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ジャン・グルニエ 『孤島』 井上究一郎 訳 (ちくま学芸文庫)

「全然思ってもいないときにふと目にする、海にただよう花々よ、きみたち、海藻、水死体、眠っているかもめ、船首でおしのけられるきみたち、ああ、それら私の至福の島々よ! 朝の偶然のおどろき、夕べの思いがけない希望、――きみたちに、まだときどき私は会うことができるだろうか? きみたちだけが、私を私から解放してくれる、そしてきみたちだけのなかに、私は自己を知ることができる。錫をつけない鏡よ、光りを出さない空よ、あてのない愛よ……。」
(ジャン・グルニエ 「至福の島々」 より)


ジャン・グルニエ 
『孤島』 
井上究一郎 訳
 
ちくま学芸文庫 ク-30-1


筑摩書房
2019年4月10日 第1刷発行
230p 付記1p 口絵(カラー)2葉
文庫判 並装 カバー
定価1,200円+税
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 仁木順平


「本書『孤島 改訳新版』は、一九九一年二月二十五日に筑摩書房より筑摩叢書として刊行された。文庫化にあたってはタイトルを『孤島』とし、本文中の誤りも適宜訂正した。」



Jean Grenier: "Les Îles"

巻頭に訳者(とその夫人)撮影のカラー写真図版4点。
文庫版が出ていたのに気づいたのでヨドバシドットコムで注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


グルニエ 孤島


帯文:

「虚無と至福の瞬間
フランスが生んだ哲学的エッセイの傑作」



目次:

序文 (アルベール・カミュ)

空白の魔力
猫のムールー
ケルゲレン諸島
至福の島々
イースター島
想像のインド
 土地でも時代でもない
 インドとギリシア
 天啓の光り
 現実化

追加(一九五九年版)
消え去った日々
ボッロメオ島

   *

日本語訳『孤島』のための付録
見れば一目で……CUM APPARUERIT ...――プロヴァンスへの開眼

   *

日本語訳『孤島』のための跋(ジャン・グルニエ)

訳注
訳者あとがき(一九六八年)
訳者後記抄録(一九七二年)
改訳新版(筑摩書房版)についての訳者のノート(一九九一年)

解説 (松浦寿輝)




◆本書より◆


「空白の魔力」より:

「何歳のころだったか? 六歳か七歳だったと思う。菩提樹のかげにねそべり、ほとんど雲一つない空をながめていた私は、その空がゆれて、それが空白のなかにのみこまれるのを目にした。それは、虚無についての、私の最初の印象だった。そしてそれは、ゆたかな生活、満ちたりた生活の印象につづいていただけに、一層つよかった。それ以来、私はなぜ一方が他方のあとにつづいておこるのかを、頭のなかで求めようとした。そして、自分の肉体と魂とで求めないで自分の知性で求めるすべての人たちに共通の、一種の勘違いから、私は哲学者たちが「悪の問題」と呼んでいるものがそれなのだ、と考えた。ところで、それは、もっと深刻で、もっと重大な事柄であった。私は、自分の前に、瓦解ではなくて、空隙をもったのだ。口をあいたその穴のなかに、すべてが、完全に何もかも、のみこまれてしまう危険があった。この日づけから、私にとって、物の現実性のはかなさにたいする反省がはじまった。「この日づけから」といってはいけないだろう、なぜなら、われわれの生活の諸事件は――いずれにしても内的な事件をさすのだが――そうした諸事件は、われわれ自身のなかのもっとも深いものが、日をかさねて順次に啓示されることでしかない、と私は思いこんでいるからだ。してみると、日づけの問題は大して重要ではない。私というのは、生きるべく運命づけられている人間というよりも、むしろなぜ生きているかを自分に問いかけるべく運命づけられている人間の一人だった。いずれにしても、いわば人生の余白に(引用者注:「余白に」に傍点)生きるべく運命づけられていた。
 事物のもつ幻影的な性格が、私のなかでますます確認されるにいたったのは、海が近くて、せっせと海にかよったことによる。いつも動いて、満ちひきをもっていた海。ブルターニュの海がそうであって、湾によっては、その海が、ほとんど目におさめられないほどのひろがりをもっている。なんという空白! 岩、泥、海水……。毎日、一切のものがうたがわれ、問いにかけられるから、何物も存在しない。私はよく真夜中に小船にのっている自分を想像した。目標は何もない。おき去りにされて、どうにもならないところへ、おき去りにされて、私には星もなかった。
 そうした夢想には、何一つ耐えがたいものはなかった。私はたのしくそんな夢想にふけった。」

