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五来重 『増補 高野聖』 (角川選書)

「わたくしの想像では、この種の唱導をもって回国した高野聖は、中世には野辺山蔭のいたるところにころがっていた、どこの馬の骨ともわからぬ髑髏(どくろ)を首にかけてあるき、適当なところで人あつめをして「さあさあ皆の衆、これこそ俊寛僧都の曝(しゃ)れ首(こうべ)でござる」などと口上よろしく、一席ぶったのではないかとおもう。」
(五来重 『増補 高野聖』 より)


五来重 
『増補 
高野聖』
 
角川選書 79 

角川書店 
昭和50年6月25日 初版発行
平成15年12月10日 六版発行
290p 索引32p
四六判 並装 カバー
定価1,600円(税別)
カバー写真: 高野山奥の院(矢野建彦撮影)



本文中図版(モノクロ)39点。
初版は昭和40年5月刊、本書はその増補版です。


五来重 高野聖


カバーそで文:

「従来の日本仏教史は、名僧の著作や、偶像化された高僧伝にとらわれすぎてきた。名もなく、著作もなく、庶民のなかに埋没していった無数の僧や半僧半俗の聖たちの仏教は、その世俗性や呪術性、教理への無知のため、顧みられなかった。しかし、実は、この無名の僧や聖たちの担った仏教こそ、民衆のなかに根ざした日本仏教の生きた姿だったのではないか。古代末期から中世にいたるまで霊場高野山を根城に諸国を遊行勧進した高野聖に光を当て、聖階級の果たした歴史的役割と性格を明らかにする。仏教民俗学上の名著。」


帯文:

「宗教の原始性という
考え方に到達した筆写に、
心からの共感を覚える。
山折哲雄
国際日本文化研究センター所長」



帯背:

「庶民仏教を
支えた聖たち」



帯裏:

「泉鏡花の『高野聖』に描かれた僧は、深山の魔女の誘惑にも負けない道心堅固な人物であった。一方、歴史上の高野聖たちは、全国を遊行しながら、村娘をだますなどの悪行もはたらき、妻帯し、世俗生活を営んだ。しかし、彼らは、生きた仏教の担い手であり、仏教教団の下部構造としての役割を果たした。」


目次:

はしがき
一 聖というもの(一)――隠遁性と苦行性と遊行性と
 隠遁性
 苦行性
 遊行性
二 聖というもの(二)――呪術性と集団性と世俗性と
 呪術性
 集団性
 世俗性
三 聖の勧進と唱導――勧進性と唱導性
 勧進性
 行基の勧進
 菩薩号
 社会的作善
 唱導性
 唱導の芸能化
四 高野浄土
 山岳霊場と山中他界
 高野の念仏
 高野浄土
五 高野聖のおこり
 優婆塞空海
 承仕と念仏者
 初期の念仏者
六 祈親上人定誉
 定誉の生い立ち
 高野山の荒廃
 不滅の燈火
 万燈会
七 小田原聖教懐と別所聖人
 初期高野聖
 小田原聖
 小田原聖の旧跡
 別所聖人
八 覚鑁と別所聖
 覚鑁と別所聖
 伝法院
 念仏堂としての密厳院
 本寺金剛峯寺との争い
 覚鑁の念仏思想
九 仏厳房聖心と初期の往生者
 覚鑁退去後の高野
 仏厳の勧進行動
 仏厳の念仏思想
 散位清原正国
 沙門蓮待
 理覚房心蓮
 その他の念仏者
一〇 高野聖の文学
 有王丸
 滝口入道
 荒五郎発心譚
一一 新別所の二十四蓮社友
 新別所
 斎所聖寂阿弥
 藤原成頼入道体阿弥
 木工允平友時入道円阿弥
一二 鎌倉武士と高野聖
 熊谷直実入道蓮生
 西入・弘阿弥・覚蓮
 葛山五郎景倫入道願生
 佐々木高綱入道了智と虚仮阿弥陀仏
 安達景盛入道覚智
 足利義兼入道鑁阿
 ある鎌倉武士
一三 高野聖・西行
 西行の高野入山まで
 西行の高野入山
 回国と勧進
 元興寺極楽坊の勧進
 蓮花乗院の勧進
 東大寺再興勧進
 西行の世俗性
 西行の出家
 西行の妻子
一四 俊乗房重源と高野聖
 中期高野聖
 重源の勧進
 重源の社会的作善と湯屋
 東大寺大仏の勧進
 室生山舎利盗取事件
 重源の念仏信仰
 重源と建築技術
一五 明遍と蓮花谷聖
 高野聖の開祖
 明遍の入山
 仏種房心覚
 心覚と往生院
 明遍と法然
 明遍と高野聖
 蓮花谷聖と納骨
 明遍の念仏信仰
 蓮花谷聖と『一言芳談』
一六 法燈国師覚心と萱堂聖
 萱堂聖の元祖・覚心
 覚心と奈須七郎親張入道
 法燈覚心と念仏
 法燈覚心と真言密教
 萱堂聖と唱導
 後深草山安養寺成仏院
一七 千手院聖と五室聖
 千手院と国城院
 後期高野聖の時宗化
 五室聖
 寂静院不動堂
 大徳院
一八 高野聖の末路
 後期高野聖の勧進活動
 阿純・阿本の勧進
 高野聖の商聖化
 洛中洛外図の高野聖
 高野聖と山師
 高野聖の宿借と悪行
 信長の高野聖成敗
 高野聖の真言帰入
 江戸時代の高野聖
 遊行高野聖の定着と芸能
 庶民信仰と高野聖
まとめ

