FC2ブログ

網野善彦 『悪党と海賊』 (叢書・歴史学研究)

「確かにそれは、農業的支配秩序に脅威を与えることもあったであろう。博奕をこととし、「異類異形」「人倫ニ異ナリ」「ハシリ(大木をころがし落すこと)ヲツカイ、飛礫(つぶて)ヲナゲ」「柿帷ニ六方笠ヲ著テ、烏帽子袴ヲ著」けず、人に面を見せない悪党の姿と行動は、確かに農業民の世界とは異質なものだったといわなくてはならない。しかしこれをただちに「賤」とみるのは、この秩序をたもとうとする支配者たちであり、当時の農民たちは彼ら非農業民に対して、必ずしも閉鎖的ではなかった。」
(網野善彦 『悪党と海賊』 より)


網野善彦 
『悪党と海賊
― 日本中世の
社会と政治』
 
叢書・歴史学研究


法政大学出版局 
1995年5月26日 初版第1刷発行
xi 379p 索引32p
A5判 丸背バクラム装上製本 
機械函 函カバー
定価6,901円(本体6,700円)



本書「まえがき」より:

「本書は十三世紀後半から十四世紀にかけての時代、鎌倉後期及びいわゆる「南北朝動乱期」に関して一九五九年から一九九四年までに発表してきた論文、研究ノートなどを、それぞれに若干の修正・補足などを加え、できるだけ形式を統一して集成したものである。
 序章として「悪党」及び「南北朝動乱」について、これまで発表したいくつかの研究史のノートを並べ、第Ⅰ部は鎌倉後期の社会と政治、第Ⅱ部は鎌倉末・南北朝期の社会と政治とし、おのおのに関わる論文、ノートなどを配列してみた。そして終章には、本書の書名とした「悪党と海賊」についての現在の考えをまとめた小論を置いた。」



アマゾンマケプレで「良い - 函カバー本ともきれいです。帯欠。使用感なし。」が940円(送料込)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。函に点シミはありましたがその他は説明通りでした。
本書は2013年に新装版が出ています。



網野善彦 悪党と海賊 01



函カバー裏文:

「鎌倉後期から「南北朝動乱」に至る転換期――
多様な非農業民が山野河海を舞台に活動し、
〈悪党〉〈海賊〉と呼ばれる〈異類異形〉の人々が
欲望とエネルギーを噴出させた。
社会秩序を揺るがせつつ、
時代の動向に深く関わった〈悪党〉〈海賊〉。
その位置づけをめぐって、
いくたびか論争が繰り返された。
日本中世史の把握を左右したとさえ言える
戦前からの論争史の検討をはじめ、
悪党・海賊の実体と系譜を探り、
農村と領主経済の動向を展望し、
新関停止・海賊禁圧・神人公事停止、
さらに酒麴役賦課の諸令など
この時期の政治情勢と社会変動の焦点を示す
諸史料を実証的に分析した、
1959~94年の35年間に及ぶ諸論考を集成。
中世非農業民の世界を多面的に描き出し、
日本史像の豊かな展開をリードする
網野史学の原点がここにある。」




網野善彦 悪党と海賊 02



目次:

まえがき

序章 いわゆる「南北朝動乱」の評価をめぐって――『歴史学研究』の特集「戦後四十年の時間をはかる」によせて (「歴史学研究」 第561号、1986年11月)
 付論1 一九六三年歴史学研究会大会報告にふれて――「悪党」の評価の変遷を中心に (「歴史学研究」 第283号、1963年12月)
 付論2 悪党の評価をめぐって (「歴史学研究」 第362号、1970年7月)
   まえがき
   一 戦前の研究――中村直勝と竹内理三
   二 戦時中の研究――清水三男と石母田正
   三 戦後第一期(一九五五年まで)の研究――松本新八郎を中心に
   四 戦後第二期(一九五五年以後)の研究
   むすび

