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佐藤隆房 『宮沢賢治』 (改訂増補版)

「ある日、高喜の主人が賢治さんに
 「レコードはどういうふうに聞くものですか。」と聞きますと、賢治さんは
 「レコードは風景とか、運命とかがおりこまれてある、これを聞きながら詩や文章を書けばよく書ける。」と言いました。」

(佐藤隆房 『宮沢賢治』 より)


佐藤隆房 
『宮沢賢治』


冨山房 
昭和17年9月8日 第1版発行
昭和45年10月1日 第5版発行
昭和50年4月20日 第6版第1刷発行
昭和60年3月1日 第6版第4刷発行
18p+381p 著者略歴1p
別丁図版36p(うちカラー5点)
A5判 丸背バクラム装上製本
本体ビニールカバー 機械函
定価2,500円



「序」より:

「各編は年次に従って編纂したのでありますが、多少前後しているところもあるかと存じます。なお書中の人名の多くは仮名になっておあります。」


「第四版 序」より:

「この第四版には新しく十一篇を増補し、写真版の一部を改め、他に新たに写真版八葉を追加し、史実にも添うように仮名(かめい)は出来るだけ改めて実名にしました。」


「第五版 序」より:

「新たに五編を増補し、写真版の一部を改め、写真版四葉を追加し、仮名を全部実名にしました。」


「第六版 序」より:

「本版においては二ヶ所の誤謬を修正し、三編を追加、写真版九葉を加えました。」


「仮名は全部実名にしました」とありますが、羅須地人協会に出入りしていた「高瀬露」は「内田康子さん」になっています。著者は医学博士なので自分のことを「佐藤博士」と書いていて、「七五 雉子の尾羽」の項では、賢治が農学校の卒業生からもらった雉子を「佐藤博士」にあげようと小脇にかかえて歩いていると村の子どもたちに羽根をくれと乞われるままに尾羽を抜いて与えてしまって「その雉子ですが、そのあとでどうなったか。だれも知っている人はありません。」とトボけています。

本書はなぜかまだよんでいなかったのでヤフオクで200円(+送料510円)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。個人的には「五五 得道」で紹介されている、荘子にでてきそうな寝たきりの義理の叔父さんのエピソードが心に残りました。


佐藤隆房 宮沢賢治 01


目次:

序 (昭和17年春)
第四版 第五版 序 (昭和25年10月15日/昭和45年8月15日)
第六版 序 (昭和50年2月15日)
「宮沢賢治」のできた頃 (市村宏)

