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五来重 『熊野詣』 (講談社学術文庫)

「私はあえて熊野を「死者の国」とよぶ。それは宗教学的にいえば、死者の霊魂のあつまる他界信仰の霊場だったからである。」
(五来重 『熊野詣』 より)


五来重 
『熊野詣
― 三山信仰
と文化』
 
講談社学術文庫 1685 

講談社 
2004年12月10日 第1刷発行
2014年12月10日 第12刷発行
200p 地図2p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価760円(税別)
装幀・カバーデザイン: 蟹江征治
カバー写真: 熊野の杉木立と参道


「本書は一九六七年、淡交新社から刊行された『熊野詣』を底本に、(中略)適宜、改行を施し、図版を全面的に入れ替え、再編集したものです。」



本文中図版(モノクロ)23点。


五来重 熊野詣


カバー裏文:

「院政期の上皇が、鎌倉時代の武士が、そして名もなき多くの民衆が、救済を求めて歩いた「死の国」熊野。記紀神話と仏教説話、修験思想の融合が織りなす謎と幻想に満ちた聖なる空間は、日本人の思想とこころの源流にほかならない。仏教民俗学の巨人が熊野三山を踏査し、豊かな自然に育まれた信仰と文化の全貌を活写した歴史的名著を、待望の文庫版に。」


目次:

はじめに

第一章
 紀路と伊勢路と
 死者の国の烏
 補陀落渡海
 一遍聖絵

第二章
 小栗街道
 熊野別当
 熊野御幸

第三章
 音無川
 速玉の神
 那智のお山

むすび

熊野路参考地図




◆本書より◆


「はじめに」より:

「熊野は山国であるが、山はそれほど高くはないし、森も深くはない。しかしこの山は信仰のある者のほかは、近づくことをこばみつづけてきた。山はこの秘境にはいる資格があるかどうかをためす試練の山であった。ただ死者の霊魂だけが、自由にこの山を越えることができた。人が死ねば、亡者は枕元にたてられた樒(しきみ)の一本花をもって熊野詣をするという。だから熊野詣の途中では、よく死んだ親族や知人に会うといわれた。これも熊野の黒い森を分ける山径(やまみち)が、次元のちがう山路(やまじ)――死出の山路と交叉するからであろう。私も那智(なち)から本宮(ほんぐう)へむかう大雲取越(おおくもとりごえ)の険路で、死出の山路を分けすすんでいるのではないかという幻覚におそわれた。」

「私はあえて熊野を「死者の国」とよぶ。それは宗教学的にいえば、死者の霊魂のあつまる他界信仰の霊場だったからである。」



「補陀落渡海」より:

「山陰の東郷池に面する松崎町浅津は墓のない村で有名である。私のみたところでは一ヵ所だけ墓地があったがこれは特別の家柄だそうで、他の数百戸は湖岸の火葬場で火葬すると、お骨も灰も一切湖中に流して墓をつくらない。近世に真宗がはいって火葬がおこなわれる前の墓もないところをみると、おそらくもとはすべて流したのだろう。というのは、やはり湖畔の松崎町引地の九品山大伝寺で彼岸会に位牌や卒都婆を船にのせてながすが、この船も補陀落渡海船に似ており、すこしはなれた青谷(あおや)の岬には嘉慶三年(一三八九)の年号ある普陀落塔があると、故田中新次郎氏が報告している(『因伯の年中行事』)。出雲国造の北島氏も天穂日命(あめのほひのみこと)以来墓をつくらず、大社の前の菱根池に赤牛に死体をのせて沈めたといわれるから、海岸墓地のとくに発達している山陰地方は、水葬が卓越していたのであろう。
 わが国の古代に庶民の葬法として風葬があったとすれば、これに対応するものとして水葬があってもなんら不思議ではない。(中略)水葬の葬法が海の彼方の島を他界とし、また竜宮や海神の国のような空想の海上他界を信じさせたもとであろう。これが浄土教の普及とともに、西の海の彼方に浄土ありという信仰に変化し、四天王寺西門(さいもん)から海をへだてて浄土を拝んだり、この海に漕(こ)ぎ出して入水往生するものもできた。
 わが国の古代神話では素戔嗚神より先に生まれた蛭児(ひるこ)は葦葉の船にのせて葬られた。蛭児は恵美須(えびす)と同体と信じられており、海岸では水死体が流れ寄れば夷(えびす)神としてまつった例が多い。出雲神話では大国主神が事代主(ことしろぬし)神を説得するために、使者を熊野諸手船(くまのもろたぶね)にのせてつかわすが、事代主神は海中に八重蒼柴籬(やえあおふしがき)をつくって、その中に身を沈めて死んでしまう。木の枝や竹で編んだ籠をつかってしずめる水葬が想定される。日本武(やまとたける)尊にまつわる神話では、弟橘(おとたちばな)姫を海上に菅畳八重、皮畳八重、絁(きぬ)畳八重を敷いて乗せ、海神にささげるといって沈める。神武天皇の神話では熊野灘で暴風に遭ったとき、皇兄稲飯(いないい)命と三毛入野(みけいりぬ)命は海神の怒りをしずめるためといって海にはいるが、稲飯命は海にはいって鋤持(さいもち)神となり、三毛入野命は浪秀(なみのほ)を踏んで常世郷(とこよのくに)に去ったとある。常世郷はすでにのべたように、少彦名(すくなひこな)神も熊野の御碕から去っていった世界で、海上他界とかんがえられる。風葬の葬法をもつものが山岳他界を想像して山を霊場としたように、水葬を慣行とした海浜の民が海上他界を想定して、海の彼方に補陀落山をおいたのは自然であろう。
 熊野の神秘感はその山と海とにかくされた、古代宗教の残像がかもしだすのである。古代宗教はつねに死の深淵に直面した古代人の、死者信仰と死者儀礼を根底においている。仏教はその死のおそれを光明に転じたけれども、その残像は神話や祭儀や、葬制や伝説、あるいは仏教的民俗と説話にのこった。熊野はそれをもっとも濃厚にのこしていたので、いつまでも「死者の国」の神秘をうしなわなかった。古代末期から中世にかけての熊野詣の盛行は、日本人の魂のふるさととしての「死者の国」へのあこがれがまきおこした特異な宗教現象である。そしてその神秘感はいまもわれわれを熊野にひきつけてやまないのである。」



