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兵藤裕己 『琵琶法師 ― 〈異界〉を語る人びと』 (岩波新書)

「かれらの職能は、日常の秩序世界と向こう側の混沌(カオス)とのはざまにあって、異界のアナーキーな力と交流することであり、それは聖なる闇のパワーをこの世に媒介することにほかならない。」
(兵藤裕己 『琵琶法師』 より)


兵藤裕己 
『琵琶法師
― 〈異界〉を
語る人びと』
 
岩波新書 (新赤版) 1184 

岩波書店 
2009年4月21日 第1刷発行
iv 203p
新書判 並装 カバー
定価980円+税

付録DVD(8cm):
山鹿良之演唱「俊徳丸」三段目(部分) 撮影: 兵藤裕己



本書「「俊徳丸」DVDについて」より:

「本書の付録として、一九八九年三月十二日~十六日に収録した山鹿良之(やましかよしゆき)演唱の「俊徳丸(しゅんとくまる)」のDVDをつけた。」
「DVDにおさめた箇所は、三段目のなかから、俊徳丸の継母のおすわが、清水寺(きよみずでら)に丑(うし)の刻参りをし、楠の大木に俊徳丸のひな形(わら人形)をはりつけ、七夜のあいだ呪い釘を打つくだり(約二十分)である。」



本文中図版(モノクロ)3点、各章扉に琵琶写真(モノクロ)。


兵藤裕己 琵琶法師


カバーそで文:

「モノ語りとは〈異界〉のざわめきに声を与え、伝えることである――皇族や将軍に仕える奏者として、あるいは民間の宗教芸能者として、聖と俗、貴と賤、あの世とこの世の〈あいだ〉に立つ盲目の語り手、琵琶法師。古代から近代まで、この列島の社会に存在した彼らの実像を浮彫にする。「最後の琵琶法師」による演唱の稀少な記録映像を付す。」


帯文:

「あの世とこの世の境で
彼らは語った

演唱の実像を伝える
稀少な映像DVD付き」



帯裏:

「「琵琶法師」ということばに、ある畏怖のイメージがつきまとうとすれば、私たちの琵琶法師イメージが、たぶんにこの周知の怪異談(「耳なし芳一」)によっているからだろう。…『怪談』がハーン夫妻によって合作された経緯は、平家物語テクストが成立した経緯をほうふつとさせる。平家一門の栄華と滅亡をえがく平家物語もまた、琵琶法師の語りの声に媒介されて成立した文学である。平家物語などのさまざまな物語(語り物)を語りあるいた琵琶法師は、わが国における声の文化のもっとも重要な担い手だった。(序章より)」


目次:

序章 二人の琵琶法師
 「耳なし芳一の話」
 芳一話の系譜
 耳と異界
 モノ語りの担い手
 最後の琵琶法師
 現代の芳一
 ハーンと芳一

第一章 琵琶法師はどこから来たか――平安期の記録から
 大陸の琵琶法師
 ふたつの伝来ルート
 盲僧の六柱琵琶
 サワリという仕掛け
 平安貴族による記録
 『新猿楽記』の「琵琶法師」
 「地神経」読誦の記録
 地神の由来
 四季の土用と「地神経」
 霊威はげしい王子神
 地母神の信仰
 東アジアでのひろがり
 物語の母型

第二章 平家物語のはじまり――怨霊と動乱の時代
 怨霊のうわさ
 竜王と平家の怨霊
 安徳天皇の鎮魂
 竜王の眷属
 『法華経』の竜女
 大懺法院の建立
 『徒然草』の伝承
 語り物と平家物語
 語り手としての有王
 琵琶法師と聖の接点
 編まれてゆく物語
 巫覡としての聖
 モノの語りの文体
 匿名的な〈声〉
 「視点」のない語り
 モノ語りとテクスト

第三章 語り手とはだれか――琵琶法師という存在
 身体の刻印
 「内裏へは五躰不具の者入らざる……」
 穢れと聖性
 柳田国男の「一目小僧」
 干死と怨霊
 境界をまつる蟬丸
 宿神と異形の王子
 「悪」が支える聖性
 「伊勢平氏はすが目なりけり」
 母と子の神
 竜女と韋提希夫人
 弁才天の信仰
 モノ語りする主体

第四章 権力のなかの芸能民――鎌倉から室町期へ
 寺社がはたした役割
 座の形成と村上源氏中院流
 当道座以前の数派
 一方派と東の市
 覚一本の成立
 当道座の成立と本文の相伝
 「平家」の流行と南北朝の政治史
 「室町殿」への正本の進上
 将軍家と当道座
 村上源氏から清和源氏へ
 将軍家の起源神話

