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寺田透 『泉鏡花』

「筆者にはこの作品は隅々まで頽廃を宿しているように感ぜられる。冷く磨かれた頽廃と言った趣きで、頽廃でありながら崩れることがなく、落ちこんで行く不安さもない存在様態。」
(寺田透 『泉鏡花』 「伝奇三」 より)


寺田透 
『泉鏡花』
 


筑摩書房 
1991年11月25日 初版第1刷発行
224p 目次2p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,700円(本体3,592円)



鏡花論集。『鏡花小説・戯曲選』(岩波書店)の解説として書かれた文章が中心になっています。
「泉鏡花奥書き」は新字・旧かな(本文は新字・新かな)。


寺田透 泉鏡花


帯文:

「言葉の幻術。怪奇譚好み。ロマン主義。歌舞伎美学。友禅的色彩。新派のドル箱。反時代的骨法。しかし争われぬ時代性。
こういうことすべての根柢は何か。根無し草ではなかった鏡花の、帰属していた風土はどこなのか。」



帯背:

「怪異/伝奇」


帯裏:

「鏡花の、非現実的時間を作出す力は凄いものです。この世ならぬ世界に読者を拉し去るという段ではない。現実の時間が停止し、その暗黒の中に濃密な別種の時間が湧き出し、読者はいつの間にかその中に牽き込まれていることに気づくのです。――稀有の才能という他ありません。」


目次:

怪異一 龍潭譚・淸心庵・第二菎蒻本・高野聖・註文帳・女仙前記・きぬ〲川 (1981年6月)
怪異二 春晝・春晝後刻・陽炎座・炎さばき・草迷宮・沼夫人・朱日記・眉かくしの靈・第二菎蒻本 (1981年7月)
伝奇一 冠彌左衞門・亂菊・黑百合・再び龍潭譚 (1981年9月)
伝奇二 風流線・續風流線 (1981年10月)

鏡花から選ぶ (「文藝」 1981年12月)

戯曲 愛火・戀女房・夜叉ヶ池・海神別莊つけたり小説、錦帶記・飛劍幻なり・伯爵の釵 (1982年1月)
伝奇三 芍藥の歌・藥草取 (1982年2月)
伝奇四 榲桲に目鼻のつく話・貝の穴に河童の居る事・伯爵の釵・山海評判記・由縁の女 (1982年3月)

対話・鏡花と泡鳴、その前に小林秀雄 (「文學」 1983年6月)

『鏡花全集』再刊ときいて (1973年)
『鏡花小説・戯曲選』 (1981年)

泉鏡花奥書き




◆本書より◆


「怪異一」より:

「これに対して『高野聖』の二十三回に次のようにあるのは、この制作における鏡花の目の届く先が、風俗よりもっと遠いところにあったことを端的に示す。結末の「ちら〱と雪の降るなかを次第に高く坂道を上(のぼ)る聖の姿、恰も雲に駕して行くやう」だったという一句とともに。
 「むさゝびか知らぬがきツ〱といつて屋の棟へ、軈(やが)て凡(およ)そ小山ほどあらうと気取られるのが胸を圧(お)すほどに近(ちかづ)いて来て、牛が鳴いた、遠くの彼方(かなた)からひた〱と小刻(こきざみ)に駈けて来るのは、二本足に草鞋(わらぢ)を穿(は)いた獣(けもの)と思はれた、いやさま〲にむら〱と家(うち)のぐるりを取巻いたやうで、二十三十のものの鼻息、羽音、中には囁(さゝや)いて居るのがある。恰も何よ、それ畜生道の地獄の絵を、月夜に映したやうな怪しの姿が板戸一重、魑魅魍魎(ちみまうりやう)といふのであらうか、ざわ〱と木(こ)の葉が戦(そよ)ぐ気色だつた。
 息を凝すと、納戸で、
 (うむ、)といつて長く呼吸(いき)を引いて一声(ひとこゑ)、魘(うなさ)れたのは婦人(をんな)ぢや。」
 そうしてこのあと、この一軒家のあるじと言っていいか、女房と言っていいか、女が言う、「(今夜はお客様があるよ。)」は、すでに村松氏も全集の解題で言っている通り、九ツ谺の谷の女が男の子の抱き寐に夜の床で言った言葉の繰返しである。
 鏡花の空想には、このように同じ主題が繰返し用いられるねちっこさ、一貫性があり、これはもう非関東的なものというほかない。
 そういうものを例の十八番と冷笑するより、そこに宿業のようなものを感じて、物悲しくさえなるというのが僕の感じ方である。
 同じことは今その女の亭主となっている、医療のあやまちから、智能の発達がとまり、満足に口もきけない、わがからだを持ち扱っている男のような存在についても見られ、そういう存在が鏡花にとって運命的な素材だったらしいことが、これもすでにその名を挙げた『幻の繪馬』の物置きに住む異様な男に出会うと推察される。
 鏡花には、勇ましい青年士官に対する憧れと表裏をなすこのような存在が、自分でも普段は気づかぬ自分自身の本当の姿かも知れぬと疑われる瞬間があったのではないか、と僕には想像される。
 被差別民を作中にときどき取上げ、それに古い、あるいはあり来りの権威や秩序に対する反抗を托した鏡花の自意識の構造をそういうところに見ていいのではなかろうか。」

「世外のものからする通常社会への復讐が、この『註文帳』という作品の真の意味である。」



「怪異二」より:

「しかしこの物語の舞台でもあれば、作者の転地療養先だった湘南逗子の生活は、その自筆略伝によると次のようだった。
 「明治三十九年二月、祖母を喪ふ。年八十七。七月、ます〱健康を害ひ、静養のため、逗子、田越に借家。一夏の假すまひ、やがて四年越の長きに亘れり。殆ど、粥と、じやが薯を食するのみ。十一月、「春晝」新小説に出づ。うたゝねに恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき。雨は屋を漏り、梟軒に鳴き、風は欅の枝を折りて、楝(あふち)の杮葺(こけらふき)を貫き、破衾(やれぶすま)の天井を刺さむとす。蘆の穂は霜寒き枕に散り、さゝ蟹は、むれつゝ畳を走りぬ。「春晝後刻」を草せり。蝶か、夢か、殆ど恍惚の間にあり。李長吉は、其の頃嗜みよみたるもの。」
 この記述を信ずれば、『春晝』正続篇に行きわたる靉靆たる春光は属目のものではなく、想像裡に作り出されたものである。というのはこの年、七月以降の逗子しか鏡花は見ていなかった筈なのに、作品の季は春に属するからである。四年前の転地療養でも、逗子滞在は盛夏初秋の候のことであった。生活そのものも窮乏をきわめた茅屋暮しと形容するにふさわしいもののようにここには書かれており、その中でこれら二篇が作られたことを考えると、鏡花の現実に対する精神の強靭をいやでも思わせられる。
 右の自筆略歴に引かれた古今和歌六帖所掲の小野小町の歌は読者もすでに見た通り『春晝』そのものの主題旋律だが、その歌に語られている心的機能と心象への信頼、希求がこの時期の作者の生活と精神を支えていたと想像すべきである。」
「作者もまたその夢を信じ、現実生活よりもっと強力なものとなったその夢によって、一面の黄の菜の花が畑土をかくすように現実の生活の貧しさみじめさが覆われ、その上に輝やかしい別現実の織り成されることを願ったに違いない。
 あえて言えばそれがこの藝術家小説と言うべき作品の思想的意味の一つである。」