第Ⅰ部 鎌倉後期の社会と政治
 第一章 「関東公方御教書」について (「信濃」 第24巻第1号、1972年1月)
 第二章 文永以後新関停止令について (「年報中世史研究」 第9号、1984年5月)
   はじめに
   一 文永以後新関停止令
   二 文永の西国新関河手停止令
   三 関所をめぐる幕府と朝廷
   むすび
 第三章 豊後国六郷山に関する新史料 (「大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館紀要」 第6号、1989年3月)
 付論1 「元寇」前後の社会情勢について (「歴史学研究」 第231号、1959年7月)
 付論2 農村の発達と領主経済の転換 (永原慶二編 『日本経済史大系』 2 中世、1965年3月、東京大学出版会)
   はじめに
   第一節 農民経営と村落の発展
    一 農業生産力発達の状況
    二 農民の「分解」の様相
    三 地縁的村落の成長
    四 名主職の得分権化
   第二節 在地領主経済の転換
    一 在地領主経済の構造
    二 「下地」支配の発展と領主的所職の得分権化
    三 在地領主経済の新動向――所職の流動
    四 在地領主支配の変貌
   第三節 荘園領主経済の動揺
    一 年貢・公事収取体系の変動
    二 収取体制の再編
   むすび
 付論3 十三世紀後半の転換期をめぐって

第Ⅱ部 鎌倉末・南北朝期の社会と政治
 第一章 鎌倉末期の諸矛盾 (歴史学研究会・日本史研究会編 『講座日本史』 3、1970年7月、東京大学出版会)
   一 まえがき
   二 幕府体制の完成と硬化
   三 悪党と得宗御内人
   四 モンゴル襲来と矛盾の激化
   五 一円領の形成と職の流動――荘園公領制の発展
   六 悪党海賊鎮圧令と本所一円地
   七 むすび――元弘・建武の内乱の前提
 第二章 悪党の系譜――『太平記』を中心に (『太平記・曽我物語・義経記』 〔鑑賞日本古典文学 21〕 1976年8月、角川書店)
   在地領主か傭兵集団か
   悪党的な戦闘
   飛礫と撮棒
   「ばさら」な「いたずらもの」
   楠木正成
   名和長年
   赤松円心
   異様な花押
   悪党の時代の残照
 第三章 楠木正成に関する一、二の問題 (「日本歴史」 第264号、1970年5月)
   まえがき
   一 和泉国若松荘と正成
   二 内大臣僧正道祐
   三 正成とその所領をめぐって
   むすび
 第四章 鎌倉幕府の海賊禁圧について――鎌倉末期の海上警固を中心に (「日本歴史」 第299号、1973年3月)
   まえがき
   一 国衙軍制と水軍
   二 鎌倉幕府の海賊禁圧と水軍動員
   三 元応の海上警固
   四 元亨四年の悪党海賊禁圧令
   むすび
 第五章 造酒司酒麴役の成立――室町幕府酒屋役の前提 (竹内理三博士古稀記念会編 『続荘園制と武家政治』、1978年1月、吉川弘文館)
   序
   一 中世初期の造酒司とその経済
   二 元亨の洛中酒鑪役
   三 貞治・応安の酒麴売役興行
   四 永和・永徳の大嘗会酒鑪役
   五 明徳の幕府新制
   結
 第六章 元亨の神人公事停止令について――後醍醐親政初期の政策をめぐって (「年報中世史研究」 第2号、1977年5月)
 第七章 倉栖氏と兼好――林瑞栄『兼好発掘』によせて (「文学」 第52巻第7号、1984年6月)
   一 はじめに
   二 倉栖氏と下河辺荘
   三 倉栖氏の出自と性格
   四 兼好と『徒然草』に即して
   五 むすび
 付論1 建武の所出二十分一進済令 (「歴史読本」 600号、1993年8月)
 付論2 建武新政府における足利尊氏 (「年報中世史研究」 第3号、1978年5月)
 付論3 青方氏と下松浦一揆 (「歴史学研究」 第254号、1961年6月)

終章 悪党と海賊 (「大谷学報」 第73巻第2号、1994年1月)
  はじめに
  一 十三世紀までの流通と神人・悪僧
  二 十三世紀後半以降の社会の転換と悪党・海賊
  三 「悪党」の悪とはなにか
  むすび