第五章 消えゆく琵琶法師――近世以降のすがた
 応仁の乱以後
 徳川政権との結びつき
 地神盲僧への締め付け
 「脱賤民化」のための支配構造
 諸職諸道とのつながり
 三味線・浄瑠璃の台頭
 東北の奥浄瑠璃
 西日本の座頭・盲僧
 近代に残った琵琶法師
 「あぜかけ姫」の伝承
 機織り淵の伝説
 「俊徳丸」の伝承
 アルトー版の「耳なし芳一」
 おわりに――琵琶法師とはなにか

「俊徳丸」DVDについて
「俊徳丸」全七段・梗概

あとがき




◆本書より◆


序章より:

「耳からの刺激は、からだの内部の聴覚器官を振動させる空気の波動である。私たちの内部に直接侵入してくるノイズは、視覚の統御をはなれれば、意識主体としての「私」の輪郭さえあいまいにしかねない。そんな不可視のざわめきのなかへみずからを開放し、共振(シンクロナイズ)させてゆくことが、前近代の社会にあっては、〈異界〉とコンタクトする方法でもあった。」

「モノ語りを語るとは、見えないモノのざわめきに声をあたえることであり、それは盲人のシャーマニックな職能と地つづきの行為である。そして声によって現前する世界のなかで、語り手がさまざまなペルソナ(役割としての人格・霊格)に転移してゆくのであれば、物語を語るという行為は、近代的な意味でのいわゆる「表現」などではありえない。」

「物語を語るのは、不断に複数化してゆく主体である。その声も、(中略)現実の聴衆よりも以前に見えない存在へむけて発せられる。そんな複数化した主体によるモノローグのような語りの声を聴衆は傍聴しているのであり、語られる世界と聴衆とのはざまにあって、盲目の琵琶法師は、たしかにあの世とこの世の媒介者(メディエーター)である。」

「山鹿良之は、一九九六年六月に他界した。九州に残存した琵琶弾きの座頭・盲僧のなかでも、その放浪芸的な活動実態といい、全貌を把握しがたいほどの段物の膨大な伝承量といい、山鹿はまさに日本最後の琵琶法師だった。」
「聞こえてくるのは、日常の言語活動にとってはノイズとしか思えないような声と四弦(しげん)のざわめきである(ちなみに、琵琶法師の琵琶には、意図的にノイズをひびかせるためのサワリとよばれる独特の仕掛けがある)。
 山鹿の琵琶演奏と語りの芸について、私たちのことばでわかりやすく語ってしまうまえに、その存在の異質性、ないしは「異形(いぎょう)」性が語られるべきだろう。」



第二章より:

「平家滅亡後の十二世紀末の社会にあって、安徳天皇と平家一門の怨霊のたたりは、貴族社会を中心に怖れられていた。」
「水土をつかさどる神霊として、地霊の五竜王は海底の竜王ともなるのだが、そのような竜王の眷属となった平家の怨霊が、大地の異変をひきおこす。(中略)そんな竜王の眷属となった平家一門のなかでもとくに恐れられたのは、「竜になりてふりたる」とうわさされた「平相国」清盛であり、また八歳で海に沈んだ幼帝安徳の御霊である。」



第三章より:

「琵琶を弾いて物語や歌謡を演唱し、また民間の宗教祭祀にたずさわった聖なる司祭者でもある琵琶法師が、いっぽうで「乞食・非人」や「川原者」と同等の身分の者として卑賤視されていた。聖と賤、聖なるものと穢れとの錯綜した関係がうかがえるが、穢れと聖性とのこの錯綜した関係に、異形の司祭者たちの呪力の根源もあったろう。
 メアリ・ダグラスによれば、多くの民族のあいだで穢れと認識される対象は、その社会における秩序の整合性を脅かす余剰物、ないしは非秩序であるという(『汚穢と禁忌』)。
 健常者で構成される社会にあっては、「五躰不具」の者は、その「不具」性・異形性ゆえに非秩序である。だが、非秩序は同時に秩序がつくられる以前の混沌(カオス)を表象する。
 今日行なわれる祭礼でも、秩序の規範から逸脱した異形の装い(性別を越境した異性装など)が祭りを活性化させることは、よく目にするところである。非秩序=穢れの体現者は、原初の創造的なカオスを創出したアナーキーな力を体現する者として、祭儀においてしばしば聖なる呪力を行使することになる。」