「空白の魔力にさそわれて周遊に出る、ある物から他の物へ、いわば片足とびにとび移るということは、ふしぎではない。恐怖心と、魔力にひかれる気持とは、たがいにまじりあう、――人はのりだすと同時に身をひっこめる。その場にいつまでもとどまることは不可能だ。けれども、この無窮動がいつかはむくわれる日がやってくる。ある風景をだまってながめる、それだけで欲望をだまらせるに十分な日がくるのだ。空白が、ただちに充実におきかえられる。すぎ去った自分の人生を思いうかべるとき、私には、その人生がこうした神聖な瞬間に達するための努力でしかなかったように思われる。子供のとき、仰向けにねて、枝越しにあんなに長いあいだながめてすごしたあの澄んだ空、そしてある日、ふっと消え去るのを見たあの澄んだ空の、あの思い出によって、私は、こうした神的な瞬間に達するようにと決定づけられたのであろうか?」



「猫のムールー」より:

「猫は旅行を好まない、ただ自由を好む。猫はあちこちをさまよい歩いても、いつも自分がむすびついている地点にかえってくる。」


「ケルゲレン諸島」より:

「人々からかくれた生活のなかには、ある偉大なものが認められる。(中略)公に知られた生活は、かくれた生活のなかに身を没したいという望みしかそそらない(中略)。やがて彼らがあのくらい森(ダンテがあのように見事に語っている)のなかにはいりこみ、その森が彼らをのんで、ふたたび入口をとざし、彼らの足跡をさえかくしてしまうのが見られる。すすんで噴火口にのみこまれ、そのふちにサンダルしかのこさなかったというエンペドクレスの伝説は美しい象徴である。ヒンズー教徒たちは、年をとると森にひきこもり、瞑想のうちにそこで生涯を終らなくてはならない。
 月は決しておなじ面しかわれわれに見せることはないようだ。ある種の人間の生涯も、信じられるよりははるかに多くそのようなものだ。われわれは彼らの影の領域を推理によってしか知らない、しかもその領域だけが重要な意義をもっている。
 社会は、はたらくことを強制される個人――すなわちすべての人間――にたいして、非常に苛酷な要求をもっているので、彼らの唯一の希望は(革命のそれはもちろんべつとして)病気になることだ。(中略)それというのも、人類は日々の労務に疲れて、病気というあのみじめな避難所しか見出さないからである。病気になることによって、自分にのこっている魂の部分を救うのである。」



「至福の島々」より:

「私の目的は、時というものに依存しないのだ。」


「想像のインド」より:

「ある種の文明によって形成されたある種の精神は、われわれの現実の問題にはほとんど関心を示さないということがわかった。そういう人間にとって重要なのは、彼が生きている社会が彼の瞑想するのをさまたげないということなのだ。」

「乾いてかたいギリシア。(中略)都市と都市との、家と家との、人と人とのあらそいが、この国では人間の感情を世界中でもっとも明白にし、もっともとらえやすくしている。――一方インドでは、湿ってやわらかく、とらえどころがなく、処女林の魅惑を秘めている。われわれはまず、おなじようにひそやかで連続した、一つのメロディーに魅せられる。そのメロディーは、すべての人間を、おなじ愛撫のなかにつつみ、植物から人間への推移の段階を感じられなくし、普遍的な生命が、一刻一刻、各自の存在のなかに、鏡にうつるように反映するといった感じをおこさせる。」
「われわれの目に、インドは永遠の小児の姿をとる。」

「「われわれの芸術は」とムケルジーはいう、「本質的に象徴的である。われわれの芸術は、それを醜くするためになされた内省的な努力をあらわしている。したがって、あなたがたはインドのどこへ行っても、象徴によってゆがめられた美を見るだろう。なぜなら、美だけでは十分ではないからなのだ。美はあまりにもみすぼらしいごちそうなので、人間はそれだけでは生きて行けないのである。われわれは、美を見出すと、どこでも、その美をこわしてしまう、それに聖なるしるしの焼印を押して……。芸術の極致は、芸術を虚無に帰することである。」」
「なぜシヴァはいくつもの腕をもっているのか? それは、シヴァが人間をあらわさないで、神さえもあらわさないで(やむなく、多少人間の外観をとって、表現されているけれども)、生成を象徴しているからなのだ。それは、象徴の状態においてでなくては理解されないものなのである。なぜ呼吸の錬成をするのか? 絶対のふところにおのずから消滅するように魂を錬成するためである。しかじかの信仰個条を忠実に守ることが問題なのではない。」

「非人間的な国、インド。(中略)非人間的な国民、人間性のそとに(引用者注:「そとに」に傍点)ある国民。」

「われわれに、そして私に嫌悪の念をおこさせるもの、私がインド人に生まれたかもしれなかったと考えるとき、恐怖をおぼえずにはいられなくするもの、そうしたすべては、しかしつぎのように私が考えるとき、何か心をわきたたせるものがあるように思われる。すなわち、そうしたすべては、精神をそのもっとも親しい係累――(つまり拘束なのだが)――から解放し、理性のそとにとびださせるために必要な機械(引用者注:「機械」に傍点)なのだと。」