あとがき
初出一覧
索引(人名・地名・事項)




◆本書より◆


「鎌倉末期の諸矛盾」より:

「ふつう「悪党」は山賊・海賊・夜討・強盗などの凶悪犯人をさすといわれる。確かに幕府法をみるかぎり、そのように考えてもよかろうが、しかし「悪」を「武勇あるもの」と解する見解も古くからあり、なお考える余地は残っているように思われる。一方、「党」については、かつて安田元久が庶子の独立性が強く、相互に対等な武士団の同盟である点に「他の一般武士団とは異なる性格」を求めたのに対し、戸田芳実は九・十世紀のそれを「律令国家の政治秩序から自由な体制外集団、あるいは反体制集団」と規定し、瀬野精一郎もこれを多分に第三者による蔑視の意味をふくむ弱小土豪の分立割拠状態をさす語と考えており、その特質はかなり明らかになりつつある。そこで戸田も指摘しているが、「党」の最も基本的な特質は、それが多分に非農民的性格をもつ人々をふくんでいる点に求められよう。松浦党・渡辺党が非農業民を支配下に従えた武士団であることは周知のとおりであるが、湯浅党・隅田党などについても、その方向で考えてみることができると思われるので、先の安田・瀬野の指摘もそう考えたとき、積極的に生かすことができよう。とすれば、こうした人々の殺生をものともせぬ側面から、「悪」という語も理解が可能になってくるので、「武勇」という解釈をそこにふくませても不自然ではなかろう。
 おそくとも平安末期、公家・寺家によって使用されていたこの「悪党」という用語が幕府法の世界で盛んに用いられるようになるのが北条泰時の時代以降であることも、注目しておく必要があろう。もともと幕府自体、こうした「党」の多くを自己の下に組織して成立したのであるが、承久の乱後、それが西国をも統治する全国的政権として確立するに及んで、その秩序を擾乱するものに対してこの語が用いられたのである。この秩序が前述のように、時頼時代に完成する公田を基礎とした体制であり、そこで「悪党」といわれた人びとが「山賊・海賊」であったという事実そのものが、先のような理解を支えているように思われる。
 それゆえ、この「山賊・海賊」を単純に盗賊あるいは「凶悪犯人」とみてしまうわけにはゆかない。たとえ幕府がそうみていたとしても、この時代の現実の中でそれをとらえ直してみれば、また異なった見方が必要とされよう。先にもふれたように、当時、非農業民――山民・海民などの集団は、すでにその大部分が先の秩序のなかにさまざまな形で組織されており、その内部にも一定の階級分化は進行していたとはいえ、なお独自な世界を保持していたと思われる。とすれば、たとえ幕府などから、「賊」といわれたとしても、その活動は彼ら自身の独自な生活そのものの必要からでてくるものであったとする見方も成り立つ。
 確かにそれは、農業的支配秩序に脅威を与えることもあったであろう。博奕をこととし、「異類異形」「人倫ニ異ナリ」「ハシリ(大木をころがし落すこと)ヲツカイ、飛礫(つぶて)ヲナゲ」「柿帷ニ六方笠ヲ著テ、烏帽子袴ヲ著」けず、人に面を見せない悪党の姿と行動は、確かに農業民の世界とは異質なものだったといわなくてはならない。しかしこれをただちに「賤」とみるのは、この秩序をたもとうとする支配者たちであり、当時の農民たちは彼ら非農業民に対して、必ずしも閉鎖的ではなかった。(中略)河原者や散所の人々をふくめ、非農業民の共同体と農民のそれとは相互に交錯し、また交流しあっていたとみなくてはならぬ。その意味で、非人・間人などをもっぱら「村落共同体からの流出民」としてとらえようとする見方は、あまりにも農民中心の見方であり、この観点だけでは中世の現実の重要な側面が脱落してしまうと思われる。」

