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網野善彦 『海の国の中世』 (平凡社ライブラリー)

「乞食や盲目を神仏の世界につながる人々とするとらえ方は、なおこのころの社会に生きていたのである。」
(網野善彦 『海の国の中世』 より)


網野善彦 
『海の国の中世』
 
平凡社ライブラリー 224/あ-1-4 


平凡社 
1997年11月15日 初版第1刷
440p 
B6変型判(16.0cm) 
並装 カバー
定価1,200円(税別)
装幀: 中垣信夫
カバー・マーブル制作: 製本工房リーブル
カバー図版: 『彦火々出見尊絵巻」(明通寺蔵)より


「本書は小浜市史編纂委員会により編集された『小浜市史』通史編・上巻(一九九二年三月)の網野善彦執筆分を編成し直し、増補を加えたものである。」



図版(モノクロ)32点、図・表37点。
本書は出たときに買おうとおもってうっかりして忘れていたのを思い出したので、もったいない本舗(楽天市場店)さんで384円(送料込)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。



網野善彦 海の国の中世



カバー文:

「海陸交通の要衝として広く列島の内外に開かれた中世の〈若狭〉。
若狭はまた、荘園や沿岸の浦々について、豊富な史料を残す地域でもある。
周到な目配りによって若狭の歴史を描きながら、日本中世の全体像に迫る。」



目次:



第一章 荘園公領制と神人・供御人制の形成
 一 海の国若狭と天皇家・摂関家・寺社
 二 封戸制の推移と保の成立
 三 在庁機構の確立と一、二宮
 四 平氏政権下の若狭
 五 荘園・公領と神人・供御人

第二章 鎌倉幕府の成立と若狭の人々
 一 御家人となった国の住人
 二 承久の乱後の若狭
 三 嘉禎・仁治の国検と荘園公領制の確立
 四 国の人々の反撃

第三章 荘園・公領と浦・浜の実態
 一 太良荘
 二 名田荘
 三 浦に生きた人々

第四章 モンゴル襲来と得宗専制
 一 若狭国御家人とモンゴル襲来
 二 荘園・公領をめぐる諸対立
 三 得宗支配の進展
 四 得宗の専制支配
 御 鎌倉後期の太良荘と名田荘
 六 鎌倉後期の西津荘と浦の動向
 七 動乱前夜の若狭

第五章 南北朝の動乱
 一 建武新政とその崩壊
 二 室町幕府の成立と若狭
 三 観応の擾乱と国人一揆
 四 文和・延文年間の若狭
 五 康安・貞治の政変と若狭
 六 応安国一揆と動乱の終焉
 七 転換期の社会

あとがき (1997年7月18日)

解説――網野史学と若狭 (須磨千穎)




◆本書より◆


「序」より:

「日本海から琵琶湖を経て、宇治川・淀川を通り、大阪湾・瀬戸内海に入る道、短い陸路によって海と湖、川と海とを結ぶこの道は、日本列島を横断する大動脈としての役割を、きわめて古い時代から果しつづけてきた。数多くのさまざまな人々と、多様で厖大な物が、北の若狭湾から、西の大阪湾から、この道に入って流れ、日本海と瀬戸内海とを結びつけていたのである。
 七世紀末に国号を正式に「日本」と定めた本格的な国家は、この道のいわば中心に当る大和、山城の地に都を置いたのであり、北陸道の西端の国として立てられた若狭は、日本国にとって、日本海への窓口として位置づけられていた。
 複雑に切れこんだ多くの入江を持つ若狭湾を抱くこの国は、多くの良好な津・泊に恵まれ、縄文時代以来、活発な船の出入りがあり、日本海の海上交通全体の中でも重要な役割を果していたが、それだけでなく、この湾では漁撈もまた盛んであるとともに、海辺では弥生時代から土器製塩が広く行われていた。このように若狭は豊かな海産物に恵まれた、まぎれもない海民の国であった。
 それ故、日本国はこの国の百姓の調を基本的に塩と定め、内陸部の百姓も塩を調として都に運んでいたことが木簡によって証明されており、大形な製塩土器――船岡式土器による海辺での製塩は、「工場」といってもよいほどに大規模だったといわれている。(中略)八世紀の若狭は都に塩を供給する国とされていたのである。」
「九世紀に入り、この国家の国制が弛緩しはじめると、そうした若狭の独自なあり方――都からの政治的、文化的な影響を強くうけつつも、日本海を通じて列島内外の諸地域と緊密に交流し、山、川、野、海、なかでも海自体を舞台として、それに即したさまざまな生業を営むこの国の社会の固有な特質は、次第に表面に現われ、十世紀以後、本格的に展開しはじめる。
 以下にのべるのは、そうした若狭国の人々の、とくに遠敷郡を中心とした社会の、十世紀から十四世紀までの歴史である。」



第一章より:

「一〇世紀以降、活発化してきた中国大陸からの「唐人」の日本列島への来航は、一一世紀に入ると、さらにその頻度を増してきた。その中にあって、このころの若狭は、古代以来、対外交渉の公的な機関「松原駅館」の設けられていた越前の敦賀とともに、日本海沿海地域におけるその主要な窓口になっていた。長徳元年(九九五)九月六日、朱仁聡、林庭幹を含む「唐人」七十余人が若狭に到着したのに対し(『日本紀略』)、朝廷がこれらを越前に移すと定めているのは(『本朝世紀』)、なお敦賀を公式の窓口とする伝統的な建前を保とうとしたのであろうが、翌々長徳三年十月二十八日、「若狭守源兼徳(澄カ)」が、この宋商朱仁聡によって陵礫(りょうれき)されるという事件がおこり、同十一月十一日、その罪名を法家に勘(かんが)えさせていることからも知られるように(『小右記』)、宋人側はすでに必ずしも朝廷の思うようには動いていない。
 その後、越前の敦賀には康平三年(一〇六〇)、承暦四年(一〇八〇)、永保二年(一〇八二)、応徳三年(一〇八六)、寛治元年(一〇八七)、同五年と、連年、宋人が来着しているが、その間の寛治三年十月十八日には、若狭で「大宋国商人」が害されたといわれており(『後二条師通記』)、こうした宋人たちは、若狭とも関わりつつ活動していたと思われる。実際、天仁三年(一一一〇)、天永二年(一一一一)には若狭、同三年には越前と、宋人の来着がつづいており、とくに天仁三年六月十一日、若狭国にいた「唐人」楊誦は解状を朝廷に進め、その中で越前国司の雑怠を多くあげ、もしも適切な裁定がなければ、近く王城に参じ、鴨の河原で狗のために屠られて骸骨となろう、とまでいっているのである(『永昌記』)。」
「永保二年宋商揚宥が越前から鸚鵡(おうむ)を白河上皇に献上しているのをはじめ、(中略)このころの天皇家、摂関家、高位の貴族たちは、宋商のもたらす珍奇かつ貴重な「唐物(からもの)」を、競って熱心に求めていた。そしてそれにも応じつつ、自ら利をも追求する国司や現地の人々と、宋商との間には、その処遇や交易に関連して、ときに殺害にまで及ぶような衝突、摩擦が頻々とおこっていたのである。当然、宋人たちもこうした国司をはじめとする現地の対応を見定めながら、越前や若狭、さらには九州の津・泊に来航し、なかには博多や敦賀などの津に居住する「唐人」たちも、少なからず見られるようになりはじめていた。
 若狭の場合、どの津・泊に宋人が来着したのかも明らかでなく、その実態も不明というほかないが、海の彼方からの多くの「唐人」たちの来訪は、若狭の人々に強烈で、消えることのない印象を刻みこんだ。後述するように、すでにこのころ、国の一、二宮としての地歩を固めつつあったと見られる若狭彦・姫神社の「若狭鎮守一二宮縁起」が、その祭神―彦神、姫神の垂跡を、ともに白馬にまたがり、白雲にのってこの地に天降った「唐人」の姿をした神として描いているのは、まさしくこうした「唐人」と若狭の人々との現実の交渉を背景にしているといってよかろう。」

「浦から浦へ移動し、日本海をその舞台として広域的に活動するこうした海人たちに、国の領主や荘・保の支配者は住居を与え、定住させることにつとめたが、さらに天皇、摂関家、大寺社は、その中の刀禰をはじめとする主だった人々を直属民―供御人(くごにん)・神人(じにん)・寄人(よりうど)とし、海上交通、漁撈活動の特権を保証することによって、その活動に広く道をひらこうとした。
 広大な海は、当時、なお人の力のたやすく及ばぬ世界であり、そこを船で航行する廻船人や漁撈民は、自らも神仏と結びつき、その「奴婢(ぬひ)」となることを望み、またそれ自身、聖なる存在―天皇・神仏に直接つながる存在と考えられていた。そして、そうした聖なるものの分身ともいうべき供御人・神人・寄人の活動を妨げることは、神仏のきびしい罰をうける行為となるとされていたのである。」



第三章より:

「乞食や盲目を神仏の世界につながる人々とするとらえ方は、なおこのころの社会に生きていたのである。」


第五章より:

「このように、明通寺衆徒を中心に「惣中」「百姓中」や多様な職人まで加わったこの小地域の人々は、いまや自らの力で京都から僧侶や舞師、楽人、大工等を招き、高級品を購入し、堂塔の造営を見事に成しとげるだけの力量をそなえるにいたったのである。明通寺だけではない。いわばそれが、さきの多烏・汲部のような浦々をも含む、国の村や町のすべてに通ずる動きになってきた点に、時代の大きな変化があった(中略)。
 若狭の国人たちは、この動きを自力で統御することに失敗し滅んでいった。とはいえ、これに勝利した守護一色氏もまた、京都に居すわっていたのでは、国の新たな動きを統御することは到底できなかった。一色氏のみならず、諸国の守護が否応なしに分国にそれぞれ腰をすえて、統治に専念しなくてはならない時代が始まろうとしていたのであるが、それを動かしていたのは、まさしく成長しつつある国の村と町の秩序「村町制」そのものだったのである。
 しかし反面、この新たな秩序がさきの明通寺の供養で施行の対象となったような人々、散所者(河原者か)、非人、禅僧の流れをくむ修行僧ぼろぼろ、葬送に携る三昧聖、恐らく太鼓張などを行った細工、さらに塩商人とも考えられる「コウカサキ」(甲ケ崎カ)などを疎外し、差別する気配をはっきりと見せていることも見逃すわけにはいかない。いずれも、なんらかの意味で神仏に直属し、むしろこれまでは「聖別」される一面を持っていたこれらの人々に対する賤視は、まだ決して社会的に固定されてはいないとはいえ、明らかに進行していたといわなくてはならないのであり、この時期の社会の転換は、一方にこうした大きな問題を生み出しつつ、進行していたのである。」






こちらもご参照ください:

孟元老 『東京夢華録 ― 宋代の都市と生活』 入矢義高・梅原郁 訳注
谷川健一 『古代海人の世界』




































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