「小栗街道」より:

「小栗判官と照手姫のロマンスほど、人々の熊野へのあこがれをそそったものはなかったであろう。それはちょうど、刈萱(かるかや)と石童丸(いしどうまる)の哀話が、人々の高野山へのあこがれをそそったとおなじである。」
「おそらくこの小栗街道には数多くの癩者が鼻も耳も頰もくずれおちて、唇だけはれあがった顔を白布につつんでただ一縷(いちる)の熊野権現のすくいを無理にも信じようとしながら、たどっていったことであろう。小栗判官のように足腰も糜爛(びらん)し去って躄になったものは、箱に丸太を輪切りにしただけの車輪をつけた土車(つちぐるま)に乗り、道行く人に引いてもらうか、自力で下駄をはいた両手で這うように山坂をこえていったらしい。そのような癩者の姿は『一遍聖絵』に手にとるように活写されていて、一遍の大念仏の場には多数の癩者が小屋掛までしてむらがっていた。」
「むかしは癩者は発病してそれと目だつようになると、家族へかかる迷惑をおそれて終りを知らぬ旅にでたという。(中略)彼の前途には確実に乞食と野宿と野たれ死だけが待っている。」
「中世には癩病は「がきやみ」とよばれていたらしい。(中略)ともあれ医学とヒューマニズムの発達しなかった時代の「がきやみ」の救いは宗教しかなかった。そのなかでも時宗はかれらの救済に積極的だった。
 興正菩薩(こうしょうぼさつ)とよばれた西大寺叡尊(えいそん)もその救済に尽力した人であるが、非人救済が主であった。非人乞食は文殊菩薩の変身という文殊信仰にもとづいた社会事業である。しかし時宗は一遍の遊行時代から、その周囲に癩者があつまっていた。」
「一遍の遊行には時衆の集団がついてまわるのであるが、霊仏霊社で別時念仏をもよおすと、ところの信者たちが莫大な飲食物その他の施行(せぎょう)をもちこむ。それは乞食や癩者にもわかたれるのであって、そのことが施主の功徳ともなる。(中略)平素いかに因業なものでも、念仏会にはきそって功徳をつもうとする。そこで遊行上人は土車にのった癩者があれば、かわるがわるそれを曳いてやると「万僧供養」とおなじ功徳があるとといたのであろう。そのうえ時衆の大念仏には雲霞のごとき大衆がおしよせて施しものをするのだから、乞食癩者は遊行上人と時衆の一行についてまわれば生活できたわけである。」
「ところで旅にでた癩者はこの病が前世の宿業と信ずれば、滅罪の苦行として熊野詣をえらぶものもあったであろう。しかし、熊野に癩者があつまるようになったのは、時宗の念仏聖が熊野の勧進を独占した時期からとみなければならない。(中略)そしてその勧進の唱導のレパートリーが「小栗の判官」だったわけである。これはちょうど高野山の勧進に時宗が進出して、高野聖の時宗化がおこなわれた時期とおなじで、説経「かるかや」もその唱導のレパートリーであった。」
「時宗が熊野詣を勧進するのにつかった有力なキャッチフレーズは、熊野権現は他の神社とちがって不浄をきらわずということであった。これは一遍の熊野成道のときの権現の託宣に「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず」とある言葉によったこととおもうが、すでに亡者の熊野詣の信仰があって、黒不浄とよばれる死の穢をきらわなかったことは事実である。そのうえ赤不浄とよばれる産穢、月水の穢をも権現はきらわずとしたのは時宗であった。」



「速玉の神」より:

「後白河法皇はたいへんな頭痛持ちであった。ところが熊野山伏は法皇の悩みをきくと、その原因を前世の因縁としてつぎのようにかたった。法皇も前世では蓮華坊とよぶ熊野山伏であったが、その髑髏(どくろ)はいまだに朽ちずに、岩田川の水底にある。この髑髏をつらぬいて柳の木が生えて、風の吹くたびにきしむので頭痛がするのだという。よくかんがえるとこの病理学はどこか変なのだが、錐(きり)でもむような頭痛や神経痛は人の気をよわくする。その通り信じこんでしまった法皇は、その治療法として前世の髑髏をとりあげて観音像の頭中に納め、生えた柳を棟木に一寺を建立しようとする。これが蓮華王院三十三間堂だというから、いま京都観光の花形である三十三間堂も熊野御幸の所産であり、熊野山伏の舌先からうまれたものである。」




こちらもご参照ください:

五来重 『増補 高野聖』 (角川選書)
根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー)
川村二郎 『語り物の宇宙』




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