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守屋毅 『元禄文化 ― 遊芸・悪所・芝居』 (シリーズ・にっぽん草子)

「しかし、『町人考見録』の著者がいうように、「凡て一芸ありといはるゝ者は、大方、身体を持ち崩す」のが世の常なのである。」
「このようにみてくれば、元禄期以降、町人社会のすみずみにまでおよんだ遊芸の実情は、われわれがおもうよりはるかに、複雑で深刻な内容をはらんでいたことにおもいいたるにちがいない。いや、身の破滅をかけた遊芸の充実感など、今日では想像を絶する愉悦であったやもしれないのである。」

(守屋毅 『元禄文化』 より)


守屋毅 
『元禄文化
― 遊芸・
悪所・
芝居』
 
シリーズ・にっぽん草子

弘文堂 
昭和62年6月20日 初版1刷発行
iv 202p 口絵(モノクロ)1葉
18×12cm 
丸背紙装上製本 カバー
定価1,200円



本書は講談社学術文庫版も出ていますが、“もったいない本舗”楽天市場店で元版が679円で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。使用感は少ないもののカバーの背から表紙にかけてこんがり焼けた古本が届きましたが、ポイントが400円分あったので実質279円で買えたのでそれはそれでよいです。


守屋毅 元禄文化


カバー文:

「消費と蓄財の均衡に存亡をかける
町人たちのまえに、
不思議な誘惑がたちはだかる。
趣味の世界――遊芸である。
性の饗宴ともいうべき遊里である。
そして、もうひとつの饗宴――
芝居という芸能の場の存在も……。」



帯文:

「生活水準の底あげが、従来 富裕層の独占していた奢侈を解き放ち、幅広い消費人口を生み出した。日本史上初の大衆消費社会“元禄”――豊富な史料をもとに「遊芸」「悪所」「芝居」という三つのキーワードを駆使し、元禄文化の実相を活写するヒストリカル・エスノグラフィー。」


帯裏:

「シリーズ・にっぽん草子

歴史、宗教、民俗などから日本の「もの」や「こと」について世界とのつながりのなかで考える異色のシリーズ。全巻書き下し。ハンディな新書変型判 上製シックなカバー巻き 平均二〇〇頁 平均定価一二〇〇円。
★印は既刊

★乞食の精神史 山折哲雄
★日本史のエクリチュール 大隅和雄
★元禄文化 守屋毅
終末論の民俗学(仮題) 宮田登
骨のフォークロア 藤井正雄
飛礫と撮棒(仮題) 網野善彦
海の民(仮題)  沖浦和光
日本のフォークレリジョン 荒木美智雄
祖先崇拝のシンボリズム O・ヘルマン
子ども絵本の誕生(仮題) 岡本勝
金と銀の島日本(仮題) 田中久夫
江戸-東京のサロン(仮題) 小木新造
など」



目次:

口絵 
 師宣筆 歌舞伎図屏風(中村座内外図屏風) 六曲一双(部分)

序章 「町人」の時代――『日本永代蔵』の世界から
 町人の登場
 「才覚」と「仕合せ」のめぐりあい
 奢侈と「元禄風」
 町人の生活倫理
 不思議な誘惑――遊芸・悪所・芝居

第一章 「遊芸」という行為
 一 ものみな遊芸――遊芸の構図
  「諸師諸芸」の名簿
  西鶴のえがいた町人の遊芸
  近世文化の遊芸性
  芸能者の変貌と「諸師」の誕生
 二 「外聞」としての遊芸――芸事の機能
  都市と余暇
  芸が身をたすける
  人づきあいとしての遊芸
  女性と遊芸
  遊芸にもとめられたもの
 三 遊芸をささえるもの――遊芸の周辺
  町家の成立と「座敷」
  美術工芸品と遊芸
  遊芸と出版文化
 四 破滅をかけて――遊芸批判の背景
  「芸自慢」の危険性
  『町人考見録』にみえる町人たち
  二代目の遊芸
  遊芸批判の系譜
  遊芸の歴史的位置