「日常の生活空間では罪=穢れの指標となる身体の欠損や異形性が、祭儀の空間では世俗的秩序を超えた聖なるもの(ヌミノース)を顕現させる。」
「異形の司祭者の主宰する祭儀空間において、世俗的秩序は反転し、非秩序(=穢れ)の荒々しい力が聖なるものを顕現させるのだ。
 たとえば、盲目の「らい者」となって流離・放浪する異形のしんとく丸(俊徳丸)は、やがて神として転生するだろう。」

「舞の本や古浄瑠璃の「景清」では、頼朝の命をねらう景清は、からだに漆(うるし)を塗って「らい者」を装う。
 まさに日常の世俗的な秩序をおびやかす闇のパワーを形象化したような存在だが、しつような暗殺者である景清は、みずからの目をえぐったのち日向に下り、「日向勾当」と名のって「平家」を語ったという。宮崎市内には景清を祭神とする生目(いきめ)八幡社があり、景清は、九州地方の盲僧・琵琶法師のあいだで始祖として仰がれていた(『太宰管内志』一八四一年)。」

「山科の四宮河原に住んだ異形の皇子蟬丸が、平家物語で醍醐(だいご)天皇第四宮とされたのは、柳田国男が指摘したように、宿神(しゅくじん)の信仰との関わりから理解される(『毛坊主考』)。
 四宮を音読すれば、シクである。柳田によれば、宿(シュク・スク)は、サカ(坂・境)、サキ(崎)、セキ(関)、ソコ(塞)などと音がかよい、河原・峠などの村はずれの境界の地を意味したことばであり、したがって宿神は、ほんらい境界にまつられる神だという。
 猿楽芸能民によって宿神がまつられたように(金春禅竹(こんぱるぜんちく)『明宿(めいしゅく)集』)、宿神が諸芸諸道の神とされたのも、諸芸諸道の家が、もとはシュク、すなわち村はずれ・町はずれの無主・無縁の地に住んだいわゆる「宿の者」だったからだ。」
「河原(境界)において石塔でまつられる第四宮とは、守宮神すなわちシュク神である。異形の王子神は、石塔で標示される神であり、それは境界の地にまつり鎮められる御霊のヨリシロだった。」

「異形の王子神が、琵琶法師たちの職祖とされる。かれらの職能は、日常の秩序世界と向こう側の混沌(カオス)とのはざまにあって、異界のアナーキーな力と交流することであり、それは聖なる闇のパワーをこの世に媒介することにほかならない。」

「異形の皇子平清盛の「悪」の物語にはじまり、海底に没した幼帝安徳の鎮魂で終わる平家物語とは、たしかに霊威はげしい御霊の語りとして発生したのだ。「平家」のモノ語りを語り、荒ぶる御霊をまつり鎮める琵琶法師たちは、やがてみずからの職能を、清盛の娘であり、荒ぶる御霊若宮の母である建礼門院の物語に同化させてゆくことになるだろう。」

「地母神が同時に水の女神であり、それを竜蛇形とする観念は世界的なひろがりをもつ(エリアーデ『大地・農耕・女性』ほか)。わが国の盲人芸能者のばあい、水土の女神は、しばしば竜蛇として示現する弁才天と同一視され、また、『法華経』巻五「提婆達多品」で説かれる娑竭羅(しゃかつら)竜王の八歳の娘、すなわち『法華経』の功徳により「変成男子(へんじょうなんし)」して成仏したとされる竜女(りゅうにょ)と習合することになる。そしてこの竜女=弁才天の系譜につらなるのが、平家物語では、幼帝安徳の母建礼門院である。」

「寂光(じゃっこう)院にはいった建礼門院は、わが子安徳帝と平家一門の菩提をとむらう日々をおくる。」
「竜王の眷属となった清盛以下の平家一門の霊は、一門の女性すなわち竜女である建礼門院によって鎮められなければならない。」

「水土の女神とその王子神を奉斎する琵琶法師によって、「平家」のモノ語りは伝承されてゆく。母と子の神という対は、モノ語りする主体としての琵琶法師のありようと相似形をなしている。母と子の神をまつり、父なるもの(規範、掟)を他者としてもたないかれらは、「我」という主体を規定する根拠の不在につきまとわれるだろう。」
「要するに自己同一的な主体形成の契機となる父なる神(他者)が不在だということだ。
 そこに形成されるのは、自己同一性の不在において、あらゆる述語的な規定を受け入れつつ変身する(憑依する/憑依される)主体である。みずからの帰属すべき中心をもたない主体は、ことば以前のモノ、この世ならざるモノをうけいれる容器となるだろう。
 異界のモノのざわめきに声をあたえるシャーマニックな主体は、ことばが分離・発生するそのはざまを生きる者として、本質的に両性具有的である。ことば以前のモノのざわめきから、ことばが立ちあがる機制は、比喩的にいえば変成男子である。その両性具有的な主体こそ、非ロゴスの狂気のざわめきに声をあたえ、言語化・分節化されないモノから語りのことばが出現する現場(中略)を、その発生のはざまにおいてとらえるモノ語りの語り手である。
 変成男子する両性具有の神は、異界のざわめきとそのアナーキーな力をこの世に媒介する琵琶法師たちにとって、たんなる比喩をこえてまさに職能の神なのであった。」



