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吉本隆明 『甦えるヴェイユ』

「ヴェイユはもう何もすることはいらないし、何かしてやれば良くなる対象などこの地上にはなかったはずだ。そしてそのことがとりもなおさずヴェイユの思想の偉大さだった。」
(吉本隆明 『甦えるヴェイユ』 より)


吉本隆明 
『甦えるヴェイユ』


JICC出版局
1992年2月1日 初版発行
1992年3月20日 第3刷
210p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,400円(本体1,359円)
装幀: 菊地信義



本書「あとがき」より:

「この本のもとになったのは大和書房版の『全集撰』の月報のかたちで書きついだシモーヌ・ヴェイユについての覚書だった。それに空白な時期について新しい補稿をつけくわえた。それといっしょに覚書ふうの文体を全体に批評の文体らしく改訂した。」
「宮沢賢治といっしょにわたしをつよい関心でひきつけてきたこの思想に、わたしなりの眺望をつくりおえて、ほっとしている。」



吉本隆明 甦えるヴェイユ


帯文:

「思想の可能性と
資質のドラマのゆくえ!
同時代のいちばん硬度の大きい壁にいつも挑みかかり、ごまかしや回避を忌みきらったシモーヌ・ヴェイユ。初期の「革命」から後期の「神」の考察に至る、その思想の現在性を明らかにする。著者自身を、宮沢賢治とともに最もつよい関心で惹きつけてやまないヴェイユ思想の核心に迫る問題作。待望の刊行。」



帯背:

「シモーヌ・
ヴェイユ像の
全的転回を迫る
問題作!」



帯裏:

「わたしは初期ヴェイユのかんがえを説明しながら、できるだけわからないようにじぶんのかんがえをブレンドするよう試みた。これが『甦えるヴェイユ』という総題にした理由のひとつだといえる。ヴェイユの思想は初期の「革命」の考察から後期の「神」の考察にいたるまで、ひろい振幅をもっている。これは革命の思想をすてて神学にかえっていったという意味を必然ということ以外にはもっていない。革命思想を内在化し、内攻させていった資質の方向に掘りすすんで、神の考察にどうしてもぶつかったといった方があっているとおもう。そこからみれば『甦えるヴェイユ』は『いたましいヴェイユ』といってもおなじだ。シモーヌ・ヴェイユのこのふたつの表情が、ひとつの貌の陰影のちがいだということが素描できていたら、もって瞑すべきだとおもっている。
――あとがきより」



目次:

Ⅰ 初期ヴェイユ
Ⅱ 革命と戦争について
Ⅲ 工場体験論
Ⅳ 痛みの神学・心理・病理
Ⅴ 労働・死・神
Ⅵ 最後のヴェイユ

あとがき




◆本書より◆


「Ⅲ 工場体験論」より:

「ヴェイユの工場体験は、はたからみれば無意味におもえる。だから苦痛も告白も工場システムにたいする批判もおおげさで過大に感じすぎているともいえよう。だがヴェイユにいわせれば義務もないのに苦しみから逃げださないのは、じぶんが受けている苦痛が労働者一般の苦しみと重なっていると信じたからだった。たしかにこれだけの知能が工場を体験した報告にはそれなりの意味があるにちがいない。たとえ普遍性がなくてもそうだ。ヴェイユは泣き言をいっているだけではなくてみるべきものはみているからだ。たとえばおなじ工場でもちょっと場所がかわっただけで地獄と極楽のようにちがうことも、きちっとみているし、同僚や上司にめぐまれただけで職場が地獄と極楽ほどにもちがってしまうことも洞察している。」
「支配と被支配、あるいは管理と被管理がもたらす苦痛と、人格の善や悪が人間関係にもたらす苦痛とはおなじではない。
 ヴェイユはそれをよく知っていたとおもえる。またこれを知っていることは、ヴェイユを神学に近づけた契機をはらんでいたといえなくはない。「ひとつのほほ笑み」「一言の善意」「一瞬の人間的接触」が特権的な人々との献身的な友情にまさる価値をもつことがあるとヴェイユはいっている。」
「ふとしたやさしい行為、たんなる微笑、作業に手をすけてやること、こんなことが疲労や、給料へのおもわくや、圧迫や従属にうちかつことをおしえてくれる。そんなふうにのべている。これらのことはわずかの工場体験だがヴェイユが痛ましさと一緒にうけとったものだから、見掛けのうえで、主観的な思いこみにみえればみえるほど、重大だというべきだ。ここからえた人間の社会的なあり方への認識を、かつては観念のうえでだけやってきた信条と結びつけることができるようになる。
 人間はふたつの範疇にわかれる。「何ものかである」とみられているものと、「何ものでもない」と評価されているもの。そしてあとの者はだんだんそれも当然のように受けいれるようになる。じぶんは「人間を足下に踏みつける社会制度のもとで何ものかと思われているとひとりでに思ってきたが、それを恥ずかしいとおもって抵抗してきた。いまは何ものかであるともおもわないところに同一化できるようになった」というのがヴェイユの工場体験の核心だった。
 ヴェイユの工場体験にはもうひとつ別の面があらわれた。それは自身のからだのこなしの不器用さが、工場の作業場面でぶつかった負い目のようなものだ。病弱な体質、不器用な動作は、すくなくとも肉体労働の場面で屈辱的なおもいを経験する。スピードがおそい、すぐ疲れる。ひとが六〇〇個仕上げるとき五〇〇個しかできない。この体験はふたつにゆきつく。ひとつは「自然的な不平等」、いいかえればうまれながらの肉体の格差はたしかにあるが、この不平等を弱めようとするのは「よい社会組織」であり、不平等を深刻にするようなのは「悪い社会組織」だということだった。」
「ヴェイユの女生徒への手紙は、とてもいいものだ。スポーツをして、機敏な身体のこなしや、筋肉の動きや、体力を獲得すべきだ。(中略)それで健全で明るくなったり、他人を残酷に扱ったり、圧伏したりするためではなく、そんなことはほんとは身体の不器用さや、体力の弱さにくらべて、誇るべきものでも何でもないことを体得するためにだ。(中略)知識をあくことなく獲得すべきだ。それで他人や知的不器用や知的でない大衆を圧伏したり、侮辱したりするためではなく、知識は〈富〉とおなじようにあっても決して恥ではないが、誇るべきほどのものでもないことを、ほんとに体得するためにだ。」



