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『ルドルフ・シュタイナー選集 第9巻 社会の未来』 高橋巖 訳

「経済生活へのこの迷信をよく意識しておくことがとても大切です。この迷信のために今日の非常に数多くの人びとが、経済生活によって望ましい社会秩序が生み出されるばかりではなく、望ましい社会秩序に対応した新しいタイプの人間までもが産み出される、と思い込んでしまっているのです。」
(ルドルフ・シュタイナー 『社会の未来』 より)


『ルドルフ・
シュタイナー選集 
第9巻 
社会の未来』 
高橋巖 訳
 

イザラ書房 
1989年3月20日 第1刷発行
299p
A5判 丸背布装上製本 
貼函 本体カバー
定価3,900円
造本: 横尾忠則



Soziale Zukunft
スピン(栞紐)二本付。


シュタイナー 社会の未来


帯文:

「霊学の光に照らされた超国家論の全貌
ナチス台頭期、迫害のさなかに、シュタイナーが全身全霊を込めて
展開した社会有機体三分節化論。その驚くべき予言性と熱い祈り。」



帯裏:

「霊界においては、魂のもっとも内面的な力が発揮されているのに対して、国家においては、人間と人間の関係におけるもっとも外面的なものだけが働いているのです。……国家は精神生活と何の関係もありません。それは精神生活の反対物なのです。私たちが現在のおそろしい現実を理解しようとするのでしたら、このことを見通すことができなければなりません。現代人は、外的現実をしっかりと見据えるために、霊的現実を理解しようと努めなければなりません。
シュタイナー」



目次:

第一部
 近代社会主義の思想形態
 史的唯物論、階級闘争、剰余価値
 ヘーゲルとマルクス 霊的社会主義による両者の調和
第二部 社会の未来
 第一講 精神問題、法律問題、および経済問題としての社会問題
 第二講 連合体を基礎にした経済―市場の変化―価格形成、貨幣と税の本質、信用
 第三講 法律問題、民主主義の課題と限界、公権の在り方と刑法の管理
 第四講 精神問題、精神科学(芸術、科学、宗教)、教育制度―社会芸術
 第五講 精神生活―法生活―経済生活、三分節化された社会有機体の統一化
 第六講 三分節化された社会有機体における国民生活と国際生活

付録
 一 世界問題
 二 世界問題における精神生活の忘却
 三 ドイツ民族と文化世界に訴える

訳者の解説とあとがき




◆本書より◆


第一部より:

「大切なのは、思考の内容よりも思考の形態を観察することです。何を(引用者注: 「何を」に傍点)考えているかよりも、いかに(引用者注: 「いかに」に傍点)考えているかの方に注意を向けて下さい。ですから誰かが反動的であるか、それとも民主的、社会主義的またはボルシェヴィズム的であるかは、現代の社会運動の本質にとってそれほど重要ではありません。私たちが何を(引用者注: 「何を」に傍点)語るのかはまったく重要ではなく、重要なのはいかに(引用者注: 「いかに」に傍点)考えるかであり、どのようにして思想を形成するかなのです。思想や綱領において過激な社会主義者でありながら、その思考形態においては古い封建主義者であるような人が今日いくらでも活動しているのです。
 ですから私たちは魂の深層に注意を向けなければなりません。(中略)今私たちの間を徘徊している諸思想はミイラのようなもので、時代の動きの中ではごくわずかな影響しか及ぼしません。これまでとは別様に考え、別様に思想を形成することに多くがかかっているのですが、現在のところ、人間の思考を本当に新しい方向へ導くことのできる思想として、霊学以外のものはまだ見出せません。だからこそ霊学は大抵の人にとって空想的なものに思えるのです。」

