むなら、今宣伝している本、売れている本は読まない方がいいよ。世間の悪風に染まるだけだからね。」



帯背:

「遍在の、
多様で
ありながら
一であることの
神話」



帯裏:

「ニュートンの林檎が万有引力を証明する以前には、ものみな重力の汚染を知らなかった。それなら人は万有引力の法則の成立不能を証明して、ニュートン以前の空間に立ち戻るのでなくてはならぬ。
万有引力の失効したその空間では、宇宙ロケットなんぞなくても、だれでも秋空のトンボのようにすいすいとび、遠いものは近く、近いものは遠くなって、とぶ男と堕ちる男との分身関係は消滅し、人はいまここで何をしていようと飛行しているのである。
……中略……

「さよう、それが世界史の最終章なのです。」(本文より)」




目次 (初出):

夢記 (「たまや」4号 2006年)

凡例

 Prolog
落魄の読書人生 (「I・DO」 1994年10月号)
ペテン師、世界を駆ける (「BRUTUS」337号 1995年3月15日号)
小説の生体解剖――ローベルト・ムージル『特性のない男』 (「週刊現代」 1977年6月21日号/連載「一冊の本」第13回)

 Ⅰ
転んだあとの杖 (『ドイツ・ロマン派全集8』月報 1984年1月 国書刊行会)
変身の万華鏡――ホフマン『ブランビラ王女』 (「すばる」 1989年10月号)
ホフマンの百面相 (『集英社ギャラリー 世界の文学10 ドイツⅠ』 1991年5月25日)
『ホンブルク公子』と病める言語 (「駒澤大学文学部紀要」23号 1965年3月15日)
非人間的なものの浮力について (『ドイツ・ロマン派全集11 ジャン・パウル…クライスト』 1990年7月30日 国書刊行会)
ヒュメナイオスの死 (「MRh ミスター・ハイファッション」 1999年6月号)
否定の弁証法――M・ブランショ『カフカ論』 (「日本読書新聞」 1968年10月21日)
マイナーの文体について (「文体」6号・1979年新年号 1978年12月1日)
鏡の此方側の弱い男から鏡の向う側の強い男へ (「話の特集」 1976年11月号)
もう一つの「イマーゴ」 (「イマーゴ」 1990年1月号)
パニッツァ復活 (「ちくま」 1991年6月号)
道化服を着たマイリンク (『バベルの図書館12 ナペルス枢機卿』月報 1989年4月 国書刊行会)
遅れてきたSF作家――パウル・シェーアバルト (「週刊朝日百科 世界の文学19」 1999年11月21日)
まだ殺されていない子供たちのために――笑うペシミズムの哲学者ヴィルヘルム・ブッシュ (「図書」 1986年9月号)
言語=死体の分身――飯吉光夫『パウル・ツェラン』 (「現代詩手帖」 1978年1月号)
みじろぐ声 (『パウル・ツェラン全詩集』全三巻 1992年4月 内容見本 青土社)
のらくら者の国――ローベルト・ヴァルザー『ヴァルザーの詩と小品』 (「朝日新聞」 2003年12月7日)
未成年幻想 (「海」 1982年12月臨時増刊号)
のっそりと我もゆかん――ハラルト・シュテュンプケ『鼻行類』 (「朝日新聞」 2002年12月22日)
パトリック・ジュースキント『香水』 (「文藝春秋」 1989年4月号)

 Ⅱ
綺想と驚異の十篇 (「幻想文学」17号 1987年1月15日)
二十世紀の名著――私の三冊 (「東京新聞」 1996年10月6日、13日、20日)
百鬼夜行西欧中世お化け屋敷案内図 (「朝日ジャーナル」 1986年4月1日臨時増刊号)
『カルミナ・ブラナ』を聴きながら (「世界」 1988年6月臨時増刊号)
ヴァイキング式百冊の本 (「リテレール」3号 1992年9月1日)

