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岡谷公二 『南海漂蕩 ― ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦』

「「ばかめ、人間か鳥か猿かわかるようなもんは本当の彫刻じゃねえ」」
(岡谷公二 『南海漂蕩』 より)


岡谷公二 
『南海漂蕩
― ミクロネシアに魅せられた
土方久功・杉浦佐助・中島敦』


冨山房インターナショナル 
2007年11月29日 第1刷発行
205p 初出一覧1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,400円(税別)
装幀: 毛利一枝



本文中図版(モノクロ)16点。
土方久功伝『南海漂泊』の姉妹編です。本書では土方に弟子入りして南洋で行を共にした杉浦佐助についてやや詳しく書かれています。
本書はまだよんでいなかったのでアマゾンマケプレで748円(+送料257円)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


岡谷公二 南海漂蕩 01


帯文:

「南の島へ――
自由の旅人たちの
若き魂の
遍歴

“日本のゴーギャン”土方久功、
幻の彫刻家・杉浦佐助、
文学の鬼才・中島敦。
いま甦るその豊穣なる生と死。」



目次 (初出):

南方行の系譜 (書き下ろし)
 南の思想に生きたゴーギャン
 西欧の画家・文人たちの南への系譜
 南洋に渡った日本人画家たち
 『ノア・ノア』に魅せられて
 日本人の原郷としての南方

南海漂蕩――杉浦佐助の生と死 (「新潮」 平成9年6月号)
 三河の宮大工杉浦佐助
 南洋へ飛び出す
 土方久功の南洋行
 押しかけ弟子
 ふたりのパラオ遍歴
 絶海の孤島サテワヌでの生活
 新しい表現へ
 美術界への衝撃
 作品の行方を求めて
 テニアンの佐助
 大作「やまたのおろち像」秘話
 その死

パラオ好日――土方久功と中島敦 (「新潮」 平成14年5月号)
 中島敦、パラオへ
 土方久功との交流
 ガルミズ行
 なぜ南洋に――南方行の系譜と中島敦
 敦の群島めぐり
 パラオ好日
 帰国まっで

パラオ諸島地図
あとがき
初出一覧



岡谷公二 南海漂蕩 02



◆本書より◆


「南海漂蕩」より:

「当時、中国大陸と南洋諸島は、内地で鬱屈していた青年たちにとって、自分を試すべき新天地であった。大陸へ渡った人々は、みなどこか国士といった肌合いを帯び、政治や策謀にかかわろうとする生ぐささを持っていたのに対し、南へ行った人たちには、そういうところがまるでない。南とはまず海であり、光と色彩であり、繁茂であり、国家や社会から遠く離れた、アナーキーな夢想の場所でもあって、楽園の面影を宿す一方、それは世外であり、他界に近い土地、人が自らに課す流謫(るたく)、いや、流刑の地でもある。佐助は、自分の素質の中に、そうした風土とひびき合うものを感じたからこそ、南へ赴いたのであろう。」

「サテワヌ(中略)は、パラオ諸島の北東に位置するヤップ島のそのまた離島である。コロールからだと十八日の船旅を要し、航路の終着点に当る。周囲僅か八キロメートル、珊瑚礁にかこまれ、標高はほとんどなく、島の大半はココ椰子やパンの木におおわれている。当時の人口は約二百八十人、日本人は一人もおらず、したがって役場も学校も警察もなく、定期船が年に四度やってくるだけの、文字通り絶海の孤島だった。」
「島の一年は、星にちなんで名付けられた十二の月からなり、前半年がラック、後半年はエッファンと呼ばれる。ラックは概して東風の吹くおだやかな季節で、天気のいい日が多く、海も静かで、航海や漁に適し、礁湖も干上って、女子供たちまでが存分に貝や雲丹(うに)をとることができる。パンの実も豊かにみのり、食糧が豊富なので、生活は明るい。それに引きかえ、エッファンになると西風が吹きはじめ、天候が不順で、海が荒れて漁に出られなくなる。食糧も欠乏し、芋田の芋や貯蔵しておいたパンの実に頼ることが多くなる。
 島民の日常生活についていうならば、昼間、男たちは漁に出たり、船造りとか椰子林の手入れといった共同作業に加わることもあるが、多くの場合ぶらぶらしていて、夜になると舟庫に集まり、椰子の花苞を焚いて、決って踊り出す。もっぱら男が踊り、女は見物して囃し立てるだけだけれども、時には男女の競舞もあり、男女二つの組にわかれ、歌う歌がなくなり、息が尽き、声が嗄(か)れるまで互いに歌い踊り、競い合って夜をふかす。女たちは、共同で食事を作るための厨屋(くりや)に朝から晩まで集まって、冗談を言い言い、遊び半分の御馳走作りで一日を潰してしまう。
 典型的な母系社会で、結婚すると、男は女の家に入り、女の家のために働く。離婚した場合、男は子供を残して家を出てゆく。子供はあくまで母親のものであり、夫婦の結合の所産とは考えられていない。だから女は平気で父無し子を生む。」
「久功は、サテワヌ島滞在から二十年近く経ったあと、「孤島」という詩でこの島のことをうたっていて、その中に「彼らは恋をし 踊り狂い そして充分に生を享受する それにもかかわらず私に飛びかかる考え「彼らは蟻だ」何千何万年来 生きて死んで来た虫けらの大ものだ」という文句があるが、実際、人間はここでは「虫けらの大もの」であり、虫けらのように生まれ、そして死んでゆく。すべては無窮の循環であり、地に落葉が積み重なるように、昨日に今日が重なる。二人の在島八年の間、とり立てて何事もおこらず、事件といえば、定期船長明丸の年に四度の寄航か、台風の襲来くらいのもので、まことに静穏な日々だった。」