第二章 「悪所」という観念
 一 「悪所」という言葉
  町人語としての「悪所」
  「悪所」とその仲間たち
  「悪所」と「悪性」
  悪所・好色・浮世
 二 遊里批判の論理
  なぜ「悪所」なのか
  遊里史のうえの元禄期
  消費もしくは浪費の誘惑
 三 虚偽と虚構
  遊里の虚偽性
  「辺界」の「悪所」
  「いつはり」と「まこと」
 四 「悪所」の悪所性
  欲望の抑制
  「地女」と「女郎さま」
  町人における「家」の形成と性
  「遊び」としての性

第三章 「芝居」という空間
 一 「芝居」と芝居見物
  櫓・木戸・看板
  札場と札銭
  桟敷の客・平土間の客
  見物の数
 二 「芝居小屋」をめぐって
  「芝居」という建物
  「芝居」の規模
  「常芝居」について
  芸能上演の臨時性と野外性
  差別される「小屋」
 三 とざされた「小屋」
  鼠木戸
  「芝居」の分布と「芝居町」
  「芝居」の数
 四 饗宴の場としての「芝居」
  「悪所図」をよむ
  もうひとつの「悪所図」
  正徳の禁令から
  桟敷の風景
  芝居茶屋というもの
  役者の男娼性

元禄文化史覚書――「あとがき」をかねて
参考文献




◆本書より◆


「序章」より:

「そして、蓄財と消費という、あい反する性格の行為がもちあいになっているところに、元禄期の状況の複雑さがあり、当時の町人生活の深刻さがあったといわねばならなかった。」
「しかしてここに、西鶴によってえがきだされた成功者の生涯が一貫して、勤労と禁欲という、ピューリタン精神をおもわせる厳格な倫理観にうらうちされていたことの意味があった。」
「それは、その一生を、あげて好色という快楽の追求にかけた「一代男」の気概とは、まったく好対照の人生哲学というほかない。
 たとえば――である。
 藤市という人物は、当時随一の長者としてしられたが、身をいましめて、一生「二間口の借棚」ですごし、「借家大将」の異名をとったという。」
「大衆消費の拡大こそが、彼らの商人としての成長を促進したにもかかわらず、しかし同時に、当人がその消費におぼれるならば、彼らは、たちまち破滅の淵にたたねばならなかったのである。」
「ところが、ここに――消費と蓄財の均衡に存亡をかける町人たちのまえに、不思議な誘惑がたちはだかる。たとえば、趣味の世界――遊芸である。性の饗宴ともいうべき遊里である。そして、もうひとつの饗宴――芝居という芸能の場の存在も視野にいれておいてよい。
 これらは、すべからく、生産と消費という現実生活の枠のそとにあって、第三の価値ともいうべきものとかかわる領域をかたちづくる。その第三の価値領域を、かりにいま、「遊び」と名づけることができるかもしれない。」
「元禄期の町人社会が、これら、名状しがたい価値をとりこんだとき、その内部で、一体なにがおこったのか――というのが、本書に託す筆者の課題なのである。あるいは、こういってもよい。本書は、その、いわくいいがたい「遊び」の側からする、元禄町人文化論なのである、と。」



「第一章」より:

「井原西鶴は、このんで、その作品のなかに、芸事におぼれたあげく身の破滅にいたった町人の姿をえがいている。そこには、はからずも、当時の町人たちがもとめていた諸芸の多様性、そして京都を中核とする芸能教授の実態が、概観されるのであった。」
「『日本永代蔵』(巻二)にでてくる泉州堺の町人の場合に、一例をみることにしよう。
 諸芸に没頭したあまり、「筋なき乞食」におちて品川、東海寺門前にたたずむこの町人、もとはといえば、書は青蓮院(しょうれんいん)流の平野仲庵におしえをうけ、茶湯は金森宗和のながれをくみ、詩文は深草の元政上人にまなび、俳諧は談林の西山宗因の門にいり、能は小畠吉右衛門に免許の扇をさずけられ、鼓は生田与右衛門の手筋、朝に伊藤仁斎に道をきき、夕に飛鳥井家の蹴鞠(けまり)、昼は名人玄斎の碁会にまじわり、夜は八橋検校(やつはしけんぎょう)に琴をならい、一節切(ひとよぎり)は宗三の弟子となり、浄瑠璃は宇治加賀様の節をたしなみ、踊りは大和屋甚兵衛に立ちならんだ――というのだから、かなりなものであった。」
「まず、学問や文芸といった教養に類するものが、歌舞・音曲はては遊戯などと、まったくおなじ質のものとして、違和感なく同居して、ともに町人たちの遊芸の世界を構成している点に、読者の注意を喚起しておきたい。」
「医術から歌舞・音曲までが、「諸師諸芸」の範疇で同列にあつかわれている所以は、それらが、当時、ひとしく芸事、稽古事――総じて遊芸の対象となるものだったからなのであった。町人たちは、これらを遊芸として修得しようとしていたのである。」
「いずれにせよ、今日のわれわれの常識では、学問と芸術・文学、あるいは科学・技術と趣味といった具合に、さまざまな分野に分裂してしまっているものが、この時代の人びとにとっては、一体にして不可欠のものであり、しかも、遊芸と認識され、そして実践されるものだったというわけなのである。」
「町人社会に支持された文化は、分野をとわず、あたかも、〈ものみな遊芸化する〉という顕著な特色をもっていたかのようにみえる。その意味では、近世町人文化なるものの実体は、遊芸であったと断言しても、かならずしも、いいすぎではなかった。」
「ここでわれわれは、一七世紀を通じて、芸能者の社会的な存在におおきな変化がおきていたことに留意する必要がある。言葉をえらばずにいえば、それは中世的な芸能者から近世的な芸能者への変貌の過程であった。すなわち、道をもとめ、自己の鍛錬にはげむ求道的な芸能者が、素人を相手に芸を教授する啓蒙家として、あらたな存在の形態を確立していったのである。」
「いうまでもなく、都市社会は村落にくらべて、いちじるしく流動的で多様性をもった社会であった。村人は先祖代々にわたっての氏素性をたがいにしりあった者があつまって生活している。しかし、都市では、みずしらずの他人と隣あわせ、背なかあわせに生活する覚悟こそ必要であった。
 異質な人間が高密度で住居するのが都市であり、浮沈つねならぬ町人社会なのである。しかも、その異質性をこえて、人々は、まじわりをむすばねばならない。元禄の都市民は、そのまじわりの媒介のひとつとして、共通した趣味の世界――遊芸をみいだしていたといえるのではなかろうか。」
「世間にみとめられたひとかどの町人であれば、そして彼らの社交の場にでいりするためには、ぜひとも、「会釈」としての諸芸に通じておかねばならなかったのである。」
「遊芸への期待は、プラグマティックな機能というよりは、むしろ、彼らのソーシャル・ステイタスのシンボルとしての、それなのであった。」
「「俄分限」(成り上り)の町人がこぞって、その子弟に芸事をならわせる様子は、(中略)それなりに切実な必然性にかられるところがあったのであり、いちがいに虚栄とみてしまっては、当をえていないのである。」