「Ⅴ 労働・死・神」より:

「また「神の体験をもたない二人の人間のうち、神を否定するほうがおそらく神により近いところにいる」というとき、ヴェイユは「善人なほもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」(『歎異鈔』)と説いた親鸞といちばんちかいところにいる。
 「神を否定する人」とは全能の善を否定する人と同義をなすからだ。
 またヴェイユにたびたびあらわれる「すべての意志だけではなく、すべて自分の存在を失いたい」という自己消去の言表は「生きながら死して、静かに来迎を待つべし」(「門人伝説」)といい、「浄土門は身心を放下して、三界・六道の中に希望する所ひとつもなくして、往生を願ずるなり。此界の中に、一物も要事あるべからず。」(「門人伝説」)と説いた一遍のま近にあるといっていい。
 西欧的な信仰のなかにじぶんを消去する伝統があるのかどうか、わたしにはよくわからない。ヴェイユのなかにある古代オリエント思想への傾斜が、ヴェイユの死の思想を、わたしたち遠東人にみえるところまで、ちかづけているような気がする。」

「スピノザは「神」から出発して、人間の理性や情感のさまざまなあらわれの世界をかんがえるが、ヴェイユは人間がかかわれる世界の外側に、人間の能力のとどかない領域をかんがえ、それを「神」の実在性の領域だとみなしている。およそ人間の能力をこえた大規模の善、真理、義があるとすれば、その実在性は、その「神」の領域から舞いおりてくるものだとヴェイユはいう。
 では、この「神」の領域との対比のうえで人間とはなにか、人間的領有とはなにか?

  人間だれでも、なんらかの聖なるものがある。しかし、それはその人の人格ではない。それはまた、その人の人間的固有性(ペルソンヌ・ユメーヌ)でもない。きわめて単純に、それは、かれ、その人なのである。(ヴェイユ『ロンドン論集とさいごの手紙』「人格と聖なるもの」杉山毅訳)

  人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が実を結び、それによっていくつかの名前が数千年にわたって生きのびる、というある領域を構成している。しかし、この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつ別の領域があり、そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたない。
  その領域にわけ入った人びとの名前が記録されているか、それとも消失しているかは偶然による。たとえ、その名前が記録されているとしても、それらの人びとは匿名へ入りこんでしまったのである。(ヴェイユ『ロンドン論集とさいごの手紙』「人格と聖なるもの」杉山毅訳)

 これは「人間」にたいするヴェイユの究極の理解と、じぶんの願い、望み、羨ましさを複合した表現にあたっている。もしかするとじぶんの写像とみなしたかったかもしれない。ヴェイユが科学、芸術、文学、哲学といった人間の最高の所産だとみなされてきたものの彼方に、ひとつのべつの領域を暗示しているのは、はじめての、とてもこころよい感じだ。そして人間がそこへ到達できるのは、人格でもなく、人間的固有性でもなく「かれ・その人」であるような存在、直接の自己同等そのものである〈その人間〉だといっていることに驚かされる。そして〈その人間〉はヴェイユのいう「神」と人間との融合同等でもある存在にほかならない。この直接的な自己同等がたどりつく、匿名の世界は、なにも人倫にかかわる意味をもっていない。直接な自己同等の存在としての人間というほかの意味をもたない。」































































































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ひとでなしの猫

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うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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