 Ⅲ
鉱物学的楽園 (「ちくま」 1973年1月号)
聖女の宝石函――ビンゲンのヒルデガルドの『石の書』 (「ミセス」 1991年2月号)
宝石と王と錬金術 (「mon oncle」6号 1981年12月)
宝飾の歴史と文化 (『The 宝石 PART II』 1976年1月15日 読売新聞社)
花の怪物 (「いけばな草月」74号 1970年12月)
魔草マンドラゴラ (「幻想と怪奇」創刊号 1973年4月)
無頭人の戴冠式――マンドラゴラの変身 (「FRONT」 1999年5月号)
一角獣 (『夢万年 聖獣伝説』 1988年4月24日 講談社)
バロックの蒐集理論――フェルディナントとルドルフ (『バロック・コレクション1 バロックの愉しみ』 1987年7月20日 筑摩書房)

 Ⅳ
エロチシズムの世界意志 (『性の思想』 1969年6月15日 太平出版社)
霊のポルノグラフィー――クロソウスキー『肉の影』 (「日本読書新聞」 1967年5月15日)
死とエロスの戯れ――レオノール・フィニのサテュリコン (「芸術生活」269号 1972年1月号)
海洋的退行願望――アナイス・ニン『近親相姦の家』 (「日本読書新聞」 1969年10月20日)
生と死の二元論的対立――N・O・ブラウン『エロスとタナトス』 (「日本読書新聞」 1970年7月6日)
冥婚とネクロフィリー (『日本古典評釈全註釈叢書 雨月物語評釈』月報 1969年3月10日)
黄金時代と歌 (『変態大画報』 発行年月日不詳 駿河台書房)

 Ⅴ
悪魔についての五問五答 (「ニューミュージック・マガジン」 1973年2月号)
VAMPIRE――吸血鬼 (「an-an ELLE JAPON」2号 1970年4月5日号)
暗い美青年 (「ドラキュラ――その愛」パンフレット 1979年5月4日 サンシャイン劇場)
私の吸血鬼研究 (「図書新聞」979号 1968年9月21日)
東西の感性の二人三脚――レイモンド・T・マクナリー、ラドゥ・フロレスク『ドラキュラ伝説』 (「週刊ポスト」 1979年5月11日号) 
篤学の愉悦――栗原成郎『スラヴ吸血鬼伝説考』 (「週刊ポスト」 1980年8月8日号)
洋の東西怪談比較 (「第11回 江戸東京自由大学 怖い、見たい、面白い――ミステリアス江戸」パンフレット 1999年10月2日 財団法人東京都歴史文化財団/「江戸東京自由大学 洋の東西怪談比較」講演原稿 1999年10月5日 於江戸東京博物館ホール)
ポー、あるいは時間の恐怖 (エドガー・アラン・ポー 『黒猫』 1992年5月25日 集英社文庫)
郷愁としての恐怖――『アーサー・マッケン作品集成』 (「日本読書新聞」 1973年6月11日)
自動車と怪談 (「小説現代」 1969年2月号)
本格的怪談の醍醐味 (『世界怪談名作集 下』 1987年9月4日 河出文庫)
幻視者の推理小説――コリン・ウィルソン『ガラスの檻』 (「日本読書新聞」 1967年11月6日)
双面の悪魔 (「海」 1972年12月号/連載「惡魔禮拜」最終回)
黒い案内書(ギド・ノアール) (「芸術新潮」 1971年11月号)

 Ⅵ
神話の中の発明家 (『東京大学教養講座11 機械と人間』 1985年1月10日 東京大学出版会)
十八世紀文学的骨董品――アレン・カーズワイル『驚異の発明家の形見函』 (「朝日新聞」 2003年2月16日)
編集者の伝記 (「日本近代文学館」第103号 1988年5月15日)
ミヒャエル・フェッターあるいは遊戯三昧としての宇宙 (「エピステーメー」 1978年6月号)
空想文学博物館 (『イメージの冒険3 文字』 1978年8月30日 河出書房新社)
ヤヌスの文字 (『人間と文字』 1995年4月17日 平凡社)
隠秘論的夢想の世界――シャルル・フーリエ『四運動の理論』 (「週刊読書人」第869号 1971年3月29日)
ポストモダン小説の極致――薫若雨『鏡の国の孫悟空 西遊補』 (「朝日新聞」 2002年4月21日)