「「分別」と「始末」、このふたつは、この時代の商人にとって、かかすことのできない徳目であったことは、すでに冒頭で、のべたとおりである。これを無視すれば、かならず、彼は破滅の淵にたつのであった。」
「そういえば、西鶴が点描してみせた「芸自慢」たちは、なぜか、すべて破滅の道をたどるのである。東海寺門前の乞食ばかりではない。『西鶴織留』にでる伊丹の男も、遊芸ゆえに身をもちくずし、ついに父親から「商売さすこと無用」といいわたされる破目になった。禁治産者あつかいである。」
「つまり、町人社会に浸透した遊芸は、ほかならぬ町人たちのあいだで、かならずしも全面的な肯定と支持をえていなかったのである。」
「遊芸が、それに熱中して家業をおろそかにし、あげくのはてに、身代を無にする危険をともなっていたとすれば、たしかにそれは、彼らの信条たる生活倫理に抵触するにちがいないものであった。」
「三井家の四代目三井高房(たかふさ)は、『町人考見録(こうけんろく)』と題する書物をのこして、子孫の庭訓とした。」
「誰あろう、三井家二代目の浄貞(じょうてい)がそうであった。(中略)彼は、栄華に日をおくることばかりをのぞんていたという。彼は、ほしいままに茶道具をかいあさり、数寄をこらした茶室をいとなみ、庭いじりにいれあげて、風流三昧(ふうりゅうざんまい)にふけったというのである。「遊芸には無類」との世評をえた彼であるが、その没後、同家には不祥事がうちつづいた。そしてそのよってきたる事由は、「二代目浄貞、おのが町人の家業をわすれ、勤めざる故、其の報い」と、子孫のそしりをこうむることとはなったのである。
 同様の事例は、おなじ『町人考見録』のなかから、いくらでもあげることができる。
 京都三条通新屋伊兵衛の一人息子は、幼少のころから能をならって熟達し、長じてますますこれに没頭して、ついに身代をつぶすこととなり、しかたなく蜂須賀侯お抱えの能太夫として、一生をおえた。
 やはり京都室町大門町の大黒屋善兵衛の場合も、浄瑠璃をこのんで家は没落、われとわが身を芝居町の太夫にしずめたという。
 あるいはまた、京都きっての薬屋と評判のたかかった播磨屋の二代目長右衛門は、若年から和歌・蹴鞠に心をうばわれて、家業をかえりみることなく、あまつさえ山師の餌食となって、二〇年もたたぬうちに、さしもの家産を無にしてしまった。」
「これらの逸話に共通する傾向として、遊芸に身をもちくずす者のおおくが、二代目であるという事実を指摘できるであろう。」
「みずからに鞭うって立身を至上の課題とした家祖は、それこそ勤勉・禁欲一点ばりで、芸事などとは縁もゆかりもない無骨者であった。しかし、その教養のなさのゆえに、成り上がり者としてつねに肩身のせまいおもいを余儀なくされてきたであろうことは、推測にあまりある。」
「せめて子供たちには、そのみじめさを味わわせたくないものと、もの心がつくやつかぬかのころから、稽古事にはげませるのは、今昔かわらぬ親心だった。と同時に、それは、おくればせながら子供に託して、みずからの社会的地位のシンボルをえようとする屈折した行為でもあったのである。
 しかし、『町人考見録』の著者がいうように、「凡て一芸ありといはるゝ者は、大方、身体を持ち崩す」のが世の常なのである。」
「このようにみてくれば、元禄期以降、町人社会のすみずみにまでおよんだ遊芸の実情は、われわれがおもうよりはるかに、複雑で深刻な内容をはらんでいたことにおもいいたるにちがいない。いや、身の破滅をかけた遊芸の充実感など、今日では想像を絶する愉悦であったやもしれないのである。
 しかし、かんがえようによっては、鎖国という状況のもと、限定した市場しかもちえなかった当時の町人にとって、ひとたび蓄積した富に、はたしてどのような活用の途がひらかれていたというのであろうか。
 西川如見が『町人袋』で、家財は「先祖よりの預り物」であり、無傷で「先祖へかへす」のが道理にかなうといっているのは、(中略)かんがえようによっては、これは、まさしく絶望的な状況だといわねばならなかった。」
「もしかすると、だからこそ泰平の世の町人たちは、みずからの余剰を、けっして利をうむ心配のない遊芸にいれあげる衝動を禁じえなかったのかもしれないのである。」
「かくなりゆくと、ゆくすえがみえていても、それが町人を魅了して、はなさないのである。」
「遊芸というものが、悪所と同様、閉塞の時代をいきる町人たちにとって、わずかに自己をときはなつ時と場をあたえるものであったのかともおもわれる。
 にもかかわらず、その破滅を賭した遊芸は、近世文化の培養土であった。」



「第二章」より:

「「始末」と「才覚」を信条にして家業をはげみ、それゆえに今日の地位をえた元禄町人であった。その彼らを、大衆化した遊里がさそう。「悪所」の意識は、彼らに門戸をひらいた遊里の誘惑に対して町人たちがいだいた自戒の念にきざすものかもしれなかった。あるいは、その魅惑への、いいしれない恐怖感とでもいうべきではなかったのか。
 西鶴はいう。「近年、町人身体(身代)たたみ、分散(破産)にあへるは、好色・買置(かいおき)(先物買)、此の二つなり」(『西鶴織留』巻一)と。」
「もっとも、おなじ西鶴でも、「鎌倉屋の何がし、分限長者経にも入り、九千貫目、家継ぎにゆずりしに、色あそびさかんになって、跡なくつかい捨てしとかや。一生の思ひ出、是なるべし。とても死んでは持ちてゆかず(中略)。人間万事は夢の見残し、ただ緋緞子の長枕、まことの極楽、遠きにあらず」(『諸艶大鏡』巻一)となると、かなり論調がことなっている。
 これは、放蕩(ほうとう)それ自体に価値をみとめた、数すくない言辞として、記憶にとどめておいてよい。
 親の遺産を「色あそび」で「跡なくつかい捨て」るのは、これこそ「一生の思ひ出」だというのである。(中略)これもまた当時の町人にとって、たしかに、ひとつの感慨だったのである。
 「ねがひあれどもかなへず、銭あれども用ゐざるは、全く貧者とおなじ、何を楽とせんや」(『好色破邪顕正』巻下)という意識が、あからさまに自覚されるのも、元禄の世相なのであった。彼らは、すでに浪費というものの魅力にそまってしまっていたのだった。」

「いま、かりに虚と実といういいかたをすれば、遊里というものの存在は、あきらかに虚の側に属していた。日常的な生活領域を実とみれば、それは、そもそも非日常的な虚なのである。批判にさらされた遊里の虚偽性は、実は、その虚構性と裏腹であったといえる。
 遊里の側から、実生活の論理を排斥するのに、ためらうところはなかった。遊里には遊里の論理があったからである。
 ここでは現実の秩序をかたちづくる身分でさえも、たいして意味をもたない。」
「たしかに、遊里は金がものをいう世界である。にもかかわらず、太夫は金だけでは客の自由にならぬことをほこりにしていた。廓の女性は、自分たちのことを、「売りものとは申しながら、神仏の奉加と同じことで、銀出しながら拝まするは、恐らく世界に傾城(けいせい)ばつかし」(『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』)といって、はばかるところがなかった。売買の感覚についても、この遊里では、世間の常識が通用しなかったのである。」
「虚といっても、それは実ととなりあわせの虚であった。しかして、もし遊里が「悪所」と観念されるとすれば、その理由は、まさにその虚が実と領域をおかしあうほどに接近し、かつ持続して存在していたことにもとめられるのかもしれない。」
「現実の「色の里」は、とうてい、隔絶した別天地ではありえなかった。遊里は、深山幽谷にあったわけでもなく、絶海の小島にあったのでもない。(中略)それは、日常空間のすぐ傍に、しかも、恒常的に立地していたのである。「色の里」は、「常の里」と不断に緊張関係を余儀なくされる距離に位置する存在だった。
 逆にまた、「常の里」の側も、本来は虚構であるべきはずの遊里の論理の侵犯にさらされていたともいえよう。その意味で、遊里を、彼岸でもなく、此岸でもなく、その境界、つまり「辺界」に位置づけた広末保の見解は、きわめて説得的である。」
「近松が、浄瑠璃についていった虚実皮膜(ひにく)の論が、おもいおこされる。彼はいう、「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、その間に慰みがあつたものなり」と(『難波土産』発端)。虚と実のあいだにこそ「慰み」があるのだというこの主張は、浄瑠璃にかぎらず、元禄期の世相認識として、普遍性をもつ言葉であったようにおもわれるのである。
 ちなみに、元禄期に流行した心中は、まさしく二つの里のおかしあいがうみだした現象のひとつにほかならなかった。」
「おもえば、あの道行という時間は、遊里という夢幻の浮世から、もうひとつの幻、あの世へむかう短絡の道程であったといえようか。」
「遊里が虚構であるということは、実の日常性の規制にわずらわされることなく、そこに純粋な愛情によって男女がむすばれる可能性さえ示唆するのである。虚なるがゆえに実が生じるという倒錯が、遊女の主張のなかだけでなく、現実としてあったのではないか。
 遊里にあそぶ客たちにしても、その虚構性――あえていえば虚偽性に武装されることによって、はじめて自己を解放するという屈折を実現することがあったとみるべきなのではないのか。廓の女たちにしても、実世界から隔離され、なにひとつその恩恵をうけていないがゆえに、現実には実現不可能な純愛を、遊里のなかでこそ達成することができたのではないのか。」
「広末はいう――、「現世的な連続の時間から切り離されている性だったからこそ、男たちはその性のなかで、一挙に極楽往生することができたというようなことが、意識するしないにかかわらず、あったかもしれない」と。」