「激動する職の体系のなかにあって、一円化を達成するのは容易なことではなかった。そのためには悪党・海賊を、臆面もなく利用・操縦するだけの力量が必要であった。」
「衆徒と戦って大講堂をはじめ多くの院房を焼いた山門東塔北谷の理教坊律師性算や、東寺執行職を争い、尾張国大成荘・丹波国大山荘で現地の人と結び、強盗・苅田狼藉を指揮、自らも悪党といわれた放埓無体の人、厳増僧都などは、そうした典型といえよう。律師や僧都だけではない。僧正にまで昇進した人のなかにも異色の人が現われてくる。著名な歌人で兼好と親交のあった道我――大覚寺門侶、清閑寺大納言僧都、のちの聖無動院僧正は、東寺学衆の設置に力をつくした僧侶であるが、学衆の所領山城国上桂荘で悪党を語らって苅田狼藉を行ったといわれ、播磨国矢野荘でも悪党寺田法念と結び、山僧を代官にすえて経営を進めている。
 その道我を厚く信任し、援助を与えていたのは後宇多法皇であった。(中略)この法皇は、密教に深い関心をよせ、益信大師号事件をひき起こし、「晩節、政治ととのわず、政、賄を以てす」という痛烈な批判を花園天皇からうけるような一面ももっていたのである。
 大覚寺統系の人びとが特別そうだったというわけではない。因習的な歌風に反撥し、伏見法皇の信任を得て、「天下起騒」といわれるほどの権勢をふるった京極為兼、一時、花園天皇と密接な関係にあり、『徒然草』の逸話で知られる日野資朝など、みな同じタイプの人だったといえよう。
 しかし、さきの道我をはじめ、この資朝、千種忠顕、さらには文観のような人物を周辺に集めていった後醍醐天皇は、まさしく悪党のエネルギーを組織するにもっともふさわしい天皇であった。天皇側近の僧内大臣僧正道祐もまた、同様の人であり、楠木正成を天皇に結びつけるうえには、道祐と文観が大きな役割を果たしたものと推測される。
 その正成については、「散所の長者」の風貌をもつという説や朱砂の産地を背景にしていたという見方などがあるが、摂河泉にわたって広い行動半径をもち、戦っては、飛礫・はしり木を駆使して敵を悩ました正成の活動ぶりは、前述してきたような意味で、まさに「悪党的」ということができよう。(中略)このような悪党・海賊たちを手足として駆使し、「無礼講」のような破廉恥な企てを臆面もなく催しつつ、他方、延喜・天暦の治を想い、天下一統を夢みて討幕計画を練るこの天皇は、まさしく鎌倉末期の社会が生み出した人物の一典型、といわなくてはならぬ。
 しかしまた一方に、こうした後醍醐天皇の歩みには強い違和感をいだき、きびしく批判しつつも、日野資朝のような人に心をひかれ、一時にせよ、両統対立の垣根をこえて、後醍醐天皇の政治の新鮮さに共感し、その展開を心からの期待をもって見守っていた花園天皇のような人がいたことも、忘れてはならない。この好学で誠実な天皇は、その生真面目さゆえに宮廷内で軽侮の対象となっていた時期すらあったようにみえるが、時代の動きを鋭く洞察したこのような人が存在しえたという事実を、ただ宮廷内の一天皇のこととしてしりぞけてしまうわけにはいかない。
 悪党・海賊が横行し、飛礫がとびかい、無礼講が行われるような時代の奥底に抑圧されつつ、同質の生き方をしていた多くの人びとがありえたことを、この事実が逆に物語っている、と思われるからである。彼らは悪党たちのように、自らを派手に表現しようとはしなかった。しかし、われわれはその声を、なんとしてでもこの時代のなかからさぐりあてなくてはならぬ。
 悪党が「真に革命的」ではない理由もここにある。確かにそれは「反荘園反幕府」的ではある。だが、彼らには荘園制も、幕府も克服するだけの力はない。だが、彼らを「孤立」し、「頽廃」のなかに陥った、などと評価することもできない。もし「頽廃」というなら、それはこの時期に、ついに最終的に日本の社会に浸透した「文明」そのものの頽廃であり、けっしてたやすく滅び、また克服されうるようなものではなかろう。その意味で、鎌倉末期は社会構成を質的に転換させる「革命」の前夜ではけっしてないが、前近代の民族史を前後に分かつ転換期の開始をそこに見出すことはできる。日本の社会の未開性は、これ以後、表面から姿を消し去ってゆくのである。」



