FC2ブログ

井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (岩波文庫)

「もはやコスモスは、人間がそこに安らぎを見出す安全圏ではない。がっしりと確立された存在の秩序構造が、かえって人間を抑圧する統制機構、権力装置、と感じられるようになってくるのだ。コスモス、出口なき秩序空間、自己閉鎖的記号組織。人は、当然、それに反抗し反逆する。その反逆の力がアンチコスモスである。」
(井筒俊彦 「コスモスとアンチコスモス」 より)


井筒俊彦 
『コスモスとアンチコスモス
― 東洋哲学のために』
 
岩波文庫 青/33-185-5


岩波書店
2019年5月16日 第1刷発行
501p 索引4p 編集付記1p
文庫判 並装 カバー
定価1260円+税



本書「編集付記」より:

「本書は、二〇〇五年六月、岩波書店刊『コスモスとアンチコスモス』第二刷(初版一九八九年七月)を底本とした。」
「本文末に、司馬遼太郎との対談「二十世紀末の闇と光」を付した。」
「適宜、漢字語に振り仮名を付した。」
「本文に〔 〕で注記を付した。」



本書「後記」より:

「もともと、古代ギリシアの原初的神話形象として成立した時点での「カオス」は(中略)そこから「コスモス」と呼ばれる美しい世界秩序が生れ出てくる存在の無定形的・無限定的混沌状態として構想されていた。だが今では、「カオス」はすっかりその面貌を変えた。もはや「カオス」は、原初の受動性にとどまってはいない。むしろ、「アンチコスモス」とこそ呼ばれるにふさわしい劇烈な破壊性の顔を我々に向けている。
 事はたんに実践的生の諸分野だけの問題ではない。宗教的・哲学的思惟の、内的集定を中核とする領域でも、少なくともその前衛的な周辺地帯では、いわゆるポストモダンの思想家たちが、西欧的哲学ロゴスの数世紀にわたる構築物に対して、徹底的な脱中心主義的解体工作による一挙破壊を企てている。ここで脱中心主義とは、要するに、西欧の伝統的な諸哲学体系からそのロゴス的中心軸を引き抜くことによって、それらの観念的「コスモス」組織を、全体的に「カオス」化してしまおうとすることだ。(中略)人がそれを好むと好まざるとにかかわりなく、事実上、「カオス」は明らかに、「アンチコスモス」の名にふさわしい巨大な攻撃的エネルギーとして、今日の我々の思想動向を、暴力的(引用者注:「暴力的」に傍点)に揺り動かしている。」



ヨドバシドットコムに不織布CDケースを買いに行ったら本書の予約を受け付けていたので注文しておいたのが届いたのでよんでみました。不織布は手触りがよいのでなでなでしていると心が落ち着くであります。それはともかく、このところ本がよめなくなっているのですが井筒さんの本は内容的にしっくりくるのでさくさくっとよめました。その後、四月に出ていたグルニエの『孤島』(ちくま学芸文庫)と二月に出ていた岡谷公二『沖縄の聖地 御嶽』もよんでみました。この三冊に共通してうかがえる傾向はまさに「アンチコスモス」(澁澤龍彦ふうにいえば「反ユートピア」)でありまして、今日では「孤島」化(引きこもり)あるいは「モナド」化、そして「御嶽」化(無為)こそがコスモス(=人間社会)に対する最も有効な闘いの形式であり、それ故にこそ人間社会はあれほど引きこもりと無為を敵視するのではなかろうか(そしてLGBTは支援するのにA(アセクシュアル)を排斥するのもまたしかり)。挫けてはならないです。言い忘れましたが二年前に出ていた諸星大二郎『暗黒神話 完全版』もよんでみましたがこれこそまさにアンチコスミックウォーフェアー。今後の読書計画としてはライプニッツのモナド論(新訳)とペソア短編集を予定していますが、どうなることやらです。


井筒俊彦 コスモスとアンチコスモス


帯文:

「東洋思想の諸伝統、多様なる哲学間に共通する根源的思惟の元型を探求して、東洋哲学の新たな領域と可能性を立ち上げる。イスラーム、禅仏教、老荘思想、華厳経を時間論、存在論、意識論の視点から読み解く。『意識と本質』『意味の深みへ』に続く井筒哲学の集大成。巻末に司馬遼太郎との生前最後の対談を併載。」


目次 (初出):

Ⅰ 事事無礙・理理無礙――存在解体のあと (「思想」 1985年7・9号)
Ⅱ 創造不断――東洋的時間意識の元型 (「思想」 1986年3・4号)
Ⅲ コスモスとアンチコスモス――東洋哲学の立場から (「思想」 1987年3号)
Ⅳ イスマイル派「暗殺団」――アラムート城砦のミュトスと思想 (「思想」 1986年7・8号)
Ⅴ 禅的意識のフィールド構造 (「思想」 1988年8号)
後記

対談 二十世紀末の闇と光 (井筒俊彦/司馬遼太郎) (「中央公論」 1993年1月号)

解説 (河合俊雄)

人名索引



◆本書より◆


「事事無礙・理理無礙」より:

「この講演のテーマとして私が選びました「事事無礙」は、華厳的存在論の極致、壮麗な華厳哲学の全体系がここに窮まるといわれる重要な概念であります。しかし「事事無礙」という考え自体、すなわち経験的世界のありとあらゆる事物、事象が互いに滲透(しんとう)し合い、相即渾融(そうそくこんゆう)するという存在論的思想そのものは、華厳あるいは中国仏教だけに特有なものではなく、東西の別を越えて、世界の多くの哲学者たちの思想において中心的な役割を果してきた重要な、普遍的思想パラダイムであります。今日、後ほどお話しようと思っておりますイスラームの哲学者、イブヌ・ル・アラビーの存在一性論もその典型的な一例ですし、その他、中国古代の哲人、荘子の「渾沌」思想、後期ギリシア、新プラトン主義の始祖プロティノスの脱我的存在ヴィジョン、西洋近世のライプニッツのモナドロギーなど、東西哲学史に多くの顕著な例を見出すことができます。これらの哲学者たちの思想は、具体的には様々に異なる表現形態を取り、いろいろ違う名称によって伝えられてはおりますが、それらはいずれも、華厳的術語で申せば「事事無礙」と呼ばれるにふさわしい一つの共通な根源的思惟パラダイムに属するものであります。
 わけても、プロティノスが『エンネアデス』の一節で彼自身の神秘主義的体験の存在ヴィジョンを描くところなどに至っては、まさしく『華厳経』の存在風景の描写そのままであります。」
「この引用箇所で、プロティノスは、深い冥想によって拓かれた非日常的意識の地平に突如として現われてくる世にも不思議な(と常識的人間の目には映る)存在風景を描きだします。「あちら(引用者注:「あちら」に傍点)では……」と彼は語り始めます。「あちら」(ἐκεῖ)、ここからずっと遠いむこうの方――勿論、空間的にではなく、次元的に、日常的経験の世界から遥かに遠い彼方、つまり、冥想意識の深みに開示される存在の非日常的秩序、ということです。「あちらでは、すべてが透明で、暗い翳(かげ)りはどこにもなく、遮(さえぎ)るものは何一つない。あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ。光が光を貫流する。ひとつ一つのものが、どれも己れの内部に一切のものを包蔵しており、同時に一切のものを、他者のひとつ一つの中に見る。だから、至るところに一切があり、一切が一切であり、ひとつ一つのものが、即、一切なのであって、燦然(さんぜん)たるその光輝は際涯(さいがい)を知らぬ。ここでは、小・即・大である故に、すべてのものが巨大だ。太陽がそのまますべての星々であり、ひとつ一つの星、それぞれが太陽。ものは各〃自分の特異性によって判然と他から区別されておりながら(従って、それぞれが別の名をもっておりながら)、しかもすべてが互いに他のなかに映現している」。
 すべてのもの(引用者注:「もの」に傍点)が、「透明」となり「光」と化して、経験的世界における事物特有の相互障礙(しょうげ)性を失い、互いに他に滲透し、互いに他を映し合いながら、相入相即し渾融する。重々無尽に交錯する光に荘厳(しょうごん)されて、燦爛(さんらん)と現成(げんじょう)する世界。これこそ、まさに華厳の世界、海印三昧(かいいんざんまい)と呼ばれる禅定意識に現われる蓮華蔵世界海(れんげぞうせかいかい)そのものの光景ではないでしょうか。」