 Ⅶ
東西島物語考 (『集英社版 世界の文学17 ゴールディング』月報14 1977年4月)
まじめな顔した遊び (「朝日新聞」 1984年5月21日)
空想名所案内 (「太陽」 1976年9月号)
夢遊者の宇宙旅行 (「季刊NW-SF」第1号 1970年7月1日)
とぶ男・寝ている男 (「is」 Vol. 45 1989年9月10日)
ユートピアの終焉 (「週刊にんげん百科」103号 1975年8月25日)
世界の終りの日から (「週刊にんげん百科」104号 1975年9月1日)
終末と発端のはざま (「太陽」 1977年2月号)

 Ⅷ
古典主義者の愛の冒険譚――エウヘーニオ・ドールス『バロック論』 (「美術手帖」 1970年8月号)
バロックの本 (「EYES」5号 1993年12月31日)
奇抜なメランコリーの世界――マニエリスム文学について (「週刊朝日百家 世界の美術」 1979年2月25日号)
「疎外」と「自己愛」――アーノルド・ハウザー『マニエリスム』 (「週刊読書人」 1970年12月21日)
本格的かつ野心的なマニエリスム研究――若桑みどり『マニエリスム芸術論』 (「朝日新聞」 1981年2月2日)
迷宮としての世界――現代芸術とマニエリスム (「美術手帖」 1965年3月号)
色濃いペシミズム――G・R・ホッケの『絶望と確信』を読んで (「読売新聞」 1975年4月14日)
神を感じる技術としての日記――グスタフ・ルネ・ホッケ『ヨーロッパの日記』 (「朝日ジャーナル」 1991年5月31日号)
物体の軌跡 (『シュルレアリスム宣言 溶ける魚』栞 1974年12月25日 学芸書林)
ブラック・ユーモア その後――アンドレ・ブルトン『黒いユーモア選集』 (「週刊読書人」 1969年4月7日)
悪の分光器――ホルヘ・ルイス・ボルヘス『悪党列伝』/ボルヘス、アドルフォ・ビオイ=カサレス『ボルヘス怪奇譚集』 (「日本読書新聞」 1976年9月27日)

 Ⅸ
暗黒小説のきわめつき――J‐K・ユイスマンス『彼方』 (「週刊読書人」 1975年6月23日)
空間表象の考察――ミルチャ・エリアーデ『聖と俗 宗教的なるものの本質について』 (「SD」63号 1970年1月号)
聖化された宗教的人間論――ロジェ・カイヨワ『人間と聖なるもの』 (「出版ニュース」 1970年2月中旬号)
二つの世界の間で――ケレーニイ断想 (「現代思想」 1973年8月号/特集「ケレーニイ 新しいギリシァ像の発見」)
よみがえる古代的実存――カール・ケレーニイ『神話と古代宗教』 (「中央公論」 1972年8月号)
太古の老婆を離れて (「現代思想」 1977年5月臨時増刊号/特集「フロイト」)
無意識の言語の解読――C・G・ユング『人間と象徴』 (「日本読書新聞」 1972年10月23日)
孤独者ライヒ (「情況」 1971年増刊号 5月25日/「W・ライヒ特集 性の抑圧と革命の論理」)
逆さ吊りのフールが演ずるアクロバット――ウィリアム・ウィルフォード『道化と笏杖』 (「中央公論」 1983年8月号)
解体の様式、様式の解体――ヴォルフガング・カイザー『グロテスクなもの』 (「日本読書新聞」 1968年4月29日)
普遍宇宙へのメッセージ――ワイリー・サイファー『現代文学と美術における自我の喪失』 (「出版ニュース」 1971年12月中旬号)
透明な文体――エリアス・カネッティ『群衆と権力』 (「朝日ジャーナル」 1972年1月21日号)
ここに第二のフェデリコと……――ダンテとフリードリヒ二世 (「國學院雑誌」 1989年11月号)

 Epilog
災害解釈の精神史――クライストの地震小説について (「地震ジャーナル」24号 1997年12月20日)

