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種村季弘 『遊読記』

「落ちこぼれはここでは、世の中から捨てられた土壇場で世の中の方を捨てる、当意即妙の返し技の免許皆伝に達する幸運である。」
(種村季弘 「当意即妙の返し技」 より)


種村季弘 
『遊読記
― 書評集』
 

河出書房新社 
1992年8月20日 初版印刷
1992年8月31日 初版発行
263p 初出一覧v 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,200円(本体2,136円)
装丁: 中島かほる
カバー装画: 美濃瓢吾



書評125篇。
本書はもっていなかったのでヤフオクで600円(+送料185円)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。


種村季弘 遊読記 01


帯文:

「コレハ本デハナイ
無類の本好き、読書家の
1200字の書評芸
奇芸、珍芸、至芸のおたのしみ」



帯背:

「仮書幻想」


帯裏:

「おあとがよろしいようで……」


目次 (初出):

▼1991
楽園としての書物 † 川崎寿彦 『楽園のイングランド』 (「朝日新聞」 4.14)
姿をくらますエロス † アラン・コルバン 『娼婦』 (同 3.30)
マダム・キラーの悪霊祓い † 高田衛 『江戸の悪霊祓い師』 (同 3.10)
花街という学校 † 明田鉄男 『日本花街史』 (同 2.10)
偽書の真実 † ピーター・アクロイド 『チャタトン偽書』 (同 1.13)
▼1990
まっ白の本 † 堀内正和 『坐忘録』 (同 12.16)
総合空間としての本 † ウォルター・クレイン 『書物と装飾』 (同 11.25)
夢想言語博物館 † マリナ・ヤグェーロ 『言語の夢想者』 (同 11.11)
予言する死後解剖図 † クラウディオ・マグリス 『オーストリア文学とハプスブルグ神話』 (同 10.21)
無人称の声 † 岡谷公二 『南海漂泊 土方久功伝』 (同 10.14)
「退屈な話」の循環 † 佐々木基一 『私のチェーホフ』 (同 9.30)
島の入れ子構造 † 伊井直行 『湯微島訪問記』 (同 9.23)
大福が食いたい † 鹿島茂 『馬車が買いたい!』 (同 8.26)
奇人伝が何だ † トーマス・ベルンハルト 『ヴィトゲンシュタインの甥』 (同 7.29)
旅をする巨鳥 † 宮本徳蔵 『相撲変幻』 (同 7.22)
狼を待ちながら † ジャック・ザイプス 『赤頭巾ちゃんは森を抜けて』 (同 7.8)
とり落とした掌中の珠 † スティーヴン・ミルハウザー 『イン・ザ・ペニー・アーケード』 (同 6.10)
裏面物のカタルシス不足 † フィリップ・ヘンダースン 『ウィリアム・モリス伝』 (同 5.27)
ふきんがこわい † 長谷川集平 『絵本未満』 (同 5.20)
のんびり世紀末散策 † ホルブルック・ジャクゾン 『世紀末イギリスの芸術と思想』 (同 5.6)
物理人間の系譜 † 巖谷國士 『澁澤龍彦考』 (「公明新聞」 4.23)
情報と輪廻 † 椎名誠 『アド・バード』 (「朝日新聞」 4.15)
東京の片隅へ † 出口裕弘 『ペンギンが喧嘩した日』『ろまねすく』 (同 4.1)
死と共生して † 小池寿子 『死者たちの回廊』 (同 3.18)
道草からの逆襲 † ウンベルト・エーコ 『薔薇の名前』 (上・下) (同 3.4)
コレハ本デハナイ † 別役実 『別役実の当世病気道楽』 (同 2.8)
美女舞姫のライン・ダンス † 市川雅 『舞姫物語』 (同 2.11)
だまされてみたい † リチャード・D・オールティック 『ロンドンの見世物 Ⅰ』 (同 2.4)
専門バカの葬送 † M・H・ニコルソン 『暗い山と栄光の山』 (同 1.14)
脱力する芸術へ † 多木浩二 『それぞれのユートピア』 (同 1.7)
▼1989
ワイマールの現在完了 † ヘンリー・パクター 『ワイマール・エチュード』 (同 12.10)
世界言語という白痴夢 † 亀山郁夫 『甦えるフレーブニコフ』 (同 11.12)