「人びとはルツィフェル(人間を物質界から引き離そうとする働き。シュタイナーはそれを悪の働きの一方の極と考えている――訳者)とアーリマン(同様に、人間を霊界から引き離して物質界にのみ関わらせようとする働き。悪の働きのもう一方の極――訳者)について聞かされ、「ああいやだ、そんなことは考えたくない。私はルツィフェルやアーリマンには関係ない。善き神様の下にいる」と言います。――そういう人たちこそ、ルツィフェルとアーリマンの誘惑に深く陥っているのです。それはその人たちが抽象的な考え方をしているからです。大切なのは正直に、誠意を持って、私たちが現代の社会過程の中に組み込まれて生きていることを意識し、自己幻想に陥ることなく、社会過程が全体として健全になるために可能な限りのことをすることです。」
「今日では、私は善き人間として安住の地を得、すべての人間を愛する思想を伝えたい、などと望むことが大切なのではありません。私たちが社会過程の中に生きて、悪しき人類と共に悪しき人にもなれる才能を発揮できるということが大切なのです。悪い存在であることが良いことだからではなく、克服されるべき社会秩序がひとりひとりにそのような生き方を強いているからなのです。自分がどんなに善良な存在であるかという幻想を抱いて生きようとしたり、(中略)他の人間よりも自分の方が清らかである、と考えたりするのではなく、私たちが社会秩序の中にあって、幻想にふけらず、醒めていることが必要なのです。なぜなら幻想にふけることが少なければ少ないほど、社会有機体の健全化のために協力し、今日の人びとを深く捉えている睡眠状態から目覚めようとする意気込みが強くなるでしょうから。」

「思想の自由(引用者注: 「思想の自由」に傍点)、つまり思想の内なる自発性もまた、現代の深い無意識が求めているものです。しかし意識の表面はまさにその反対を求めているように見えます。または求めねばならないと思っているようです。ですから無意識はなおさら過激に反抗し、それが現在の恐ろしい階級闘争となって現れているのです。権威から自由になろうとした近代の支配的な市民層は、新しい種類のさまざまな権威信仰の中にまた落ち込んでしまいました。特にそれらの権威の中で最高の権威となった国家に由来するすべてのものに対して、盲目的な信仰を捧げるようになってしまいました。近代市民階級にとって、たとえば「専門家」の判断以上に高い権威はあるでしょうか。社会生活上のすべての事柄について、人びとは国家が認める「専門家」の判断に頼ろうとします。国家の資格試験に合格した人なら事柄の本質に通じているに違いない、というのです。(中略)国家がその国民のために設けた精神上の実験室で、つまり国立大学で、人間理性の内容全体が醸造されている事実に対しては、近代の指導層の人たちは全面的に信仰しているのです。この指導層は各人が各自の意識をもつようになることを求めず、意識にユニフォームを着せ、それが根本において広義での国家意識となるように、ひたすら求めるのです。近代意識は、本来人びとが信じているよりはるかに徹底して「国家意識」となってしまったのです。人びとは国家のことを、自分たちに必要なすべてを与えてくれる神であると思っています。」

「人生を真に支えてくれるものは「現代の三位一体」の意味を考えるときにのみ、見つけ出すことができるのです。すなわち人間が中央に位置しています。そしてその一方の側にはルツィフェル的なものが、他方の側にはアーリマン的なものが位置しています。アーリマン的唯物論とルツィフェル的唯心論とが両極端に位置し、人間はその中心に位置して両者のバランスをとるのです。
 皆さんが真実を知ろうとするのでしたら、理想主義者か現実主義者、または唯物論者か唯心論者に留まり続けることはできません。そのいずれにもなれなければならないのです。皆さんは精神を徹底して探し求め、それを物質の中にも見出せなければなりません。つまり物質を通して精神を見出すことができる程にまで、物質の本質を洞察しなければなりません。
 これが新しい時代の課題なのです。唯心論と唯物論について論争を続けるのではなく、バランスをとる位置を見つけるのです。なぜなら両極端であるヘーゲル的ルツィフェル主義とマルクス的アーリマン主義とは、すでに十分に生きてきたのですから。(中略)今日の人びとは両者を調和させうるものを本当に見出さなければならないのです。そしてそれが人智学的霊学の課題なのです。」

「現実に従うことは大切です。しかしそれは妥協することではありません。(中略)それは世界大戦による破壊がこれまでの戦争の場合とは悪い意味で異なっていたことに気がつき、以前の思考とは異なった思考でこの現実に対処しようと本当に決心することなのです。この大戦の結果生じた恐ろしい不幸に直面して、これまでの歴史の中でこんなことは一度もなかった、と人びとは語っていますが、思想に対しても「こんな思想はこれまでの歴史の中にまったく存在しなかった」と言えるような思想を、この恐るべき不幸を通して、身につけるべきなのです。」



第二部より:

「一般社会での自由の概念の例としてウッドロウ・ウイルソンの場合を取り上げてみましょう。彼の考え方は、現代文化の特徴をよく示しております。ウイルソンは真実、心の底から、現代の政治生活のために自由を求めております。しかし彼の言う自由とは何なのでしょうか。それは彼の次のような言葉からも明らかです。彼によれば、船が自由に航海できるのは、船の構造が風向き、海流その他、航行中の周囲のあらゆる条件によく適応できたときなのです。したがって船を先へ進めるためには、風や波から生じる力による障害がどこにも生じないようにしなければなりません。同じように人間生活が自由でありうるには、生活環境から来る力にさからわず、どこからも障害が起こらないようにすることなのです。――ウイルソンは人間の自由な生活を機械の部品とも比較しています。つまり機械もまた、自由に働くためには、組み込まれた部品がどこからも妨げられず、まさに機械の中で自由に働けるような構造をもっていなければならないのです。
 私はただひとつのことだけを言おうと思います。このような環境への適応の正反対を行うときにのみ、人間の自由が語れるということをです。最高の仕方で風や波に適応する海上の船のような在り方が人間の自由なのではありません。周囲から来る力の働きなどにかまうことなく、風や波にさからってグルグルまわったり、立ち止まったりする船なら、人間の自由と比較できるでしょう。ウイルソンの自由観の根底には世界に対するまったく機械主義的な考え方があるのですが、今日の人びとはそのような考え方を唯一可能な考え方だと思っています。このような考え方は、近代になって表面に現れてきた主知主義の産物なのです。」

「人間とは何かを知るためには、人間の究極の目標を知らねばなりません。たしかに人間の本性の一部分は遺伝されて存在していますが、人間はその体的本性が備えていない別の本性をも、自分自身の中から生じさせることができるのです。自分の内部にまどろんでいる人間を目覚めさせることによってです。ですから「人間は自由か」ではなく「内的発展を通して、私は自由な存在になることができるのか」と問うべきなのです。――人間が自由になりうるのは、自分の中にまどろんでいるもの、目覚めさせて自由にすることのできるものを、自分の中に育て上げたときなのです。言い換えれば、人間にとっての自由は生まれたときから与えられているものではありません。それは自分の中から目覚めさせることによって可能となるものなのです。」

「主知主義者であることが楽なのは、抽象的な概念で自然を研究するので、現実から距離を置くことができ、現実そのものからの影響を受けずにいられる、と思えるからです。実際、ここで主張されている認識を真剣に受けとめ、自力で内的進化を遂げようとしますと、人生の現実の中に深く沈潜していかなければならなくなります。人間存在そのものの中にも深く下りていかなければなりません。主知主義者の自己教育によるよりもはるかに深くです。主知主義は人生の表面からあまり深く入っていくことができません。ここで述べられているような認識によって、人間の内的本性の深みにまで下りていくと、外界の像である単なる思考内容や知覚内容だけではなく、内的本性の現実にまで行きあたるのです。そこでの諸事象は知的な認識に留まろうとする人の心を脅えさせますが、それらは大自然、大宇宙の奥深くで生じるものと同じ種類のものなのです。自分自身の内部で、人は宇宙の本質そのものと出会うのです。
 けれども単なる抽象的な概念や自然法則に留まる限り、そのような出会いには到りません。私たちは現実の本質部分と融合するところまで行かねばなりません。現実の側に立つことに恐れを抱いてはなりません。内的に進化を遂げることで、現実の中にしっかりと立ち、しかも現実にのみ込まれたり、焼き尽くされたり、窒息させられたりせずにいなければなりません。現実の内部に居り、知的な態度でそこから距離を置いたりはせずに、事物の真実とひとつになるところにまで到らなければなりません。」

「日常生活のための芸術形成がどれ程大きな社会的な意味をもつか、どうぞ考えてください。すでに述べたように、そしてこれからも述べるつもりですが、日常生活の在り方は人間がどのように考え、かつ感じるかによってきまります。私たちの周囲の生活空間の中の事物が芸術的に形成され、どのスプーンもどのグラスも、単に使用目的に応えるだけでなく、美しいと感じられるような形態をもって使用目的に役立つとき、それは非常に大きな社会的意味があるのです。精神生活が実際生活と直接結びついているとき、芸術も生きるのに必要であると感じられるでしょう。」































































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Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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