解題 (齋藤靖朗)
種村季弘略伝 (齋藤靖朗)



種村季弘 詐欺師の勉強あるいは遊戯精神の綺想 02



◆本書より◆


「夢記」より:

「のらいぬ」
「真黒な雲がコールタールを流したように動いている。ところどころに金色の縁取りが輝いて、暗雲の凄みがいっそうギラつく。モスクワで原発が爆発した。それをテレビで放映している。私は寝ころがってそのテレビを見ているらしいが、窓の外に目をやると同じ黒雲が流れている。すみやかに流れている。世界は終わりである。」
「ではもう逃げる余地はない。街は無人となり、放射能が充満し、人々は家に閉じ籠もって食料の備蓄を数えはじめている。よそ者に分ける食料・燃料の余裕はもうなくなった。たとえ家々にわずかな蓄えがあったとしても――それがはたして何日もつか――私には無関係のこと。私は何もないところに投げ出され、まもなく野良犬のようにくたばる。」

「夢 79・1・2」
「一人になり、坂を下りる。
 坂の上からすばらしい景色が見える。」
「列車が通る。東海道線に似ているようでもあるが、もっとドイツ風に硬い感じもする。上りと下りがすれちがう。
 どちらへ行けばいいのか。
 もう家へ帰れないという、途方に暮れた感じ。
 それでいて風景の全体は狂気のように美しく、無責任な感じで、それに恍惚としている。」

「83・日時不明」
「腹黒い人間にのせられたという悔恨がヒリヒリうずく一方で、このまま失墜し続けてゆくのも悪くないという気が裏側から忍び寄っている。今更ながら、世の中というものに関わりあった罰であり、その不毛な味をかみしめている。」



「落魄の読書人生」より:

「詐欺師の勉強っていうのは、生きる上で大いに役に立つ話じゃないかな。」
「人生を普通の人と同じように生きながら、違うレベルでも生きているというのは立派な詐欺だからね。
 本音と公の生き方の間にズレがあるのは当たり前。人前では普通の人と同じように振る舞って、腹の中では全然違うことを考えるのは、今の社会で自分の好みを守っていくための、最低の原理だよ。その関係をどう調整するか。それを一番うまくやっているのは、完全な詐欺師ですよ。
 国家とか社会とか会社とか組織はね、個人を使おうとするわけでしょ。逆に制度を、個人が使うものだと逆転していく方法もある。対決するだけじゃなくね。」

「幸田露伴って人は大変博学な人で……氷っていうのは、いっぺんに凍るんじゃなくて、水の上にゴミが浮いて、それがまず凍る。それがいくつもできて、それが線でつながって、一気に氷になるわけ。だから知識っていうのも、本なんかを点々と読んでいくんだけど、ある瞬間にそれがパッとつながるってなことを言ってる。」
「読書の世界というのは、どんな入り方をしても、つながっていくからね。自分が面白そうだと思うものを読んでいったら、必ず同じようなタイプの作家に触手が伸びていくし、解説なんか読むと作者の系譜がわかったりするよね。」
「多少抜けてもいいから、いろんなものを読み漁った方がいいと思う。何が好きかっていうのも、ある程度読み漁らないとわからない。そのうちどういう作家にアプローチしていけば、自分の正体がわかるかが見えてくるよ。」

「現世の生活を放棄しないと、本当の文学はできないよ。誰がどうなろうと、自分だけは自分の好きなことをやるっていうんじゃなきゃ。人に悪くいわれることも含めて、自分のエゴイズムをつらぬき通さなきゃやっていけないですよ。」
「書かなくても自分の中にその世界はこっそり持っているというね。これっきりしかない現実の他にもう一つ自分だけの世界を持っているというのは、生きていく上での張り合いにもなると思うんですよ。」

「押しつけられたんじゃなくて、誰がなんといおうと、僕はこれが好きだっていえる作品を選んでいくわけね。自分の実存みたいなものを通じて接触した作家は読むけど、他は読まない。僕は今でもそうだよ。」

