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岡谷公二 『沖縄の聖地 御嶽』 (平凡社新書)

「堂のこのような変化のなさを、私は少しも単調とは思わない。人工のさかしらによって神の領域を損うまいという意志をそこに感じるからであり、その静寂の中に立っていると、榎の下葉のかすかな葉ずれの音にも神意を感じてしまうからである。」
(岡谷公二 『沖縄の聖地 御嶽』 より)


岡谷公二 
『沖縄の聖地 御嶽
― 神社の起源を問う』
 
平凡社新書 905 

平凡社
2019年2月15日 初版第1刷
206p
新書判 並装 カバー
定価800円+税
装幀: 菊地信義



本書「あとがき」より:

「森を神の来遊する場所として崇め、社殿その他人工の営みを忌み排する御嶽という沖縄の信仰と聖地に長い間関心を抱いてきた。しかしいまだに分からぬことが多い。とりわけその成り立ちは謎に包まれていると言っていい。この信仰は沖縄独自のものなのか? 外部からの影響を受けているのか? 受けているとしてその外部はどこなのか? いつごろ、どのようにして入ってきたのか? これらの問題を、さまざまな観点から考え、諸家の意見は尊重しつつも無批判には従わず、なんとか納得ゆく答えを出そうとつとめてきた。結果として、御嶽の信仰が古神道の面影を残しているという柳田・折口以来の定説に反することとなった。独断のそしりはまぬかれないとしても、早急の判断ではなく、長い時間をかけての答えだったことだけは認めていただきたい。」


神社シリーズ四冊目。モノクロ図版38点、地図4点。

社殿のある神社が父権制でありツリーでありアカデミズムでありコスモスであるとすると、何もない御嶽は母権制でありリゾームでありアウトサイダーアートでありカオス(アンチコスモス)であります。


岡谷公二 沖縄の聖地 御嶽 01


帯文:

「神の森の
系譜を
たずねて

原始の神社をもとめ、
約60年にも及ぶ長い旅路を経て
最後に行き着いたのは、
沖縄の御嶽だった。
聖なる森の分布に重なる
「貝の道」から見えてきた歴史とは。」



カバーそで文:

「古神道のありようを伝えるといわれる御嶽。
森そのものを神とする
信仰の背景には何があるのか。
長年、御嶽に取り憑かれた著者が、
秘された森の木々をかき分けて
たどり着いた先に見えたものを伝える。

社も鳥居もない、
聖性としての「何もなさ」への旅。」



目次:

第一章 御嶽とは
 御嶽のありよう
 土地との結びつき
 聖性としての「何もなさ」
 成立過程
第二章 御嶽遍歴
 1 波照間島の御嶽
 2 西表島の三離嶽(みちゃりおん)
 3 宮古の神々
 4 狩俣村
 5 赤崎御嶽から砂川(うるか)御嶽へ
 6 斎場(せーふぁー)御嶽
 7 死んだ御嶽、生きている御嶽
 8 国頭(くにがみ)で
 9 阿嘉島・座間味島
第三章 御嶽と神社
 御嶽の起源をめぐる定説
 柳田・折口説の矛盾
 社殿の謎
第四章 貝の道
 貝の道とは
 貝でつながれた文化圏
 神の森と御嶽の関係
 ヤボサと藪薩
 倭寇と琉球
第五章 済州島
 聖なる森の系譜
 済州島の堂をたずねて
 済州島・琉球・倭寇
 新礼里の堂
 堂の盛衰と変わらぬ魅力
 多島海の堂
 森だけの堂
第六章 新羅の森
 慶州の聖林を歩く
 寺院の陰に埋もれた聖林
 新羅と日本
 都祁に見られる新羅の痕跡
 遍在する新羅系神社
 慶州再訪
 神の木に導かれて

あとがき
参考文献



岡谷公二 沖縄の聖地 御嶽 02



◆本書より◆


「第一章 御嶽とは」より:

「私がはじめて沖縄へ旅したのは、沖縄がまだアメリカの軍政下にあった昭和三十六年(一九六一年)の夏である。そしてその時見た波照間島などの御嶽の魅力のとりことなり、以来毎年のように沖縄へ渡り、ひたすら御嶽だけを訪ねて歩いた。だから私は、性懲りもなく半世紀余にわたって御嶽めぐりをしてきたことになる。(中略)あまり人のゆかない小さな島々にも渡ってみた。どこにも御嶽はあり、そして驚いたことに、どこへいってもそのありように変わりはなかった。深く密生して茂る森、その中の社殿のない空間、自然石を二つ三つ積んであるだけの、或いはシャコ貝の大きな貝殻を置いてあるだけの祭壇……。」

「御嶽の森には神が訪れるものだという信仰は、多分沖縄のほとんどすべての人々の共有するものであったと思われる。それ故御嶽の木を伐ることにはきびしいタブーがあったのであり、ましてやその森を伐りひらいて社殿を設けるなどは、神意に反する、許し難い行為であったであろう。

 このような沖縄の人々の信仰上の意志の根強さは、明治以降、日本政府が御嶽を神社に改編しようとした圧力に遂に屈しなかったことにもよくあらわれている。」



「第三章 御嶽と神社」より:

「このように、国が神社に対し、社殿を設けさせようとした理由はなんだったのであろうか? いずれの詔にも理由が明記されていないため、推測するよりほかはないが、律令体制の完成をめざしていた時代であってみれば、全国の神社の管理を強化しようとする面が大きかったのはたしかである。」

「女性たちが神社から次第に遠ざけられたのも、この管理体制のためであった。「〔……〕巫女は、豊かなシャーマン性のために、体制から排除されるようになる。時には自然界の魔術性を体現するシャーマンは、秩序体制にとって負(マイナス)に作用しかねなかったからである」と倉塚曄子は言う(『古代の女』)。そしてこのような女性排除の動きは、古代国家成立にむけての大転換期であった七世紀中葉(皇極期)にはじまる、と付け加える。柳田国男が「巫女考」で説くような多数の歩き巫女がこうして発生する。」

「すでに述べたように、十二世紀以降、本土から入ってきた人々が、神道の信仰を沖縄に持ち込んだとするなら、それは古神道とは異なり、社殿のあるのを当然とする、今日の神社神道に近いものだったはずである。それが御嶽信仰のもととなったのであれば、なぜ今日に至るまで御嶽に社殿がないのであろうか?
 沖縄には、御嶽とは別に、(中略)多くの神社がある。これらは、いずれも近年の勧請で、鳥居、拝殿、本殿を持ち、本土の神社と少しも変わらない。
 私たちは、御嶽と神社の関係をもう一度考え直す時期に来ているのではあるまいか?
 私は、御嶽が神社と関係があるとしても、もう一つ、別に根があるのではないかという思いを捨て切れない。」



「第五章 済州島」より:

「なお天から神が下りてくる韓半島とは違って、済州島では、神は地中から現われる。島の創世神話がそうだ。『高麗史』には次のように記されている。漢拏山の麓の地から良乙那、高乙那、夫乙那という三神が湧出した。彼らは山野で鳥獣を追い、毛皮を着て暮らしていた。或る日東海(トンヘ)の浜に石の箱が流れ着き、中から青い服を着た三人の処女と仔馬、仔牛、五穀の種などが現われた。付き添っていた使者は、この三人の処女は日本国の王女であり、この島の三神が配偶者がなくて建国できない由を日本国王が知り、その命によって連れてきたと言うや、雲に乗って立ち去った。
 三神はこの三人の処女と結婚し、島を三つに分け、日本国王から与えられた五穀の種を蒔き、馬と牛を飼い、建国を果した。
 この三神が湧出したと伝える三つの穴が、三姓穴(サムソンピョル)と称して済州市の中心部にあり、観光名所になっていて、年に一度、三神の子孫が集まって祭をするという。この神話は、済州島と日本との関係を示していて、興味深い。」
「なお地中から湧出する神の神話は、沖縄にも見られる。」
「地中から神が湧出するという神話は、あきらかに南方系だ。ここでもまた済州島と沖縄は結びつく。」

