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『ルドルフ・シュタイナー選集 第8巻 自由の哲学』 高橋巖 訳 

「私を直接導いているのは、一般的な慣習や普遍道徳や一般人間的な原理や道徳規範などではなく、行為に対する私の愛である。私は私に衝動を促す自然の強制も道徳的至上命令の強制も感じない。私はもっぱら私自身の中にあるものを実現しようと欲する。」
(ルドルフ・シュタイナー 『自由の哲学』 より)


『ルドルフ・
シュタイナー選集 
第8巻 
自由の哲学』 
高橋巖 訳
 

イザラ書房 
1987年12月27日 第1刷発行
317p
A5判 丸背布装上製本 
貼函 本体カバー
定価3,900円
造本: 横尾忠則



Die Philosophie der Freiheit
スピン(栞紐)二本付。


シュタイナー 自由の哲学


帯文:

「究極の自由のありかを探る
「神智学」・「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」と並ぶ
シュタイナー畢生の大著。高橋巖渾身の訳業ついに完成!」



帯裏:

「私は自由を宇宙過程を表す概念として論じようとしました。人間の内部には地上的なものだけでなく、偉大な宇宙過程も働いているのです。このことを感じとれる人だけが自由を理解でき、自由を正しく感じとれる、ということを『自由の哲学』の中で示そうとしました。この宇宙過程が人間の内部に取り入れられて、その内部で生かされるときにのみ、そして人間の最も内奥のものを宇宙的なものと感じとるときにのみ、自由の哲学へ到ることができるのです。
シュタイナー」



目次:

一九一八年の新版のためのまえがき
初版の第一章 あらゆる知識の目標

第一部 自由の科学
 第一章 人間の意識的行為
 第二章 学問への根本衝動
 第三章 世界認識に仕える思考
 第四章 知覚内容としての世界 
 第五章 世界の認識
 第六章 人間の個体性
 第七章 認識に限界はあるのか
第二部 自由の現実
 第八章 人生の諸要因
 第九章 自由の理念
 第一〇章 自由の哲学と一元論
 第一一章 世界目的と生活目的――人間の使命
 第一二章 道徳的想像力――ダーウィン主義と道徳
 第一三章 人生の価値――楽観主義と悲観主義
 第一四章 個と類
第三部 究極の問いかけ
 第一五章 一元論の帰結

付録
 一 一九一八年の新版のための補遺
 二

訳者あとがき




◆本書より◆


「初版の第一章」より:

「われわれの時代の特質を正しく言い当てようとするならば、現代は人間の個体の崇拝をあらゆる関心の中心に据えようとしている、と言うことができよう。どんな形であれ、一切の権威の克服が力の限り求められている。個性を根拠にしているものだけが、有効と認められる。個人の能力の完全な展開を妨げるものはすべて排除される。(中略)どんな理想といえどもわれわれを抑圧することはできない。十分に深く自分の本性の根底にまで降りてゆくことができるならば、われわれひとりひとりの内部には高貴であり、価値あり、発展するにふさわしい何かが必ず存在している、と確信することができる。すべての人が追従しなければいけないような人間が存在するなどと、われわれはもはや信じていない。完全な全体はひとりひとりの個体の独自の完全さの上に成り立っているものでなければならない。われわれが作り出そうと望んでいるのは、別な誰かにもできるような何かではなく、われわれの存在の独自性に従って、ただわれわれだけに可能なような何かなのである。そのような何かがささやかな寄与として宇宙進化に組み込まれていくべきなのである。今日ほど芸術家たちが芸術の規範や規則について何も知ろうと望まなくなった時はない。誰もが自分に固有のものを芸術的に形成する権利があると主張している。文法が要求する通りの正しい標準語で書くことよりも、方言で書くことの方が好ましい、と考える劇作家たちもいる。
 このような現象を表現するのに最もふさわしい言葉は、「これらの現象は個体の最高度に高められた自由衝動から生じている」であろう。われわれはどうんな芳香においても従属的でありたいとは思わない。」
「このような時代には真理(引用者注: 「真理」に傍点)もまた人間存在の深みの中だけから取り出されることを望んでいる。」
「われわれはもはや信じよう(引用者注: 「信じよう」に傍点)とは思わない。知りたい(引用者注: 「知りたい」に傍点)と思う。(中略)個的なものはすべて自分の最も深い内なるものに従って生きようと望む。ただ知ること(引用者注: 「知ること」に傍点)だけがわれわれを満足させてくれる。それはどんな外的な規範にも服従せず、人格の内なる生活から生み出されてくる。
 凍りついてしまった学則の中で作り上げられた知識も欲しいとは思わない。あらゆる時代に当てはまるようなハンドブックの中にしまい込まれた知識も同様である。ひとりひとりが手近な経験から、直接的な体験から出発して、そこから宇宙全体を認識するところまで上っていくことを可能にしてくれるすべてのものを正当なものと認める。われわれは確かな知識を得ようと努めるが、それぞれが独自な仕方でそうするのである。
 また、われわれの学説は、もはやそれを認知することが無条件の強制を伴うような形を取ってはならない。」



「第二章 学問への根本衝動」より:

「われわれは自然へ帰る道を再び見つけ出さなければならない。この道がどこにあるのかを、ひとつの単純な考え方が教えてくれる。確かにわれわれは自然から切り離されてしまった。しかしわれわれはそこから何かを内なる自然として自分の本質の中に持ち込んでいるに違いない。この内なる自然を見出さねばならない。(中略)自然をまず自分の内部に認めるのでなければ、それを外に見出すこともできないであろう。われわれ自身の内部にあって、自然と同質の働きをするものが導き手となってくれる筈である。(中略)自分自身の存在の深みへ降りていこうと思う。そしてかつて人間精神が自然から逃れ出た時に、そこから持ち出してきた要素を、今この深みの中に見つけ出そうと思う。
 われわれの本質を探求することこそが謎を解く鍵を提供してくれるに違いない。ここにいるわれわれは、もはや単なる「自我」ではない、「自我」以上の何かなのだ、と言えるような地点にまで到達できなければならない。」



「第九章 自由の理念」より:

「「私はこの行為を行うべきなのか」を世間に、あるいは何かの権威に私は問いかけようとはしない。行為についての理念が把握できたとき、私はそれをすぐ実行に移す。だからこそそれは私の(引用者注: 「私の」に傍点)行為なのである。特定の道徳規範がそこに認められるという理由だけで行為する人の行為は、その人の道徳法典に記載されている原則の賜物である。その人は単なる執行人にすぎない。高級自動人形でしかない。(中略)対象への愛に従うときにのみ、私は行為する主体であることができる。この段階の道徳においては、私は主人の命に服するから行動するのではない。外的権威やいわゆる内なる声に従って行動するのでもない。私は自分の行動の外的原則を必要としない。なぜなら私自身の内部に行動の根拠を、行為への愛を見出したのだから。私の行為が良いか悪いかを悟性的な手段で調べようとも思わない。私が行為するのは、それを愛している(引用者注: 「愛している」に傍点)からである。愛に浸った私の直観が直観的に体験されるべき世界関連の中に正しく存在しているとき、その行為は「善」になり、そうでない場合の行為は「悪」になる。私はまた、他の人ならこの場合どのような態度をとるかと尋ねようとは思わない。私という特別な個性がそうしようと私を促すからこそ、私は行為するのである。私を直接導いているのは、一般的な慣習や普遍道徳や一般人間的な原理や道徳規範などではなく、行為に対する私の愛である。私は私に衝動を促す自然の強制も道徳的至上命令の強制も感じない。私はもっぱら私自身の中にあるものを実現しようと欲する。」

「或る行為が自由な行為と感じられるのは、その根拠が私の個体存在の理念的部分に見出せるときである。そうでない時の行為は、それが自然の強制によるものであろうと、倫理的規範が要求するものであろうと、すべて自由でない(引用者注: 「自由でない」に傍点)と感じられる。
 どんな瞬間にも自分自身に従える人間だけが自由なのである。どんな道徳的な行為も、この意味で自由であると言えるときにのみ、私の(引用者注: 「私の」に傍点)行為となる。」

「外から枠づけされたものの中にのみ道徳の体現を見ようとする俗物は、おそらく自由な精神の中に危険な生き方を見ようとさえするであろう。そうするのは、その人の眼が特定の時代状況にとらわれているからである。」

「人間は自分の外にある道徳的世界秩序を実現するために存在しているのではない。(中略)人間は道徳のために存在するのではなく、人間によって(引用者注: 「によって」に傍点)道徳行為が存在するのである。自由な人間が道徳的な態度をとるのは、道徳理念を所有しているからである。しかしその人は道徳を成立させるために行為するのではない。個的な人間の本質に属する道徳理念こそが道徳的世界秩序の前提なのである。
 個的人間こそが一切の道徳の源泉なのであり、地上生活の中心点なのである。国家も社会も、個人生活の必然の結果としてのみ存在する。(中略)好ましい仕方で再び個人に作用し返すためにこそ、社会秩序が形成されるのでなければならない。」



「訳者あとがき」より:

「ルドルフ・シュタイナー(中略)の哲学上の主著『自由の哲学』は、一八八〇年代の末から一八九〇年代のはじめにかけて構想が練られ、一八九四年の春、著者三二歳の時に初版が出された。その後久しく絶版のまま放置されていたが、一九一八年に新版が出され、その際部分的には大巾の加筆訂正がなされ、特に章の終りに詳しい補遺がつけられた。本書はその新版(中略)の全訳であるが、新版では初版の第一章が省略され、その後半部分だけが付録二として最後に加えられているので、この第一章をそのまま生かして、(中略)訳出して付加した。ちょうど一世紀前の一九世紀末に若きシュタイナーが力をこめて、いわば宣言のように記したメッセージが、今日のわれわれにも重要な意味をもっていると思うからである。

「当時のシュタイナーは、同時代人としては、ニーチェとヘッケルとエドゥアルト・フォン・ハルトマンの三人を特別尊敬していた。いずれも偉大な自由主義者であり、個のために集団と戦い、自由のために権威を否定して戦った「時代の闘士」だった。彼らが、そしてすでにその半世紀も前にマクス・シュティルナーやフォイエルバッハが闘いとろうとしていた「自由」の問題は、それが何千年単位の壮大な規模の歴史的転換期の主要課題であったから、その百年後の今日でもこの課題は課題として生き続けているどころか、今日では世界的な規模での「人類の問題」になっている。シュタイナーが本書の中で行った試みは、それ故単なるドイツ哲学史上の問題にとどまらず、今や全人類にとっての切実な課題に応えようとしている。」





































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ねたきり読書日記。

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

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将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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