「あるマニュアルを他の人と共有していれば、安全かもしれないけど、予想外の事件に遭遇したときには、全く役に立たないんじゃないですか。むしろそんなもの知らない人、自分だけでやってきた人の方が、切り抜けられると思うよ。」

「ダメになるってのは悪くない。どういうふうにダメになるか、どういう没落の仕方をするかっていうのは、過去の世紀末現象を知っておくといい。
 いずれは滅亡はするんですよ。その滅亡の仕方が面白くて、楽しければいいんじゃないの。落ちぶれる楽しさってのはあると思うんだ。」



「ペテン師、世界を駆ける」より:

「正史というもののパロディー。抑圧された連中が、抑圧する人々の歴史をパロディーにしていく。これが、(中略)偽書なるもののいわば典型である。
 偽書とは、本質的に、ある文化圏の外部からやってきて、その文化をひっくり返そうという人々の手になるものだ。」
「シェイクスピアの未発見の原稿を捏造したアイアランドは、まだ十代の少年だった。少年もまた、その社会性を持たないという無垢性において、社会の外にあってその有害性を告発する存在だ。」



「非人間的なものの浮力について」より:

「話しているのに、相手に声が届かない。向こうがなにか話しているのがまざまざと目に見えていて、ことばが聞こえない。対話者同士の間に、伝達不能、接触不能の透明な薄膜がびっしりと張りつめ、こちら側とあちら側は決して交わることのない二つの別々の世界のように平行し続ける。かりに接触すれば、原理の異なる二つの世界の住人たちはそれぞれ相手を誤解し、猜疑し、不信をはぐくみ、ついにはどちらか一方が他方を殺戮しないわけにはいかなくなる。
 これは、対話が本質的に成り立たない状況である。(中略)したがって、対話がすすめばそれだけ相互理解が深まるのではなくて、対話を続ければそれだけ裂け目がひろがり、行手に虚無が巨大な口をぱっくり開くのが手に取るように見えてくる。」
「なぜか。対話の具であることばがすでに病んでいるからだ。汚れのないアダムの言語はうしなわれて久しい。ことばは病み、分裂し、相反する二つの意味を同時に語り、したがって理解させるよりは理解させないために語られ、直線的に相手に届くよりは迂回し、迂回に迂回をくり返すうちに迷子になって、途中に待ちうける虚無に呑みこまれてしまう。」
「ハインリヒ・フォン・クライスト、(中略)生まれつき軽い吃りで癲癇の傾向があった。十一歳のときに父が死んだ。それから五年後に母が死んだ。少年時代にすでに庇護者をうしなっていた。
 以後三十四年の短い生涯は挫折に次ぐ挫折の連続である。」
「たえずとりとめのない放心状態に恍惚と浸っている。実際、クライストに会った同時代人たちは、この青年の奇妙な放心状態に気がつかざるを得なかった。一八〇三年のさる記述から――
 「彼にあって人目をそばだたせないわけにはいかないいくつかの挙動不審のひとつに、一種奇妙な放心状態があった。彼と話していると、たとえばたった一語がつぎつぎに組鐘(グロッケンシュピール)のように一連のイデーをその脳に引きつけるようで、ためにもはや彼は人の言うことを耳にしておらず、したがって答えを返すということもしなくなるのであった」
 軽度の癲癇発作、あるいは夢遊病の徴候である。生身の人間でありながら石像のように、眼前の現実に対して突如として不感無覚になる。向こうの声はこちらに届かず、こちらの思考は向こうに伝わらない。対話はたちまちアダムの言語ではなくバベルの言語の支配する場となる。しかしながら未完のエッセイ『話をしながらだんだんに考えを仕上げていくこと』をお読みになった読者は、このバベル的な言語の混乱、対話不能の只中にこそうしなわれたアダムの言語の生成する唯一のチャンスがひそんでいるというパラドックスを、つとに了解されておられよう。
 現実には発語不能の吃りで赤面恐怖症の青年は、夢遊病的な不感無覚においてこそ純粋な言語生成の現場に立ち会う。クライストの劇中の人物の例でいうなら、遺稿『ホンブルク公子』の主人公が彼の分身である。夢遊病者ホンブルク公子は、夢遊のさなかにこそ栄光に輝く勝利を収め、果ては夢遊のうちにこの世ならぬ言語の流通する聖なる世界へ昇天してゆく。ゆくりなくもジークフリート伝説が思い起こされる。悪龍(地上の現実)を退治したジークフリートの身体は不感無覚の鉄の皮膚によろわれ、森の小鳥のことばをらくらくと理解するようになるのである。」