キノコのような女たち † 村田喜代子 『ルームメイト』 (同 10.29)
地中海の自伝 † アミン・マアルーフ 『レオ・アフリカヌスの生涯』 (同 10.22)
片隅のきらめき † 飯吉光夫編訳 『ヴァルザーの小さな世界』 (同 9.24)
無力な人の戦略 † 谷崎終平 『懐かしき人々』 (同 9.10)
成り上がる温泉町 † 小林章夫 『地上楽園バース』 (同 9.3)
東西笑いくらべ † 佐々木みよ子/盛岡ハインツ 『笑いの世界旅行』 (同 7.30)
伏せ字の戦略 † 木本至 『「団団珍聞」「驥尾団子」がゆく』 (同 7.23)
ある戦いの記録 † 高橋悠治 『カフカ/夜の時間』 (同 7.2)
立ち上がる平面 † 中西夏之 『大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』 (同 6.4)
人類の少年時代へ † 堀内誠一 『堀内誠一の空とぶ絨緞』 (同 5.28)
円居のある食卓 † 戸板康二 『食卓の微笑』『慶応ボーイ』 (同 5.7)
宇宙模型としての箱 † 横山正 『箱という劇場』 (同 4.9)
わるい乞食の名演技 † H・ベーンケ/R・ヨハンスマイアー編 『放浪者の書』 (同 4.2)
軽く細く弱く † 長沢節 『弱いから、好き』 (同 3.26)
ひしめく静止 † マルタ・モラッツォーニ 『ターバンを巻いた娘』 (同 3.12)
町内のサロン † 今野信雄 『江戸の風呂』 (同 3.5)
あるボヘミアンの貴族 † ヘルムート・フリッツ 『エロチックな反乱』 (同 2.19)
人生の入門書 † マレーネ・ディートリッヒ 『ディートリッヒのABC』 (同 2.12)
いずれ終る芝居 † 増井和子 『7つの国境』 (同 1.23)
快楽グッズの自己消費 † 秋田昌美 『倒錯のアナグラム』 
あるいて出会った † 中沢厚 『石にやどるもの:』 (同 1.16)
風水の秘密 † 三浦国雄 『中国人のトポス』 (同 1.9)
▼1988
はじめていた場所 † マーリオ・ヤコービ 『楽園願望』 (同 12.19)
全部ポンコツ † マルシオ・ソウザ 『アマゾンの皇帝』 (同 11.21)
マゾヒズムの偽装 † 西成彦 『マゾヒズムと警察』 (同 11.15)
裏と表の二重人 † フランソワ・ヴィドック 『ヴィドック回想録』 (同 10.31)
歌を忘れたカナリア † ハインツ・グロイル 『キャバレーの文化史』 (Ⅰ・Ⅱ) (同 10.24)
石のことばは石 † 金森敦子 『旅の石工』 (同 10.17)
多様さのなかの秩序 † ワイリー・サイファー 『ロココからキュビスムへ』 (同 9.25)
仮面の裏も仮面 † 池内紀 『ザルツブルク』 (同 9.5)
顔のない皇帝 † R・J・W・エヴァンズ 『魔術の帝国』 (同 8.29)
非良導体のポエジー † 富士正晴 『富士正晴作品集 一』 (同 7.25)
歴史は顔を隠す † ジル・ラプージュ 『ユートピアと文明』 (同 7.18)
進歩ゆえの放浪 † フレデリック・フェイエッド 『ホーボー アメリカの放浪者たち』 (同 6.20)
非領域化する現場 † 田之倉稔 『演戯都市と身体』 (同 6.14)
女庭師の帰還 † 室生朝子 『大森 犀星 昭和』 (同 5.30)
小間物の世界横断性 † 原田豊 『銀座百年の定点観測』 (同 5.2)
二つの世界を舞う † クルツィア・フェラーリ 『美の女神 イサドラ・ダンカン』 (同 4.18)
悪魔を信じたい † 日影丈吉 『地獄時計』 (同 4.11)
▼1987
民衆本の真実 † ハンスヨルク・マウス 『悪魔の友 ファウスト博士の真実』 (「日本経済新聞」 11.1)
▼1985
砂の中の動物群 † 伊藤立則 『砂のすきまの生きものたち』 (「朝日新聞」 5.27)
うじ虫のような天使 † カルロ・ギンズブルグ 『チーズとうじ虫』 (未発表)
虚無に立つ花火 † 中井英夫 『金と泥の日々』『名なしの森』 (「朝日新聞」 4.1)
目撃という証言 † 赤瀬川原平 『いまやアクションあるのみ!』 (同 3.25)