「今日の記号論の常識からすれば、「シニフィアン」に裏打ちされない「シニフィエ」などというものは、理論的にあり得ないわけですけれど、唯識の「種子」理論を意味論的に読み(引用者注:「読み」に傍点)なおすためには、それをいささか拡張解釈して、まだ「シニフィアン」を見出すに至っていない、潜在的、暗在的「シニフィエ」というようなものを措定して考えたほうがいい。要するに、まだ「名」によって固定されていない、凝固しかけの「意味」可能体が、「アラヤ識」のなかに、たくさん揺れ動いている、というわけです。」

「ですから、本節の冒頭で問題としました意識の「空」化とは、「離言」すなわちコトバを超え、意味の存在喚起エネルギーの支配から脱却することであります。いわゆる「言語道断」(コトバの道の断絶)の境に踏みこむことです。このことを華厳は、「世間施設の仮名字を捨離する」(日常世界において、人々が社会契約的に取りきめて立てた仮の名(引用者注:「名」に傍点)を捨て去ること)などと表現しております。(中略)そのような形で、コトバを超え、意味の支配を超脱する、それが意識「空」化ということなのであります。
 存在「空」化の前提条件である意識「空」化は、従って、唯識哲学のコンテクストで申しますと、「アラヤ識」の「空」化ということになります。意識の「アラヤ識」的深層レベルにおける意味形象(=存在形象)の生成機能をぴたっと停止させてしまうこと。まごうかたなき「アラヤ識」の「無」化、「空」化です。唯識哲学では、しかし、これを「アラヤ識」の「空」化とはせずに、「アラヤ識」を「無垢識(むくしき)」に転成させること、あるいは、「アラヤ識」のさらに奥底に「無垢識」と呼ばれる絶対的深層レベルを拓くこと、というふうに考えます。」

「「無」が(「無」であるが故に)かえって「有」。「空」が(「空」であるが故に)かえって「不空」。「空(シューニャ)」(śūnya)即「不空(ア・シューニャ)」(a-śūnya)という、常識的にはまことに奇妙な事態がここに起ってきます。この考え方の底には、「如来蔵」系の思想の影響があるのだと思いますが、とにかく、こういう考えが進展しますと、「空」(すなわち「無」)が「有」の極限的充実に転成し、ついには、ありとあらゆる存在者を可能態において内包する「蔵(くら)」(「胎」)、一切の存在論的可能性の貯蔵庫のごときものとして形象化されるに至ります。」

「常識的人間が認識するままのこの感覚的世界の本性を、イブヌ・ル・アラビーは存在の「夢」という言葉で、一挙にあばき出してしまう。普通の人間は、存在の実相を知らない、みんな存在の夢を見ているだけだ、というのです、夢――実体性の夢。同じことを彼はまた、「幻想(ハヤール)」(khayāl)という語でも表現します。日常的意識の見る存在世界全体を、一つの巨大な「幻想」と見做(みな)すのであります。」



「創造不断」より:

「時々刻々の新創造。この表現は、それ自体のうちに、時間論と存在論との二側面を合わせもっている。(中略)先ず、時々刻々(引用者注:「時々刻々」に傍点)とは、時の念々起滅を意味するということに注目する必要がある。すなわち、これは時間の直線的連続性の否定なのである。(中略)どこにも途切れのない恒常的連続体としての時間を否定して、途切れ途切れの、独立した(「前後際断」)時間単位、刹那(せつな)、の連鎖こそ時間の真相であると、この考え方は主張する。要するに、時間は、その真相において、ひとつ一つが前後から切り離されて独立した無数の瞬間の断続、つまり非連続の連続である、というのだ。」
「要するに、「時々刻々の新創造」とは、時々刻々の新しい世界現出(引用者注:「世界現出」に傍点)ということ。つまり、時(引用者注:「時」に傍点)の念々起滅とともに有(引用者注:「有」に傍点)の念々起滅が現成し、刻々に新しい存在世界が、いつも、新しく始まる、始まっては終り、終ってはまた新しく始まっていく、というのである。」