「悪党の系譜」より:

「平安後期以降、文書・記録のなかで、神人・悪僧、遊手浮食の輩などと切り離し難く結びついて現われる飛礫が、さきの武技の背景をなしているだけでなく、それを禁じたために飢饉が起こったといわれるほどの深い根を庶民のなかにもっており、きわめて古い原始的な習俗につながっていることについては、岡見や中沢厚の研究に教えられつつ、別の機会に多少詳しくふれたので、ここでは立ち入らない。
 だが、飛礫のみではなく、撮棒もまた同様の背景をもっているのではないだろうか。兵庫県芦屋で、子供たちが鳥の身ぶりをして、正月の供物を貰ってまわるときに唱えたという、「カアカアカア 山の神のさいでん棒」、やはり子供が手に持って若い女性を打ちあるき、または木を叩き鳥を逐うサイマル棒、羽後の大曲で、正月十五日の綱曳競技に若者頭が手に持って指揮したザイフリ棒など、小正月の行事と結びついた棒祝に使われるさまざまな棒は、武器としての撮棒――サイ棒の源流なのではあるまいか。このような祝棒をどう考えるか、民俗学の分野にも種々の議論はあるのであろうが、素人流に、私はこれをサイの神――道祖神とその祭りにしばしば現われる陽物、石棒などと結びつけたくなるのである。長刀がのちに陽物の異称とされていることなども、そこに思いおこされるのであるが、もしもこの思いつきがさほど見当はずれでないならば、撮棒もまた、太古の原始的な呪術、民俗にその根をもった武器ということができよう。
 実際、こうした性格の武器――飛礫、撮棒を駆使する人々の集団自体、粗野ではあるが、原始以来の強靭なエネルギーを、なお脈々と保っていた。それが爆発的に時代の表面に噴出したところに、鎌倉末・南北朝期の激動は起こったのであり、その躍動する姿を形象化しえたがゆえに、『太平記』の叙述は生き生きとした生命力をもちえたといえよう。」

「南北朝の動乱の終焉とともに、悪党の時代もまた終わる。それは日本の前近代史を二つに分ける大きな境目であった。
 室町期になれば、農工商の分化は一層進み、武士と商工業者、農村と都市の分化も次第に明確になってきた。しかしそれとともに、かつての「職人」的武装集団がそなえていた原始的な野性も、また急速に失われていったのである。飛礫や撮棒は、「天狗の飛礫」や「鬼の金棒」のように、超人的な世界、「民話」の世界の中で、生きつづけてはいるが、現実の飛礫は、室町期にはほとんど五月五日の節句の年中行事と化し、子供たちの遊戯になっていった。
 ただ戦国の動乱期、飛礫は再び、さらに組織化された武力として姿を現わす。天文二十一年(一五五二)七月、毛利氏の軍勢が備後の志川滝山の城を攻めたときの軍忠状には、矢疵、鎗疵に匹敵するほどの礫疵があげられているのである(中略)。鉄砲の普及とともに、それは否応なしに姿を消していったであろうが、われわれは飛礫の、恐らくは前近代最後のはげしい焰の燃え上がりを、島原の乱において見出すのである。
 有馬の城に立て籠る一揆を攻めた攻城軍の武士が蒙った大量な石疵は(中略)、叛乱した民衆が惨憺たる敗北の闘いのなかで、抑圧者の額に刻印した疵あとを、まざまざとわれわれに伝えている。そして、決して消えさることのないその疵痕のように、悪党の時代の残照もまた、近世以降も長く庶民の世界に、必ずや伏流していたにちがいないと、私は考える。」



