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東郷克美 編 『日本文学研究資料新集 12 泉鏡花 ― 美と幻想』 

「この少年にももちろんそういう怨念が潜在意識的に取り憑いていたわけで、だからこの少年における鳥獣との感応は、橋の向う側のまともな(つもりの)人間どもから徹底的に疎外され痛めつけられた者の感性に裏打ちされていたのであった。
 このような例でも分かるように、鏡花の作品における木精棲む老木は、まともぶった人間から何らかの形で異界と見られている区域の、その境界に立っていた。」

(亀井秀雄 「鏡花における木精とわらべ唄」 より)


東郷克美 編 
『日本文学研究
資料新集 12 
泉鏡花
― 美と幻想』


有精堂 
1991年1月7日 初版発行
266p 
A5判 丸背紙装上製本 機械函
定価3,650円(本体3,544円)



本書「解説」より:

「今回はまだ著書にまとめられていない中堅若手の論文を中心に編んでみた。(中略)同時代評は明治期のもので、これまで文献目録等に採録されていないものや、研究史の上でふれられることの少なかったものから拾った。蔵書目録と「『鏡花全集』作品人名索引」は(中略)旧岩波版全集月報からとった。」


国文学者による論文と資料。二段組。「「南地心中」の成立過程」に図版1点、「泉鏡花と草双紙」に図版5点。


東郷克美 編 泉鏡花 美と幻想


目次:

鏡花文学の基本構造 (松村友視/「文学」 1987年3月号)
鏡花における木精とわらべ唄 (亀井秀雄/「文学」 1983年6月号)
泉鏡花・差別と禁忌の空間 (東郷克美/「日本文学」 1984年1月号/一部補訂)
死者の棲む山――鏡花のファミリー・ロマンス (脇明子/「文学」 1983年3、10月号)
   ◇
『冠彌左衛門』考――泉鏡花の出発 (秋山稔/「国語と国文学」 1983年4月号)
『予備兵』の素材など――観念小説への道 (弦巻克二/「光華女子大学研究紀要」第21集 1983年12月発行)
「鶯花径」論――鏡花世界における否定の作用 (種田和加子/「日本近代文学」第39集 1988年10月発行)
〈女仙〉の生まれる時 (山田有策/「文学」 1987年3月号)
『風流線』の構造――名詮自性を軸にして (越野格/「文学」 1983年6月号)
『草迷宮』論――鏡花的想像力の特質をめぐって (高桑法子/「日本文学」 1983年10月号)
泉鏡花『朱日記』論序説――〈城下を焼きに参るのぢや〉をめぐって (藤澤秀幸/「国語と国文学」 1988年6月号)
「南地心中」の成立過程――泉鏡花と大阪 (田中励儀/「日本近代文学」第35集 1986年10月発行/付記 '90・10・24)
「山海評判記」成立の背景――フォークロアの美学 (小林輝冶/「福井大学国語国文学」第21号 1979年2月発行)
鏡花と江戸芸文――講談を中心に (延広真治/「国文学」 1985年6月号/追記)
泉鏡花と草双紙――「釈迦八相倭文庫」を中心として (吉田昌志/「文学」 1987年3月号/再録にあたっての付記 平成2年9月9日)
泉鏡花と中国文学――その出典を中心に (須田千里/「国語国文」第55巻第11号 1986年11月発行/補記)
   ◇
〈資料 1〉 同時代評
 泉鏡花の『海城発電』 (八面楼主人/「国民之友」第280号 1896年1月発行)
 鏡花と眉山を論ず (緒方流水/「活文壇」第1、2号 1899年11、12月発行)
 鏡花に与ふ (XYY/「帝国文学」第6巻第7号 1900年7月発行)
 風葉と鏡花 (久保天随/『文学評論 塵中放言』〈鐘美堂刊〉 1901年10月発行)
 泉鏡花と怪談 (時文子/「文庫」第29巻第5号 1905年9月発行)
〈資料 2〉 目録・索引
 泉鏡花蔵書目録 (長谷川覺/『泉鏡花全集』第3巻「月報」第14号 1941年12月発行)
 鏡花先生の「草双紙」目録 (長谷川覺/『泉鏡花全集』第16巻「月報」第19号 1942年4月発行)
 『鏡花全集』作品人名索引 (長谷川覺/『泉鏡花全集』第28巻「月報」第28号 1942年11月発行/補訂)
   ◇
解説――鏡花研究の現在 (東郷克美)
参考文献 (東郷克美)
   ◇
執筆者一覧