「瞬時という名の最短時間のあいだに、何が出現し消滅するか、もし全人類が同時に瞬いて目をつぶったら、そのとき世界に何が現れ、何をするか知れたものではないだろう。
 古屋敷の壁や唐紙の雨漏りのあとと見えるものも、何か生命あるものがそこにいるしるしであって、ひとが目をつぶった瞬間そこから出て来て、動き、また引っこむものがあるかも知れないのだ。
 幻覚が実在の知覚の一種でないとどうして言えるか。
 誰も存否について教えてくれないものは、実は存在すると考えるべきではないのか。
 自分のこうして考えているとき、どうして、自分の心の眼に見えているものが、手には触れなくても、非在だときめられるか。
 こういう自問自答の果てに待伏せる息づまるような恐怖と愉楽の恍惚の中で、鏡花は落想の花を咲かせた、のではなかろうか。」

「さて『朱日記』(中略)。――この怪異談は尋常である。そればかりか、どこか北陸らしい地方都市の小学校の職員室の叙述には啄木を思い出させるある懐しささえあると言えよう。
 不思議なのは火事を豫言して九歳の(中略)浪吉少年に火難除けの茱萸の実をくれた若い女が言ってきかせた言葉である。
 「(先生のお言(ことば)に嘘はありません。けれども私の言ふ事は真個(ほんとう)です……今度の火事も私の気で何(ど)うにも成る。――私があるものに身を任せれば、火は燃えません。其のものが、思(おもひ)の叶はない仇に、(中略)沢山の家も、人も、なくなるやうに面当てにしますんだから。(下略)
 女の操と云ふものは(下略)
 人にも家にも代へられない、と浪ちやん忘れないでおいでなさい。」
 操を守るという古めかしい言い方で、ここの鏡花は、反公衆道徳の赤旗を掲げたと言えるだろう。」



「鏡花から選ぶ」より:

「名作『春晝』(中略)を解説した中で、結局海にはまって死ぬ片恋の男が、死の思いにとりつかれるきっかけとなった、逗子の谷戸のやぐらを楽屋に借りたような宵闇の村芝居の舞台の上に思わずも見出したかれ自身のドッペルゲンガーは、ゲルマン系の幻想小説のどこかに縁の糸をたどって行けそうな気もするが、より確かな、いやもっとも確かなところでは、和泉式部が貴船に詣でて詠み、明神がそれに返しをつけたという、「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」が直接の推力だったと見るのが真を得ていよう。
 その推進がなければ、かたがた漱石の『草枕』の匂いもするあの作品は生れなかったのではないか。
 『春晝』の続篇『春晝後刻』(中略)に書きこまれている和歌「君とまたみるめおひせばよもの海の底の限りはかづきみてまし」も他でもなく和泉式部の作であり、ひとを思う魂がわが身から脱け出て、わが目に見えるものになり、それが自分の運命をきめて行くという思想(引用者注:「思想」に傍点)は、『春晝』正篇の物語中物語の主人公のそれであるとともに式部のものだからである。
 そしてここでは、捨て身の、すなわち死を賭けた恋するひととの巡合いに生の意味を見出す思想(引用者注:「思想」に傍点)が歌われている。」

「鏡花はその小説を書くために、新しく材料をしいれようなどとは恐らく一度もしなかったのではなかろうか。足で書くとか調べた小説とかは縁のない作家だったということで、記憶の底から甦って来る、深く自我に根づき培われたものだけがかれの素材たりえたのだ。」



「伝奇四」より:

「鏡花というひとは、これだけ解説を重ねて来るとよく分るが、元来全人格的成熟などからは縁遠いひとで、かれに老熟の訪れたところなど想像するだにお門違いという他なく、終始幼稚さを方々にのぞかせつづけた作家だと言わねばならない。(中略)最大の長篇『風流線』の結末を童話的としか言いようのない情景でつけたのも、その一つの現れである。」




こちらもご参照ください:

村松定孝 『あぢさゐ供養頌 ― わが泉鏡花』
鷲巣繁男 『クロノスの深み』























































































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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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