「悪党と海賊」より:

「こうした状況の中で、山僧や神人、山臥などの金融・商業活動もさらに一段と発展し、その独自な組織のネットワークもより緊密かつ広域的になるとともに、海・山の「領主」ともいうべき武装勢力、さらには「遊手浮食の輩」といわれた博奕をこととする集団、「非人」、犬神人などとも結びつき、王朝はもとより、鎌倉幕府の統制をこえて、その基盤である地頭、御家人を大きく動揺させるにいたったのである。十三世紀中葉、幕府が四一半打―博打をきびしく停止するとともに、神人の寄沙汰を制止し、山僧を地頭代、預所とするのを禁止して、山賊・海賊を抑制しているのは、もとよりこうした動きに対応した処置にほかならない。
 しかし『一遍聖絵』の詞書に、十三世紀の後半、一遍に帰依した美濃・尾張の悪党たちが札を立て、一遍の布教・遊行に対する妨げを禁制した結果、三年間、一遍は山賊・海賊の妨害をうけることなく平和に伝道を行うことができたとあるように、悪党たちは交通路の平和・安全を自らの実力で保ちうるほどの組織を持つにいたったのである。
 この『聖絵』の詞書は、甚目寺での施行の場に続いているが、その場面に現われる尾張国萱津宿の「徳人」が、黒田日出夫の「ぼろぼろ」と推定したような、女性を従えた異形な人物だった点に注意すべきで、この「徳人」が悪党と重なる蓋然性は大きい。実際、周知の『峯相記』の記述にもあるように、海や山の交通路を中心に、海賊、寄取、強盗、山賊などともいわれた悪党は、柿帷に六方笠を着し、烏帽子・袴を着けず、人に顔を見せない「異類異形」の姿をしていたのであり、非人、山臥にも通ずる衣装で、博奕を好むこうした人々こそが、さきの商業・金融・流通のネットワークの末端にあってその機能を実力で保証していたと考えられる。
 そこにはなお呪術的な、人の世界をこえたものの力を背景としている一面があり、交通路の安全を保証するためにこうした人々が収め取った関料は、神仏に対する上分の名目によって正当化されていた。」
「文永から弘安にかけての頻々たる悪党禁圧令、さらに西国新関停止令、沽酒禁令等は、農本主義的な基調に立つ徳政の興行を通じて、対外的な緊張を背景に、こうしたネットワークを押えこもうとする幕府の懸命な努力であったが、その路線を推進した安達泰盛が霜月騒動によって倒れてからは、むしろこのネットワークの一部を取りこみ、その中に自らの力を扶植するために悪党・海賊の禁圧を強行する得宗―北条氏の専制的な路線が主導的になってきた。しかしこうした専制的な強圧は、否応なしに悪党・海賊―海上勢力との全面的な激突をよびおこすこととなる。
 十四世紀初頭、延慶・徳治の西海、熊野浦の海賊の大蜂起はまさしくそれであり、(中略)文永ごろから始まったといわれ、十四世紀に入り、文保年間から幕末にかけて最高潮に達した東北北部・北海道南部の「蝦夷」を含む悪党の蜂起も、また同様の性格を持つものと考えられるので、これはアイヌの北東アジア交易とも関連し、日本海交易とも結びついた北の海の領主、海民たちのネットワークと深く関係していたのではなかろうか。
 この熊野海賊の蜂起を境として、北条氏は西国の海上警固を強化する一方(元応の海上警固)、海の領主の組織をその中にとりこみ、列島外にまで及ぶ海の交通・交易のネットワークの押えこみに全力をあげるが、(中略)但馬・丹波・因幡・伯耆にいたる広域的なネットワークを持つ播磨の悪党は、飛礫・撮棒を用いた戦法を駆使し、(中略)実力で所々を押領し、海・山の交通路をおさえた。その姿も金銀をちりばめた鎧・腹巻をつけた、「ばさら」ともいうべき出立ちで、五十騎・百騎という大きな軍勢にまでなるにいたっていたのである。
 後醍醐天皇はこのような北条氏の強圧に反撥する商人・金融業者・廻船人のネットワーク、悪党・海賊を組織することに、少なくとも一時期は成功し、北条氏を打倒した。」