◆本書より◆


「鏡花における木精とわらべ唄」(亀井秀雄)より:

「わらべ唄が木精(こだま)と喚び合い、その魔性へ人を誘い込む。時には子供に取り憑いたものの怪(引用者注: 「ものの怪」に傍点)そのものの呼び声であって、それが大人を追いつめたり、気を狂わせてしまう。」
「『蛇くひ』という作品に、「応」と呼ばれる奇怪な乞食の集団が出てくる。たぶん富山市の郊外に、郷屋敷田畝という土地があり、築山の傍に一本の榎の大樹が生えていた。」
「つまりこの「応」と呼ばれる者たちは、まるで榎の唸き声に応ずるごとく何処からともなく現われ、続々と市街へ繰り込んで食物を乞う。もしそれを拒む家があれば、袂から蛇をつかみ出して「引断(ひきちぎ)りては舌鼓(したうち)して咀嚼(そしやく)し、畳(たゝみ)とも言(い)はず、敷居(しきゐ)ともいはず、吐出(はきいだ)して」狼藉を働く。しかも不思議なのは、ある日その榎の下に集まって、一人が「お月様(つきさま)幾(いく)つ」と叫ぶや、ほかの者は一斉に「お十三七(じふさんなゝ)つ」と応えて、忽然と姿を消してしまうのである。」
「この「応」は多分、その生業を蔑視され疎外された人たちを木精的にイメージしたものであろう。(中略)ただし鏡花は、けっして「応」的な貧民の狼藉をただ恐れたわけではない。むしろ情念の深いところでは強烈な共感があり、だからこそみずから怖れざるをえなかった。」
「しかし、(中略)作中に使われたわらべ唄それ自体は少しも兇々しいものではなかった。「応」が姿を消す合図が「お月様(つきさま)幾(いく)つ」という無邪気な唄だったというあたりには、一種のおかし味さえある。その点から考えてみれば、この「応」の狼藉は十五夜の祭りにおける子供たちの行動を極端化したイメージだったと推定できる。というのは、その夜、それぞれの家で月にお供えした物は、子供たちが勝手に盗ることを許されているからである。」
「『草迷宮』の青年のモチーフは、『化鳥』に描かれたような母と子との濃密な共生感を回復することであった。そして、私がこの『化鳥』に注目するもう一つの理由は、その主人公の子供自身がある意味で木精だったことである。この子供と母親は、郊外の橋の袂の時雨榎(しぐれえのき)と呼ばれる榎の下の小屋に住んで、橋を渡る人から橋銭を取って暮らしている。そのこと自体が、すでに木精的な状況だった。というのは、その橋の、二人の小屋がある側は、日傭取りや大道芸人など、その日暮らしの貧民たちが住む「場末(ばすえ)の穢(きたな)い町(まち)」であって、だから橋の向う側の人々からみるならば、あまり足を踏み入れたくない区域の目印である榎に棲みついた母子だったからである。だが、それだけではない。
 この子供は雀や犬などの動物と交感できる感受性を持ち、「犬(いぬ)も猫(ねこ)も人間(にんげん)もおんなじだ」と信じているため、学校の先生が人間と動物の区別を教えることに、ことごとく反撥してしまう。人間中心の差別意識を受け容れることができないのである。一見これは幼児の未熟な心性のあらわれでしかないようにみえる。