西と非西との交換 † ミゲール・セラノ 『ヘルメティック・サークル』 (同 3.25)
コロンブスとは誰か † A・カルペンティエール 『ハープと影』 (同 2.25)
読みとしての政治 † 大西巨人 『天路の奈落』 (同 2.11)
周縁の食べもの † 武田百合子 『ことばの食卓』 (同 2.4)
うらみは深い † 未来社編集部編 『十代に何を食べたか』 (同 1.14)
▼1984
最後に乗る乗り物 † 井上章一 『霊柩車の誕生』 (同 12.17)
秘密の花園の花譜 † 若桑みどり 『薔薇のイコノロジー』 (同 12.17)
にぎやかな廃棄物王国 † 安部公房 『方舟さくら丸』 (同 12.10)
解決なきパラドックス † ジャン・アメリー 『罪と罰の彼岸』 (同 11.19)
イニシエーションの島 † 池沢夏樹 『夏の朝の成層圏』 (同 10.29)
空白のある文学史 † 黎波 『中国文学館』 (同 10.28)
遺民としての画人 † 陳舜臣 『中国画人伝』 (同 10.8)
当意即妙の返し技 † 高木護 『忍術考』 (同 10.8)
毒性キノコ図鑑 † 山田宏一 『美女と犯罪』 (同 9.3)
分水嶺の男 † 丸山健二 『雷神、翔ぶ』 (同 9.3)
魔術的哲学のパノラマ † フランセス・イエイツ 『魔術的ルネサンス』 (同 8.20)
なまめかしい老年 † 円地文子 『菊慈童』 (同 8.7)
脱自我空間の博物誌 † 筒井康隆 『虚構船団』 (同 7.9)
病気が主役だ † 立川昭二 『病いと人間の文化史』 (同 6.12)
ミニアチュール風景画集 † 三木卓 『海辺で』 (同 6.4)
水のような追想 † 足立巻一 『親友記』 (同 4.30)
言葉に化ける器物 † 別役実 『道具づくし』 (同 4.16)
硬派の魚河岸 † 尾村幸三郎 『日本橋魚河岸物語』 (同 4.9)
科学派の眼 † 赤瀬川原平 『東京ミキサー計画』 (同 4.9)
空海入唐記 † 陳舜臣 『曼陀羅の人』(上・下)『録外録』 (同 4.2)
不定時法の道草 † 角山栄 『時計の社会史』 (同 2.27)
虚実を包む愛 † 山田風太郎 『八犬伝』(上・下) (同 2.13)
監禁のパラドックス † 吉村昭 『破獄』 (同 1.17)
玉の話 † 澁澤龍彦 『ねむり姫』 (同 1.9)
▼1983
なまめきと哄笑 † 津島佑子 『火の河のほとりで』 (同 12.12)
意外な素朴画家 † 岡谷公二 『アンリ・ルソー楽園の謎』 (同 12.5)
幻想の日本列島像 † 室賀信夫 『古地図抄』 (同 11.21)
ウィーン、絢爛たる没落 † カール・E・ショースキー 『世紀末ウィーン』 (同 11.14)
音楽の辺境王国 † 瀬川昌久 『ジャズで踊って』 高木史朗 『レヴューの王様』 (同 10.24)
部屋の生と死 † 海野弘 『部屋の宇宙誌』『風俗の神話学』 (同 10.3)
脳の交換 † ビオイ=カサーレス 『日向で眠れ 豚の戦記』 (同 9.26)
犯罪としての教育 † アリス・ミラー 『魂の殺人』 (同 9.15)
庭のたのしみ † 川崎寿彦 『庭のイングランド』 (同 9.5)
いかにも遊びの果てに † 尾辻克彦 『雪野』 (同 8.15)
ビックリ絵本 † ブルーノ・エルンスト 『エッシャーの宇宙』 (同 8.9)
大河としての生命 † エイモス・チュツオーラ 『薬草まじない』 (同 7.25)
偽書という情報犯罪 † 高橋俊哉 『ある書誌学者の犯罪』 (同 7.11)
あなたにそっくり † アンドルー・J・フェナディ 『ボガートの顔をもつ男』 (同 5.23)
読めなかった絵画論 † 磯崎康彦 『ライレッセの大絵画本と近世日本洋風画家』 (同 5.16)
戦後の戯画 † 中井英夫 『黒鳥館戦後日記』 (同 5.9)
余禄の人生 † 深沢七郎 『ちょっと一服、冥土の道草』 (同 4.25)
▼1979
技術のファンタジー † 尾崎幸男 『地図のファンタジア』 (「週刊現代」 1.25号)
▼1978
艶なる宴の方へ † 窪田般彌 『ロココと世紀末』 (「公明新聞」 10.9号)
功利的な怪談 † J・ミッチェル/R・リカード 『フェノメナ幻象博物館』 (「週刊文春」 9.7特別号)