「佐助の彫刻の実相を知るよすがとしては、現存の十点足らずの作品のほかには、雑誌『美之國』や個展の目録にのっている、写りの悪い数点の写真しかない。それらから判断するに、写実的な作風のものは「トカイ像」一点だけで、あとはみな「怪物」である。それは、あぐらを組む蛙(かえる)の化物であり、布袋(ほてい)のような腹をした鳥であり、蛇かとかげの頭を持つ、頰杖をつく人体であり、謎の行にはげむ、痩(や)せて肋骨(ろっこつ)をむき出しにした裸の行者であり、昆虫めく鋭い眼でこちらをうかがう未知の国の神像だ。並行線や群点が、まるで傷痕のように、あるいは彼らの神秘の出自を示すしるしででもあるかのように、顔や体に深く刻まれている。しかしこれらの怪物は、この世の空間から逸脱しようとはせず、その中で不思議に安定した位置を占め、ゆるぎない実体感さえそなえている。
 この幻想は、西欧の、とりわけ近代の美術にみられる幻想とは、まったく趣きを異にする。大体、佐助の発想の中には西欧的なものはなにもない。彼が汲んでいる泉は、彼自身が書いているように、仏像や伎楽面、舞楽面などの日本の伝統であり、もう一つはおそらく、パラオの昔の島民が残した作物である。(中略)パラオの島々には、いつの時代のものとも知れない、人面の鰐(わに)などを刻んだ石の神像があちこちにある。久功は佐助を連れ、遠路やジャングルをものともせず、そうした神像を見て歩いて詳細な報告(中略)を残しているが、その中で久功が写しとっているこれらの神像の奇怪さには、佐助の彫刻の奇怪さに通うものがある。
 佐助の彫刻はたしかに奇怪だが、そこには、近代人の病んだ意識が生み出す、底知れない暗い淵を覗きこむような不気味さはない。その奇怪さは、もっと根太く、土くさく、ときにはとぼけていて、ユーモラスで、一抹の明るささえ漂う。それが、彼の持味なのであろう。ともかく彼がサテワヌ島において、余人の企て得ない、彼一人だけの世界を作り出したことだけは確かである。」

「佐助は、料理も上手で、豚を殺したからとか、鮫(さめ)をさばいたからといっては、たえず久功たちを呼びに来た。鮫のことは、「大工サンハ鮫ノ料理デ一日カカッテシマッタ」と久功の日記にも出てくる。この日記によると、佐助は、「貰ったから食べましょうよ」と言って、犬の頭を丸ごと皿にのせて持ってきて、久功を啞然とさせてもいる。」

「八年振りに戻ってきたコロールの変貌は、久功と佐助を驚かせた。」
「実際、久功と佐助がサテワヌで楽園の夢をむさぼっていた間に、昭和十二年には日中戦争がはじまり、翌十三年には国家総動員法が公布されて、日本全土が戦時体制下に入り、南洋群島の状況は激変していた。とりわけその西端に位置するパラオ諸島の軍事上の重要性が高まっていて、コロールには軍人がたくさん入りこみはじめており、久功らがサテワヌに渡った昭和六年には二千人に足りなかったこの町の邦人の人口は、昭和十四年には一万三千に達していたのである。」