「もっとも非個人的な思考は、インドの神にとってすでに一つの発顕(引用者注:「発顕」に傍点)である。その神自身の内部には、もはやこれもなければあれもない。純粋で無限定である。」
「インド人はソクラテスをしのぐ。後者は道徳への配慮をもった。前者は西欧人が「夢」と呼ぶでもあろうものにしか関心をもたない。現世の事柄を思いきりよくすてて、前者は野心のことも、改革のことも、耳にするのを欲しない。バラモン、つまりインド人は、好んでこういうだろう、「政治の話は、一時間の辛抱にも値しない」と。インド人にとって、政治は低い職業でさえない、それはわるいひまつぶしである。なぜなら、人間をその唯一の目的からそらせる、――精神陶冶という唯一の目的から。」

「インド人は、自己の存在の拡張によってではなく、自己の存在の沈潜によってしか他のものに到達したいとはねがわないのである。そこから、インドのきわだった特徴が出てくる。インドは、征服されても、どんな影響からもつねにのがれてきたのであった。インドは一つの野心をもってきた、それもただ一つの野心を。世界から自己をしめだそうという野心である。夢にふけったインドは(西欧人にとっては、無分別であり、みのりのない夢であるが)、じっと動かずにとどまり、人間の生活を軽蔑する。インドにとって人間の生活は、風で吹きはらわれる一群の羽虫にほかならない。」

「だが、それはどんな顔をしているのか? それは私に何を告げるのか? 何物でも、誰でもない。それなら、きみだって、何物でも、誰でもない。いや、そうではなく、きみはそれだ。非永続性を通して永続し、不在のなかに存在し、空白のなかに満ちている。私は理解しようとすべきでなく、ただ触れさえすればいい。(中略)この世界は私に告げているのだ、私が目ざめているときこそ私が不在の唯一のときだと。人間のかるい動作、たとえば肩の上にこっくり首がうなだれる、するとたちまち、この世界は消えて、それのほうがあらわれる、つまりこの世界を支えているその世界が。それにしても、私はもっと直接にその世界に合一できないものか? 私が私のもっとも深いところにこっくり首をかたむけると、私は存在することをやめ、私はもう私ではない――他者でもない――私はそれなのだ。(中略)――私が眠る、すると私はそれに近づく。私が死ぬと、私はそれにとけこんでしまうことになる。それのなかに私はおちるのだ、石が井戸の底におちるように。
 あるインド人の言葉、「大切なのは、全世界を一周することではない、全世界の中心を一周することだ……。」――「人は見た夢の物語を書かない、人は夢からさめてしまう。」

「人間がすこしも尊敬されないこと。それが必要なのだ、そうではないか? 人間の最上のもち前は、自己からのがれることであってみれば……。」

「インドによってもたらされた知的革命をどう呼んだらいいのか? 非現実主義。まず第一に、人間性を失わなくてはならない、ついで、この世界からかけはなれなくてはならない。人間の生活からかけはなれているという点では動物の生活がある。不統一なものをもった世界、知性に抵抗する(引用者注:「抵抗する」に傍点)ものをもった世界、――つまり現実の枠組からまったくはずされた世界。だからといって、不統一に向かわなくてはならないという意味ではすこしもない。(中略)しかし一つの体系のなかで身動きがならなくなることのないように、その一体化を表示することをさけなくてはならない。むしろ、われわれが問題とするその霊的見地を、脱宇宙主義 acosmisme、または非現実主義と呼んだほうがいいだろう。」



「見れば一目で……」より:

「だが、私の本能が私を私の道におしすすめたとすれば、一方何か知らないあるものが、私を尋常の道にひきとめた。私の知性がかならず私に、これはこう、あれはこうというふうに考えさせ、法則通りに讃美したり軽蔑したりさせようとした。」
「ある耐えがたい圧力、私より以前に生きていたすべての人々の横暴な力が私を息づまらせていた。」
「「きみはきみ自身であれ」と、年上のある友人が私に書いてきた、(中略)また、「動物のように人生をたのしめ」ともいってきた。だが、事物と私の本能のあいだには、つねに遮蔽の幕がたれさがっていた。他人の意見が私をかたくこわばらせていた(中略)。地中海の各地のことで何か私の知った点があるとすれば、たしかにそこにはこんな破壊的な偏見は存在しないということなのである。プロヴァンスの農夫は、その全存在で感じ、考え、信じる。どんな理窟も、母なる大地にはぐくまれた彼の本能が暗示したものから彼をそらせることはないだろう。そのようにして、大自然と人間の精神とは、それぞれのすぐれた力をたゆむことなく交換しあうのである。そして、認識とは交霊にほかならないということが、やがて私の理解したように、真実であるとすれば、そのことこそ真に知るという行為なのである。」

「私を呼ぶこのおびただしい光りに応えるには、私のなかにはまだ影が多すぎる。生の力がしばしばおそろしいまでに私にせまって見えるのだ。しかし、この生のはじまりは、じつに美しい! 私の生は毎日新しくはじまる。」




こちらもご参照ください:

井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (岩波文庫)
『井上究一郎文集Ⅰ フランス文学篇』
岡谷公二 『島 ― 水平線に棲む幻たち』 (日本風景論)



Morrissey - Spent the Day in Bed (Official Video)





























































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うまれたときからひとでなし
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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分野: パタフィジック。

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好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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