「「党」とは広域的で強力な中心を持たない結合体をさす言葉といってよい。松浦党、渡辺党、隅田党等々の武士団の党はみなそうした特質を持っているが、「悪党」はまさしく「悪」で結ばれた広域的な結合体であった。そしてその「悪」は、まさしく十三、四世紀に特徴的な「悪」だったのである。
 平安後期のころの「悪」の語は、粗野で荒々しく、人の力ではたやすく統御し難い行為と結びついて用いられていた。悪源太、悪左府のような用例は、むしろそこに積極的な意味を与えた場合であるが、漁撈・狩猟などの殺生、濫妨・狼藉、殺人につながる行為、さらに人の意志によっては左右できない博打・双六、そして「穢」も「悪」としてとらえられた。それとともに、商業・金融によって利を得る行為もまた「悪」とされたので、「悪僧」はまさしくそうした「悪」の用法を示している。
 とはいえそれは、なおこの時期にはこれらの行為を神仏と結びつけることによって正当化され得たのであり、こうした生業に携わる主だった人々が、神仏に直属する神人・寄人になり、王朝が前述したように神人・供御人制を軌道にのせることのできたのは、そこに理由がある。しかし、さきにものべた通り、十三世紀後半以降の社会の大きな転換の中で、未開で野生的な力とも結びつきつつ、貨幣の魔力は社会を広くとらえ、「悪」と結びついた荒々しい力を社会の表面に噴出させた。いまや政治も宗教も、否応なしに「悪」と正面から立ち向わなくてはならなくなってきたのである。
 そして政治の動きの中に、二つの路線の顕著な対立・葛藤があったように、宗教もまた「悪」に直面して大きく二つの流れに分かれたといってよい。悪人こそが往生しうるとする「悪人正機」を説いた親鸞、信・不信、浄・不浄、善人・悪人を問わず、すべての人が阿弥陀の本願によって救われるとする一遍は、「悪」の世界に積極的な肯定を与え、商工業者、さらに非人、博打、遊女を含む女性にまで、支持者を広くひろげていった。
 これに対し、親鸞に対する弾圧、一遍の行動についての『天狗草紙』『野守鏡』のはげしい非難に見られるように、非人・河原者や女性を「穢」と結びついた「悪」として徹底的に排除しようとする、主として大寺社側の動きも、一方に顕著に現われてくる。律宗・禅宗は北条氏の権力と密着しつつ、商業、貿易、金融、建設事業等に自ら勧進上人として積極的に動き、非人に対する救済に力をつくしつつも、むしろ大寺社の中にそれを組織的に位置づける方向に進み、日蓮は逆にこうした律宗・禅宗等と結びついた権力と戦闘的に対決することによって新たな道をひらこうとしたのである。
 十三世紀後半から十四世紀にかけて、いわば徹底した一元論に立つ時宗が、新たに形成されてきた都市及び都市的な場に広くその教線をひろげてゆくが、十五世紀以降、非人・河原者、遊女、博打に対する社会の差別が次第に定着しはじめ、都市自体の光と影が明確になってくると、これに代わって真宗・日蓮宗が都市民の間に大きな力を持つようになってゆく。
 もはやそれに立ち入る力は私にはないが、少なくとも「百姓=農民」という思いこみから、これまで農民と国人の一揆と考えられてきた一向一揆が、すでに井上鋭夫・藤木久志が指摘しているように、むしろ都市民に幅広く支えられていたことは確実である。そして、織豊権力によってそれが徹底的に弾圧され、キリスト教も江戸幕府によって完全に抑圧された結果、建前の上で「農本主義」を掲げた近世の国家権力の下で、「悪」はきびしい差別の中に置かれ、商人・金融業者も低い社会的地位に甘んずるようになってゆくが、これもまた今後の課題として残さなくてはならない。」

















































関連記事
スポンサーサイト



プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本