「コスモスとアンチコスモス」より:

「コスモスが有意味的存在秩序であるということは、一応次のように説明することができるであろう。人間は錯綜する意味連関の網を織り出し(「エクリチュール」)、それを自分の存在テクストとして、その中に生存の場を見出す。無数の意味単位(中略)が、一つの調和ある、完結した全体の中に配置され構造的に組み込まれることによって成立する存在秩序、それを「コスモス」と呼ぶのである。コスモスの圏外に取り残された、まだ意味づけされていない、まだ秩序づけられていない、存在の領域が「カオス」である。」

「だが時の経過とともに、カオスは、コスモスを外側から取り巻き、すきあらば侵入してこれを破壊しようとする敵意にみちた力としての性格を帯び始める。このような否定的・破壊的エネルギーに変貌したカオスを、私は特に「アンチコスモス」と呼ぶ。
 カオスがアンチコスモスに変貌するのに応じて、コスモスの側にも特徴が現われてくる。もはやコスモスは、人間がそこに安らぎを見出す安全圏ではない。がっしりと確立された存在の秩序構造が、かえって人間を抑圧する統制機構、権力装置、と感じられるようになってくるのだ。コスモス、出口なき秩序空間、自己閉鎖的記号組織。人は、当然、それに反抗し反逆する。その反逆の力がアンチコスモスである。
 古代ギリシアでは、プラトンがコスモスのロゴス的根拠づけを企てていたその同じアテナイの都で、悲劇詩人たちが、ディオニュソス的アンチコスモスのエクスタティックな情熱とその狂乱とを、凄(すさ)まじい形で演劇化していた。しかもギリシア悲劇は、このアンチコスモスとしてのカオスを、外部からコスモスを襲う無秩序、不条理性としてではなく、コスモスそのものの構造の中に組み込まれている内発的自己破壊のエネルギーとして描いたのであった。ここにギリシア悲劇の濃密な思想性がある。
 ここまで発展したコスモス・カオスの対立関係は、その後、長く西洋思想の史的展開を支配して今日に至る。わけても、ギリシア悲劇の神、ディオニュソスの精神を体現するニーチェ以来、西洋思想のアンチコスモス的傾向は急速に勢力を増し、実存主義を経て、現在のポスト・モダン哲学に達する。ジャック・デリダの「解体」哲学、ドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」理論に代表される現代ヨーロッパの前衛的思想フロントは、明らかにアンチコスモス的である。」

「東洋哲学の主流は、伝統的にアンチコスモスの立場を取って来た。「空」あるいは「無」を存在空間の原点に据えることによって、存在の秩序構造を根底から揺るがそうと、それはする。この東洋哲学的存在解体は、その第一段階で、我々の経験世界(いわゆる「現実」)の非現実性、仮象性を剔抉(てっけつ)し、それをしばしば「夢」「幻」という比喩で表現する。」