「一口に言えば、やることなすことが裏目に出た。地上とは別の真理が支配している他の天体からやってきて、この地上でそれを実現しようとしてそのつど場違いをさとらされ、手ひどく地べたに叩きつけられるのである。現実との和解はついにやってこない。彼はあらかじめ現実不適応なのだ。発語という発語がことごとく対話を破綻させてしまうか、孤独な独白のほうへ差し戻してしまう。この吃音青年は行動においても、なにか行為に手をつけるや、現実との幸福な和解にはいっかな到達せずにそのつど孤独の淵へと突き戻されてしまう。あたかも、この地上に彼のための場はない、とでもいうように。」

「最後にふれておきたいのが、夢と眠りの恩寵について。耐え難い現実とのストラッグルのなかで、クライストにとって睡眠こそは唯一の救済であったらしい。アルニムは、クライストが「しばしば一日中ベッドの中にいて、そこで煙草パイプをくわえてだれにも邪魔されずに仕事をするという奇妙な生活」をしていた、と回想している。」
「「世界は、私には、小さい箱が大きい箱にそっくりの入れ子のように思える」と(中略)書くクライストにとって、睡眠という「小さな箱」が(現実の生と相容れない彼にとっての)最大の恩寵である死という「大きな箱」そっくりの入れ子だったのである。『ホンブルク公子』では、実際睡眠(夢遊)の小さな箱に外界の現実と隔絶し、カプセルに入るように閉じこもって、公子は最大の箱たる死に向かって恍惚と昇天してゆく。」
「夢、睡眠、放心状態、言語遊戯には現実原則が不在であり、現実の秩序とは異なる秩序もしくは無秩序が支配している。現実には敵対的な表象もここでなら宥和のうちに迎えることがあり得るのである。ここには地上の重力の拘束を免れ、悪しき意志をあらかじめ免責されたもう一つの力の法則、「聖ツェツィーリエ」(中略)の音楽の力や、あの卓抜なエッセイ「マリオネット芝居について」(中略)の引力の拘束を知らないマリオネットのかろやかな浮力の法則が、この地上空間にさえあまねく行き渡っているのだから。」



「遅れてきたSF作家」より:

「シェーアバルトの小説、エッセイは、(中略)どこまでも現実離れしていて同時代には受け入れられなかった。徹底した平和主義者だったシェーアバルトは、第一次世界大戦に際して抗議の絶食の末に餓死した。」


「のらくら者の国」より:

「何ごとにも気づかぬ男がいた。頭の中は空っぽで、一切に無頓着。財産をすっかり失っても気がつかない。帽子を忘れても、靴底が抜けても、平気ですたすた歩いている。ある日、道を歩いているうちに、コロンと首が落ちた。誰かがそれを見て、「首はどうしました?」と声をかけてもどこ吹く風。なにしろ首がないので聞く耳がないからだ。
 上の空で生きている。だから目の前の現実に適応できない。何をやらせてもダメ。第三者から見れば変ちくりんなダメ人間である。とんまで、のらくら者で、どこかみんなからはずれた所にいて、そこでなら「ひっそりかんと、言葉もなく」、心おだやかに過ごしていられるらしい。彼はここでは変人かもしれない。でも、彼のような人間こそがまともでいられる国がある。世界の中心にある遠い帝国(中略)では、あべこべに誰もがそんなふうなのだ。
 「そこでは、すべてが実に穏やかに展開するのだった。快くも健やかな(中略)物憂さが、人びとの生活をおおっていた。人びとは、ある意味で、物ぐさだった。」こちらののらくら者は、あちらではごく当たり前の人間たち。かれらはあくせくと人を出し抜いたりしない。
 「かれらはさながら花のように生き、枯れ萎(しぼ)んでいった。」
 スイスの詩人・小説家ローベルト・ヴァルザーの詩と小品集である。現実にも夢想家肌の生活無能力者だったヴァルザーは、兄たちの庇護を受けながらかつがつに生き、五十歳にさしかかると自らの意志で精神病院に入院し、そこで二十七年間生きて七十八歳で没した。」