しかし、実際はむしろその反対で、「人(ひと)に踏(ふ)まれたり、蹴(け)られたり、後足(あとあし)で砂(すな)をかけられたり、苛(いぢ)められて責(さいな)まれて、煮湯(にえゆ)を飲(の)ませられて、砂(すな)を浴(あび)せられて、鞭(むち)うたれて、朝(あさ)から晩(ばん)まで泣通(なきとほ)しで、咽喉(のど)がかれて、血(ち)を吐(は)いて、消(き)えてしまひさうになつてゐる処(ところ)を、人(ひと)に高見(たかみ)で見物(けんぶつ)されて、おもしろがられて、笑(わら)はれて、慰(なぐさみ)にされて、嬉(うれ)しがられて、眼(め)が血走(ちばし)つて、髪(かみ)が動(うご)いて、唇(くちびる)が破(やぶ)れた処(ところ)で、口惜(くや)しい、口惜(くや)しい、口惜(くや)しい、口惜(くや)しい、畜生(ちくしやう)め、獣(けだもの)めと始終(しじう)さう思(おも)つて、五年(ねん)も八年(ねん)も経(た)たなければ、真個(ほんたう)に分(わか)ることではない」という、このすさまじい怨念を通して摑んだ人間の正体を教えられていたためであった。この粘っこく執拗な呪詛の言葉は、母親が語って聞かせた時の口調そのままであったはずで、むろんそれはかれら母子が橋の向う側から追われて来た事情にふれた言葉でなければならない。しかも、それと同時にこの言葉は、例えば「あゝ、奥様(おくさま)、私(わたくし)は獣(けだもの)になりたうございます。あいつら(見物人たち)、皆(みな)畜生(ちくしやう)で、この猿(さる)めが夥間(なかま)でござりませう」と訴えた猿廻しの爺さんのように、橋のこちら側に追い込まれてしまった人の誰れもが抱いている想いでもあった。いわば「応(おう)」と響き合う相手を持った情念の唸きだったわけである。
 この少年にももちろんそういう怨念が潜在意識的に取り憑いていたわけで、だからこの少年における鳥獣との感応は、橋の向う側のまともな(つもりの)人間どもから徹底的に疎外され痛めつけられた者の感性に裏打ちされていたのであった。
 このような例でも分かるように、鏡花の作品における木精棲む老木は、まともぶった人間から何らかの形で異界と見られている区域の、その境界に立っていた。」
「『龍潭譚』は、(中略)『高野聖』の原型という点でも注目すべき作品であるが、いわば橋の向う側に属する少年の体験という構成を取っていた。その主人公の少年は、「危(あぶ)ないぞ〱」という大人の制止を無視して、一人で丘へ遊びにゆく。(中略)ふと気がつくとこれまで来たこともない道へ踏み込んでいた。家への帰り道が分からず、途方にくれていたところ、「もういゝよ、もういゝよ」というわらべ唄めいた声が聞えてきた。「こはいとけなき我(わ)がなかまの隠(かく)れ遊(あそ)びといふものするあひ図(づ)なることを認(みと)め」て、ほっとして近づいてゆくと、知らぬ子供たちであった。「児(こ)どもが親達(おやたち)の家(いへ)富(と)みたるも好(よ)き衣(きぬ)着(き)たるはあらず、大抵(たいてい)跣足(はだし)なり。三味線(さみせん)弾(ひ)きて折(おり)々わが門(かど)に来(き)たるもの、溝川(みぞかは)に鰌(どじやう)を捕(とら)ふるもの、附木(つけぎ)、草履(ぞうり)など鬻(ひさ)ぎに来(く)るものだちは、皆(みな)この児(こ)どもが母(はゝ)なり、父(ちゝ)なり、祖母(そぼ)などなり。さるものとはともに遊(あそ)ぶな、とわが友(とも)は常(つね)に戒(いまし)めつ」。
 つまりわらべ唄の木霊に誘われて、大人たちの設けた境界を越えてしまったわけだが、この少年はそんなことにこだわらず一緒に遊ぶ。だが、かくれんぼ遊びの鬼となって、あちこちと捜すのだが、もう子供たちは誰れも何処にもいない。姿を消してしまったのである。「かすかに、『もう可(い)いよ、もう可(い)いよ』と呼(よ)ぶ声(こゑ)、谺(こだま)に響(ひゞ)けり。眼(め)をあくればあたり静(しづ)まり返(かへ)りて、たそがれの色(いろ)また一際(ひときわ)襲(おそ)ひ来(きた)れり。大(おほい)なる樹(き)のすく〱とならべるが朦朧(もうろう)としてうすぐらきなかに隠(かく)れむとす」。そうしてかれは、木精めいた美しい女から声をかけられ、稲荷の社(やしろ)の裏へ連れてゆかれ、そこにまた置き去りにされてしまった。