「第三章」より:

「京都と大坂の「芝居町」の立地に、ある理知的な共通性をみとめることができる。それは、都市の中心部からみて、いずれも川のむこうに位置したということである。京都の四条河原の芝居は川東、つまり鴨川のむこう側にあった。大坂の道頓堀も、道頓堀川のむこうが、「芝居町」なのであった。
 「芝居町」は、川むこうに、おいはらわれていたのである。おいはらったのは為政者であったが、それは、芸能が河原のものであったという伝統的な性格に合致していた。(中略)そしてそれが、興行関係者への蔑視につながったことは、すでにのべたとおりである。
 しかも川むこうというところは、都市と郊外の境界に位置するところであった。その境界の地において、本来、非日常的であるべき芸能の上演が、現実には恒常的にいとなまれている。芝居の場合にも、「悪所」とおなじような辺界性をみとめることができるのかもしれない。」

「「芝居」という話題の最後にぜひとも問題にしておかなくてはならないのは、「芝居」の饗宴性・遊興性についてなのである。その饗宴性ゆえに、近世の「芝居」は近代の劇場でなく、そしてその遊興性こそが、遊里と芝居が共有せねばならなかった「悪所」性なのであった。
 すでにどこかでひいておいたはずだが、遊里と芝居の対比の実質は、「傾城狂ひ」と「冶郎遊び」(『日本永代蔵』巻三)の対比にほかならなかったのである。それはまた、西鶴の好色物に、遊女列伝の『諸艶大鑑』(別名『好色二代男』に対するに衆道列伝の『男色大鑑』のあるごとくであった。そして、その『男色大鑑』の後半部のことごとくが、職業的な男色のにない手ともいうべき歌舞伎役者の逸話でしめられていたのである。
 ――だとすれば、最後になって、またしても、われわれは困難な課題をかかえこんでしまったようである。遊里と芝居が共有せねばならなかった「悪所」性を問題にするのならば、遊里の女色に対する芝居の男色を話題にしなければならなくなるからである。」
「さきに、元禄期の舞台芸能者は、興行という大衆的制度に依存することで、権力とのあいだの隷属関係から解放されたとのべた、しかし、それだけの指摘では、実は、近世の舞台芸能者を説明するのに充分ではなかったことになる。彼らの属性として、その男娼的な性格を、われわれは、あわせて視野にいれておかなくてはならないからである。
 なるほど、特定の保護者とのあいだの関係はきれたかもしれない。しかし、(中略)彼らの芸能者としてのつとめは、芝居にかかわる遊興の場に、芸能の饗宴性とともに、なお濃厚に残存していたのであった。パトロンとのあいだの個人的で人身的な隷属関係は、「芝居」につどう客との関係に、擬制的・遺制的に温存されていたといえようか。」





こちらもご参照ください:

服部幸雄 『大いなる小屋 ― 近世都市の祝祭空間』 (叢書 演劇と見世物の文化史)





















































































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