「未成年幻想」より:

「だがこの子供はあらゆる子供と同様、大人になるのでなければ、やがてかならず死ななければならないのだ。
 とはいえ死なない子供もいないわけではない。かつてルドルフ・シュタイナーは、「これ以上の進化を放棄した」ダウン症候群モンゴル児に元型人としての天使のイメージを見出した。あらかじめ「私」のないこれらの子供たちは、自我の目覚めにも、その死にも、てんから無縁だからである。」



「鉱物学的楽園」より:

「「孤児」と称されているのは別名単玉石(ソリテール)、巨大な乳色オパールである。孤児の別名は錬金術に由来するが、この場合には賤称ではなくて、かけがえのない「唯一者」の意味である。アルベルトゥス・マグヌスの説明によれば、「他の場所では絶対に見られないので、オルファヌス、すなわち孤児と称され、夜の暗闇のなかでも光を発する。そしてたとえ発光力を喪失しても、なおその独特の美しさのために王の栄誉を護る」のであった。単玉石はしたがって中世を通じて至高の王者の石であった。」


「神話の中の発明家」より:

「ハンガリーの精神分析家サンドール・フェレンツィは『タラッサ』の中で、大洋的退行、巨大な海に反進化論的に戻っていく身体感覚について述べていますが、(以下略)」

「神話的発明家たちは島や船のような、あるいは洞窟や海底のような、この世を離れた隔地(ディスタント)に生息しています。ということは連続的な大陸(コンティネント)(=連続)の住人ではないということです。その非連続性が身体的不具としても表現されているのですが、しかしこの不具性はそれ自体として完結された形象ではなく、不完全性とはさまざまに可能な完全性へ向う生成過程そのもののメタファーにすぎません。孤島に生きている彼らは、大陸の住人がその「正常」の身体においてすでに実現し固定してしまった一つの完全性のイデーには汚染されていない。ちょうど子どもがおさなく未成であることによって生成過程を体現し、それゆえに大人の完結してしまった進化過程を越えているように、身体的不完全はたえず変形しながら一つの形態に固定されることを嫌う生成のメタファーであり、だからこそ発明的な神々はある形態の量産的コピーである生産や生殖とは無縁であります。彼らは人びとに生産のための道具を贈与しはするが、みずからは生産に(また生殖にも)携わらない。彼らが火山の住人であるのは、彼ら自身が火の変形する力によってたえず造り変えられている途上の一つの形態であるからであり、また彼ら自身がすでに完全に達したと思い込んでいる思い上った世界の不完全性を指摘して、それを変える火のエレメントだからです。不完全なのは彼らではなく、彼らを一つの(引用者注: 「一つの」に傍点)完全性の視点から不具と見なすこの世の方なのです。だからこそ、その固定し硬化した一つの完全性を壊して、それを別の次元へと変えるための道具を彼らは次々に提示してくれる。」
「神話のなかでは、蛭子もヘーパイストスも、その身体的畸型ゆえに海の彼方の島=隔地に追放されます。(中略)けれども連続性の世界たる大陸の人びとは、その連続的思考が行き詰ると、かつて法則の例外として排除した彼らに救いを求める。非連続的思考によってしか越えられない局面があることにそのときはじめて気がつくのです。」
「発明的な知はどこにどういう形で存在するか。
 世界の果ての海で、法則の例外であるために追放された例外者たちが、例外の集合体たるユートピアを造営しながら、その創造物をせっせと世界に贈与している光景が目に浮かびます。彼らが私たちに贈与してくれるのはこの世の外、絶対的な外部にほかなりません。」