あとがき
高野聖関係略図
索引
 人名索引
 書名索引
 地名索引
 社寺名索引
 件名索引




◆本書より◆


「はしがき」より:

「古代末期から高野山は納骨の霊場として知られ、近世には「日本総菩提所」の名で、宗派にかかわらぬ納骨がおこなわれてきた。いまでも年々おとずれる数十万の参詣者の大部分が、納骨か、これにかわる塔婆供養(とうばくよう)を目的としている。奥之院墓原の墓石群はこの納骨の成果であるが、唱導によって納骨参詣を誘引し、回国しては野辺の白骨や、委託された遺骨を笈(おい)にいれて高野へはこんだのが高野聖であった。」

「さて高野聖について一般読者のもっている常識は、(中略)おそらく泉鏡花の『高野聖』であろう。」
「鏡花はあの短篇で道心堅固な高野聖をえがいた。」
「しかしわたくしがこれから描こうとしているような、俗聖としての高野聖ならば、魔女の誘惑におちて馬になるのがむしろ自然だったのである。
 すなわち実際の高野聖は、近世には非事吏(ひじり)などと書いていやしめられるものであったし、室町時代にも宿借聖(やどかりひじり)、あるいは夜道怪などとよばれてきらわれた。
『新増犬筑波(いぬつくば)集』は、室町小歌に「人のおかた(妻女)とる高野聖」をうたった流行歌があって、その処刑の京中引まわしを狂歌にしているところをみると、その悪行はよほど有名だったにちがいない。明治時代まで「高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな」という地口(じぐち)があったというから、とても道心堅固などといえる代物ではなかったのである。」



「二 聖というもの(二)」より:

「このように聖が念仏と、法華経と、密教を雑然と併修(へいしゅう)する理由については、従来日本浄土教の研究者も閑却しているが、聖の念仏というものは往生の行であるよりも、滅罪と鎮魂の呪術であったのである。すなわち死者の生前おかせる罪と穢を滅して、死後の煉獄の苦をすくう目的が、聖の念仏の第一義であり、疾病と旱害・水害・虫害等の凶作の原因と信じられた凶癘魂(きょうれいこん)を鎮める鎮魂呪術として、集団的念仏である大念仏がおこなわれた。現今でも農耕儀礼(田楽)や神楽と結合して、民俗芸能(踊念仏・六斎念仏・花笠踊・かんこ踊など)化した念仏はみなこの種の鎮魂念仏である。」
「聖の書写読誦する法華経も、庶民信仰においては滅罪と鎮魂の呪術である。」



「一〇 高野聖の文学」より:

「わたくしの想像では、この種の唱導をもって回国した高野聖は、中世には野辺山蔭のいたるところにころがっていた、どこの馬の骨ともわからぬ髑髏(どくろ)を首にかけてあるき、適当なところで人あつめをして「さあさあ皆の衆、これこそ俊寛僧都の曝(しゃ)れ首(こうべ)でござる」などと口上よろしく、一席ぶったのではないかとおもう。現に三井寺の下には、堅田源兵衛の首という髑髏(どくろ)をかざって説教する寺がある。これは物語の真実性を印象づけるために、笛(青葉の笛など)や面(肉付面など)や兜(義経の兜など)、あるいは笠杖(親鸞の笠と杖など)や笈(弁慶の笈など)や名号(日の丸の名号や川越の名号など)、などを唱導にもちいるのとおなじ手法である。田舎の観光寺院のガラスケースに、この種のえたいのしれぬ「宝物」の多い理由であり、また落語の「頼朝公御幼少のみぎりの髑髏」のある理由でもある。(中略)俊寛有王の唱導は大念仏亡霊供養のあとで、鬼界ヶ島にのこされたあわれな俊寛の運命をかたり、あつまった近郷近在の人々に結縁をすすめるのに、髑髏を見世物代りにつかったものであろう。」
「そして高野聖は三日か一七日の大念仏のあいだに、賽銭や経木塔婆代や、高野の各種のお札や経帷衣(きょうかたびら)(中略)などの売上げをかきあつめ、結願法要にはその髑髏を惜しげもなく埋めて塚をきずき、「俊寛僧都頓証菩提のため」、などと書いた卒都婆を立てて去ったあとには、俊寛塚がのこるわけである。」



