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ルドルフ・シュタイナー 『治療教育講義』 高橋巖 訳 (ちくま学芸文庫)

「数年来、人智学運動の中で、私がひどくつらいと感じているのは、老人も若者も、しっかりと自分の足で立ち続けていることなのです。人びとがどんなに自分の足でしっかりと立っているかを考えてみましょう。いいですか。ニーチェは本質的にそうではありませんでした。たとえ彼がそのため病気になったとしてもです。彼はツァラトゥストラを踊り手として描きました。皆さんも踊り手になるべきなのです。ツァラトゥストラの意味においてです。」
(ルドルフ・シュタイナー 『治療教育講義』 より)


ルドルフ・シュタイナー 
『治療教育講義』 
高橋巖 訳
 
ちくま学芸文庫 シ-8-6 

筑摩書房 
2005年5月10日 第1刷発行
294p 付記1p 口絵(カラー)2p
文庫判 並装 カバー
定価1,200円+税
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 神田昇和
装画: 『ルドルフ・シュタイナーの100冊のノート』より



本書「訳者あとがき」より:

「本書は一九八八年に角川書店から出版されたが、今回あらためて全体に眼を通し、より読みやすくなるように手を加えた。」
「本文庫版では新たに付録として、アルブレヒト・シュトローシャインの「人智学的治療教育の成立」(中略)を加えた。本書の内容をなすシュタイナーの連続講義が行なわれた頃の現場での思いが直接伝わってくる貴重な文献だと思えたからである。」



シュタイナー 治療教育講義 01


カバー裏文:

「「ゲーテは植物が異常を現わすとき、そこに〈原植物の理念〉を見つけ出す最上の手がかりを見ています。……霊的な生きものである人間の場合にも、基本的には同じことが言えるのです。人体に潜んでいる異常性は、人間本来の霊性を外に開示してくれるのです」。この直観を宇宙大に拡張し、人類を巨大な障害児と見れば、〈原人間の理念〉探究に捧げられた人智学の使命が理解できよう。本書は医療と教育の現場に向けて語られた唯一の治療教育本質論であるとともに、シュタイナー思想の極北でもある。貴重な証言「人智学的治療教育の成立」(A. シュトローシャイン)を併載。改訳決定版。」


目次:

第一講 治療教育の基本的観点
第二講 本来の魂のいとなみ
第三講 精神遅滞とてんかん
第四講 ヒステリーの本質
第五講 硫黄過多の子と硫黄不足の子
第六講 治療教育の実際 その一
第七講 治療教育の実際 その二
第八講 治療教育の実際 その三
第九講 治療教育の実際 その四
第十講 治療教育の実際 その五
第十一講 治療教育の実際 その六
第十二講 まとめの話

付録 人智学的治療教育の成立――『われわれはルドルフ・シュタイナーを体験した――弟子たちの回想』一九六七年より (アルブレヒト・シュトローシャイン)

訳者あとがき



シュタイナー 治療教育講義 02



◆本書より◆


第一講より:

「私たちは病気の本質の中に深く入っていかなければなりません。」
「例を挙げて説明しましょう(口絵表・図例1――以下同)。ここに人間の肉体(白い線)があります。成長期にある幼児の肉体です。この肉体から魂のいとなみ(黄色い点線)が立ち現われてきます。私たちはこの魂のいとなみを正常であるとか、異常であるとか言いますが、本来子どもの魂、あるいはそもそも人間の魂の正常か異常かを決めようとしても、平均して「正常」とする以外に、どこにもそれを決めるよりどころはありません。常識人の眼が一般に通用させているもの以外のどこにも、判断の基準はないのです。ですから何かを理にかなっているとか賢いとかと言う常識人の眼から見て、「正常」な魂のいとなみでないものはすべて、「異常」な魂のいとなみなのです。
 目下のところそれ以外の判断の基準は存在しません。ですから私たちが異常であることを確定しようとして、いろいろな試みをすればするほど、その判断は混乱したものになります。正しい判断をしていると思っている人が、その反対に天才的な素質を追い出してしまうことにもなりかねないのです。そのような評価の試みをいくらしてみても、そもそも何も始まりません。なすべきことのまず第一は、医者と教育者がそのような評価を拒否して、賢いとか理にかなっているとかと評価する思考を超えたところに立とうとすることです。実際この分野でこそ、すぐに判断するのではなく、事柄を純粋に観察することが、この上もなく必要なのです。」
「今取り上げたのは、どんなひどい教育者にも分かるような、表面にはっきりと現われている魂のいとなみ(黄色い点線)ですが、私たちはこれから、そのような魂のいとなみとは別に、身体の背後に存するもう一つの霊魂の働き(赤い線)にも眼を向けようと思います。それは受胎と誕生のあいだに霊界から降りてくるのですが、地上の意識はそれを外から見ることができずにいます。(中略)この霊魂は霊界から降りてきますと、先祖代々の遺伝の力(青い線)によって作られる身体(白い線)に働きかけます。
 この働きかけが異常な仕方で行なわれますと、たとえば肝臓に働きかけて病的な肝臓を生じさせてしまいます。また、遺伝的に肉体とエーテル体に病的なところがあった場合にも、身体は一定の病気を現わします。同じことは他のどんな身体器官についても言うことができます。どんな身体器官でも霊界から降りてくるものと間違った結びつき方をすることがあるのです。そしてこの結びつきが、つまり霊界から降りてくるものと遺伝されたものとの結びつきが作られたときはじめて、通常、思考と感情と意志として観察される私たちの魂(黄色い点線)が生み出されるのです。思考と感情と意志はそもそも単なる鏡の像のようなものですから、眠ると消えてしまいます。本来の持続的な魂はその背後にあるのです。背後に降りてきて、転生(てんしょう)を重ねる地上生活を貫いて存在し続けるのです。」

「さてここで次のような考察をしてみましょう。誰か大人のことを考えてください。この人は、たぶん七歳の頃に歯が生え変わり、十四歳の頃に思春期を迎え、そして二十一歳の頃には人格がしっかりとしてきたことでしょう。人間はそのように七年毎に大きな節目を迎えます。(中略)この転換期には、人体の変化がいつも目立って現われています。人体は毎年変化していきます。絶えず体内からは何かが外へ排出されています。体内成分を輩出するこの外への絶えざる遠心的な流れは、七年か八年かけて、体内の成分のすべてを一新させます。
 そこで考えていただきたいのは、この身体成分の更新が、歯の生え変わる七歳の頃に特別重要な意味を持っている、ということです。
 生まれてから歯の生え変わる頃までの身体は、いわば単なるモデルにすぎません。この身体は遺伝の力を通して、両親からこのモデルを受け取ります。祖先が子どもの身体形成に協力しています。さて私たちは最初の七年間にこの最初の身体成分を外に排出しますが、それによって何が起こるのでしょうか。まったく新しい身体が生じるのです。歯の生え変わった後の身体は、もはや遺伝の力によってではなく、前述した霊魂の力によって作られるのです。(中略)この時期には、遺伝による身体成分を排出する一方で、その人の個性の力で新しい身体が作り出されるのです。」



第二講より:

「個性の力が遺伝の力よりも強い場合には、歯の生え変わる頃に、子どもは遺伝の力を多かれ少なかれ克服して、身体も魂の在り方も個性的になるでしょう。けれども子どもの個性が弱ければ、個性は遺伝の力に抑えられ、魂も身体もそのモデルに従った模像を示すことになります。本来の意味での遺伝的特徴はその場合にのみ見られるのです。(中略)ですからこの時期に遺伝的な特徴が現われるのは、個性がそれを克服するにはあまりに弱すぎて、カルマの求めるような個性的な働きができず、そのため本来のカルマ衝動が遺伝的な特徴に圧倒されている場合です。」

「精神疾患は最高の叡智の歪(ゆが)んだ模像なのです。」

「障害のある子を教育するということは、そうしなければ、あるいは間違った教育を与えたならば、その子が死に、そしてふたたび次の地上生活に生まれ変わるまで、待たねばならないであろうようなことを行なうことなのです。それほどにまで深く子どものカルマに関わることなのです。」



第四講より:

「障害のある子どものための先生になろうとする人は、完全な先生では決してありえません。どの子もそれぞれが新しい課題であり、新しい謎です。ですから子どもの本質に導かれて、個々の場合にどのようになすべきかを理解しようとすることが大切です。」
「病気の徴候を深い関心をもって辿るとき、私たちは最上の自己教育を行なっています。病気の徴候は、本来何かすばらしいものだ、という感情を持つことが大切です。(中略)すなわち異常な徴候が現われるとき、そこには、霊的に見て、健全な身体を持った人間の活動よりも、もっと霊的な働きが見られるのです。この霊的なものに近い状態は、健全な身体においてはそのようにはっきりとは示されません。」