「夢遊者の宇宙旅行」より:

「ハーンによれば、人類はもともと地球以外の他の天体に住んでいて、その星にあっては重力の支配力が地上ほど強固ではなかったので、人間は自由自在に空を飛行することが可能だった。しかるに人間は重力の束縛のある地球に移住してきていらい、かつての飛行能力を忘却し、かろうじて夢のなかでだけ思い出すことがある、というのである。」


「ユートピアの終焉」より:

「ユートピア物語の常套は、その舞台の多くが人里はなれた森林や山の奥の桃源郷のような隠れ里であるか、それとも大洋にへだてられた島や未知の大陸となっていることである。(中略)なぜなら旧大陸(ヨーロッパ)本土はもはや手のくだしようのないほど腐敗しているので、これをすてて別大陸か島にうつりすむのでもないかぎり、理想の共和国は実現不可能とおもわれたからである。」
「このユートピアの水や高山にへだてられた現世からの純潔な隔絶という図式は、ほとんどのユートピア小説がなんらかの意味でプラトンのアトランティスを発想の源にあおいでいることをものがたっている。アトランテイスは、(中略)「ヘラクレスの柱」の外側にかつて存在した大きな島で、常春の地上楽園であったが、アテナイとの戦争にやぶれたのち、一夜にして海中に没した。伝説のなかのムー大陸やレムリアとおなじく、現在の大陸の栄える以前に滅亡した「沈める大陸」である。
 モアは、プラトンのアトランティスを彼のユートピアの典範と考えていた。すなわち、ユートピアは再発見されたアトランティスなのである。したがって、この沈める国がふたたび浮上してくれば、かつてこの理想国をほろぼした現にある国々とその歴史のほうが沈没するのでなければならない。」
「ユートピアのもう一つの重要な特徴は、その幾何学的な秩序のもとに生前と統制された、異様な「静謐」である。そこには時間の苛酷なむちのもとに生産や闘争に明け暮れる歴史の無秩序とは正反対の静けさが、あまねくゆきわたっているようにみえる。なぜなら、ユートピアは空間的に現世である大陸本土から隔絶しているばかりではなく、時間的に歴史から隔絶した“無時間(ユークロニア)”のなかに存在しているからである。したがって、外部からながめたそれは、時間のながれのない、あるいは極端に時間の流れの緩慢な、死の国のようにみえる。人びとは彫像のように凝然と佇立(ちょりつ)しているか、それとも、ゆったりとした長衣のなかで労働のリズムとは考えられるかぎり無縁な優雅なくつろぎの身振りでうごく。水のなかでのようにあらゆる動きが緩慢である。生産も進歩もなく、人びとが時間の破壊作用にしたがって老いを知ることもない、この国は、要するに、歴史嫌悪の表現なのである。」



「世界の終りの日から」より:

「しかし終末の予言はあたらなくてもいっこうにさしつかえないのである。なぜならそれは、本来、(中略)世界の滅亡の後におとずれる精神の王国への期待から、死のヴィジョンをつうじて再生の力をくむ精神の瞑想(スペキュレーション)のための糧にほかならないからである。」


「災害解釈の精神史」より:

「混乱と無秩序に対抗して、それを理性や力で押え込むのではなく、混乱と無秩序と、この場合なら地震の振動と、身体的に共振し、ともに戯れ遊ぶことによって(成人という意識的人間には失われた)優美さを取り戻しながら危機を切り抜けること。」
「子供と美的人間(芸術家)。それは最悪の災害にも共振して、いわば悪を相手にしてさえ遊戯するすべを心得ています。」
「自然(災害)の巨大な力をいわばロゴセントリックな対抗力によって圧服せしめるのではなく、ときには荒らぶる自然と共振し共戯しながら変則的な逃走線に沿って力をズラし、力線をはぐらかすこと。災害解釈の精神史が行きつく先にこのような遊戯精神の奇想が出現してくるのは、まことに意味深長ではありますまいか。」





幻戯書房の本:

中井英夫 『ハネギウス一世の生活と意見』
塚本邦雄 『異国美味帖』























































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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