「私は堂めぐりをはじめてからしばらくの間、堂が神社と御嶽に比べて掃除がゆき届かず、不潔だと感じ、それを信仰心の無さのせいだと思っていたが、一概にそうは言えないことが分かってきた。祭の日以外に、たとえ掃除のためであろうと堂に立ち入ってはならない、というタブー――これは御嶽も同様だ――があることを知ったからである。このタブーはとりわけ男性に対してきびしく、兎山里の蛇神を祀る堂のように、男性が中に入るだけでなく、見ることすら許されない堂もあるのだ。」
「また、供物に関して言えば、一旦神に捧げたものはみだりに持ち帰らないというタブーもあるらしかった。」

「堂は、数は多いけれども、そのありようはあまり変化はない。榎を中心とした小さな森、祭壇、或いは祭壇代わりの岩、石垣、ただそれだけでほかには何もない。なお祭壇には、祀られている神の数によって、穴があけられている。それは、地中の神に供物をとどけるためのものだ。」
「堂のこのような変化のなさを、私は少しも単調とは思わない。人工のさかしらによって神の領域を損うまいという意志をそこに感じるからであり、その静寂の中に立っていると、榎の下葉のかすかな葉ずれの音にも神意を感じてしまうからである。」



「第六章 新羅の森」より:

「私はここで、新羅と日本の関係について一言しておきたい。
 地図を見れば分かるように、新羅とやがて新羅に併合される伽耶の国々は、朝鮮半島の南東部を占め、地理的には日本に最も近い。そして百済や高句麗と比べ、きわめて古くから日本と交渉を持っている。(中略)史書から見る限り、百済と倭の関係は、新羅と倭の関係より五百年近くおくれているのである。」

「大和盆地から穴師川を溯って都祁に入る際に出会う穴師坐兵主(あなしにますひょうず)神社は、新羅の王子天日槍の末裔が祀った神社とされ、最初の村白木は言うまでもなく新羅であり、ここには天日槍の裔白木武蔵が天日槍の築いたシラキ城に拠ったという伝承がある。」
「香春山は有名な銅山であり、新羅の人々はこの銅をめあてに渡来してきたと考えられている。
 敦賀周辺にもあきらかに小新羅王国があった。
 その中心気比神宮の祭神は天日槍だとする説もある伊奢沙別(いささわけ)命で、周辺には新羅にかかわる神社や村が多い。」

「新羅神社の祭神は、素戔嗚尊とその子五十猛(いそたける)であることが多い。それは『日本書紀』に「〔……〕素戔嗚尊の所行無状(あづきな)し。故、諸の神、科するに千座置戸を以てし、遂に逐(やら)ふ。是の時に、素戔嗚尊、其の子五十猛を師(ひき)ゐて、新羅国に降到(あまくだ)りまして、曽尸茂梨(そしもり)の処に居(ま)します」と書かれているためである。ここでは、素戔嗚尊と五十猛神は、神々によって追放されたことになっているが、この二柱の神は、新羅の神と考えられたのである。なお曽尸茂梨は王都、即ち慶州をさす。
 素戔嗚尊を祭神とする神社をすべて新羅系とするわけにはゆかないけれども、その数は多い。新羅とかかわりの深い宇佐八幡、新羅=伽耶系渡来人と考えられる秦氏が創祀にかかわっている伏見稲荷――このように見てくると、新羅ゆかりの神社は実に多い。私は神社の成り立ちそのものに新羅が或る役割を果していると考える者である。
 以上のように、百済、高句麗よりはるかに昔から日本と接触し、その文化に深層に至るまでの影響を受けているにもかかわらず、新羅は、日本人にとって、百済に比べ、なじみの薄い、どこかよそよそしい国と受けとられている傾きがある。
 その理由の大方は、正史とされる『日本書紀』に現われた「新羅蕃国視」(大和岩雄)のためであったと思われる。」
「『日本書紀』は、朝廷の編纂した正史であり、しかも古代に関しては、『古事記』のほかは他に拠るべき資料がなく、日本人の史観に影響を与えてきた。しかしこの本が、新羅の部分だけでなく、多くの偏りのある本であることが分かってきた。私たちは日本と新羅の関係を、神社の問題を含め、もう一度考え直すべき時が来ていると思われる。」





こちらもご参照ください:

岡谷公二 『原始の神社をもとめて』 (平凡社新書)
井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (岩波文庫)
倉塚曄子 『古代の女』 (平凡社選書)






















































































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