「佐助は、横浜までは知っているが、これまで東京に来たことがなかった。そして彼が留守にした二十年という時間が、故国を別の国に変えていた。彼は、生まれてはじめて乗った地下鉄や自動車に啞然とし、銀座のネオンに瞠目し、溢れる人波に恐怖さえ覚えた。彼にとって東京は、パラオやサテワヌより異郷だった。」
「佐助は、展覧会が終わるや、七月一日にまた蒲郡へ戻った。その折、売れ残った彫刻を石炭箱一杯持ち帰ってきて、親戚知人の誰かれにくれようとしたが、誰も気味悪がって貰わなかった、という話が、蒲郡の人々の間に伝えられている。佐助の旧知だったという例の左官の老人の話によると、このとき、彫刻を見せられ「こんな、人間でもねえ、鳥でもねえ、蛙でもねえようなものが彫刻なんかであるものか」と言うと、佐助は、「ばかめ、人間か鳥か猿かわかるようなもんは本当の彫刻じゃねえ」と答えた由である。
 かつて私は敬子夫人から、久功の親戚の家で、比較的近年、やはり気味悪がって佐助の彫刻を大ごみに出してしまった、という話をきいたことがある。私は、ゴーギャンが残した絵や彫刻を、魔物扱いして海に沈めたタヒチの人々のことを思わずにはいられない。こうして佐助の彫刻の大方が失われたのである。」

「佐助は、久功のように、住み慣れたパラオへ戻って行ったわけではない。既に記したように最初にヤップ、次いでその北のロタ島、そして昭和十七年にはそのまた北のテニアンへ移って、昭和十九年にそこで死を迎えるのであり、ついにパラオへは二度と足を踏み入れなかった。」

「七月七日、サイパン玉砕のあと二十三日に、ついに米軍はテニアンへ上陸してきた。(中略)七月三十一日、大家大佐の率いる海軍警備隊の、続いて緒方大佐麾下(きか)の陸軍の残存兵の、八月一日から三日にかけては海軍航空艦隊司令長官角田中将らの敵戦車への突撃をもって、日本軍は消滅した。そしてカロリナス高地のジャングルや洞窟に、指揮官を失った四千人の兵士と、一万を超える民間人とが取り残された。
 生存者が記録にとどめた、以後数ヵ月に及ぶ人々の逃亡生活は、サイパンや沖縄の場合にまさるとも劣らぬ悲惨なものである。ジャングルの中の累々(るいるい)たる死体、そばを通る人に手を合わせて水を求める瀕死の重傷者、片手をもがれたまま彷徨する兵士、食料を分けることをことわった民間人をピストルで射殺する将校、家族のこもる洞窟の中に外から手榴弾(しゅりゅうだん)を投げこみ、そのあと一人で敵中に飛びこむ父親、月夜の海岸で君が代を歌い、ダイナマイトで集団自決する人々や、カロリナス岬の断崖から海中へ身を躍らせる人々――佐助は、このような生き地獄をどのようにくぐり抜けたのだろうか?」

「ともかくこうして、テニアンの攻防戦とそのあとの敗走生活をせっかく生き抜いたのに、佐助は無惨にも、同胞に撃たれて不慮の死をとげるのである。」



「パラオ好日」より:

「そして彼(引用者注: 中島敦)の「狼疾」は? 彼は、それが南洋では、いや、どこへ行っても治り得ないことを、それが不治の病であることを、この南洋行によって痛いほど知らされた。「銀杏の葉の散る神宮外苑をうそ寒く歩いてゐた」彼と、「島民共と石焼のパンの実にむしやぶりついてゐる」彼との間には、なんの違いもなかった。「私が考えていたような旅は、結局のところ、場所を変えることによって今ある自分とは別のものになるための方法であるどころか、相変わらず自分自身と同一な人物の単なる移動にすぎない」――このミシェル・レリスの言葉に、敦は、満腔から同意したにちがいない。」



◆感想◆


ミルトンの『失楽園』に登場するサタンは、「どこへ逃げようが、そこに地獄がある!/いや、わたし自身が地獄だ!」と言いました。

それはそれとして、「虫けらの大もの」であるサテワヌ島の人々の静穏な日々の生活と、米国と大日本帝国の文明人たちの狂気そのものの殺し合い。なにをかいわんやです。文明人が赴くいたるところに地獄が生じてしまうのは、文明自体が地獄だからです。




こちらもご参照ください:

岡谷公二 『南海漂泊 ― 土方久功伝』








































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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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