「しかし、この命題をめぐる東洋的思惟の決定的に重要な特徴は、存在解体の極限において現成した「無」を、さらに進んで、逆に「有」の根基あるいは始点として考えなおすところにある。(中略)「無」は「無」でありきることにおいて、かえって「有」の限りなき充実なのである。」
「ここでは、アンチコスモスは、存在の虚無化(「死」)を意味しない。存在「無」化は、存在世界を虚無の中に突き落してしまうことではなく、むしろ存在の全体を、主・客の区別をはじめとする一切の意味分節に先立つ未発の状態、すなわち絶対的未分節の根源性において捉えることにほかならない。様々に分節された現象的「多」の世界全体を、根源的未分化、無限定の「一」に引き戻すことである。この意味での「一」が、すなわち、意識と存在のゼロ・ポイントという体験的事態として現成する「無」なのである。
 このようにして現成した「無」は、次に逆転して意識(主体)となり存在(客体)となって「有」的に展開してゆく。「無」を起点として「有」の展開が始まり、「無」を中心軸とする新しい「有」の秩序(コスモス)が生起する。
 もともと、「無」(無分節者)の自己分節的仮現である故に、ここに生起する現象的「有」のシステムは、「有」でありながらしかも「無」であるという矛盾的性格をもつ。換言すれば、コスモスは存在秩序でありながら、しかもその秩序は始めから内的に解体されている。「無」と「有」とのこのパラドクシカルな共立の上に成立する「解体されたコスモス」(秩序の縛を解かれた存在秩序)という観念のうちに、我々はアンチコスモスのきわめて東洋的な表現形態を見る。」
「従来支配的だった人類文化の一元論的統合主義に代って、今や多民族・多文化共存のヴィジョンに基づく多元論的文化相対主義の重要性が強調され、多くの人々が、この線にそって、新しい時代の新しい文化パラダイムを模索し始めている。この課題をめぐって、東西の思想伝統の、より緊密な交流、生きたディアレクティーク、の必要性が、至るところで痛感されている。今日のこのような世界文化状況において、内的に解体された「柔軟なコスモス」の成立を考えることを可能にする東洋的「無」の哲学には、果すべき重要な役割がある。」

「存在秩序への反逆、存在の有意味的構造にたいする暴力的破壊への志向性。コスモスに対するこのような攻撃的、否定的エネルギーに変成したカオスを、私は特に「アンチコスモス」という名で呼びたいと思います。コスモスの崩壊をねらうアンチコスモス。なぜそんな特別の名称を使うのかと申しますと、こういう意味でのカオスが、人類の思想史において、善きにつけ悪しきにつけ、きわめて重要な働きをすることになるからであります。」

「有意味的存在秩序としてのコスモスは、いわば存在が人間に向ける親しげな顔です。先に私はコスモスについて、安全圏という言葉を使いました。(中略)すべてが、きちんと整理され秩序づけられている明るい空間。この空間の内部に、人はやすらぎを見出し、くつろぎを享受する。ここでは、その秩序構造を支えている規律、規範、掟(おきて)(中略)を守っているかぎり、人は安全です。今お話した儒教の、あの厳格に組織立てられたアンチ・カオス主義は、より一般的に、コスモスのこの安定性を侵害されまいとする人間の意志と希求のあらわれと考えていいでしょう。
 しかしながら、このような形で実現され護持されたコスモスが、果してどこまでも「幸福な空間」であり得るかどうか。人間は、元来、矛盾的存在です。反逆精神というものもある。(中略)しかも、それだけではありません。秩序構造としてのコスモスは、本性上、一つの閉じられた世界であり、自己閉鎖的記号体系としてのみコスモスであり得るのでありまして、秩序構造が完璧であればあるほど、それが、その中に生存する人間にとって、彼の思想と行動の自由を束縛し、個人としての主体性を抑圧する権力装置、暴力的な管理機構と感じられることにもなるのです。四方からびっしり塗り込められ、窓も出口もない密室のような統制システムの中に我慢してはいられない、というわけで。
 もともと、人間は合理的秩序を愛すると同時に、逆説的に無秩序、非合理性への抑えがたい衝動をもっている。自分を閉じ込める一切の枠づけを破壊し、それを乗り越えて、「彼方」へ逃走しようとする。たとえ「彼方」という未知の世界が、どれほど危険に満ちたものであろうとも。
 この意味では、エクスタシーは決してシャマニズムだけに特有な現象ではありません。エクスタシー、エクスタシス、自己の枠を超出すること、さらに日常的存在秩序そのものの枠を超出しようとする欲動。このように理解された脱自性は、人間誰でも実存の深みに秘めている情熱です。カオスへの情熱、ということもできるでしょう。さきほど私はカオスの恐怖について語りました。だが、カオスは恐ろしいだけではありません。底なし沼のような存在の深みに人を誘いこむカオスは、恐ろしいだけにかえって蠱惑(こわく)的でもあるのです。」
「つまり、アンチコスモスは、外部から(引用者注:「外部から」に傍点)コスモスに迫って来る非合理性、不条理性の力ではなくて、コスモス空間そのものの中に構造的に組み込まれている破壊力だった、ということです。すなわち、存在秩序それ自体が自己破壊的であり、自分自身を自分の内部から、内発的に破壊するというダイナミックな自己矛盾的性格をもつものであったのです。」

