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エドワード・W・サイード 『オリエンタリズム』 今沢紀子 訳 (平凡社ライブラリー) 全二冊

「人間社会というものは、(中略)「異」文化を扱うための手段として、ほとんど例外なく、帝国主義・人種差別主義・自民族中心主義のみを個々人に提供してきたという事実を思い起こすならば、」
(エドワード・W・サイード 『オリエンタリズム』 より)


エドワード・W・サイード 
『オリエンタリズム 上』 
板垣雄三・杉田英明 監修
今沢紀子 訳
 
平凡社ライブラリー 11


平凡社 
1993年6月30日 初版第1刷
2011年4月5日 初版第23刷
456p
B6変型判(16.0cm)
並装 カバー
定価1,553円(税別)
装幀: 中垣信夫
カバー図版: ドラクロワ〈アルジェの女たち〉(部分)
カバー・マーブル制作: 製本工房リーブル




サイード オリエンタリズム 01



エドワード・W・サイード 
『オリエンタリズム 下』 
板垣雄三・杉田英明 監修
今沢紀子 訳
 
平凡社ライブラリー 12/さ-2-2


平凡社 
1993年6月30日 初版第1刷
2012年11月15日 初版第21刷
474p
B6変型判(16.0cm)
並装 カバー
定価1,553円(税別)
装幀: 中垣信夫
カバー図版: デオダンク〈モロッコの賑やかな街角(マラケシュ)〉(部分)
カバー・マーブル制作: 製本工房リーブル


「本著作は一九八六年十月、平凡社より刊行されたものです。」



本書「凡例」より:

「本書は、Edward W. Said, *Orientalism* (Georges Borchardt Inc., New York, 1978) の全訳である。また本書には Samih Farsoun (ed.), *Arab Society, Continuity and Change* (London, Croom Helm, 1985) 所収のサイードの論文 Orientalism Reconsidered をも訳載した。」



サイード オリエンタリズム 02



上巻 カバー文:

「オリエントはヨーロッパの対話者ではなく、
そのもの言わぬ他者であった。」



下巻 カバー文:

「我々は異文化をいかにして表象することができるのか。
異文化とは何なのか。」



上巻 目次:

凡例
謝辞

序説
第一章 オリエンタリズムの領域
 一 東洋人を知る
 二 心象地理とその諸表象――オリエントのオリエント化
 三 プロジェクト
 四 危機
第二章 オリエンタリズムの構成と再構成
 一 再設定された境界線・再定義された問題・世俗化された宗教
 二 シルヴェストル・ド・サシとエルネスト・ルナン――合理主義的人類学と文献学実験室
 三 オリエント在住とオリエントに関する学識――語彙記述と想像力とが必要とするもの
 四 巡礼者と巡礼行――イギリス人とフランス人



下巻 目次:

第三章 今日のオリエンタリズム
 一 潜在的オリエンタリズムと顕在的オリエンタリズム
 二 様式、専門知識、ヴィジョン――オリエンタリズムの世俗性
 三 現代英仏オリエンタリズムの最盛期
 四 最新の局面

オリエンタリズム再考

『オリエンタリズム』と私たち (杉田英明)
平凡社ライブラリー版補論――『オリエンタリズム』の波紋 (杉田英明)
訳者あとがき (今沢紀子)
原注
索引




◆本書より◆


「序説」より:

「一九七五―七六年の激しい内戦のさなか、ベイルートを訪れたあるフランス人ジャーナリストは、その繁華街が廃墟と化してしまったのを見て、「かつてはここも、シャトーブリアンやネルヴァル描くところのオリエントさながらであったのに」と書き、その惨状を嘆き悲しんだ。たしかにヨーロッパ人の側からみるかぎり、彼がこの場所について語ったことは正しかった。オリエントとは、むしろヨーロッパ人の頭のなかでつくり出されたものであり、古来、ロマンスやエキゾチックな生きもの、纏綿(てんめん)たる心象や風景、珍しい体験談などの舞台であった。フランス人ジャーナリストの目の前でいま消滅しようとしていたのは、そうしたオリエントなのであった。(中略)おそらく彼にとっては、オリエントの人たちがそうした現実のなかでみずから身を賭して闘っているのだということも、またシャトーブリアンやネルヴァルの時代にだってオリエントにはオリエントの人たちが生活していたのだということも、さらにまた現に苦しんでいるのはほかならぬオリエントの人たちなのだということも、大した意味をもたぬことのように思われたのだろう。」

「オリエントは、ヨーロッパにただ隣接しているというだけではなく、ヨーロッパの植民地のなかでも一番に広大で豊かで古い植民地のあった土地であり、ヨーロッパの文明と言語の淵源であり、(中略)またヨーロッパ人の心のもっとも奥深いところから繰り返したち現われる他者イメージでもあった。」