「一八 高野聖の末路」より:

「聖と庶民をむすぶ共通項は庶民信仰である。それは原始宗教さながらの呪術性と鎮魂性をもっていて、教理や哲学の媒介なしに、庶民の願望である現世の幸福と来世の安楽をかなえようとする。その庶民信仰をもって民間に遊行したのが聖であった。そしてその表出が祈禱や念仏や踊や和讃とともに、お札をくばることであった。弘法大師のお札や角大師(つのだいし)(元三大師)のお札は旅の聖がもってくるもので、これを本尊に大師講をいとなんできた所は多い。また高野聖が念仏札や随求陀羅尼を摺った引導袈裟をもってあるくこともあった。庶民信仰としての弘法大師信仰を、今日のようにひろめたのも、ほかならぬ高野聖であった。
 また高野聖そのものが、神または仏としてまつられた例もある。たとえば三河の北設楽(しだら)郡東栄町中在家(なかんぜき)の「ひじり地蔵」は、ここへ子供を背負った高野聖が来て窟に住んでいた。しかしやがて重病で親子とも死んだので、これを「ひじり地蔵」とまつり、子供の夜啼きや咳や腫物に願をかけ、旗をあげるものがいまも絶えない。おなじ三河の南設楽郡鳳来町四谷の大林寺の「お聖さま」も回国の高野聖が、重病になってここにたどりつき、村人がこれを手厚く世話した。この聖が死ぬとき、私の名を三度よんで松笠をあげてくれれば、いかなる難病も治してあげようと言いのこした。大林寺住職はこの聖のために聖堂をたててまつり、また神主夏目八兵衛はこれを「聖神(ひじりがみ)」としてまつったという。」
「このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじで、遊行回国者が誓願をのこして死んだところにまつられる。これがまた自分の持物を形見として、誓願をのこすというまつり方もあったことをしめしている。しかしそれも遊行者を神や仏を奉じてあるく宗教者、または神や仏の化身という信仰があったからである。そしてそのような聖神はきわめて日常的な庶民の願望をかなえる神として、いわゆる「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化してしまう。(中略)しかしそのなかには川崎大師平間寺のように、聖の一大師堂が庶民信仰を拡大して一大霊場化するものもできる。おそらく全国に分布する路傍の大師堂の多くが、高野聖の遊行のあとであったろうとおもわれる。(中略)それは全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行のあとであり、多くの神明社が伊勢御師の回国のあとであることから類推して、そのように断定してあやまりはないであろう。」



「まとめ」より:

「高野聖はまた高野山の歴史のかくれた一面をしめしてくれる。高野山は真言宗の総本山であることは知られているが、もはや念仏や浄土信仰の山であったことは忘れられてしまった。しかしこのかくされた面こそ、高野山が真言宗の総本山であることよりもっと重要な、日本総菩提所としての霊場となった根本的因縁である。それは高野山と庶民をつなぐルートであり、弘法大師信仰も、この高野聖を媒介として庶民のなかに滲透したのであった。ところがこれほど明確な高野聖の存在とはたらきが、江戸時代の幕藩体制と宗派意識によって堙滅(いんめつ)させられていた。中世の高野山は真言密教の暗黒時代であったが、高野聖の面からすれば、もっとも花やかであり、日本の歴史にも大きな影響力をもった時代であった。
 そのような目で高野山と弘法大師を見直せば、弘法大師そのものに庶民宗教家としての聖的性格を見ることができるし、高野浄土としての他界信仰を見出すことができるのである。」
「また高野山は刈萱道心石童丸のような高野聖文学をもって、日本人の情念のなかに定着した。それは高野聖の唱導と説経からうまれたものであるが、(中略)それは日本の宗教文学の白眉ともいえるもので、ながく高野聖のモニュメントになるだろうとおもわれる。」





こちらもご参照ください:

五来重 『熊野詣 ― 三山信仰と文化』 (講談社学術文庫)
馬場あき子 『世捨て奇譚 ― 発心往生論』 (角川選書)





































































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