嫩葉(わかば)時代
 一 「イーハトーヴオ」
 二 明るい光り、夏の朝
 三 はたん杏
 四 素人(しろうと)医者
 五 三つ子の魂
 六 子供の世界
 七 漆(うるし)かぶれ
 八 コックリさん
 九 法華経(ほけきょう)の信者
 一〇 海を見る
 一一 岩手山(一)
 一二 盛岡中学校
 一三 発疹(はっしん)チフス
盛岡高等農林時代
 一四 希望
 一五 地質学研究
 一六 八戸海岸
 一七 屠殺(とさつ)実験
篤信(とくしん)
 一八 質屋の手代
 一九 寒行
 二〇 阿部晁(ちょう)先生という人(一)
 二一 破折屈伏(はしゃくくっぷく)
 二二 「伊勢に詣るなり」
 二三 純心
 二四 祖父と孫
 二五 星
農学校教師時代(一)
 二六 就職
 二七 渋柿(しぶがき)
 二八 ぼうふら
 二九 裸(ら)体の学者
 三〇 緋(ひ)色のダーリア
 三一 沈んだレコード
 三二 ずんばい
 三三 盗み
 三四 読書
 三五 岩手山(二)
 三六 正覚と幻覚
 三七 衣服観
 三八 運動
 三九 粗食
 四〇 硫酸アンモニア
 四一 とし子さん(一)
 四二 とし子さん(二)
 四三 北海挽歌(ばんか)
 四四 弁と徳
 四五 雲
 四六 代理派遣
 四七 救恤悲願(きゅうじゅつひがん)
 四八 媒酌(ばいしゃく)二重奏
 四九 後進のために
 五〇 友達
 五一 火事
農学校教師時代(二)
 五二 乗車券
 五三 慈愛
 五四 農民劇
 五五 得(とく)道
 五六 岩手山(三)
 五七 鳥
 五八 土質調査
 五九 雪に植樹
 六〇 教え
 六一 不測(ふそく)の涙
 六二 町会議員
 六三 大旱魃(かんばつ)
 六四 落ちていた答案
 六五 辞意
 六六 楽器商
桜の住居(一)
 六七 羅須地人協会
 六八 読経
 六九 著述
 七〇 寄進
 七一 一人前の百姓
 七二 下肥
 七三 麦藁(むぎわら)帽子
 七四 林檎(りんご)
 七五 雉子(きじ)の尾羽
 七六 観音様の御手
 七七 忘欲
桜の住居(二)
 七八 皮肉
 七九 二枚の油揚(あぶらあげ)
 八〇 泥棒
 八一 饅頭
 八二 師とその弟子
 八三 レコード・コンサート
 八四 女人
 八五 肥料設計(一)
 八六 肥料設計(二)
 八七 紳士にはいつでもなれる
 八八 地人
 八九 測候所
 九〇 ちょうちょうとなって
 九一 墓場の杉の木
 九二 苗
発病
 九三 発病
 九四 情誼(じょうぎ)
 九五 鯉(こい)の生胆(いきぎも)
軽快
 九六 父と子
 九七 真夏の一日
 九八 審査員
 九九 東北砕石工場
 一〇〇 結婚
 一〇一 イリドスミン
再発
 一〇二 再発
 一〇三 短冊(たんざく)
 一〇四 お祭り
終焉(しゅうえん)
 一〇五 終焉
滅後(めつご)
 一〇六 詩碑
 一〇七 阿部晁先生という人(二)
概説
 一〇八 「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」
 一〇九 疾病考(一)
 一一〇 疾病考(二)
 一一一 賢治さんとその短歌
 一一二 賢治さんとその絵画
 一一三 宮沢政次郎翁
賢治さんとその文学
 一一四 法華経入信以前
 一一五 法華経生涯前期
 一一六 法華経生涯後期
その後
 一一七 桜の詩碑
 一一八 高村光太郎先生
 一一九 雨ニモマケズ
 一二〇 賢治の家
 一二一 改宗

付録 宮沢賢治年譜 (宮沢清六 編)



佐藤隆房 宮沢賢治 02



◆本書より◆


「五 三ッ子の魂」より:

「賢治さんが尋常五年になった時のことです。どこの親達も同じですが、賢治さんの父親も、賢治さんを偉くしようと思っていろいろ鼓舞激励(こぶげきれい)します。ところで父親がある日
 「お前は何になる。」と聞きますと、賢治さんはあっさり
 「無暗(むやみ)に偉くならなくってもいい。」と答えたので、父親は顔を真赤にして
 「そんたな意気地(いくじ)のないことでどうする。」と叱りました。そしてたたみかけて
 「それでは何になる。」と言われると
 「寒い時には鍛冶屋になればえし、暑い時には馬車屋の別当になればええ。」と答えました。
 父親はカンカンに怒ってしまったのですが、賢治さんは一向平気です。陰で聞いている母親や家の人達が、そこをちょっとうまくいえば叱られないのをと、はらはら気をもんでいるのにも頓着(とんちゃく)しないのです。」



「六 子供の世界」より:

「学校にはいる前から、本を読むのが好きでした。小学校での遊びは、その頃の子供としてはまことに大人びたもので、絵葉書を買い集めたり、それがあきれば植物採取、次は昆虫採集というように、(中略)ランプのホヤを外してそれを土に立て色々な虫を捕って来て放し、動物園のようにしてながめていることもありました。」

「中学三年の時、催眠術(さいみんじゅつ)を覚えて来たというのです。家中の誰彼に遠慮なくかけるのですが、実は誰も本当にはかからない。然し「かからない。」というと何時までも「まだまだ。」と捕(つかま)えられるから、かかったふりをしてやるのです。」



「九 法華経の信者」より:

「尋常三四年の頃、賢治さんは画用紙にお仏様を書いたり、粘土で仏様を造ったりするのが好きでした。」
「中学校にはいってから、賢治さんはお仏様の像を木彫にしたり、仏像を買い集めたりしていました。」



「一一 岩手山(一)」より:

「中学二年の一学期、賢治さんは博物の教師に引率されて、植物採集のため岩手山に登りました。」
「中学時代を通じて、岩手山の頂上をきわめたのが八回。三合目、四合目あたりまでの登山は数えきれないくらいです。山を師とも友達ともする賢治さんは、多くは一人で出かけます。級友たちは
 「宮沢の友達は岩手山なんだから、人間の友達はいらないんだ。」と評しました。」



「一二 盛岡中学校」より:

「後からの話ですが、同級の親友阿部孝(たかし)は
 「宮沢は、ランプ掃除を人並以上にキチンと果たし、他人の部屋でていねいに頭を下げるのをごまかすことの出来なかった中学生宮沢の延長に外ならない。」と評しております。
 一年の賢治さんは、晴れた日は日曜毎(ごと)に、親友の阿部孝や梅津達三と郊外散歩に出かけますが、いつでも、砕石槌を手から離しません。鉱物に対する人並はずれた趣味は、すでにこの頃から養われていたので、鬼越(おにごえ)山、南昌山などは彼の鉱物採取の檜舞台でありました。押入れの中にはいろいろ様々の岩石の細片が、所狭きまでに並んでおります。」



「一七 屠殺実験」より:

「賢治さんは、どちらかというと、子供の時は蒲柳(ほりゅう)の質、よくある偏食で、滋養物に類する物がきらいでした。中学校にはいってからは、段々偏食の傾向がなくなり、農林学校にはいった頃は、何でもよく(中略)食べました。
 ところで賢治さんが盛岡高等農林に在学中、自分の専門の、農芸化学の教室の隣に獣医科がありました。
 獣医科では時々動物の屠殺実験が行われます。中には病気のため、伝染をおそれて殺すのもありますが、多くは学生にその動物の撲殺致命点を覚えさせるためにやるのです。(中略)動物は苦しがって、キューキュー啼(な)いて暴れ回る。その傍では、そいつが何分間で絶命するかと、時計を片手に眺めている。
 こういうことも勿論研究のひとつではありますが、別な立場からいうと、りっぱな虐殺(ぎゃくさつ)に違いはない。」
「ある時、食堂で御飯を食べようとして皿の上を見ました。それは一片の肉だったのですが「あのかわいそうな……。」と思った時、殺されて行く牛や豚の叫び声が、どこからともなく悲しそうに聞こえて来ました。
 賢治さんは、それからまた肉類をとりたがらない人になったのです。そしてある人に言いました。
 「私は最初から菜食主義ではありません。何かの時に、菜食主義者の書いた物を見たこともあるし、そのことを考えて見たこともあります。しかし、どちらかといえば私の好みは肉食で、よく肉を食べました。けれどあの殺される時の叫び声を思うと、とてもかわいそうで食べる気にはなれません。」」



「二一 破折屈伏」より:

「上京した賢治さんは、本郷菊坂町の素人屋(しろうとや)の二階の間に宿をとることにしました。」
「金がないのですからまず生活費をかせがなくてはなりません。その頃は職業をさがすのも中々容易でなかったのです。中学の同級生であとで海軍軍医になった人ですが、小田島祥吉君が東大の医科に在学していたので、その友人の紹介(しょうかい)で、まず東大医学部解剖(かいぼう)学教室の解剖用の屍体の運搬をしてみました。
 辛抱づよい賢治さんもこの仕事には少々参ったらしく、「あまり臭いがひどいのでね。」と二、三度でやめたようです。その後幸いにある人の紹介で、同県人の金田一京助博士の講義をプリントにし、それを学生に分けて、いくらかの金を手にすることが出来ました。」



「二三 純心」より:

「高等農林の鏡校長は、優秀な生徒、宮沢賢治に、常々並々ならず目をかけておられましたが、親戚の人が行った時に
 「宮沢はどうも普通の若い者のようでない。成績の良いのにも驚いたが、実に風変わりな男だ。名誉も財産も、おまけに命までいらないようなことを言うんだぞ。まさか赤化するのでもあるまいが、やっぱり気をつけなければならない代物だ。」と(中略)申されました。」



「二五 星」より:

「賢治さんは、すでに中学二年の頃から天体に興味を持ち、休みで帰って来た日の夜なども二階の屋根の棟にまたがって星をながめて喜び、書斎には紺色の大きな紙を張って、それにいろいろな星をはりつけて星座図をこしらえたりしていました。」


「二七 渋柿」より:

「賢治さんが農学校に奉職した当時は、宗教に熱心のあまりか、人との調和、世間との交渉などはいたって無関心な上に議論好きで、ありとあらゆる方面から材料を引用して、それにお得意の機知を加えて必ず相手を論破するというような、悪く言えば我を張り通すというふうでした。
 ところが半年ばかりたつうちに、おのずから気がついたらしく、人との調和とか世間との交渉にも心をくばるようになって来、例えば頭髪も初めはクリクリ坊主だったのを世間なみに「それじゃおれも髪をのばそうか。」といって長髪にし、ポマードなどもつけました。
 宴会の席などでは御本人は余り酒をたしなみませんが、つとめて皆と歓をともにするというぐあいになりました。しかし杯の応酬(おうしゅう)などはやはり並外れていて、杯をもらいますと、折返し非常なす早さで返杯するところなど、同僚間にはやはり変わった存在でありました。
 結局、表面的にはずいぶんくだけて来たようですが、これは賢治さんが皆といっしょに歩んでゆこう、調和してゆこうということに努力したあらわれに過ぎませんで、内に蔵するものは圭角稜々(けいかくりょうりょう)たる気骨です。つまりは一つの渋柿でありました。」



「三一 沈んだレコード」より:

「レコードの蒐集(しゅうしゅう)に夢中な頃。わざわざ仙台まで出かけて行き、気に入ったレコードをたずね歩いて、ようやく会心のものを四五枚見つけて購(あがな)い、帰ったらその美しいリズムを聞こうと楽しみながら帰路につきました。帰りは塩釜様に参詣し、そこから小さな遊覧船に乗って松島に出ることにしました。ところがどうしたはずみか、その遊覧船がひっくり返ったのです。幸いにまだ塩釜の湾内であったために、すぐに水上警察ではランチを飛ばして救助にやってき、大変な騒動です。
 他の乗合いといっしょに投出された賢治さんも、水中でジャブジャブやっておりましたが、警察のランチを見ると大声で「早く、早く、大したものを落したから、早くさがしてくれ。」と言うので、乗組の警官も
 「何だ、何だ。何を落したんだ。」と聞きました。賢治さんは
 「レコードだ。」と言いました。
 さしずめ人の命を心配している警官はすっかり憤慨して「この馬鹿野郎! レコードぐらいがなんだ。」とどなりました。」



「三四 読書」より:

「農学校職員の頃、畑にも出ず、標本室にも行かないひまな時間は、日当りのよい窓ぎわに椅子をよせて足を組み、読書に余念がありません。
 ある時、同僚の渡部教諭が
 「あなたは本の善悪を見分けるのに、どんなにしていますか。」と聞いたことがあります。すると賢治さんは
 「そうですね、まず肥料の本に例をとっていえば、自分の最も得意とする下肥のところを読んで見ます。そこに成程と思う点があれば、これは良い本ということにして、その他の項目も読みます。」と言いました。」



「三六 正覚と幻覚」より:

「またある時佐藤師という某寺の住職に
 「僕がチャイコフスキー作曲の交響楽をレコードで聞いていた時、その音楽の中から『私はモスコー音楽院の講師であります。』と言うことばをはっきり聞きました。そこですぐに音楽百科辞典を調べてみたら、その作曲の年はやはり、チャイコフスキーがその職にあった年だったのです。」と語りました。」



「四五 雲」より:

「愉快な実習がすみ、賢治さんはいつものように生徒に
 「さあ実習終り、みんな外へ出て雲を見よう。」」

「「あの高いのは巻雲、あれは巻層雲……」」



「五〇 友達」より:

「賢治さんは高利貸といわず、ならず者といわず、どんな階級の人、どんな種類の人人とも平気で、差別なく交際します。あまりの札つきのならずものなどとつきあっている時は、側ではらはらさせられたこともしばしばです。一体に賢治さんの交際振りは軟かで角がなく、謙遜で静かで、仮りにも人を非難するというようなことは絶無だったようです。」


「五五 得道」より:

「賢治さんの義理の叔父さんがありました。
 仏様だの、神様にまるっきり関心を持っていない人で
 「今日は誰それさんの命日だんちゃ。」といわれると、仏壇の前へちょこなんと坐り、手を合わせるか合わせない中に首をちょこりと下げ、それだけで何もかもすんだとしてしまう人でした。その人は脊椎炎を患って起居も不自由となり、十二年間も床の上に寝どおしということになったのですが、後生なんど願う気もなく、お念仏をすすめても、けろりとして無駄口ばかりきき、信仰などのことは、それこそ馬の耳へ念仏です。
 夏の暑い日などは
 「ああ有難い有難い。おれは足腰立たないばかりに、この暑い昼日中汗を出して働くこともないのだ。」というぐあいです。
 賢治さんとは気持ちがよく合っていて
 「賢さん賢さん、おれの病気も今年はこれで中学校だんすじゃ。どうだべ大学校まで生きられなかべか。」など言っていました。
 ところが、その病人が晩年になったある日
 「じゃ、じゃ、賢さん。今年はおれも駄目かも知れねえんす。お前さんばかりいい事覚えていないで、おれにも少し聞かせてんじゃい。」と言って、賢治さんに法華経の講義を聞きはじめました。」
「その病人は、死ぬ時になっても、怖れることも悲しむ様子もなく、病苦も訴えず、笑顔をもって終りました。」



「五七 鳥」より:

「澄みわたった良い秋の日でした。(中略)農学校の生徒は先生方に連れられての遠足です。(中略)賢治さんも教師の一人としてその中におりました。
 日居城野にさしかかって、野原の松の間を歩いていた時です。賢治さんは突然向こうの大きな松の木の側までかけてスルスルとその木に登ったのです。木に登ることは実に上手です。そして遙か西の方を指して
 「ホウ、ホウ」と呼んでいます。何かと見れば名の知れぬ鳥、多分は尾長だったでしょう。
 二十羽ほど美しい編隊を作り、鱗雲(うろこぐも)の下を陽の光にあたって、キラキラ光りながら飛んで行くのでした。樹上の賢治さんは無性に喜んでいる。それからスラスラと木を降りて、喜びの溢れるままに手をうち、足をピンピン躍らせながらぐるぐるととび回りました。生徒も浮かれてとびながらぐるぐる回りました。」



「六六 楽器商」より:

「高橋喜代治君は大正十二年頃、花巻町鍛冶町にささやかな楽器店を開きました。ちょうどその頃、賢治さんは農学校の教師だったので、出勤の途中必ずその楽器店の前を通ります。
 賢治さんはこのささやかな楽器店に目をつけ、時々来て大量にレコードを買います。」
「ある日、高喜の主人が賢治さんに
 「レコードはどういうふうに聞くものですか。」と聞きますと、賢治さんは
 「レコードは風景とか、運命とかがおりこまれてある、これを聞きながら詩や文章を書けばよく書ける。」と言いました。」



「七三 麦藁帽子」:

「花巻の上町は、花巻町のメーンストリートでありますが、その中にあまりはやらない雑貨店が一軒ぽっつりと置き忘れられたようにありました。
 はや真夏の八月も過ぎようとする頃、その店のショウウインドウに、初夏から買手を待っている麦藁帽子が飾ってあります。
 賢治さんはいつもその通りをとおる時、その帽子をながめて過ぎました。そして初夏も過ぎ真夏となり、やがて、その夏の盛りも過ぎようとしています。
 賢治さんはそこをとおるたびに
 「帽子はまだあるかな。」とまがって(のぞきこんで)見ました。しかし帽子はいつもそのまま売れないであります。秋もま近になって、早や麦藁帽子もいらなくなるある日、賢治さんは、とうとう店にはいって行って
 「その帽子はいくらですか。」とお主婦(かみ)さんにたずねました。
 「そうですね。五十銭なんですけれど、すすけてもいますから三十銭におまけいたします。」
 「その帽子はいただきますが、三十銭でいいんですか。」
 何とかして五十銭を支払ってやりたいと思いながらも、うまい文句が考えつかず、何かもどかしい物足らない顔で、三十銭出して帽子をうけとりました。」



「七六 観音様の御手」より:

「妹さんの縁談とり決めのため、賢治さんは先方の親元に出かけました。(中略)とにかく急いで帰らねばならない用があったので、魚を積んで花巻に行くトラックに便乗させてもらうことにしました。
 熱があるので、賢治さんは自動車に乗った時から、うとうとしておりました。
 秋の肌寒い風をついて、トラックはいま、難所である峠の急な坂を頂に向って驀進(ばくしん)して行きます。トラックが千仭の断崖の鑿道にかかった頃、賢治さんは夢心地からひょいと気がつきました。みると山手の側にあから顔のからだの矮少な鬼人が五六人集まって、跳ねたり躍ったり、子供のように騒ぎながら、このトラックを谷底へ突落そうと、いっしょうけんめいになっています。「あああぶないな、あぶないな。」と思って、谷底の方を見ました。不思議や谷の下から、白々と大きな手が浮かび上るように見えて、このトラックをちゃんと支えております。
 賢治さんは「あ、観音さまの御手だ。」と思いました。」