「ごく大雑把に、オリエンタリズムの出発点を十八世紀末とするならば、オリエンタリズムとは、オリエントを扱うための――オリエントについて何かを述べたり、オリエントに関する見解を権威づけたり、オリエントを描写したり、教授したり、またそこに植民したり、統治したりするための――同業組合的制度とみなすことができる。簡単に言えば、オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式(スタイル)なのである。」
「私の見るところでは、オリエンタリズムがそれほどまで権威ある地位を獲得した結果、人は誰でも、オリエントについてものを書いたり考えたり行動したりするさいに、オリエンタリズムが思考と行動に加える制限を受け入れざるをえなかった。つまりオリエンタリズムのゆえに、何人も、オリエントをみずからの自由な思考と行動の対象とすることができなかったし、今もってなおできないでいるのである。(中略)オリエンタリズムとは、「オリエント」なる独特の存在が問題となる場合にはいつでも、不可避的にそこに照準が合わせられる(したがってまたつねにそれに組み込まれることとなる)関心の網の目(ネットワーク)の総体なのである。」

「オリエントはつくられた――あるいは私の言葉で言うと「オリエント化された」――ものだと考える場合、それは、もっぱら想像力がそれを必要とするからこそ起こることだと考えたりするのは、事実を偽るものである。西洋(オクシデント)と東洋(オリエント)とのあいだの関係は、権力関係、支配関係、そしてさまざまな度合いの複雑なヘゲモニー関係にほかならない。(中略)オリエントがオリエント化されたのは、(中略)オリエントがオリエント的なものに仕立て上げられることが可能だった(引用者注:「仕立て上げられる~」に傍点)――つまりオリエントはそうなることを甘受した――からでもある。しかしそこには、ほとんど合意というものが見出されない。」
「私自身は、オリエンタリズムの独特の価値は、オリエントについて真実を語る言説(ディスクール)(学問的形態をとったオリエンタリズムはそのようなものとしてみずからを主張する)としての一面よりも、オリエントを支配するヨーロッパ的=大西洋的権力の標識としての一面においていっそう大きいと考えている。(中略)結局一八四〇年代後半のエルネスト・ルナンの時代からアメリカ合衆国の現在に至るまで、あるひとつの観念体系が(アカデミー、書物、会議、大学、外交官研修機関において)変わることなく教授可能な知識でありえている以上、それは単なる作り話の寄せ集めであるよりはもっと手強(ごわ)いものであるに違いない。」

「オリエンタリズムは、かつてデニス・ヘイがヨーロッパ観念と呼んだところの集団概念からかけ離れたものではない。この集団概念は、「我ら」ヨーロッパ人を「彼ら」非ヨーロッパ人のすべてに対置されるものとして同定する。(中略)かてて加えて、ヨーロッパのオリエント観がもつヘゲモニーというものがある。それは東洋人(オリエンタル)の後進性に対するヨーロッパ人の優越を繰り返し主張し、より自律的に、より懐疑的に物事を考えようとする人物が異なる見解をとる可能性を踏みにじってしまうのが常である。」

「「真の」知識が基本的に非政治的であるとする(中略)一般的でリベラルな多数意見というものは、知識の生みだされる時点でその環境としてある、たとい目には見えずとも高度に組織化された政治的諸条件を、いかにして覆い隠すものとなっているのか。本書が明らかにしようとしているのはその点である。」
「たとえば「十九世紀末、インドやエジプト在住のイギリス人がこれらの国々に関心を示す場合、その関心はつねに、彼らが心のなかで抱くこれらの国々の英国植民地としての位置づけと結びついていた」などと私が言っても、これに異議を唱える人がいるとは思われない。そしてこのように言うことと、「インドやエジプトに関するあらゆる学問的知識は、総体としての政治的事実によって何らかの意味で色付けされ刻印を押され侵害されているのだ」ということとは、まったく別なことのようにみえるかもしれない。ところがこの後者の言明こそが、本書でオリエンタリズムに関して私の言わんとするところなのである(引用者注:「言わんとする~」に傍点)。」
「私の考えるところ、ヨーロッパ人、ついでアメリカ人がオリエントに抱いた関心は、すでに述べた明白な歴史的評価の若干によって判断するかぎり政治的なものであった。しかし、その関心を創造したものは文化であり、またむき出しの政治的・経済的・軍事的原理と相携えてオリエントを、私がオリエンタリズムと名付ける分野にまさしく存在するがごとき異様で複雑な場所へとつくりあげるべく、ダイナミックに作用したのも文化だったのである。」
「私の切なる希望は、文化的支配の恐るべき構造を明らかにすること、そしてとくに旧植民地の人々に対しては、この構造を自分自身や他人の上に適用することの危険と誘惑とについて明らかにすることなのである。」



「第一章 オリエンタリズムの領域」より:

「クローマーとバルフォアの言葉は、東洋人(オリエンタル)をば、あたかも(法廷で)裁かれるような存在として、(中略)あたかも(学校や監獄で)訓練を施されるような存在として、またあたかも(動物図鑑において)図解されるような存在として描出するものであった。要するに、東洋人(オリエンタル)は、いずれの場合にも、支配を体現する枠組のなかに封じ込められ(引用者注:「封じ込められ」に傍点)、またそのような枠組のもとで表象される(引用者注:「表象される」に傍点)存在なのである。では何ゆえにそうなるのであろうか。
 文化の力(ストレングス)について論じるのは、容易なことではない。――だが同時に、本書の目的のひとつは、オリエンタリズムを、文化的な力の行使の一形態として説明し、分析し、考察しようとするところにある。(中略)十九世紀と二十世紀の西洋に関するかぎり、東洋(オリエント)および東洋(オリエント)に属する一切のものが、(中略)西洋の研究によって矯正を受けるべき存在だと仮定されていた、ということだけは、はじめに認めておいてよかろう。オリエントは、まさしく、教室や刑事裁判所や監獄や図鑑というような枠組によって規定される存在として眺められた。つまりオリエンタリズムとは、オリエント的事物を、詮索、研究、判決、訓練、統治の対象として、教室、法廷、監獄、図鑑のなかに配置するようなオリエント知識のことなのである。」

「ヨーロッパとオリエント、とくにイスラムとの遭遇の結果、こうしたオリエントの表象システムは強化され、(中略)イスラムは局外者(アウトサイダー)の典型となった。中世以降、全ヨーロッパ文明はこれに対抗する形で築かれていったのである。」

「オリエンタリズムとは、西洋が東洋(オリエント)の上に投げかけた一種の投影図であり、東洋(オリエント)を支配しようとする西洋の意志表明であるということを、ひとたび考え始めれば、我々は大概のことに驚かなくなるであろう。」



「第二章 オリエンタリズムの構成と再構成」より:

「近代のオリエンタリストは、オリエントのもつ曖昧性、疎遠感、奇異性などを巧妙に嗅ぎ分け、それらからオリエントを救い出してやる英雄(ヒーロー)だと自認していた。」

「十九世紀になって、ヨーロッパがオリエントを侵食すればするほど、オリエンタリズムはますます大きな大衆的信用をかちえていった。」



「第三章 今日のオリエンタリズム」より:

「すべてのヨーロッパ人は、彼がオリエントについて言いうることに関して、必然的に人種差別主義者であり、帝国主義者であり、ほぼ全面的に自民族中心主義者であった、と言ってさしつかえない。(中略)オリエンタリズムとは、オリエントが西洋より弱かったためにオリエントの上におしつけられた、本質的に政治的な教義(ドクトリン)なのであり、それはオリエントのもつ異質性をその弱さにつけこんで無視しようとするものであった。これが私の主張の要点なのである。」

「東洋人(オリエンタルズ)は、後進的、退行的、非文明的、停滞的などさまざまな呼称で呼ばれる他の民族とともに、生物学的決定論と倫理的=政治的教訓からなる枠組のなかに置かれてながめられた。かくて東洋人は嘆かわしい異邦人という表現がもっともふさわしいようなアイデンティティーを共有する、西洋社会のなかの諸要素(犯罪者、狂人、女、貧乏人)と結びつけられたのである。(中略)彼らは市民としてでも、人間としてでさえもなく、解決されるべき、限定されるべき、あるいは――植民地主義的諸勢力が公然と彼らの領土を欲する場合には――接収されるべき問題として、看破され、分析された。要するに、対象をオリエンタルと呼ぶこと自体、すでにはっきりした評価的価値判断を含んでおり、(中略)東洋人は従属人種の一員であったがゆえに、従属させられなければならなかった。それはかくも単純なことだったのだ。」

「我々は、十九世紀ヨーロッパにおいて、学問と文化の壮大な殿堂が、いわば現実の局外者(アウトサイダー)たち(植民地、貧乏人、犯罪者)を閉め出すことによって築き上げられていったのだという事実を忘れてはならないのである。」

「だがオリエンタリズムは、その種々の欠陥や嘆かわしい専門用語、ほとんどむき出しの人種差別主義、薄っぺらな知的道具立てなどにもかかわらず、私がこれまで叙述しようと努めてきたような形態をとって、現に今日の繁栄を誇っている。その影響力が「オリエント」そのものにまでひろがっているという事実には、たしかに我々を慄然とさせざるをえないものがある。」

「要するに、現代のオリエントは、みずからをオリエント化するのに一役買っているのである。」




◆感想◆


国際的な政治経済問題はどうでもいいですが、自分は自閉症なので「オリエント」を「自閉症」、ヨーロッパを「ふつうの人」、「オリエンタリスト」を「サイコセラピスト」「戸塚ヨットスクール」と読み替えると他人事でないです。





















































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Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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