第六講より:

「この子を教育するには、何が必要でしょうか。重たい雰囲気ではなく、ユーモアです。本当のユーモア、生活のユーモアです。必要な生活のユーモアがなければ、どんな頭のいい手段を講じたとしても、こういう子どもを教育することはできません。ですから人智学運動においても、軽やかさの感覚を持つ必要があるのです。」


第十講より:

「今後私たちに必要なのは、(中略)「細事への畏敬」です。特に青年はこのことを身につけなければなりません。青年はあまりに抽象的な事柄に安住しています。しかしそうするとすぐに虚栄心のとりこになってしまうのです。」
「俗人が障害児について語ることばはたいていの場合、間違っていますが、そういうときに大切なのは、眼の前にある事実を直視することです。」

「大事なのは、真実を体験したときの熱狂なのです。今必要なのはこのことです。数年来、人智学運動の中で、私がひどくつらいと感じているのは、老人も若者も、しっかりと自分の足で立ち続けていることなのです。人びとがどんなに自分の足でしっかりと立っているかを考えてみましょう。いいですか。ニーチェは本質的にそうではありませんでした。たとえ彼がそのため病気になったとしてもです。彼はツァラトゥストラを踊り手として描きました。皆さんも踊り手になるべきなのです。ツァラトゥストラの意味においてです。」



第十一講より:

「仕事をしようとするときには、(中略)正しい見方は、未来へ向かって働くカルマを求める熱意から生じるのです。(中略)家具付きの家に移り住んだとき、私たちはその家具をすべて外へ放り出したりはしません。可能なら(中略)次のように考えるでしょう。「すでにそこにある家具をどのように利用することができるだろうか」。
 「すでにあるものを、どのように利用できるのか」。このように問うことが皆さんにとっては大切なのです。」



「付録 人智学的治療教育の成立」(アルブレヒト・シュトローシャイン)より:

「会話が始まった。ルドルフ・シュタイナーは私たちよりイェーナのことをよく知っていた。彼は私たちに、昼間でも星を見ることのできる塔があると語った。」
「ルドルフ・シュタイナーは庭を歩きながら、「本当はどの子もここにあるすべての樹木と草花の名が言えなければならないのです」、と私たちに言った。」



「訳者あとがき」より:

「シュタイナーによれば、今から数百万年以前にまで遡る太古の時代に、人間の霊魂ははじめて、進化の過程を辿って発展してきた身体の中に降りてくることができるようになった。それ以前は人間の霊魂を受容できるほどにまで身体は進化を遂げていなかったので、人間の霊魂は物質素材によって創られた肉体の中に受肉したくても、肉体の方でそれを自分の中に宿らせることができない状態が続いた。かろうじて受肉できたとしても、初めの頃は決して正常な受肉のプロセスを辿ることができず、一度受肉した霊魂も、肉体を通して自己を表現できぬままに、ふたたび肉体を去って、本来の故郷である霊界へ戻っていった。そのような過程が繰り返される中で、肉体そのものも進化を続け、ある段階に達してからは、霊魂を正常に受容できるようになった。
 この過程は諸民族の神話の中でもさまざまな仕方で語られているが、そのもっともよく知られた例はアダムとエバの楽園追放の話であろう。この二人の人類の祖先の霊魂は、はじめて天国から離れて、地上の世界に受肉することになったが、そうなると人間は肉体を通してしか自己を意識できなくなってしまい、いわば「受肉の苦しみ」を、つまりドイツ・ロマン派のいう「世界苦」を背負わされる。もし人間の霊魂が肉体に受肉しないですますことができるのなら、人間は老いることも、病むことも、死ぬこともないし、障害を背負うこともない。仏陀が人間の根源的な苦悩と呼んだ生老病死の四苦は、地上におけるどんな人間も避けることのできない基本的な生活条件になっている。しかし人間はそのような条件の下に甘んじて生きていくべき存在なのだろうか。
 『治療教育講義』はこのような問題意識から出発している。」






























































































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Author:ひとでなしの猫
ねたきり読書日記。

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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