第四章より:

「平家物語における「本文」と語り、文字テクスト(を管理する寺社)と盲人との関係は、「耳なし芳一の話」で、芳一をこちら側の世界に帰属させた「経文」の役割を想起させる。
 芳一が身に帯びてしまうモノ(死霊=穢れ)の力を封じるのは、芳一を庇護(支配)する僧であり、僧の世界に属する経文である。文字テクストは、モノ語りの不定形とそのアナーキーな力を整序づけ、そこに支配・被支配という権力関係を刻印する媒体として機能したらしいのだ。」



第五章より:

「「耳なし芳一の話」を執筆していたころのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、日が暮れても、部屋のランプをともさないことがあったという。
 妻の節子が、あるとき、襖をあけずに隣の部屋から、「芳一、芳一」と小声で呼ぶと、「はい、私は盲目です。あなたはどなたでございますか」といって、そのまま黙りこんだ(小泉節子『思い出の記』)。ランプを消した部屋にひとり座っていたハーンは、異界の声が琵琶法師芳一の名を呼ぶさまを追体験していたのだろう。
 ハーンの『怪談(KWAIDAN)』が、ボストンとニューヨークで出版されたのは、一九〇四(明治三十七)年である。その六年後の一九一〇年に、パリでフランス語版が出版された。そのフランス語版の「耳なし芳一の話」を読み、リメイク版の短編小説「哀れな楽師の驚異の冒険(L'ETONNANTE AVENTURE DU PAUVRE MUSICIEN)」を書いたのは、現代の演劇と思想界に多大な影響をあたえつづけているアントナン・アルトーである。」
「目のみえない芳一は、大気の「戦慄」や、海面が洩らす「死者たちのもののような溜め息」に耳をこらしている。そして「魔物や伝説的な平家の者ども」がとびかうときの「不思議な衝撃」を肌に感じていた芳一の耳に、とつじょ自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
 芳一を呼ぶ声は、「あたかも事物の本質から立ちのぼって来た声のように」とある。それはことばとしての分節化を拒否するような声であり、常人には聞こえない死霊の声である。」
「声を発する主体は、それじたい分節化されないモノとしてある。私たちの生は、ことばによる分節化を拒絶するなにかだが、にもかかわらず、ことばによって生に切れ目を入れ、世界を分節化・言語化して生きざるをえないところに、ホモ・ロクエンス(ことばをもつ人)としての人間の生のかかえる根源的な矛盾もある。それは、「器官なき肉体(コール・サン・ゾルガーヌ)」すなわち分節化されない生そのものを表象=上演しようとして、舞台の上でことばにならないうめきや叫び声を発しつづけたアルトーじしんがかかえたアポリアでもある。
 そのようなアルトー版の芳一にあって、たとえば、海面が洩らす「死者たちのもののような溜め息」というエロティックな死のイメージは、未生以前の世界への誘惑である。母胎という原初の無垢・無差別からの分離に、ことばの世界への組みいれの体験の原型があるとすれば、私たちは遠い海鳴りのざわめきにさえ、死への誘惑を感じることはあるだろう。」

「盲目という身体の刻印ゆえに流離・遍歴の境涯を余儀なくされた琵琶法師は、しばしばベーシック・トラスト(原母子関係)の欠損という心理的な外傷を負う者たちだったろう。血縁や地縁の共同体をはなれ、通常の意味でのペルソナ(役割としての人格)の形成を阻害されるかれらにとって、母なる水土の女神は、失われた世界の代償でもある。」

「母なる水土の女神は、モノ語りの発生する原郷が人格神化された存在でもある。母胎からの分離に、ことばの世界への組みいれの体験の原型がある以上、たとえば、平家物語に頻出する慣用句、「あはれなり」は、人としてこの世に組みいれられてあることの根源的な矛盾とその哀感の表白である。琵琶法師の声とともに生成した平家物語は、たしかに人であることの哀しみの根源のようなものにふれているのである。」





こちらもご参照ください:

北村昌士 『キング・クリムゾン ― 至高の音宇宙を求めて』
田中優子 『江戸の音』 (河出文庫)
五来重 『増補 高野聖』 (角川選書)
















































































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