あとがき




◆本書より◆


「楽園としての書物」より:

「無限にひろがる外の世界に対してそこだけ囲われた小宇宙。それが洋上にあれば島の楽園であり、陸上にあれば庭の楽園、不安な生そのものに対して最終的に囲われた小宇宙であれば墓の楽園である。島、庭、墓は、いずれも外界の激動から逃れた先で無為寂滅の至福をゆあみしている、ほとんどあられもない胎内還帰願望の対象としてのトポス(場所)といえよう。」


「まっ白の本」より:

「坐忘。荘子内篇のことばだそうだ。「坐忘とは、端座して形を忘れ我を忘れ天地万物一切を忘れること」。なにもかも忘れるのだから、なにもなくなる。では、なにもなくなるからなにもなくなったかというと、じつはそのなにもない(引用者注: 「なにもない」に傍点)が現れてくる。ということは、天地万物一切から我を引いた、金無垢の天地万物一切が現れてくるわけだ。」


「奇人伝が何だ」より:

「その哲学者の甥にパウル・ヴィトゲンシュタインがいた。彼が何者かというと、奇人とでもいうほかない。巨額の遺産を、自動車レースとヨットとオペラと極上のスーツであっというまにすっからかんにした。ウィーン市内でタクシーをつかまえて、行き先をパリと告げたりした。スーツのあつらえ方なら、最高級の仕立て屋に二着の燕尾服を注文し、何か月も手直しに通ったあげくの果てに、燕尾服など注文したおぼえはないという。ツケはヴィトゲンシュタイン家にまわり、彼は精神病棟にぶちこまれる。おじのルートヴィヒとともに一族の除け者、それでいて天才演奏家たちをふるえあがらせた。音楽を、とりわけオペラを聞かせると、天才的な耳の持ち主だったのだ。落魄してからは運動靴をはき、買い物籠をぶらさげてウィーンの町をさまよった。」


「コレハ本デハナイ」より:

「仮書という言葉を手近の辞書で調べてみた。ない。仮病というのは――これはある。病気でもないのに病気のふりをすること。それなら書物でもないのに書物のふりをしている本をなんといえばいいのか。」
「病気になったら、なったで、くよくよしてもはじまらないから病気を楽しむ。そこまではだれでも考える。そのうち病気道楽が嵩じて、病気でもないのにわざわざ病気になってみたり、まだ罹ったことのない病気に罹ってみたりする。これもまあ分かる。おつぎはもう現実に存在する病気という病気を病みつくしてしまって、それでもまだ病気道楽が抜けないので、架空の病気を発明してそれに罹る。」

「病気を治す必要はない。一切の病気はこれを仮病にしてしまうがよろしい。それがドクターの千編一律の処方である。」



「無力な人の戦略」より:

「正面から対等の人間関係をむすぶより、対人関係はあくまでも消極的に、腰を低くして下手にでる。むやみにテレたり、はにかんだりする。根は人間嫌いなのに、にぎやかな社交関係の場にほうりこまれておろおろする。裏を返せば、人間関係の希薄な幼少年時代の孤独な日々こそが至福の時間だった。」


「宇宙模型としての箱」より:

「箱は「閉じると密閉した空間が限り取られる」内部にかならずひとつの完結した世界を、いいかえれば覗き見をゆるさぬ秘密を蔵している。」

「モンゴル人の包(バオ)はそれ自体がワンルームの箱だが、そのなかには「いろいろな箱が整然と置かれてさまざまなものの容器となっている」。ここでは箱が、住まいである包の、包がまた宇宙の、重層的な入れ子であって、大宇宙からはじまるこの箱根細工めいた入れ子構造の最小単位が箱なのである。」



「進歩ゆえの放浪」より:

「もともと移住者として旧大陸から渡ってきたアメリカ人には、当初からつよい移動性がついてまわった。はてしないフロンティアのあるうちは、アメリカ人すべてが放浪者といってもよかったのである。アメリカ人を放浪者と定住者に二分したのは、十九世紀後半に急速に発達した鉄道だった。物質的進歩の象徴たる鉄道が、一方でフロンティアを消滅させながら、同時に大量のホームレスの移動型季節労働者を生み出すことになる。フロンティアの存在と裏腹に発生した初期のホーボー(放浪労働者)はしたがって、フロンティアそのもののように大らかで楽天的、いたるところに、とりわけ人びとと共有の路上に、あらゆる可能性を見いだす文化英雄だった。」
「放浪の途上いたるところにチャンスを発見することができた新大陸は、その「物質的進歩」ゆえに、みるみる管理社会という小人国にちぢまり、その一方で東洋的虚無思想というもう一つの内面的フロンティアに直面してゆく。」



「うじ虫のような天使」より:

「メノッキオは辛うじて文字が読めた。俗語訳聖書や諸聖人伝、マンドヴィルの東方旅行記、ボッカチオの『デカメロン』、それにどうやらコーランをも読んでおり、雑多な知識のなかからキリスト教文化圏以外の文化の可能性を彼流に構想していたのだ。
 といって、同時代の人文主義者のようにそれらの異端の書を教養として受容したのではない。「あらかじめうち立てられているあらゆるモデルの外にあって、かれの読書をいったん粉々に砕き」、「全て意識せず礼を欠いたやり方で……他人の思想の破片を石や煉瓦として利用したのだ」。」



「うらみは深い」より:

「人口五千万人当時の日本人は「三里四方のものを食べ」、「たべものは季節にのって」(近藤とし子)自給自足していたのだ。圧巻は溝上泰子の「村ぜんぶが食べものだった」。広島県郡部のその村では、子供たちは山野を走りまわって、タズナ、木の実、蜂の子など、何でもとって分かち合った。農耕と縄文以来の採集食でまかなっていた食生活の原点が、明治末期までは厳然と存在し、戦中にさえその余韻が、ユリの根、山菜採りで飢えをしのいだ経験(太田愛人)につたわっている。」


「当意即妙の返し技」より:

「誰しもが子供のころは、何とかして忍術使いになりたいと思う。土にもぐり、水をくぐる。見えたかと思うとふいに姿をくらます。石になり、虫になり、魚になり、風になる。ところが忍術使いになる夢は、これまた誰しもが、大人になるとすっかり忘れてしまうのだ。そんなことをしていたらメシの食いあげではないか、と。そう言った途端に、メシなんか食わなくても平気の平左なのが、まずは忍術会得の要諦だということを、きれいさっぱり忘れはてているのである。」

「作者は落ちこぼれを自称しているが、落ちこぼれはここでは、世の中から捨てられた土壇場で世の中の方を捨てる、当意即妙の返し技の免許皆伝に達する幸運である。」



「犯罪としての教育」より:

「少年非行や家庭内暴力が問題になると、「教育が悪いからだ」という声が起こる。間違った教育をしたから、甘やかしたから、親が無関心だったから、子供は非行に走った。だから教育をし直さなければならない。
 ところが『魂の殺人』の著者の診断はまるでちがう。教育することこそが暴力の原因なのだ。(中略)教育をしたために、子供は暴力や麻薬や自殺に走ったのである。なぜなら(中略)教育と名のつく教育一切が、教育をしている当事者(両親・教師)が気がつかないままに、幼児虐待の実情をはぐらかすカムフラージュにほかならないからだ、とA・ミラーは言う。」
「かりに手を上げずに、いい子になるようにいたれり尽くせりの教育的配慮をしたところで、すでに前史のなかで形成された両親の「いい子」幻想とは、生きている子供にとっては、生命の多様性の芽をつみとる暴力的な強制措置にほかならない。」












































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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