「八二 師とその弟子」より:

「御茶は出ないで、主人の御馳走は、オルガンの奏曲と、ロシヤのレコードと、うず高く積まれた自作の詩稿の朗読とです。
 「こんな山のなかにおっても、ありがたいことには世界の名曲を聞かれます。」と言いながら宮沢先生はレコードをかけて客をもてなしました。」



「八三 レコード・コンサート」より:

「昭和二年の秋の末の一夜。土地の花巻(共立)病院の院内で、藤原先生を中心とした熱心な音楽愛好者達が集まって、レコード・コンサートが開かれました。
 賢治さんと藤原さんとは大の仲好しで、仲好しだけに時に激しい論争をします。音楽のことになると藤原先生がなかなか鼻息が荒くなり
 「大体、交響楽なんていうものは、レコードぐらい聞いたってわかるもんではないです。」
 「いや、大体のことはわかるものさ。」
 賢治さんは、けろりとして反駁(はんばく)します。
 フランスのドビッシーの(中略)「海」(中略)のレコードがかけられる時です。
 「通俗的でも何でも、曲に解説をつければ聞きやすいからひとつ解説をつけてはどうだろうね。」
 と賢治さんが言いました。
 「解説なんてつけたってしようがない。聞くそれぞれの人によって感じが違うものだし、第一そんなにはっきり解説をつけるということは、音楽の場合は間違っている。」
 と音楽の先生は主張して譲らないのです。
 「いや、とにかくそんなら私がする。」ということになって、賢治さんが立ち上りました。
 レコードはかけられて、ドビッシーの「海」の管絃楽の一曲が秋の夜の静けさに織りこまれて流れ出ます。
 「きれいなきれいな星月夜で、静まった海上に一隻の船が浮かび出た所です。乗っている漁夫が今海にはいりました。次第次第に深く潜って行きます。今水の中で漁夫はたこを捕らえました。大急ぎで上って来ます。たこは船の上へ上げられました。」
 そのレコードが終ると同時に藤原先生は昂奮して立ち上りました。そして賢治さんに向かって
 「そんな説明をするのか、君、僕は帰る。お前とは絶交だ。」と言いすてて、どんどん出て行ってしまいました。」
「藤原先生の足音が廊下に消えて行った時、傍の人が
 「賢治さん、いいんですか。」と聞きました。すると賢治さんは
 「なに、いいんです。絶交はもうこれで三、四回目だから。」と言ったので、緊張した皆の気持ちが一時にゆるんで、どっと笑い出してしまいました。」
「(註)藤原先生は非常に熱心な音楽家で、独学よくその楽才を認められています。興が乗ってくると「テイテイトタテイトタデイデイデイデド。」と奇声を発し、両手の指を拡げて、ピアノの鍵板の上を躍らし、しまいには身体も躍り出すという熱中状態になります。その最高潮(クライマックス)の時に、顔がたこに似てくるというので、生徒達が「タコ」とあだ名をつけていたのです。」



「八五 肥料設計(一)」より:

「賢治さんはまず田畑の所在、去年の作のでき具合、田畑の形状、日当りの状況などを聞きますと、直に所定の用紙に肥料の設計を認(したため)て渡すのです。実にすばらしい速さです。場所を聞けば、地質の状態が直ちに分るようになっているのは、賢治さんの熱心な研究の賜(たまもの)なのです。」


「九〇 ちょうちょうとなって」より:

「晩春六月の空が晴れて、あちらこちらにぽっかりと白雲が浮かんでいるある日です。
 湯本村のあるお百姓さんに頼まれて、賢治さんは、肥料の設計のために畑の土質を見に行きました。」
「目的の畑に着いて、皆が気がついてみると、今までいっしょに来たはずだった賢治さんの姿が見えないのです。
 「あれ、先生はどこさ行ったべや。」と驚いているところへ、賢治さんが笑顔をつくって出て来ました。
 「先生。どこさいってたべ。」と百姓達がききました。
 「はあ、あんまり蕎麦(そば)の花がきれいだから、ちょっとちょうちょになって飛んでみました。」と答えました。
 その時の賢治さんは、さも楽しそうに、両手を拡げて蕎麦の花の上をなでるように、ぐるぐる大きく輪を描いて飛ぶようなかっこうをしていたということです。」



