FC2ブログ

宮田登 『江戸の小さな神々』

宮田登 
『江戸の小さな神々』


青土社 
1989年3月1日 第1刷印刷
1989年3月15日 第1刷発行
283p 「初出覚書」1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,800円
装幀: 高麗隆彦



本書「あとがき」より:

「近代合理主義が切りすてようとして失敗した非合理的思考の産物といえる淫祠邪教の数々は、実態としては、これら生き生きとした小さき神々なのである。民俗学上これらを迷信とか淫祠といった価値判断をすることはなく、対象としては俗信という概念でおさえ、民俗宗教の枠組の中にとらえてきた。
 堂々たる大神社や大寺院とくらべたら名も無き小祠の方は、歴史の中では微々たる存在と認識されてしまうだろう。しかしそう判断する以前にそこに隠されている庶民の精神の営みを抉りだすことは試みられて然るべきである。
 本書の意図も以上のような前著『近世の流行神』以来の主張にもとづいていることは明らかであるが、とりわけ江戸の問題に集中させているのは、江戸・東京と巨大化していく都市の民俗空間の行方が気になっていたためである。」



本文中図版(モノクロ)16点。
でてきたのでよんでみました。


宮田登 江戸の小さな神々


帯文:

「地霊
ハヤリ神
他界

江戸の大規模な都市開発は多くの怪異現象をよび起こした。それらの不安を鎮める稲荷や地蔵の祀堂に庶民は何を祈ったのか。その祈りはやがて富士講や御嶽講のうねりを生み出し、お蔭参りやええじゃないかのエネルギーともなって爆発する。江戸における庶民信仰の成立と展開をあとづける野心的な試み。」



帯背:

「江戸の
民俗学」



目次 (初出):

Ⅰ 江戸の地霊
どんな土地にも霊はあるのだ (改稿/「東京人」 '88春)
境にひびく音 (「現代思想」 '81, 11)
都市と妖怪 (「朝日ジャーナル」 '87, 2, 13)

Ⅱ 江戸の流行神
流行神の諸相 (改題/『江戸三百年 3』 講談社現代新書 417)
祀り上げ祀り棄ての構造 (「國文學」 '75, 1)
ハヤル神・ハヤル仏 (改題/『図説日本文化の歴史』 江戸(下) 小学館)
異人・憑物・流行神 (改題/『江戸時代図誌 3』 筑摩書房)

Ⅲ 江戸の他界――ヤマと都市を結ぶ回路
霊峰富士にこだまする六根清浄 (改題/『日本史の舞台 9』 集英社)
嶺の御嶽さんと一山行者 (『大田の史話 2』 大田区史編さん室)
木曽路霊界をゆく (改稿/「あるく・みる・きく」 246号)

Ⅳ 江戸の心願
江戸庶民の日常性 (「季刊地域文化研究」 '81冬)
都市民俗としての落語 (「口承文藝研究」 11号)
江戸の七福神信仰 (改題/「浅草寺仏教文化講座」 32集)
弁天信仰 (『日本宗教史の謎・下』 佼成出版社)
水のフォークロア (「ジュリスト」 総合特集23号)
江戸の正月行事 (「月刊文化財」 '82, 1)
「藪入り」考 (「浅草寺」 '87, 11)
時と鐘 (「日本人の民俗的時間認識に関する総合研究」 国立歴史民俗博物館 '85)

あとがき




◆本書より◆


「境にひびく音」より:

「江戸への一方の入口である品川宿の少し手前に鈴の音がする霊石があった。これを鈴石といい大きさ二尺ばかり、色は青く赤い。別の石でこの石を打つと、鈴のような音がした。あるいは丸く長い石で、石の内部で鈴の音がするという。その石を転がすと、諷々たる音がする。そこで地名も鈴が森となったという伝説がある。
 この霊石を中心に聖地があり、鈴が森八幡が祀られた。霊石にまつわる縁起では、「神功皇后三韓御征伐の時、長門国豊浦の津より御船にめされんとし、其海辺にして含珠の神石を得給ふ。その石青く鶏卵の如し。石中鈴の音ありて鏘々(そうそう)たり。故に鈴石と称す」。この鈴石が、神功皇后すなわち巫女王オオタラシヒメの妊娠中の出征という非日常的状況の中で発見された稀有の霊石だと説明されている。(中略)この鈴石という音を発する霊石の威力を発現させる聖地は広大であり、隣村の新井宿との村境に及んでいたといわれる。すなわち品川宿と新井宿との境の空間の一隅から、不思議な音がひびき渡ると意識されていたのであった。
 ところで房総方面から江戸へ入る街道ぞいに葛飾八幡の森があり、この地には大きな鐘が埋まっていたという伝説がある。」
「この鐘には元亨元年(一三二一)の年号と、応永二十一年(一四一四)の二つの年号が刻まれている。その間約九十年間の距りがあった。いったん埋められ又掘り出されたのであり、掘り出された時は『江戸名所図会』には、寛政五年(一七九三)とある。その年に神木の一つの老松が倒れ、その根元から鐘が出現したのであった。なお神木には別の老銀杏があり、この樹のうつろの中から、毎年八月十五日、不思議な音色がひびいてきたという。『江戸名所図会』にはその様子を、「此樹のうつろの中に、常に小蛇栖あり。毎年八月十五日祭礼の時、音楽を奏す。其時数萬の小蛇枝上に顕れ出ず。衆人見てこれを奇なりとす」と記している。音に同調して蛇が神木の洞より出現するのである。
 埋鐘の話といい、蛇が出現する音色といいこの八幡の森は街道にそった聖地として、音が発せられる空間であったのである。」
「そういえば、麻布の古寺善福寺の七不思議の一つうなり石というのは、墓所の中にあって時々そこからうなり声が聞えたという。以前は無縁塔だったという説もあるから、そのうなり声は怨霊の声をそう聞きとったことになる。神霊の発する音のひびき渡る箇所が定められており、それは街道筋にそった境の地点にあって、後世そこは聖地の森として神社仏閣の設立される契機となっていた。
 注意されることは、それらの地点がいずれも大都市江戸に入る境とその周辺にあったという点なのである。」
「向島の方からいえば木母寺(もくもじ)の北の方角にあたり、浅草の側からいえば、橋場の近くの川の中に、巨大な鐘が沈んでいるという伝説が生じていた。鐘が渕伝説である。深潭の渕であり、たえず渦巻いているという。何故かというと、この隅田川に北西側から荒川が、北東側から綾瀬川が注ぎ込む、いわばそこに辻の空間が形成されているのである。その地点は別に三俣ともよばれていた。激流から発するひびきが不思議な音となって、この地点のすぐ近くを渡る旅人に強く印象づけられたと思われる。」



「流行神の諸相」より:

「頭痛・歯痛・眼病・痔病など、生身の人間の多くがかかりやすい苦痛に対しては、同じ悩みをもった病人が、死後神化して救いを与えるものと信じられている。
 そこで前述の人が神になるという習俗をみると、人神の霊験は、今のべたような身体の一部が病気になったとき、それを癒すために流行するような種類のものとなっている。たとえば、「おさんの方」は歯痛に効くといい「或高貴の御家の室(おさんの方と云)虫歯をなやみたまひ、終(つひ)に今日終給へり、臨終に遺言あって、むしばを憂る者我を祈らば、応験あるべしと誓ひ給ふ飯倉善長寺に御墓あり今も霊験を得るもの多しとなん」(『増訂武江年表』寛永十一年八月八日の項)と記されているように、祈れば同病に悩む者の苦痛を、救ってくれるという霊験があった。
 痔の神としては、先の史料に名前は記されていないが、秋山自雲霊神の名前も高かった。これも生前は霊厳島酒問屋岡田孫右衛門の手代で善兵衛といったという。この男が痔でたいへん苦しみ、いよいよ臨終の際に、自分は死後、痔病の者は誓って救うと遺言したのである。死んだ日は延享元年(一七四四)九月二十一日であった。浅草の日蓮宗本性寺に祀られていて、痔の神として知られるようになった。」



「祀り上げ祀り棄ての構造」より:

「文化二年(一八〇五)五月の初め、武州川崎鶴見川の川辺に人骨が流れついた。そこに一つの塚が築かれ卒塔婆が建てられると、近在をはじめ江戸あたりから群衆が参詣してきた。参詣者は線香・供物を塚の前に供えて願掛けをする。そうするとその願いはかならず成就したという。浜辺には茶屋のほか、線香を売る店も林立し、塚の造作も大きくなって社殿が構えられると、ついに公儀から差し止めをくう結果となってしまった。当時このことを人々は「おこつ来れり」と唱え合ったという。これを記した記録によると、

  此お骨といふものいかなるものと尋ねるに鶴見川の川浚の節夥敷人骨出し凡四斗樽に五ッ斗も出たるよし是を海へ流さんも便りなしとて所のもの塚を築き此川端へ葬りしものなり、(文化二年)六月十七日浅草田畝幸就寺日蓮宗へ此骨を改葬す即墳を築立卒塔婆を建盛物線香夥しく参詣の人次第ニ多し十七日に此寺へ川崎より来りたる故以来十七日を以て縁日とす(下略)