「考えてみれば、こういう形でのコスモスとアンチコスモスの相剋(そうこく)は、いつの時代、どの社会にも見られる普遍的現象でありまして、決して古代ギリシア文化史に特有の事態ではありません。コスモスの秩序体制がバランスをくずして、例えば警察国家とか、度を過ごした管理社会などに見られるように露骨な高圧的勢力となって働きだす場合は勿論ですが、そうでない普通の状態でも、ただそこに人為的制度(ノモス)によってがっしり固められた秩序構造があるということだけで、それを堪えがたい抑圧のシステムと感じる人々がいる。そういう人々にとって、コスモスは人間実存を統制し圧迫し、自由を剝奪(はくだつ)する暴力体系なのでありまして、それに反抗しようとする気持が、当然、起ってくるわけです。そして、こういう見方をもう一歩進めれば、アンチコスモスは、程度の差こそあれ、人間誰もが心の底に秘めている本然的衝迫であるという観察にまで一般化されることになるだろうと思います。」



「禅的意識のフィールド構造」より:

「「全宇宙はただ一つの心。存在するものは、ことごとく、ただ一つの識。全てはただ識のみであり、あらゆるものは一つの心である故にこそ、眼が様々な声を聞き取り、耳が様々な色を見分けることができるのだ。」」


対談「二十世紀末の闇と光」より:

「ところで、その先生というのがまたタタール世界で随一の学者だったんですが、実におもしろい人でね、諸国漫遊というか、一所不在なんです。(中略)ところがこの先生、まるでお金がないんです。イスラム世界は、ご存じのようにうまくできていまして、偉い学者になれば、どこへ行ってもある程度尊敬されて、少なくとも生きていけるんですね。その人はムーサー・ジャールッラーハという名前なんですが、ムーサー先生も日本に来ると日本のイスラム・コミュニティーがすごく尊敬しまして、食べさせてくれる。だけど、イスラーム・コミュニティー自身もお金があんまりないから、とっても貧相な生活なんですよ。
 第一日目、「代々木の家に来い」というから、行ってみたんです。「玄関からじゃなくて、庭から入ってくれ」といっていたので、庭へ回って入っていった。ところが家の中には人っこひとりいない。森閑として、ただ南向きの廊下にサンサンと陽が光っているのがばかに印象的だった。仕方がないから、誰もいない家の奥の方に向かって「サラーム(こんにちは)」といってみたら、意外に近いところからくぐもったような声で、「アハラン ワ サハラン(よく来た、よく来た)」というアラビア語が聞こえてきた。そうしたら、目の前の押入れがザーッと開いて、その上段から先生が這い出してきたんです。」
「「どうして押入れの中なんかに?」と聞いたら、世話してくれる人があって家を借りてくれた。だけど、自分はとてもそんな家賃を払えない。そうしたら大家さんが、「それじゃ、部屋を一間貸してあげる」と。ところが、部屋代も払えない。この大家さん、よほどの変わり者だったんですね。「気の毒だから、押入れの上段を貸してあげよう。上段は布団をしまっておくところなので、その中に寝ていればいい」と。だから、そこからモゾモゾと這い出してきたというわけです。」





こちらもご参照ください:

メアリ・ダグラス 『汚穢と禁忌』 塚本利明 訳
アッタール 『イスラーム神秘主義聖者列伝』 藤井守男 訳



不失者 「名前を つけないで ほしい 名前を
 つけて しまうと 全てで なくなって しまうから」
























































































関連記事
スポンサーサイト



プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本