 かくれんぼ遊びをしているうちに、本当に神隠しに合ってしまう。これは全国どこにでもみられる怪異譚であるが、鏡花における神隠しはわらべ唄に誘われて世間の境界を越えてしまうことに始まり、一たん越えてしまえば、その子供自身も変わってしまうのである。「涙(なみだ)ぐみて彳(たゝず)む時(とき)、ふと見(み)る銀杏(いてふ)の木(き)のくらき夜(よる)の空(そら)に、大(おほい)なる円(まる)き影(かげ)して茂(しげ)れる下(した)に、女(をんな)の後姿(うしろすがた)ありてわが眼(まなこ)を遮(さへぎ)りたり」。たしかにそれは自分を探しに来た姉の姿だと思うのだが、あるいは自分を置き去りにした怪しい女かもしれない、と考えて怖しくて声をかけることもできない。そしてこちらを振り返った、その本当の姉のほうも、自分の顔を見るや「あれ!」と叫んで逃げ去ってしまう。自分までが木精化してしまったのであろう。
 結局かれは家へ帰ることができたのだが、叔父からは「つまゝれめ、何処をほツつく」と叱られ、これまでの友達からも「狐(きつね)つき」呼ばわりされて疎外される。この場合の「つまむ」とは、「魅(つま)む」のことであろう。つまり鏡花におけるわらべ唄は、その生業によって蔑視されてしまった人たちの声、またはそれに魅入られてしまった人の唄であり、その意味では『義血侠血』や『辰巳巷談』などの伝奇小説も、魔(エテ)に魅(つま)まれた青年の物語だったわけである。
 当時かれは、そのような人たちが「応」と喚び合って一斉に蜂起する幻想を抱いていたらしい。」
「だが、やがてその幻想は消え、木精的イメージの女は『三尺角』のお柳のように東京で衰え果てるか、もしそうでないならば、『高野聖』の女のように人跡稀な深山に追われ(樹木の世界に帰され)る。わらべ唄に惹かれる子供は声を失い、つまり窮民一揆的な叛秩序を祝祭する感性を消失し、畸型児化されてその女に庇護される位置しか与えられなくなってしまうのである。見方を変えるならば、それは鏡花自身が、『蛇くひ』のような幻想が同時代の読者に木霊的な反響をもたらすだろう確信を失って、その幻想性を自分一個の特異な感性として再把握せざるをえなかったということにほかならない。」





こちらもご参照ください:

「国文学 解釈と教材の研究」 特集: 泉鏡花 魔界の精神史
『新潮日本文学アルバム 22 泉鏡花』 編集・評伝: 野口武彦
谷沢永一/渡辺一考 編 『鏡花論集成』
村松定孝 『あぢさゐ供養頌 ― わが泉鏡花』
泉名月 『羽つき・手がら・鼓の緒』
種村季弘 『晴浴雨浴日記・辰口温泉篇 ― 泉鏡花「海の鳴る時」の宿』












































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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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