とあって、沢山の骨が川辺に漂着したのを、祀りこめたことになっている。いったんは海へ流してしまおうとしたのだが、これを祀り上げたらば、とたんに霊験あらたかな神に化したというのである。あまり盛大に流行するので公儀の弾圧にあうと、浅草の日蓮宗幸就寺の境内に祀られて、寺院の庇護下に置かれ、ふたたび参詣人を集めているというのである。」
「同じような例をもう一つあげよう。江戸の幕末の記録として知られる『藤岡屋日記』によると、慶応元年(一八六五)二月千住に水死人が流れついて、これに願掛けすると霊験効かであるとして、群衆が参詣した記事がある。大要を記すと、武州足立郡竹塚にある用水堀際に六月二十日水死人が流れついたので、これを葬ったが、程なくその場へ参詣人が押寄せてきて「水死人神様」とか「土左ヱ門様」など口々に唱えて線香を供え祈念した。すると諸願は速やかに成就したという。願が果された者は御礼参りと称して各自が塔婆を立てていく。その塔婆を今度は願掛けにきた者が折り取って、家に持ち帰り、祈念するという仕組みになっている。水死人の塚の周辺には、線香売りや卒塔婆売りが立売りして賑やかな場所となっている。」
「名も知れぬ水死人が祀られてたいへん霊験効かな神になったという事例なのである。
 日本の漁村では、海上彼方から流れよる死体は喜ばれた。流れ仏とか流れ人と称せられて、大漁の兆だといわれている。漂流死体は、祀られずに海上をさまよっている亡霊のこもるものだという。これを拾い上げて祀り上げると、亡霊は鎮まって幸運をもたらすにちがいないという心意の存在がそこに指摘され得る。漁民にとって最高の運は大漁だから、水死人を祀れば大漁がくる。そこで信心もいっそうまして福の神である恵比須様とみられるようになる。漂着死体はたんに水死した死体というだけでなく、何か海上をさまよう執念を残した存在とみられたが、これを祀れば、逆に執念が鎮められ和霊となり恵みを与える、そうしたモチーフが指摘されるだろう。
 このような伝統的な考え方が、水死人の神化を促したのである。棄てられていた霊が祀られ供養を受けることによって、霊力ある神として信じられている。」

「日本人の信仰体系の中には、祖霊信仰という大きな軸が存続していたが、一方では、無縁仏を中心とした怨霊、御霊系の信仰の流れを無視できないのである。
 前述した諸事例に共通した点を考えてみると、まず生前の遺執を残した水死人あるいは無縁仏は祀り棄ての情況にあるといえる。この祀り棄ての情況から、祀り上げに移行することによって神化する。お骨様や水死人神(中略)は、何らかの契機で、祀り手を失ったつまり祀り棄てられていた御霊、怨霊が、祀り上げられることによって、恵みやご利益を与える守護神に転化したケースといえる。そしてそれらは熱狂的な信仰を集め、一時期に群参の現象が起こっている。いわゆる流行神になっているのである。」



「異人・憑物・流行神」より:

「いわゆる超能力者たちが、文化・文政期ごろから激増してきたことは、江戸の民俗宗教の一つの特徴といえるだろう、前述した狐憑きによる人神化もそうした例であるが、この時期、江戸に住んだ平田篤胤が、異人と異郷について好んで記したことも注目される。」

「異人に声を奪われた話とか、異人に口と耳を借りられてしまい、三年間、つんぼで啞になった話、異人に誘われて行方不明になった話などが、盛んに語られるようになる。約二十年間、行方不明になっていた江戸の男と子供が、ひょっこり帰ってきた。行方不明になった当時は大騒ぎだった。巫女は「今は二人とも、人の見得ざる所に使はれて帰ること叶はず」と託宣したという。この二人も空中を飛び、他界、つまり山中において、異人とともに暮らしていたのであった。
 このように江戸に住む人々の意識の中に、自らが住んでいる現世とは異質の他界が山人=異人の支配する天に近い山中に存在するのだという思考が形成されていたのである。世俗的な日常性がより強く発揮されていた江戸だけに、聖的な、かつ非日常的な世界への憧憬がより濃く表出していることがこうした体験談を通して示されているのである。」



「江戸の七福神信仰」より:

「この大黒様だけで我慢していればいいわけですが、どうも一神だけでは、人間の欲望にはとても応えきれないのです。氏神様に行きますと、氏神様一社だけというところはなくて、境内神は摂社、末社などがあって、必要に応じて招かれてくる勧請神が、たくさん祀られているわけです。
 至る所に小さな神様が次々と祀られているということは大変面白い現象です。大黒様だけで我慢できなくなり、次にセットとして恵比須様を連れて来たわけです。」
「恵比須様は、以前の字は「夷」でした。(中略)夷の字は遠方にいる荒々しいというイメージがあった。とくに海岸に漂着してきたようなもの、たとえばエビス石などと称する海中の石が、浜に打ち上げられますと、漁師がそれをご神体として祀りました。不漁が長く続いているときに、網にたまたま漂着物などがかかったりすると、それを新しいエビスの神体にする。寄石とか網がかりなどといいまして、漂着神信仰の原型になるものです。外来から訪れてくる神には、恐るべき霊力があるにちがいないという古代的信仰があり「夷」はその意味をよく表現しています。ところがそうした恐しい力が幸運をもたらす力に改められるのが、日本人のものの考え方なのでした。」

「こうした、神様を自由自在に作って楽しくお参りするという発想が日本の民俗信仰の中にありました。(中略)どの神でなくてはならないといったことをとくに苦にしないのです。神様に対して失礼であるなんてことは毛頭考えません。頭が痛くなれば、頭痛の神様、痔が苦しくなれば痔の神様、歯が痛くなれば歯の神様をたくさんこしらえまして、『江戸神仏願懸重宝記』などというパンフレットを売出しているというお国柄なんです。今でもデパートで開帳までやってしまうわけですから、何らそういうことを苦にしない。現世というものを豊かに楽しく生活して、悩みなんてものをあの世に持って行くことはなるべく遠慮しようではないか、この世で悩みを解決してしまおうという、現世を謳歌する、そういう考え方が中心にある。不景気だといいながらけっこう毎年初詣でをしては災難を除いてしまい、この一年間はなんとか過ごしていこうという楽天的な風潮があった。」
「しかし現世利益は、逆にいえば、一方では生活に不安を感じているから、神や仏をたくさん祀っているという感情があるわけです。だから、表面的にはひどく楽し気に見えるけれども、やはり、個人的な悩みや苦しみというのは、尽きないものなのでしょう。苦しみや悩みに対して敏感に考えて、神や仏にすがることによって、一時的にでも現実世界の中で解決しようとする、そういう人間の気持が神々をたくさん作り出しているともいえる。もっと恐ろしい、祟る悪神があったならば、みんな和やかな、明るい良い神様に切り換えてしまうというテクニックを日本人が持っているということが、七福神の姿を見るとよくわかるんです。」



「時と鐘」より:

「全国に多い沈鐘伝説は、水神や竜神信仰と結びついている。池底・沼底・川底に鐘が沈んでいると伝えるものである。
 これらは時の鐘とは限らない。むしろ鐘の音のもつ異常性・特異性を表現している。東京の隅田川の上流荒川の一角にある鐘ヶ渕は、三つの川の流れの合流点にあたり、川底に沈鐘伝説があった。流れが合流して渦巻きが生じる水面下に、水流の音が発生し、鐘の音になぞらえられたと推察されているが、その音はすでに、普通の音ではなく、水神が管理する音韻と化していたのである。
 「博多の鐘ヶ岬は昔大唐より撞鐘を船にて渡せしに、竜神鐘を望み此所に至りて風浪起り船覆りて鐘海底に沈む」(『江海風帆草』)という伝説も、鐘の音が竜神の管理にあるべき性格であり、求められて海中に沈められたとしている。一方で、鐘を舟で運ぶことをタブーとしていた伝承があり、それは竜神が鐘を求めるため、海難事故におそわれやすいとの俗信を生んだのである。鐘の音が、異界に属することを示す事例といえるだろう。」

「鐘の音自体が、神霊や他界との交流を表現する手段であったとすると、「時の鐘」として、時を刻み、時を知らせる意味は、その音を聴く人々の精神をコントロールする結果をもたらすのである。心のひだに喰いこむ音は、明らかに物の怪だったのである。
 江戸時代の時の鐘が、捨鐘三つを用意していたことの説明は従来も不十分であった。(中略)いったいわざわざ捨鐘を用意したのは何故だろうか。時の鐘を現実生活に刻みつけるための手続きとして、本来時を刻む音のもつ異常性を消去する呪法ではなかったかと想像している。時の鐘が仮に全く正確にうたれたとすると、直接異界の物の怪が出現してしまうという恐怖を潜在的にいだいていたのではあるまいか。捨鐘をうつことによって異界との交流をいったん切断し、現実世界の時の刻みを位置づけるという意図のあったことを推察したいのである。」































































関連記事
スポンサーサイト



プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本