「九五 鯉の生胆」より:

「病中の賢治さんに、何とか栄養物をとらせたいと家中の人達が苦心していましたが、何しろ動物質のものは全然身体に受付けないのですから困っておりました。」
「方々の人達から、いろいろお見舞やら何かで、良く効(き)くという薬を贈られたり教えられたりしましたが、その中の一つに蝸牛がよいといって、生きているのを捕まえて来てくれた人がありました。
 弟の清六さんは、そのかたつむりの殻をきれいに取り去ってオブラートにすっかり包み
 「これはとってもいい薬なそうです。」といってすぐに飲むことをすすめました。
 賢治さんは言われるままにそれを飲みましたが、後から
 「あいつは何だべ。あの薬だけは絶対だめだ。後はもうやめてけろ。」と言いました。
 お母さんの方はお母さんの方で、鯉の生胆がよいと聞きましたので鯉を殺して生胆をとりとてもあたりまえでは飲むまいと、これも何枚かのオブラートにすっかりかくして
 「良い薬をもらったから、これを飲めばすぐに癒るというから。」と言いますと、おとなしく
 「そうすか。」といって飲みましたが、これもわかってしまいました。そしてお母さんに
 「おれはこういうかわいそうなものを飲んでまで生きなくともいい。」と言って泣きました。」



「九六 父と子」より:

「賢治さんの父親は非常に謹厳な、そして信仰に厚い人ですから、賢治さんに「偉い者になれ」と激励するとともに、人の道を正しく進むように不断の訓諭を与えました。」
「賢治さんは中学の末の頃、法華経の信仰にはいってから高等農林に進むにつれて、次第次第に信仰に対する熱烈の度が高まって、父親が身を修めることを教えたよりも、一層厳格に身を修めるようになりました。
 信仰に熱心になるとともに、賢治さんは次第次第に無我無欲の心境に進みました。この時になって父親はびっくりしました。
 「これは少し困った。賢治は恬淡(てんたん)を通りこして財産や生命にも無欲になって行くようだ。あの島地さんの法華経を読ませなければよかった。」と嘆じました。
 「そんなに読ませて悪い本なら、家に置かなければよかったのに。」と家人はまた怨じました。
 賢治さんが高等農林をおえて、花巻農学校に教鞭をとるようになった頃
 「いづれ財政を乱しては一家はつぶれ、一族は四散する憂き目を見るようになるから、賢治、お前もその方に心を入れて下宿料のつもりで家へいくらか入れてはどうだ。」と父親が言ったことがありました。
 賢治さんは
 「はあ。」と返事をしたという話ですが、そんな金は入れるどころか、いつだって空財布を持っているに過ぎない有様で、時々は父から金を借り出す始末です。
 ある時、腹に据えかねて注意を促がさねばならなかった父親は、(中略)暗然と声をおとし
 「賢治。お前の生活はただ理想をいっているばかりのものだ。宙に浮かんで足が地に着いておらないではないか。ここは娑婆(しゃば)だから、お前のようなそんなきれい事ばかりですむものではない。それ相応に汚い浮世と妥協して、足を地に着けて進まなくてはならないのではないだろうか。」と教えたり、頼んだりしてみました。賢治さんは
 「はあ。」と答えました。」

「父親がある道者に
 「賢治の病気はどうして出来たのですか。」と聞いたところ
 「悪用(あくゆう)不足に因る。」と言われ
 「賢治、お前の病気は悪用(あくゆう)不足から来ているということだぞ。つまりきれいなことばかりやろうとしたために起った病気なんだ。勝海舟が言ったことがある。おれは横着なる故に長寿だが、鉄舟は横着ができなかったから早世した。横着の心が三分無いものは危くって用をさせることが出来ない、とな、お前もよく考えたらよいだろう。」」



「九七 眞夏の一日」より:

「昭和四年の真夏のある日、(中略)元気になった賢治さんは、(中略)知友である佐藤博士の宅を訪れました。」
「その宅の前庭には、変った一つの池があります。地下水が地下十二、三尺にあるのを利用して十坪ほどの地面を摺鉢形に掘りさげ、その底の方は次第に狭くして、最低の部分二坪ばかりを更に深く掘り、周囲を石で畳んで、地下水をたたえて池としてあります。金魚がおります。あたりからは螺旋形に道をつくり、池の端まで降りて行かれるようになっております。螺旋の道以外の所は皆崖の形になっていて、そこには芝生がきれいに植えてあり、去年あたりこぼれたのであろう松の種が所々に生えて、一、二寸ばかりの小松となっております。」
「佐藤博士は背と脚の調子が悪いので、はかばかとも歩けないのですが、賢治さんはなかなかの元気で、病後とも思われぬ活溌さで、その螺旋形の道を摺鉢の上の縁から底の池まで何度も何度も降りたり登ったりしました。そして賢治さんは、
 「面白いですね、まるで火山湖です。こうして何度も降りたり登ったりしてると、登山して火口湖に遊んでるようです。山は愉快ですね。」と喜びました。」



「一〇〇 結婚」より:

「昭和六年の七月のある日、病気上りの賢治さんが、(中略)森佐一君を訪問しました。
 連れ立って道を歩いておりましたが、賢治さんは、突然今まで話したこともないようなことを申します。
 「実は結婚問題がまた起きましてね、相手というのは、僕が病気になる前、大島に行った時、その島で肺を病んでいる兄を看病していた、今年二十七、八になる人なんですよ。」
 つりこまれて森君は聞きました。
 「どういう生活をして来た人なんですか。」
 「何でも女学校を出てから幼稚園の保母か何かやっていたということです。遺産が一万円とか何千円とかあるといっていますが、僕もいくら落ぶれても金持ちは少し迷惑ですね。」
 「いくら落ぶれてもはちょっとおかしいですが、あなたの金持ぎらいはよくわかっています。ようやくこれまで落ちぶれたんだから、という方が当るんじゃないんですか。」
 「ですが、ずうっと前に話があってから、どこにも行かないで待っていたといわれると、心を打たれますよ。」」
「「おれの所へくるのなら心中の覚悟で来なければね。おれという身体がいつ亡びるかわからないし、その女(ひと)にしてからが、いつ病気が出るか知れたものではないですよ。ハヽヽ。」
 「……。」
 「昔の聖人君子も五十になれば悟りが開けると言いますが、性の衰退ということから考えれば五十になれば誰でも悟りを開けることになってますね。」
 「……。」
 「結局、おれと結婚する人があれば、第一心中の覚悟で来なければなりませんが、五十にならない今から永久に兄妹のようにして暮らす、そういう結婚ならしてもいいです。」」



「一一三 宮沢政次郎翁」より:

「「賢治は幼年期、少年期には別段変った子供でもなく、つまりは、仏教などには結びつけて考えるような点は何もありませんでしたね、そう、十四、五歳の頃になって、少し思い立つことがあると、ちょっとも辛抱しないというか、辛抱出来ないというか、そういう一こく者のふうが目立って来たんです。」」


「一一八 高村光太郎先生」より:

「「住まっていたところは岩手でしたが、心のうちはあらゆる空間に連なっております。一口に申せばコスモスを持つ詩人ということでしょう。コスモスを持つ詩人であるならば世界のどんな辺地に居ても、常に一地方的からの存在から脱するものです。うちにコスモスを持たないものは、どんな文化の中心におりましても、常に一地方的存在となってしまうものです。賢治さんのいうところのイーハトーヴオは、賢治さんのうちにあるコスモスを通じての世界全般のことであったのです。コスモスを持つ者は文学者ばかりでなく科学者でも、その存在の地方から脱出して全世界に及ぶものです。」」

「「今は賢治さんより年が上で、私が先輩だと皆さんも考えていますが、五十年百年すぎると、私が賢治さんの後輩であるようにみなが思うことになりそうです。」」



佐藤隆房 宮沢賢治 03


佐藤隆房 宮沢賢治 04




こちらもご参照ください:

関登久也 『新装版 宮沢賢治物語』


























































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

すきなことば: 「だれもいない」「ギブアウェイ」「ウポポイ」「隠密」
きらいなことば: 「人と人とのつながり」「キャリアアップ」「ほぼほぼ」「三密」

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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